2020年7月30日木曜日

マナド料理はもっと知られてもよいはず



前回のソトベタウィ宮本の記事がけっこう読まれていて、ちょっとびっくりしています。私もそうですが、あのインドネシアの味を懐かしく思い出して、食べに行こうと思った方もけっこういたようです。

そのブログのなかで、ちらっとほのめかしたのが、ソトベタウィ宮本の料理の味の秘密。もともと、東京のインドネシア料理屋さんは、スラウェシ島の北にあるマナド出身の方が始めて、その系統がずっと続いてきたのでした。

年配の方なら、新橋にあった「インドネシアラヤ」や六本木にあった「ブンガワンソロ」の名前を思い出すのではないでしょうか。その後、1990年代に有名になった「ジュンバタンメラ」も、目黒の有名店「チャベ」(いつもお世話になっております!)も、流れとしては、マナド出身の方からの流れに連なっています。

以前から不思議だったのは、マナド出身者なのに、インドネシア料理でほとんどマナド料理が出てこないことでした。出てくるのは、ナシゴレンやミーゴレン、ジャカルタやジャワ島でお馴染みの料理で、これらが日本では「インドネシア料理」と認知されてきました。

ところで、そのマナド料理ですが、マナド自体が美食の街。バラエティに富み、なかなか美味しいのです。今、ジャカルタやスラバヤでは、新たにマナド料理を出す店が増えていますし、マナド市内にも新しいスタイルでマナド料理を出す店が出てきています。

マナド料理はおそらく、日本でも十分に受け入れられると確信します。

その理由の一つは、かつおだしで味をとる料理が色々あるからです。たとえば、ナシ・クニン(nasi kuning)という名のイエローライス。ジャワでのナシ・クニンは主に、お祝い事のときに、三角柱のような形に盛り、その下に肉や野菜を盛ったナシ・トゥンペンで有名ですが、マナドやスラウェシ(マカッサルでも)では、テイクアウトの朝ごはんとして普通に食べられています。


これがかつおだしのスープで炊かれるのです。その上に、甘辛く味付けされた牛肉やカツオのフレークなどが載り、ゆで卵が添えられます。ナシ・クニン用のサンバル(チリソース)をナシ・クニンにかけていただきます。

マナドのナシ・クニンは、テイクアウトも一般的です。ウォカ(woka)というロンタラ椰子の一種の葉で次のように包んで売られています。


中を開けると、こんな感じです。


これは、2016年5月21日にマナドのサムラトゥランギ空港で買ったものです。

それよりもずっと前の1999年6月、北スラウェシ州開発企画局の長官ご一行と一緒に、マナドから夜行便の船でタラウド諸島へ向かうとき、出発前に長官がナシ・クニンを買ってきて、私たちみんなに配ったことがありました。

夕方、マナドから出港する船の甲板でみんなでほおばったのですが、そのナシ・クニンの美味しかったこと! それまでに何度もナシ・クニンはインドネシアで食べていたはずなのですが、そのどれよりも、あの時食べたナシ・クニンは群を抜いて美味しかったのです。

マナドが立地するミナハサ半島は、カツオ漁が盛んなところで、日本のかつおだし調味料やめんつゆなどに使われるカツオは、実はここから出ているものがけっこうあります。一説には、日本の枕崎や糸満の漁師たちが戦前、この地までカツオ漁に来ていて、一本釣りの技術を伝えたとも言われています。

その立役者の一人である大岩勇氏については、脇田さんの「スラウェシ情報マガジン」に長崎節夫氏の書かれたメモがありますので、ご一読ください。


そう、マナド料理のカツオ味は、日本と密接につながっているのです。暑い夏にいただくそうめんや冷麦の麺つゆに、マナド周辺からのカツオが使われているかもしれません。

ナシ・クニンの話へ戻ると、マナド市内で美味しいナシ・クニンを出す場所は、セロジャ(Seroja)という店と、カンプン・コドック(Kampung Kodok)という集落にある数軒の店です。マナドはクリスチャン(プロテスタント)の人口比率が高いところですが、セロジャもカンプン・コドックも、ナシ・クニンを出しているのはムスリムの方々なのです。

