2018年9月30日日曜日

スラウェシ中部地震の被災者支援に船で向かう海洋学士会への支援呼びかけ

スラウェシ中部地震の被災者支援に
船で向かうインドネシア海洋学士会への支援(呼びかけ)

9月25日頃から群発していたスラウェシ中部の地震は、28日午後、マグニチュード7.4の大地震を引き起こし、沿岸部は最大6メートルの津波に襲われました。

9月29日現在、中スラウェシ州パル市だけで死者384名、行方不明者29名、負傷者540名と報じられていますが、通信手段が途絶したため、隣のドンガラ県や西スラウェシ州北マムジュ県の被害状況は不明のままです。30日午後4時時点で死者832名と発表されましたが、2004年12月のスマトラ沖大地震・津波の時のように、今後、被害状況はますます大きくなることが予想されます。

パル市のムティアラ空港もパントロアン港も施設が崩壊し、機能不全に陥っているほか、ドンガラ県やパル市へ向かう陸路も、東方のポソからも南方のマムジュからも、土砂崩れ等により、車が通行できない状況が続いており、救援物資や人員の派遣を大きく妨げています。

こうしたなかで、私の真に信頼できる友人たちが関わっている、海洋学を学んだ大卒者の団体であるインドネシア海洋学士会(ISKINDO)とマカッサルの地元NGOであるYayasan Makassar Skalia(YMS)より、マカッサルから救援物資とボランティアを乗せた船でドンガラ県・パル市へ向かう準備を始めた、との連絡がありました。彼らの計画の詳細は、以下のサイトで公表されています。


彼らは次の4つのチーム活動を予定しています。
(1)ドローンにより被害状況を地理的情報として把握し、他団体の救援・復興活動に提供できる情報を収集するチーム。
(2)医療チーム、及び食料、医薬品、飲料水、テント、毛布、生理用品、発電機など、緊急に必要とされる物資を届けるボランティアチーム。
(3)食べ物や食料品を提供する炊き出しチーム。
(4)今後の支援活動に資する的確なデータや情報を提供するチーム。

彼らは10月5日早朝、マカッサルを出発して現地へ向かう予定です。彼らの活動はあくまでも初期段階のものであり、今後、支援活動が長期化するなかで、次の段階に沿った新たな支援活動が行われていくことが予想されます。

インドネシアではすでに、国軍やインドネシア赤十字が迅速な救援業務を進めているほか、クラウドファンディングを通じて多額の寄付が集まっています。また、様々な社会団体が募金活動を進めており、私自身もどのように協力すべきか、色々と考えてきました。

また、被災地であるパル市やドンガラ県にも信頼できるNGOや団体があります。しかし、通信手段が遮断され、彼ら自身も被災者である現状を鑑み、まずは、信頼できる外部者が被災地を支援する活動に協力すべきではないかとの結論に至りました。すなわち、今後、被災地の信頼できるNGOや団体が動ける状態になれば、今度はそこを支援していきたいということです。

以上の趣旨にご賛同いただける方に、募金のお願いをしたいと思います。彼らの指定した振込先口座(インドネシア国内)は以下のとおりです。

 銀行名:BRI
 口座番号:2136-01-000098-56-7
 口座名義:Ikatan Sarjana Kelautan Indonesia

上記に直接振り込んでいただいて構いませんが、日本国内での振込をご希望の方は、私を信用していただけるのであれば、私の銀行口座へ振り込んでいただければ幸いです。なお、「振り込みました」との連絡を matsui@matsui-glocal.com 宛にご一報いただければ幸いです。

 銀行名:みずほ銀行大塚支店(支店番号193)
 口座番号:2268635
 口座名義:マツイカズヒサ

また、クレジットカード決済をご希望の方向けに、Polcaでも募金を募ります。以下のサイトにアクセスされてください。


以上、皆様のご理解をいただき、腰を据えた支援活動を始めていきたいと思います。ご協力のほど、よろしくお願い致します。

2009年8月26日、当時のパル市長と一緒に、断食明け前の賑やかな特設市場を訪問した時の写真を掲載します。当時の市長には本当によくしていただきました。パルでの恩人の一人でした。


