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2018年12月12日水曜日

INSISTネットワークから領収証とお礼状が来ました

スラウェシ中部地震被災地支援の第2弾として、10月から11月初めにかけて皆様にお願いして募金の送付先であるINSISTネットワークから、募金の領収証とお礼状が送られてきました。

募金の領収証は、以下のとおりです。宛先は、Jepang Friend via Matsui Kazuhisaとなっており、第1回送金分の領収証です。


INSISTネットワークへの緊急支援向け募金は、11月1日で締め切られ、現在、募金は受け付けていません。第2回送金分は締切後の11月7日に送金しましたが、受け取ってもらっています。

そして、以下がお礼状です。


さらに、INSISTネットワークからは、10~11月の緊急支援に関する詳細な活動報告(インドネシア語)も送られてきました。

ただし、ファイルが17MB以上ととても大きいものでした。以下のサイトから閲覧・ダウンロード可能です。興味のある方は、是非ご覧ください。写真だけでも、緊急支援の様子が伝わってきます。

 Laporan TRK INSIST

この報告書では、11月の私の現地訪問の様子にも少し触れています。

INSISTネットワークは現在、被災地でのニーズ調査を踏まえて、支援物資の配送を必要に応じて続けていますが、復興期における活動の方向性について、現在、内部で検討中です。今後、彼らとどのように協力していくか、どうするか、真摯に考えていきたいと思っています。

ともかく、このたびのスラウェシ中部地震被災地支援募金へ協力してくださった皆様に対して、改めて深くお礼申し上げます。皆様の思いをしかと受け止め、次のステップへの活動を検討してまいります。

2018年12月10日月曜日

スラウェシ中部地震被災地支援のネクストを検討中

11月21~23日にスラウェシ中部地震被災地を訪問し、多くの友人の安否を確認し、現場で動いている様々な友人・知人と会い、意見交換しながら、次の支援プログラムを考え始めています。

現段階では、まだおぼろげな状況ですが、今週から来週にかけて、何人かの同志的仲間と会い、話し合い、より明確になった段階で、再び、皆さんに呼びかけを行いたいと考えています。

もう少し、お待ちください。

それにしても、という思いがあります。

2011年の東日本大震災の後、故郷・福島を含む東北地方は今もいろいろな意味で厳しい状況に置かれています。だからこそ、福島から、東北から、古きを敬いながらそれを踏まえた新しい動きを創っていきたい、という気持ちが、法人登記を福島市にさせた一つの要因でした。その後、福島で何が起こっていったか、プラスもマイナスも、私なりに観察し続けてきています。そして、福島の正負両方の経験を次に生かしていかなければならないと思っています。

そして、JICA長期専門家(地域政策アドバイザー)として過去に計7年以上関わり、今もその深い絆を意識し、たくさんの仲間が活躍しているスラウェシで、今回、地震・津波・液状化という災害が起こりました。

自分の人生のなかで、まさか、自分が最も大切に思っている福島とスラウェシの両方で、甚大な災害に見舞われ、そこからの立ち直りをどうしていったらよいか、考えることになるとは思いもよりませんでした。

自分の関わりの度合いの深さが、自分の行動を決定づけている面があります。福島以外の日本各地やスラウェシ以外のインドネシア各地の災害に対して、決して無関心であるわけではないのですが、どうしても、自分にとって思い入れの強いところに傾いてしまうのは、やむを得ないことです。すべて平等に、と、雲の上から鳥瞰的にみられる神様のような存在に自分はなることはできません。

ですから、「他はどうでもいいのか?」という批判は受けますが、もはや雲の上の立派な存在ではあり続けられないということを正直に吐露したいと思います。それは、私の能力不足なのかもしれませんが、自分が超越したすばらしい人間でなければならないとも思えませんので、正直に申し上げるしかない、というのが実状です。

きっと、他の地域には、そこへの思い入れのある方々が同じように動いていることでしょう。それでいいのだと思います。

私も関係している「スラウェシ研究会」という自主的な勉強会があります。この会には、かつて戦時中、マカッサルに置かれた日本軍政下の民生部で働いておられた90歳を超える方や、過去に在マカッサル日本総領事を務められた方、JICA専門家でマカッサルに派遣されたのをきっかけに太平洋戦争前後のスラウェシでの日本人の足跡を丹念に追い続けている方など、マカッサルやスラウェシに特段の思いをもって、自分の人生経験のなかの大事な場所と位置づけ、関わり続けている方がいらっしゃいます。

そうした方々も、今回のスラウェシ中部地震被災地支援では、何度も何度も、募金と温かい言葉をお送りくださいました。彼らの脳裏には、自分たちがかつて経験したスラウェシやマカッサルの具体的な人々の名前や出来事があり、スラウェシのために何としても役に立ちたい、という気持ちが込められていたのだと思います。もしかすると、それは、スラウェシへの恩返しをまだ十分にしていないという気持ちを含んだものなのかもしれません。