カツオ味の料理といえば、ほかにも、カツオそば(mie cakalang)があります。かつおだしのスープに入った麺で、びっくりするぐらいのあっさり味。油ギタギタ、お腹にもたれると思われているインドネシアの料理のなかでも、特筆できるほどです。飲んだ後の〆の一杯に、まさにぴったりのカツオそばです。

私としては、マナド風のナシ・クニン、カツオそばを東京で食べたいなあと思うのです。ナシ・クニンはテイクアウト中心に。ソトベタウィ宮本のマナド出身の一族で、出してみてほしいと思いませんか。

東京できっと受け入れられ、市民権を得られると思うのですが。

ところで、マナド料理のなかには、これらのほかにも、日本で受け入れられそうな料理がいくつかあります。その話はまた別の回に・・・。

マナド料理は、もっと知られてよいはず、なのです。


2020年7月28日火曜日

ソトベタウィ宮本のソトベタウィは本格派だった



前々から行こう行こうと思って行けてなかった「ソトベタウィ宮本」へ、7月25日、ようやく行ってきました。

ソトベタウィというのは、ソト(Soto)というインドネシア(主にジャワ)の実だくさんスープの一種で、もともとのジャカルタ地域の地元民であるベタウィ(Betawi)族が編み出したスープです。その特徴は、ココナッツミルクを使い、具には牛肉やトマトが入ります。

おそらく、ジャカルタ在住の日本の方々でも、ソトベタウィ(個人的にはソト・ブタウィかな?)のことを知っていて、夜な夜な食べに行く、という方は多数派ではないかもしれません。もちろん、私はジャカルタにいるときはよく食べてましたけど。

そんな、もしかすると、ジャカルタの邦人社会でもあまりなじみがないかもしれない、マイナー気味のジャカルタ地元料理が、なぜかニッポンの東京のど真ん中で食べられる、というのもなかなか面白いではありませんか。

でも、地理的距離が離れれば離れるほど、本場の味とは違う味へ離れていってしまう、というのが私なりの今までの経験則です。たとえば、スラバヤで食べるソトベタウィは、ジャカルタで食べるそれとは明らかに味が違うわけです。

ともかく、まずは、先入観なしに食べてみることにしました。どうせなら、牛肉のスパイスグリルも入ったソトベタウィ・スペシャルを注文。


次のは、ソトベタウィを拡大した写真です。


白っぽくてよく分からないかもしれませんが、ジャカルタで食べるよりも、はるかにたくさんの牛肉がゴロゴロと入っておりました。本当はココナッツミルクを使うのですが、この店では敢えて牛乳で作ってみたとのこと。ということは、やっぱりジャカルタの本物のとは違うのだろうな、と思って、一口食べてみると・・・。

なにこれ、美味しいじゃないの!

ココナッツミルクの絡んでくるような感触はなく、でも、ちゃんとソトベタウィの味がしているとは・・・。具の牛肉は柔らかく上手に煮込んであって、口の中でホロホロと砕けていきます。

牛肉のスパイスグリルも、適度な辛さの柔らかい牛肉で、白いご飯にぴったりの料理でした。

このスペシャルでなくとも、ソトベタウィ+ライスのソトベタウィ定食でも十分かと。ライスの上にスープ+具をかけてもいいし、ソトベタウィのなかにライスを入れて食べても美味しいです。個人的には後者がおすすめです。

そうそう、特筆すべきは、一緒に出てくるサンバルの美味しさ!サンバルと呼ばれるインドネシアの辛味チリソースは、料理ごとに全部違う作り方なのですが、このサンバルを適量、ソトベタウィに入れて食べると、スープのまろやかさとミックスされて、何とも言えない美味しさを引き出します。もちろん、サンバルだけをご飯に少しのせて食べても美味しいです。