今朝、彼、ルスディ氏が現市長とともに亡くなられたとの知らせがありました。故人の善意を改めて思いつつ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

(訂正)その後、パル市の現市長の生存が確認され、先の情報は間違いであったことがわかりました。ルスディ氏の消息についても、確認情報はまだありません。誤った情報を載せてしまい、大変失礼いたしました。
(訂正2)ルスディ氏については、本日(10/1)、やはり亡くなられたとの情報を受け取りました。見た目はどこにでもいるおっさん風で、庶民的などんな階層の人々とも交わる方でした。改めてご冥福をお祈り申し上げたいと思います。

2018年9月23日日曜日

佐伯で再びMALTA

9月22日、さいきミュージック・アートクラブ主催のMALTAコンサートのため、大分県佐伯市に来ました。

同クラブは昨年11月にMALTAコンサートを開催しましたが、今回は、MALTA氏の2度目の佐伯でのコンサートです。

筆者は、なぜか同クラブの会員にされてしまっており、今回のコンサートでも、会場でのポスター貼りやコンサート終了後の跡片付けなどに関わりました。

今回のMALTAコンサートですが、1回目よりも演奏する姿が元気で、ずいぶんノッていたように見えました。この1年で、佐伯がだいぶ気に入った様子で、演奏自体も、なかなか熱いものを感じる、とても充実したものでした。MALTA氏のほかの6人の演奏のレベルの高さも、改めて感じられたひとときでした。


観客の反応も昨年よりもずっとよく、楽しめたコンサートでしたが、観客数自体は昨年より少なかったのが残念でした。

今回の目玉は、コンサート終了後の「晩餐会」。会場を移し、MALTA氏とメンバー6人を招いて、彼らに対する慰労会のような催しです。

佐伯在住・出身、あるいは佐伯にゆかりのある声楽家、サックス奏者、ビオラ奏者、女性ダンサー・グループ、大分の有名な変面パフォーマーなどが次々に演じていき、それをMALTA氏やその他この会に出席した方々が一緒に楽しむ、という趣向でした。

下の写真は、会の終了時に、挨拶をするMALTA氏です。最後は、MALTA氏による三本締めでした。


おんせん県の大分県で温泉のない佐伯市は、市民有志が音楽で街を元気にする「音泉」都市を標榜して、昨年、任意団体である「さいきミュージック・アートクラブ」を立ち上げました。

佐伯は大分県の一番南端に位置して交通も不便なので、コンサートをしたアーティストは必ず1泊せざるを得ません。このため、それを逆手に取り、コンサートが終わった後に、地元のファンとの懇親の機会を作り、アーティストにとって思い出に残る場所として記憶に残したいという狙いがあります。

前回の佐伯での寺田尚子さんのコンサートの後も、懇親会があり、寺田さんが懇親会の場でいきなりバイオリンを弾き始め、ちょうど誕生日だった友人の前でハッピーバースデーを奏でる、といったハプニングも起こりました。アーティストにとっても、地元の方々にとっても、単に音楽を楽しむだけでない、一緒に触れ合える機会が作れるのは、地理的に悪条件だからこそなのかもしれません。

MALTA氏は本当に佐伯が気に入った様子で、コンサートのアンコール終了後、ステージから「佐伯に来年も来るよ!」と叫んでいました。

商業的な興行に留まらない、心と心のふれあいが生まれ、アーティストに愛着を持ってもらえるような街になることも、これもまた、一つの地域づくりの在り方だろう、と思い、支持していきたいです。何よりも、それは楽しいから。アーティストも地元の人々も楽しくなって愛し合えるような、佐伯がそんな街へ育っていく可能性を見つめています。

明日(9/23)は午前4時半の高速バスで大分空港へ発ち、羽田経由でスラバヤまで飛びます。今月3回目のインドネシア出張です。

2018年9月18日火曜日

イスラム新年の行進とブギスの甘~いお菓子たち

9月9~14日は、石川県職員の方々と一緒に、インドネシア・南スラウェシ州のワジョ県とピンラン県をまわっていました。この辺は、ブギス族のホームグランドでもあります。