私は、実はそうなのです。これだけ関わってきたスラウェシに対して、恩返しをまだ全然行えていない、と。

スラウェシの人々への思いを生前に語ってくださった尊敬できる先輩方も多くいらっしゃいます。今回、支援活動を試みながら、そうした方々の声が再び聞こえてきたような気がしました。

長年スラウェシに関わってこられた方のスラウェシへの思い。それをちゃんと受けとめたうえで、しっかりと腰を据えた支援活動を行っていく責務がある。そんな気持ちが、11月に、たとえ自腹でも、被災地訪問を決意させた理由の一つでした。

こんなことを思いながら、スラウェシ中部地震被災地支援のネクストを考えていきます。引き続き、よろしくお願いいたします。

2018年12月7日金曜日

大学生主催のイベントでスラウェシ中部地震について講演

2018年12月2日、東京・東小金井で開催された「パルに寄り添う~Thinking of Indonesia」と題する小さなイベントで、スラウェシ中部地震について講演しました。

このイベントは、インドネシアに短期留学したり、たまたまインドネシアに滞在していた大学生有志が中心となって企画し、東京在住のインドネシア人有志やインドネシア愛好者グループなどが協力して開催したものです。

このイベントを通じて、スラウェシ中部地震の犠牲者に思いをはせ、何かできないかという思いを募金などの形で果たす意味も持ち、チャリティーのための物品販売も行われました。

出席したのは61名、小さな部屋だったせいもありますが、立ち見も出る盛況でした。


興味深かったのは、おそらく、主催した大学生の友人たちである留学生が多数出席していたことでした。

このため、講演を始める際に、日本語以外に英語も使うことが求められ、急遽、バイリンガルで講演することになりました。

講演資料はすべて日本語で、日本語=英語バイリンガルの準備はなにもしておらず、しかも、日本語=インドネシア語のバイリンガルよりも日本語=英語のほうが個人的には面倒なので、ずいぶんとひどいバイリンガルになってしまったのではと思います。

来てくださった方々には、この場を借りて、聞き苦しかったことをお詫びいたします。

このイベントでは、友人のティニさんが主宰するインドネシア舞踊グループ「ドゥタ・メラティ」による踊りの数々も披露されました。彼らの演技を見るだけでも、このイベントは意味があったと思えました。

NHKの海外放送「ラジオ・ジャパン」インドネシア語放送の取材もあり、私も少しだけインタビューされました。以下のサイトで、1週間をめどに聴くことができるようです。

 Tamatebako: Penggalangan Dana bagi Korban Bencana Palu di Tokyo

現地訪問を踏まえたスラウェシ中部地震の現状に関しては、情報ウェブマガジン「よりどりインドネシア」にて報告していくとともに、必要があれば、日本あるいはインドネシア等での講演依頼にも、積極的に応じていきたいと思います。

2018年11月29日木曜日

スラウェシ中部地震とロンボク地震の被災地を訪問して

今回のインドネシア滞在中に、11月21~23日にスラウェシ中部地震被災地のパル市、シギ県、ドンガラ県を訪問し、その後、11月27~28日にロンボク地震被災地の東ロンボク県、北ロンボク県を訪問しました。

日本でもインドネシアでも、これらの地震に関するメディア報道はずいぶん少なくなりました。そうなると、復興が順調に進んでいるかのような雰囲気が出てきますが、やはり、実態はそんな単純なものではない、というのが今回訪問しての印象でした。

現場を歩きながら、「世の中から忘れられていく」という現場の人々の気持ちを強く感じていました。

スラウェシ中部地震被災地への訪問記は、情報ウェブマガジン「よりどりインドネシア」の第34号と第35号の2回に分けて書いていきます。第1回は、以下のサイトをご参照ください。


小見出しは以下のようになっています。

 ●被災地を訪問した意味
 ●津波に襲われたタリセ海岸を歩く
 ●液状化で街が沈んだペトボ地区にて
 ●政府と住民の微妙な関係
 ●外部者の被災地利用

詳細については、内容をぜひお読みいただきたいのですが、かなり強く政治ファクターが入り込んでいることもあり、復興へ向けてのプロセスは予想以上に難しいものになるのではないか、と感じました。

次号(第35号)では、今後の復興プロセスにおいて起こってきそうな諸問題、我々が外部者としてどんな取り組みに対して支援するのが良いのか、ロンボク地震との比較を踏まえたうえでの考察、などについて、書いてみたいと思っています。

ロンボクも含めた今回の訪問では、被災した友人・知人たちの消息や活動状況を知ることも個人的な目的でした。幸い、今回お会いした仲間は皆、元気でいてくれて、再会を喜び合いました。