きっと、日本人の口に合うようにアレンジされた味だろう、とあまり期待しないで行ったのですが、ソトベタウィ宮本のソトベタウィは、ジャカルタの本家と比べても遜色ない本格派でした。皆さんも是非、食べに行ってその味を確認してみてください。

ソトベタウィ宮本は、都営地下鉄「小川町」駅・東京メトロ丸の内線「淡路町駅」・東京メトロ千代田線「新御茶ノ水」駅から歩いてすぐ、神保町から歩いても遠くないところにあります。


ソトベタウィ宮本
〒101-0054 東京都千代田区神田錦町1丁目14−7 神田錦町ビル
TEL: 03-6811-7888
Instagram: @sotobetawimiyamoto
Facebook: @sotobetawimiyamoto
現在の営業時間:月~土 11~15時、17~22時。日曜定休
(8月からの営業時間:水~月 11~15時、17~22時。火曜定休)
(新型コロナ対応で営業時間が変更になっている可能性があります)

実は、この料理を提供しているインドネシアの方の一族は、今はなき、かつてあった東京のあの有名なインドネシア料理店をされていた方々なのです。ジャカルタのご出身ではないにもかかわらず、この味のソトベタウィを出せるとはなかなかの腕です。

そして、ひそかに、新たなメニューを考えていらっしゃるようです。それは、ご自分の出身地のご当地料理で、得意中の得意の料理。日本の方々にも満足できる、新たなインドネシア料理として認知されるかもしれません。

その新メニューが出たら、もちろん、皆さんにもお知らせします。お楽しみに。


2020年7月27日月曜日

7月のオフ会終了、今回取り上げたのはこの本!



2020年7月25日(土)日本時間午後3時から、情報ウェブマガジン『よりどりインドネシア』の購読者の皆さんを対象にしたオフ会をオンラインで行いました。今回は、私を含めて12名が参加しました。

今回のテーマは「私のおすすめの本」。当初、何人かに本の紹介をしてもらう予定だったのですが、結局、最初に紹介していただいた一冊の本をめぐる話に終始し、オフ会を終了しました。その本とは、倉沢愛子著『インドネシア大虐殺』です。


話題提供者としての参加者のお一人から、内容をおおまかに紹介していただき、その方自身の感想を述べてもらいました。参加者のなかで、すでにこの本を読んでいたのは、私も含めて3~4人でした。

話題提供の後は、参加者がゆるりと自由に対話する形に。

対話の中では、インドネシアで9・30事件と呼ばれるスカルノの時代からスハルトの時代へ移っていく重要なきっかけとなった事件(インドネシア政府の公式見解では、インドネシア共産党によるクーデター未遂事件。諸説あり)の真実をめぐる話よりも、その後の共産党シンパ狩りに伴う普通の人々による虐殺から派生して、インドネシアの治安当局による思想スクリーニングをめぐる話で盛り上がりました。

私も含めて、インドネシアで外国人が滞在許可手続を行う際の、警察やイミグレとのやり取りに関するいくつもの経験談が交わされました。これがなかなか面白かったのです。

たとえば、私が1990年に、イミグレ以外に、ジャカルタの警察で滞在許可手続きをした際、渡された許可申請書には、9・30事件が起こった1965年9月30日にどこで何をしていたかを書く項目がありました。それだけでなく、私の父親、母親、兄弟についても、そのときどこで何をしていたかを書く項目がありました。

さすがに今は、外国人に対して、イミグレや警察でそのようなことを滞在許可手続の際に書くことはないようです。それでも、ある参加者の方は、警察で手続をした際に、自分が過去に申請したときから滞在中の行動等に関する個人データが細かくコンピュータ内に記録されてあったことに驚いたといいます。