今回の出張は、9月の2回目のインドネシア出張です。

9月11日はイスラム新年の祝日。でも、この日も朝から、ワジョ県タッカララ郡の田んぼを見に出かけました。一緒に行った農業省の研究員が「休みなのに~」とぶつくさ言っていましたが・・・。

ワジョ県の県都センカンの中心にある広場では、たくさんの人々が集まって、イスラム新年を祝っていました。


センカンからタッカララ郡へ向かう道中では、子どもたちの行進が続きました。マドゥラッサやプサントレンなどのイスラム系宗教学校のほかに、普通の公立学校の子どもたちも、皆で行進していました。



なんだか、昔、小学校の頃に、福島市制何周年かを祝う行事のとき、鼓笛隊の行進をしたのを思い出しました。鼓笛隊の行進には、福島市内のすべての小学校が動員されました。

こうした行進は、南スラウェシだけのものなのか、全国的に行なわれているのか。昔から行われているのか、そうでなければいつごろから始まったのか。もし、お分かりの方がいたら、教えてほしいです。

ガタガタ道を通って、ようやくタッカララ郡に到着。すてきな美人郡長さんのお宅に招かれ、まずは、ブギスのお菓子の洗礼を受けました。





一般に、クエ・バサ(kue basah: 湿り菓子)と呼ばれる、日持ちのしない生菓子です。いずれも、生地がしっとり、そこに椰子砂糖やら卵やらココナツミルクやらがしっかりと浸み込んで、甘さ炸裂! 一緒に行った農業省の研究員はジャワ人ですが、その彼女も「こんな甘いお菓子は食べたことがない!」と言っていました。

石川県職員の方々も「1年分の糖分を取ったような気分」とおっしゃっていました。

筆者は、時間がなくて朝食を抜いていたせいもあり、いきなりこのブギスの甘~いお菓子たちを4連発で食べてしまいました。

甘ければ甘いほど、それはお客をもてなすことを意味する、ということをかつてインドネシアに関わり始めた頃に学びましたが、美人郡長は「食べて、食べて」ともてなし上手でもあり、お菓子の甘さにすっかりとろけてしまいそうな気分になりました。

ブギスの甘~いお菓子たちの洗礼を受けた後、さっそく、天水に頼っているという田んぼをしっかり見に出かけました。

2018年9月5日水曜日

ジャカルタの「父」を見舞う

9月3日、ジャカルタに到着後、そのまま、ジャカルタの「父」を見舞いに行きました。

筆者には、インドネシアに複数の「父」「母」がいるのですが、そのなかでも、最も高齢で、最も世話になった「父」を見舞いに行きました。

見舞い、というのは、一週間ほど前、それまで家族と散歩するなど元気だった「父」の容態が突然変化して入院、集中治療室に入ったという連絡があったためです。意識も衰え、大量出血したそうです。「父」は87歳、家族もいったんは覚悟しました。

その後、病院側の献身もあって、奇跡的に「父」の容態は回復し、出血も止まり、意識も回復して、集中治療室から通常の病室へ移り、「なぜこんなところにいるのだ」「カプチーノが飲みたい」などと言うようになり、ほどなく、退院することになったのでした。

「父」は娘夫婦の家で受け入れ、静かに療養中でした。姪によれば、「ガドガド(茹で野菜をピリ辛のピーナッツソースであえたもの)が食べたい」などと繰り返していたそうです。

空港から「父」のいる娘夫婦の家に到着、休んでいた「父」が現れて、会うことができました。退院したばかりで、ちょっと疲れが出ている様子でしたが、娘夫婦や、さらにかけつけた姪夫婦らと一緒に、夕飯の食卓を囲みました。

「父」はまだ普通の食事は制限されていて、やわらかいご飯に辛くない薄味の柔らかくした野菜などをまぜた別メニューを「母」が食べさせてあげました。

一週間前に聞いた情報からすると、こうして一緒に食卓を囲んでいることがなんだか本当に奇跡のように思えました。「父」と「母」と記念の写真を撮ってもらいました。


思い返せば、「父」と初めて出会ったのは、最初の勤務先である研究所に入所した33年前でした。その頃、「父」はインドネシア中央政府の某官庁で次官を務める高級官僚。歴代の研究所の先輩研究者たちが世話になった大事な方でした。先輩研究者たちがまだペーペーの筆者に「父」を紹介してくださったのです。