ロンボク島の被災地も、その後に起きたスラウェシ中部地震との関連で、様々な影響を受けていました。多くのロンボクの被災者は、スラウェシ中部地震の被災地のほうがずっと大変な目に遭っていると思っている様子でした。

それは、東日本大震災の時、福島の被災者が「岩手や宮城の被災者は津波で実際にたくさんの方が亡くなって自分たちよりも大変なんだ」とか、逆に岩手や宮城の被災者が「福島の被災者は原発事故の影響も加わって自分たちよりも大変なんだ」と思ったことを想起させました。

今回ロンボク島も訪れてみて、表面上の明るさの陰で、被災者の地震への恐怖や将来への不安が強くある様子がうかがえました。仮設住宅の建設など生活を取り戻す過程は始まっていますが、急ピッチで復興が進んでいる、というようなものではないという印象でした。

それでもなお、ロンボクでは「自分で何とかしていく」という態度を見ることができました。自分たちの村を自分たちでなんとかするっきゃない!という、いい意味での開き直りというか、援助を待ち続けるという態度はほとんど見られなかったのが印象的でした。

よりどりインドネシアに「ロンボクだより」を連載してくださっている岡本みどりさんのお宅も訪ねました。可愛いお嬢さんにも遊んでもらえました。

岡本さんの周りのおじさんやおばさんたちは、皆さん、互いに笑い、話をすることで、気を紛らせ、やるべきことをやれる範囲でやるという、当たり前の態度で日々の生活を少しずつでも取り戻していこうとしていました。そんな人たちに温かく囲まれながら、岡本さんも、周りの皆さんの生きる力を感じていらっしゃるのだろうなと思いました。

マカッサルで仲間と話し合ったときに出てきた大事な言葉が、「生きる力」でした。

「生きる力」を持っている人々や社会は、再生への強さを内に秘めているのだと思います。それを肯定するような、「生きる力」を強くしていけるような、被災地や被災者へのリスペクトやポジティブな働きかけを、外部者としての私たちは適切に行なって行けるとよいな、と思いました。

そして「生きる力」とそれを強くしていけるようなプラスの働きかけは、今の日本にとっても必要なことでもあるのだ、と感じるのです。

2018年11月21日水曜日

マカッサルでさっそく活動

11月20日、マランからスラバヤ経由で昼過ぎにマカッサルに到着しました。

まずは、一年以上の音沙汰のなかった、昔マカッサルに住んでいたときのお手伝いさん夫婦にいきなり会いに行きました。彼らの携帯番号がたくさん記憶されていて、どの番号なのか分からなかったからです。携帯の支払いが途切れると、自動的に、番号が使えなくなるため、放置しておくと、そうなってしまうのです。


元気そうでよかったです。このお手伝いさん、料理名人で、彼女の料理に何度助けられたことか、数え切れません。

インドネシア料理はもとより、中華料理、西洋料理、そして日本料理と何でもござれ。そばつゆは醤油とみりんでしっかり作るし、おせち料理も作ってしまいます。アメリカ風の豆のスープも絶品です。

彼女を使ってみたい方がいれば、是非、ご紹介します!!

続いて、インドネシア研修生実業家協会(IKAPEKSI)南スラウェシ支部の皆さんと懇談しました。彼らは、日本への技能実習生OBで、今、KENJI日本語学校というものをつくり、日本語を勉強する場をつくっています。そこのカフェで色々と話をしました。


彼らの日本語はまだまだですが、もっともっと日本の皆さんとコミュニケーションをとっていきたいそうです。そして将来、日本への技能実習制度を通じて、南スラウェシにとって有用な人材育成に貢献したいという夢も持っています。

夜8時からは、カンポン・ブクという、友人のジンペ・ラフマン氏夫妻が運営する図書館で、今回、スラウェシ中部地震被災地支援で募金を送付したインドネシア海洋学士会(ISKINDO)のカマルディン氏、INSISTネットワークの実働部隊だったイニンナワ・コミュニティのアスフリヤント氏とイサック氏と会い、11時過ぎまで懇談しました。


彼らから主な活動状況を報告してもらい、現地での様々な裏話を聞くことができました。とくに、データをきちっととって支援を行うことの必要性とともに、データをとることの困難性(液状化で移動させられた住居とそこの元々の所有者との関係はどうなるのか、など)も指摘されました。

また、災害が起こったのは神の怒りだというような非科学的な言説の流布や、現パル市長の追い落としを企てる者たちによる政府批判、カイリ語の様々な地名の本当の歴史的な意味のほか、自社・自団体の宣伝のための援助物資供与競争、といった側面も指摘されました。

こうした懇談の中から現れてきた重要な言葉が「生きる力」(daya hidup)でした。メディアはどうしても災害のマイナス部分を伝えたがるが、本当に、そこでのプラス部分をもっと伝えることで、被災者の「生きる力」を助けることになるのではないか、と。