私たちの知らない間に、インドネシアのイミグレや警察は我々の行動を監視していて、何かあれば記録に残している、私たちが意識することはないにせよ、外国人はやはり監視されている、ということを改めて実感しました。

スハルトの時代が終わり、民主化の時代になったとはいえ、かつての共産党関係者の家族や子孫に関する記録は今も残っていて、いつでも監視できる状況にあるのではないか、ということが十分に予想できます。同様に、イスラム過激主義者やその家族もまた、テロ対策の観点からしっかりと監視されているのは確実です。

このように、『インドネシア大虐殺』に描かれた赤狩りが起こりうるベースは、今もあり、それは、昨今のパンチャシラ法案をめぐる議論のなかで、再び、一部で現れている、共産主義の脅威への警戒を呼び掛ける言説のなかにもうかがえます。

まあ、こんな感じで、ちょっとセンシティブな話も交えながら、参加者全員が自由にゆるりと対話できた2時間でした。

オフ会を購読者限定で行うのは、ちょっとセンシティブな話も安心して話せる環境を作りたい、という面もあります。

さて、次回ですが、今のところ、8月29日(土)日本時間午後3時から、『よりどりインドネシア』購読者に限定したオフ会を開催する予定です。取り上げるテーマは、「今、社会変革を目指すインドネシアの若者たち」(仮称)です。

このテーマは、メディア報道など表面になかなか出てこないものですが、今後のインドネシアを見ていくうえでは、とても大事なテーマだろうと思います。学会報告のような論理的でカチッとした議論というよりも、参加者の皆さんと一緒に、若者の動きについて情報交換しながら、その行方と現代社会における意味、そしてそれが2024年以降のポスト・ジョコウィの時代がどうなるか、などについて自由な雰囲気でいろいろ考え、対話できればなあと思っています。


2020年7月24日金曜日

「よりどりインドネシア」第74号発行、その舞台裏



7月22日、情報ウェブマガジン「よりどりインドネシア」第74号を発行しました。以下のサイトからご覧いただけます。

今回の「よりどりインドネシア」第74号のカバー写真。
中ジャワ州スマラン市のシンパンリマ(五叉路)の夜の屋台。

今回は、3人のうち2人の執筆者の原稿が早く届き、編集作業も順調に進みました。彼らの原稿の編集を終えるタイミングで、自分の原稿執筆を始めるのがいつものパターン。すなわち、私自身の原稿は毎回、大体1~2日で仕上げています。

今回、自分の原稿のテーマ候補を3つぐらい用意していて、どれについて書こうか考えていました。ちょうど直前に、別の原稿を書いていたので、それと関連させて書ければ、より効率的になると踏んで、3候補から今回書くテーマを決めました。

ところが、7月20日、インドネシアの新型コロナ対策の体制が大きく変わるというニュースが入ってきました。これは、対策の重点を感染対策から経済回復へ移すという重要な変更が示されたものでしたので、すでに決めた今回のテーマはいったん棚上げにし、新型コロナ対策の体制変化について急遽書くことにしました。

といっても、その報道を読んだのが7月21日で、22日の発行を予定していたので、エイヤーで書かなければなりません。3人の執筆者のうちのお一人の原稿は22日の朝に送られてきて、それから編集して送り返し、加筆修正をお願いして、OKが出れば完成、という手順をひととおり終わらせてから、自分の原稿を書き始めました。

今回は、そのお一人の原稿が7月22日の朝に送られてくることがあらかじめわかっていたので、自分の原稿を21日午後から書き始め、結局、8割を22日午前3時半まで書き、残りは、22日朝に送られてきたお一人の原稿の処理を終わらせた後、残りの2割を書き上げました。こうして、何とか7月22日中に発行することができました。

こんな舞台裏を書いてしまうのは恥ずかしいのですが、こんな感じで、これまで毎月2回、一度も欠号を出すことなく、第74号まで来た、というところです。

というわけで、今回発行した「よりどりインドネシア」第74号は、以下のような内容です。是非、ご一読いただき、ご購読をご検討ください。最初の1ヵ月は無料お試し期間(2号分)となります