その後、折に触れて、「父」に支えられました。研究所の海外調査員として2年間ジャカルタに滞在し、インドネシア大学大学院で学んだときには、「父」が身元保証人になってくれました。もっとも、そのとき「父」は研究所の客員研究員として日本に滞在しており、ビザ更新のレターなどは、前もってフォーマットをお送りして署名していただき、ジャカルタへ送り返してもらっていました(インターネットなどというものがなかった時代の話です)。

詳細は省きますが、あるとき、筆者が心折れて、絶望したくなるようなことがありました。そんなときに、なぜか「父」がたまたま現れ、一緒に食事をし、筆者の話を微笑みながら聴いてくれました。「父」と会ったことで、筆者は救われたのでした。

インドネシアにいるたくさんの恩人のなかでも、「父」はとくに大事な恩人でした。

そんな「父」だから、何としてでも会いに行きたかったのです。そして、会うことができて、あまり言葉は発しませんでしたが、「父」は、疲れ気味ながら、うれしそうでした。

4日朝、姪から「父」の様子を伝えるメッセージが来ました。筆者があったときとは打って変って、「父」は元気になり、よくしゃべり、筆者のことを「どこへ行った、どうしてる?」と尋ね続けたそうです。筆者の来訪がきっと「父」を元気にしたんだね、と姪は綴っていました。

よかった。よかった。本当によかった。

まだまだ容態はアップダウンあることでしょうが、元気でいてほしい。もうすぐ、以前の通り、「父」はガドガドを楽しく食べられることでしょう。

今週、「父」は、米寿をむかえます。

2018年9月1日土曜日

マカッサルの作家たちを福島へ

ちょうど1週間前の8月25日、インドネシア・マカッサルから来日した作家や詩人ら6名を福島へお連れしました。彼らは、マカッサル国際作家フェスティバルの主宰者やキュレーターです。

実はこの8月25日ですが、この日の朝、スラウェシ島でのカカオ農園ツアーを終えて帰国しました。参加者と解散して別れて、羽田空港でスーツケースを自宅へ送った後、マカッサルから来日中の彼らを迎えに行き、新幹線に乗って福島へ向かい、用務を終えた後は、最終1本前の新幹線で彼らと一緒に東京へ戻る、という、なかなか怒涛の一日でした。

今回の彼らの訪問は、国際交流基金の支援によるもので、今年5月、福島の詩人・和合亮一さんをマカッサル国際作家フェスティバルに招聘したプログラムの続きの意味がありました。彼らは今回、8月25日に、和合さんが主宰して、福島稲荷神社で毎年行われている「未来の祀りふくしま」の本祭を観に来たのでした。

福島に到着後、まだ時間があったので、彼らのリクエストに従って、筆者のオフィスを訪ねてもらいました。筆者のオフィスは、明治6年に建てられた古民家「佐藤家住宅」と同じ敷地内にあるプレハブ小屋です。彼らは古民家をとても興味深く感じたようでした。

私のオフィス内で記念のセルフィ―。


10年ほど前、筆者がマカッサルに滞在していたとき、家の敷地内に彼らの活動スペースを提供し、NGOのオフィスやら、映画上映会やら、セミナーやら、アート発表会やら、民間図書館やら、様々な形で使ってもらいました。彼らのなかには毎日寝泊まりしている者もいて、いつもマカッサルの地元の若者が活動している空間でした。その頃の仲間が今、こうして福島の我がオフィスに来てくれたというのは、なかなか感慨深いものがあります。

その頃からの付き合いで、筆者も、マカッサル国際作家フェスティバルには第1回からほとんど参加してきています。

震災後、マカッサル国際作家フェスティバルに集ったインドネシア国内外の作家たちがどんなに日本のことを思ってくれていたか。フェスティバルの現場で驚くほどの彼らの思いを目の当たりにし、何としてでもこのフェスティバルに東北から作家や詩人を連れて来なければと思い続け、ようやく、今年5月、高校の後輩でもある和合亮一さんを招くことができたのでした。

そして、今度は、彼らが和合さん主宰の「未来の祀りふくしま」へ。

福島稲荷神社に着き、前方のブルーシートのかかった席に彼らを通し、座ってすぐ、山木屋太鼓が始まりました。


震災後、川俣町で唯一避難を余儀なくされた山木屋地区。そこに代々伝わる山木屋太鼓を絶やさず、守ってきた(とくに若い)人々の真剣な演奏が心に沁みました。この太鼓がどんなに人々を元気づけてきたか。評判は聞いていましたが、やはりナマはすばらしい!