たとえば、パルなどからマムジュやピンランを通ってマカッサルへ避難する人々に対して、その街道沿いの多くの家がオープンハウスをしていたことは、ほとんど報じられていません。すなわち、多くの家が、避難者に対して気軽に立ち寄ってもらえる用意をしていたのです。食事の用意はもちろん、休息をとったり、沐浴をしたり、それを無償で提供していたのでした。

また、南スラウェシ州からはたくさんの米が被災地へ送られました。その影響で、パプアや北マルクでは米の流通量が減り、米の価格が急騰したそうです。

「生きる力」という言葉を聞いて、日本での震災後の孤独死や社会の分断のことを思いました。INSISTネットワークの仲間たちは、単に被災者を支援していただけでなく、彼らの「生きる力」をどうやって育んでいくかも意識していたのだと改めて思いました。

そしてこの「生きる力」は、震災が起こっても起こらなくても、インドネシアだけでなく、日本でも本当に必要とされていることなのだ、果たして日本はそれを応援する社会になっているのだろうか、などとつくづく考えてしまいました。

11月21日は、今から3時間後の午前4時45分に起きて、5時45分発の便で、いよいよパルへ飛びます。しばしの就寝です。

2018年11月20日火曜日

バトゥで思いがけない出会い

11月13日、友人である、日本の某大学の先生の紹介で、バトゥである農民夫妻と会うことになりました。

面会の指定場所は、カフェでもレストランでもなく、あるお店。友人の家なのでゆっくり話ができる、ということだったのですが、ちょっと不安になりました。

そのお店の場所を突きとめて、行ってみると、コピー屋でもあり、電気屋でもあり、という不思議なところでした。ますます不安になりました。

本当に、ここなのか?

店番をしている女性は私の来訪をすでに知っていて、2階へ上がるように促してくれました。

2階へ上がると、面会予定の農民夫妻がにこやかに座っていました。そして、しばらくすると、その店の主人らしいご夫婦がやってきました。

実はね、と奥さまが話し始めました。

え、と驚く自分。

なんと、奥さまは、戦後、インドネシアに残って独立戦争を戦った残留日本兵として最後に亡くなった、故アフマド小野さんの長女アツコさんでした。

アフマド小野さんは3年前に亡くなられましたが、生前にお会いしたいと思っていて、かなわずに終わっていました。まさか、こんな形でご遺族にお会いするとは。

農民夫妻とアツコさんの旦那さんは、イスラム教の先生が同じ方で、それで、日本人だということで、気を利かせてくれたようです。

その後、皆んなで色々な話に花が咲きました。




2018年11月18日日曜日

滞在許可手続が終了、いろいろ簡略化

11月12日からインドネシアに来ています。まずは、マランに滞在し、外国人暫定滞在許可(ITAS)の手続を終わらせました。イミグレに出向いて写真撮影、指紋採取をし、翌日にはパスポートが返却されました。

現在のITASは、オンラインで管理されていて、ITASオリジナルとITAS簡易版がメール添付で送られてきます。ITAS簡易版をプリントアウトし持ち歩く、または、スマホにITAS簡易版を入れてもいいのかもしれません。提示の必要があれば、そのいずれかを見せればいいのでしょう。

昔のようなカードはなくなりました。大昔、外国人暫定滞在許可証はカード式で、それを紛失したことがありました。このカードの再発行のために、イミグレや州法務局を何度も往復し、1ヵ月以上の時間を費やしました。

オンライン化された現在、ITASが紛失することはありません。万が一、プリントアウトしたITAS簡易版がなくなっても、またプリントアウトすればいいのです。そうそう、以前「ブク・ビル」(Buku Biru)と呼ばれた外国人出入国管理記録帳も必要なくなりました。

また、複数回再入国許可もITASと併せて取得できるのもよいです。以前は、複数回再入国許可は別途取らなければならなかったので、滞在許可期間と適合せずに頭を悩ませたものでした。

さらに、警察での手続も、エージェント経由で本人出頭が不要とのことでした。以前は、写真撮影と指紋採取があるため、本人が出頭する必要がありました。写真と指紋の情報は、イミグレと共有するようになったと思われます。もう、指紋採取後、トイレの前の固形石鹸で手を洗わなくてよくなったのだなあと感慨深いものがあります。

昔はいつも、暫定滞在許可カード、ブク・ビル、警察証明カード等を持ち歩いていたものですが、今は、ほとんど何も持ち歩く必要がなくなったのは、とても気楽な気分です。

まあ、しっかりとすべての省庁にオンラインで管理されていて逃げられない、という意味もあるでしょう。日本のシステムも進んでいるのでしょうが、再発行手続などで面倒極まりなかった過去のインドネシアのシステムが、地方都市のマランでも、ここまで改善されているとは、正直、驚きました。