●感染対策から経済回復へ舵を切ったジョコ・ウィドド政権(松井和久)
政府は7月20日、感染対策と経済回復の両立を図る新たな委員会を立ち上げ、従来の対策チームを解散しました。しかしその狙いは感染対策から経済回復へ重点を移すことでした。松井がその背景を探ります。

●ウォノソボライフ(31):シオンタバコは絶滅するか?(神道有子)
神道さんの連載は、普通のタバコとは一味違うローカルの「シオンタバコ」の話です。その歴史をたどりながら、シオンタバコとウォノソボとの意外な関係やどう生き残っていくのかを語ってくれます。

●ジャワの羽衣伝説 – “Babad Tanah Jawi”より–(その2)(太田りべか)
太田さんのジャワの羽衣伝説、今回は異説の紹介です。異説をめぐる奇妙で意外な話や、ジャワとスンダとの王族関係などに思いを馳せます。ジャワの神話の世界が身近に感じられます。

●いんどねしあ風土記(20):ヌサンタラ・コーヒー物語(後編)~コーヒー文化紀行~(横山裕一)
横山さんのコーヒー紀行は3回目。フローレスの占いコーヒー、映画「コーヒーの哲学」のカフェ、北スマトラの極上コーヒー、注目すべきワインコーヒーなど盛り沢山です。

今回も読みごたえのある内容となりました。広がりと深みのあるいくつものインドネシアをお楽しみいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

なお、購読者向けに限定した月例オフ会を7月25日(土)日本時間午後3時から行います。25日午後2時までに「よりどりインドネシア」購読者登録をされた方は、月例オフ会にご参加いただけます。当方より、ZOOM事前登録URLをお送りいたします。よろしければ、以下のサイトより、購読者登録をよろしくお願いいたします。


2020年7月22日水曜日

カカオ酵母のパンを試食



今週月曜日(7/20)、事前に注文していたカカオ酵母のパン「呵々」(かか)が届きました。

このパンは、神戸のパン屋さん「ありのパン・まるじゅん」の高橋さんが作ったのを送ってもらったものです。カカオ酵母を使って焼き上げたパンは、少なくとも日本では初めてではないでしょうか。

高橋さんは、京都のチョコレート製造販売会社・ダリケー主催の2017年カカオ農家訪問ツアーの参加者で、ダリケーのアドバイザーを務める私がツアーのコーディネーターとして、インドネシア・スラウェシ島(西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県)へ引率しました。

このパンに使っているカカオ酵母は、そのときに入手したカカオの実から抽出したものだそうです。長い時間をかけて試行錯誤しながら、カカオ酵母を自家製発酵種として開発しました。そしてようやく製品化の目途が立ち、一般販売に先駆けて、2017年カカオ農家訪問ツアー参加者に限定して、先行試験販売したものを購入しました。

食パン(パンドミ)を1枚、食べてみました。半分に切り、片方をそのまま、もう片方をトーストにしてみました。どちらも、カカオの香りがけっこう匂います。やや甘めの生地で、噛むとしっとり・もっちりした味わいでした。個人的には、ちょっとカリッと焼いたトーストのほうが好みでした。


小麦粉は北海道産100%で、あとはカカオ酵母と蜂蜜と塩のみ、余計なものは使っていないそうです。

今回は、パンドミ1斤のほか、プチパン2個、くるみ&レーズン、いちじく、チョコチップ各1個がセットで送られてきました。

到着してすぐでも、十分にカカオの香りがするのですが、高橋さんによると、2~3日ぐらい経つと、より香りが強くなるといいます。パンのカカオ酵母が生きているのでしょう。カカオ自体の健康に良い成分も含まれているのでしょうか。