続いて、島根県益田市から来られた石見神楽。エンターテイメント精神にあふれた演目で、神楽って、こういうものもありなのか、と思うほど、圧巻でした。素晴らしくて言葉が出ません。


最初は、恵比寿天のコミカルな舞。観客を楽しく笑わせた後は・・・。


いかつい顔のスサノオノミコトが現れ、最後には・・・。



ヤマタノオロチの登場。口から煙を出し、火を噴き、グルグル巻きで暴れまわります。もちろん、最後は、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治して終わります。

日が落ちて、時雨れた通り雨が一通り上がった頃、6時45分から、いよいよ「未来の祀りふくしま」の本祭、新作神楽の奉納となりました。和合亮一さんの詩をもとに、福島の様々な人々が関わって、音楽や踊りを取り入れた、新作神楽を毎年8月、福島稲荷神社へ奉納してきました。今回で7作目になります。

新作神楽の目的は、死者への鎮魂と未来への祈りです。8月は旧盆もあり、死者がこの世にしばし戻ってきて家族と一緒に過ごし、再び向こうの世界へ戻っていく、そんなことを思うときです。新作神楽は、震災で犠牲になった方々の鎮魂とともに、犠牲になった方々に対して、よりよい未来を築いていくことを誓い、約束するものでもあります。

今回の演目は「呆然漠然巨人」。福島市にある信夫山にまつわる伝説をモチーフにしていましたが、和合さんの詩は、やはり鎮魂と未来への祈りに満ちた力強いものでした。


「万、千、百、十、一
 万人の命 みな同じ命
 一人の命 万人の命と同じ」

「夢を持ちなさい
 夢を叶えなさい
 明日が来るという保証はないのだから」

「風を待つのではない
 風を作るのだ」

原文とは違っているかもしれませんが、新作神楽のなかで、何度も何度も、繰り返し、繰り返し、読まれた言葉でした。

新作神楽を演じた子どもたちも大人たちも、音楽を奏でた子どもたちも大人たちも、そして、真剣な面持ちで、きっと様々な人を想いながらこの舞台を見守っていた観客の皆さんも、一緒になって作っていたあの福島稲荷神社の空間が、とても神々しく、かつ素敵に感じました。

これまで、カカオ農園ツアーと日程が重なって観に来れなかった「未来の祀りふくしま」。今回初めて体験し、和合さんはじめ皆さんがどんな思いでこのイベントを続けているのか、改めて感じ入ることができたような気がします。

マカッサルから来た彼らとも感想を語り合いましたが、死者への鎮魂と未来への祈りというところから、彼らなりに深く理解していたことをありがたく思いました。

和合さんの計らいで、彼らを連れて、公演後の打ち上げの場にもお邪魔しました。この日のうちに東京へ戻らなければならないので、宴のはじめに、しばし時間を頂戴して、彼らから福島の皆さんに挨拶してもらいました。そして、和合さん自身が、どんなにマカッサル国際作家フェスティバルで感じることが多かったかを、改めて話してくださいました。

福島とマカッサルで、これからこのような交流を続けていけたら・・・。マカッサルから来た彼らも、和合さんも、互いにそう語りました。

新幹線の時間を気にしながら、打ち上げ会場を出た私たちに向けて、和合さんは、店の入っているビルの前で、いつまでもいつまでもずっと手を振っていました。マカッサルから来た友人たちは、その和合さんの姿をずっと心に焼き付けて、インドネシアへ戻っていきました。

福島とマカッサルをつなげる第1章を終え、次は、まだ中身は分からないものの、第2章へ移っていきます。