まだ半分ぐらいのこっています。もう少し楽しめそうです。

高橋さんのこのパンを味わいながら、カカオ農家訪問ツアーでお世話になった、スラウェシのカカオ農家の方々を思い出しています。ツアーの後も、こうしてカカオを通じた様々なつながりが続いて、発展していることを実感します。

このカカオ酵母パン「呵々」(かか)は、8月から一般向けに製造販売する予定とのことです。パンと一緒に様々な物語が届けられ、それが新たな物語を作って、様々な人々に伝えられていくことを願っています。

  ありのパン・まるじゅん
  〒651-1321 兵庫県神戸市北区有野台2丁目1−4−12
  TEL: 078-595-7477


2020年7月20日月曜日

よりどりインドネシア特別講座(第1回)は高島雄太氏が報告



2020年7月18日日本時間午後3時から、よりどりインドネシア特別講座(第1回)を開催しました。

この特別講座は、ウェブ情報マガジン「よりどりインドネシア」の購読者だけでなく、一般の方々も含めて、多くの方にご参加いただける機会としました。当面は、無料での開催を想定しています。

いくつもの様々なインドネシアをできるだけ多くの方々に知ってもらいたい、という気持ちと同時に、内容に応じて日本語とインドネシア語のバイリンガルとし、日本の方々とインドネシアの方々とが同じ場所で同じ話題で対話する機会を作りたい、という気持ちも込めました。

記念すべき第1回の今回は、インドネシアでハンセン病恢復者を支援する財団Yayasan Satu Jalan Bersamaを設立し、活動している高島雄太さんをお招きし、「インドネシアのハンセン病問題から考える~感染症が引き起こす差別について」という題で報告していただきました。高島さんのリクエストで、今回はバイリンガルによる開催としました。


なお、高島さんは、インドネシアの人気TV番組Kick and Andyにも出演したことがあります。そのときの様子は、以下のYouTubeで視ることができます。

申込者は43人(日本人26人、インドネシア人17人)でしたが、実際に参加したのは22人でした。私のインドネシア語での通訳・説明が拙かったせいでしょうか、講座の最後まで残っていたインドネシア人の参加者は1名だけだったのは、ちょっと残念でした。

高島さんの発表では、自己紹介の後、インドネシアのハンセン病と恢復者をめぐる現状を説明した後、恢復者が実際に被った様々な差別の実例を挙げました。続いて、Yayasan Satu Jalan Bersamaの活動(ワークキャンプ)を紹介しました。

ワークキャンプでは、日本とインドネシアの大学生が一緒にハンセン病恢復者の暮らす村を訪問し、2週間、村に滞在しながら、村人と一緒に道路舗装工事など様々な活動を行ないます。最初は、ハンセン病恢復者の外見に戦々恐々だった大学生たちも、村の人々から実の親子のように歓待され、時間が経つにつれて、インドネシアのどこでも会える良いおじさん・おばさんと全く変わりがないことを実感します。

大学生たちは当初、可哀そうなハンセン病恢復者のために何かをしてあげたいという気持ちでやってきます。ところが、村で一緒に活動していくと、ハンセン病恢復者のために何もしてあげることができない、という気持ちになっていきます。逆に、助けたいと思った相手であるハンセン病恢復者の方々からいろんなことを教えてもらい、学ぶことになっていきます。セメントをこねるのも、何もかも、大学生よりもハンセン病恢復者のほうがずっと上手なのでした。

ハンセン病恢復者からすると、家族すら来ない、誰も会いに来ない、世の中から見捨てられたような気分でいるところへ、大学生の若者たちがやって来てくれて、2週間も滞在し、一緒に活動してくれるのは、とてもびっくりすることだったし、何物にも代えられない嬉しい出来事だったのです。

ワークキャンプの2週間で、外部者である大学生とハンセン病恢復者との関係は、大学生とハンセン病恢復者ではなく、個人と個人との関係へと変わっていくのでした。

高島さんは、このワークキャンプでの経験から、ハンセン病恢復者への差別をなくしていくには、感染力が極めて弱くて完治する病というハンセン病に関する正確な知識を持つとともに、それでもなかなか消えない差別感情を超えるために、実際にハンセン病恢復者と交わり、一緒に活動をすることで、個人と個人との信頼関係をつくっていくことが有用ではないか、と問いかけました。

今回、高島さんは日本におけるハンセン病政策の歴史についても発表し、現在のコロナ禍の日本における差別問題にも議論を広げたいと考えていましたが、時間の関係で、割愛せざるを得ませんでした。

今回の講座を終えて、ハンセン病に限らず、差別意識を克服していくための基本は同じなのではないかと実感しました。すなわち、相手のことをよく知ること、相手と何か一緒に活動し、共感し、信頼し合う経験をすること、ではないでしょうか。

相手のことを知らないから怖く感じ、何の根拠もない妄想や思い込みが膨らみ、相手に対するヘイトがひどくなり、やられる前にやってしまおうという気持ちがとんでもない行動をおこしかねません。

もっとも、相手のことを知識として知ったからといって、相手を信じることは容易ではないはずです。好奇心と性善説はその突破口になり得ますが、誰もがその突破口を開けるわけではありません。

重要なのは、高島さんのように、こちらとあちらとをつなぐ人の存在ではないでしょうか。そのつなぐ人は、こちらからもあちらからも信頼されている人であることが肝要です。このつなぐ人を介して、こちらとあちらとが信頼できる関係をつくり、個人と個人との関係で互いを尊重し合えるようになれば、いつの間にか差別意識・被差別意識を克服できていくのではないか。そんな風に思います。

インターネットで個と個がつながっても、必ずしも信頼関係が築けるとは限りません。でも、いずれの個からの信頼される第三者を通じてつながれば、信頼関係をより築きやすくなると思います。

正しく相手を知り、その相手と一緒に何かをする。そのお手伝いをする信頼できる仲介者こそが、今の時代にとくに必要とされているのではないかと思います。そういう仲介者をコミュニケーターといってもよいかもしれません。良質のコミュニケーターを増やしていくこと。私が今後、目指していきたいことの一つでもあります。

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高島さんから、以下のようなメッセージを受け取っております。よろしければ、高島さんらの活動への皆さんからのご支援をよろしくお願いいたします。

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YAYASAN SATU JALAN BERSAMAの髙島雄太です。
本日は講演会に参加いただき大変ありがとうございました。
みなさんにハンセン病について知って頂くことができ、とても貴重な機会となりました。
本日の内容に不明な点や質問などありましたら、お気軽にご連絡ください。

■メールアドレス

■SNSで活動内容の発信も行っています。
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4. 2,000 円/月(24,000 円/年)
5. 3,000 円/月(36,000 円/年)

寄付金は以下の口座でお受けしています。
クレジットカード決済は未導入のため、毎月手動でお振込みをお願いします。
ご支援いただける方は髙島までご連絡下さい。

【ゆうちょ銀行から振込の場合】
銀行名:ゆうちょ銀行
記号:17440
番号:95979041
名前:サトゥ ジャラン ベルサマ ジャパン

【他の金融機関からの振込の場合】
銀行名:ゆうちょ銀行
店名:七四八(ナナヨンハチ)
店番:748
種目:普通預金
番号:9597904
名前:サトゥ ジャラン ベルサマ ジャパン

※インドネシア口座への寄付を希望される方は、髙島まで連絡ください。Bank Mandiriの口座情報をお送り致します。

頂いた寄付金は快復者やその家族の支援のためのプロジェクトに使用させて頂きます。
皆様からのご支援をどうぞ宜しくお願い致します。

改めまして、本日はお忙しいところご参加いただきまして大変ありがとうございました。
今後も、ハンセン病差別をなくすため活動に邁進していきますので、引き続きご支援頂ければ幸いです。
どうぞ宜しくお願い致します。

髙島雄太


2020年7月16日木曜日

今年も東京の自宅でお盆



毎年の恒例ですが、今年も東京の自宅でお盆をしました。お盆といえば、故郷の福島では8月半ばの旧盆ですが、東京では7月半ばの新盆を指しています。

このお盆の時期に、ご先祖さまがしばし戻ってきて、この世で一緒に過ごした後、また向こうの世界へ帰っていく、というひと時を毎年繰り返しています。

ご先祖さまがこの世へ戻ってくるときの乗り物として、ナスで牛、キュウリで馬をつくって、飾ります。


7月13日、ご先祖さまをお迎えするための「迎え火」を焚きます。まずは、家の門を開けて、迎え入れる準備をします。


門を開けたら、焙烙(ほうろく)の上にオガラをやぐらのようにのせます。


これに火を点け、煙を焚いて、ご先祖さまが帰ってくるための目印とします。


オガラが燃え尽きてくると、チラッチラッと赤く残り、ゆらゆらっと揺れて、きれいで見とれてしまいます。


後は、ミソハギに水をつけ、それを燃え尽きたオガラの上に降りかけて浄め、水をかけて完全に火を消します。家の門を閉めます。


こうして、ご先祖さまを家に招き入れ、しばらく、一緒に過ごします。

7月16日、いよいよ、ご先祖さまとお別れの日となりました。ご先祖さまにあちらの世界へ戻っていただくための「送り火」を焚きます。

やり方は、基本的に、迎え火のときと同じです。家の門を開け、焙烙の上にオガラを置いて火を点け、煙を立てて、ご先祖さまが戻っていくための道すじを示します。

オガラの火が燃え尽きたら、ミソハギで水をかけ、火を完全に消したら、ご先祖さまにお別れをして、家の門を閉めます。

我が家では、たまたま、この新盆の間に、家族の命日が2回あります。かつて、この場所で一緒に暮らしていた大切な人の姿を、より強く感じる4日間なのでした。



2020年7月15日水曜日

Go To キャンペーン強行でも、旅には出ない



今日(7/15)、東京で新型コロナ特別警戒レベルが最高の4に引き上げられ、「感染が広がっている」という状況になりました。重症者の割合は減っているとしても、無症状の感染者が知らないうちに感染を広める状況が、ようやく見えるようになってきた、ということでしょう。

これまでも、感染が広まっている気配はありましたが、何せ確かなデータがないので、明らかなことはわからないままでした。そんななかで、様々な思惑から、緊急事態宣言が解除されると、あたかも、新型コロナはもう大丈夫だ、というような何の根拠もない雰囲気が街中にあっという間に広まりました。

その流れを受けて準備を進めてきた Go To キャンペーンを、政府は連休前の7月22日から強行する意向を示しています。

名もなき一市民としては、大所高所からその判断を正しいとも間違っているとも言うつもりはありません。ただ、私自身は、だからといってキャンペーンに乗って旅に出るつもりはありません。

キャンペーンは一部の旅行業者を救済するのが目的、という意見があります。それで日本全国の観光業や旅行業が救われるのでしょうか。一部の旅行業者は、それほど日本全国の観光業や旅行業を牛耳っているということなのでしょうか。

多くの人々は、今はただじっと待って、元の社会に戻ることを信じているのでしょうか。でも、もう元の社会には戻れないと覚悟し、そのなかでどう生き残っていくか、それぞれのレベルで模索しているのではないでしょうか。

観光業でも今、本当の意味での観光とは何かが問われているような気がします。お客さんがたくさん来てお金を落としていってくれさえすれば、それでいいのか。お客さんやお客さんを連れてくる旅行業者の好みを優先して、その土地に生きてきた己自身を忘れてしまってはいないでしょうか。

インバウンドに過剰な期待をしていしまっている観光業は、魂をどこかに置き捨ててしまってはいないか。きつい言葉でいうと、そんなことさえ思ってしまいます。

もう一度、観光の本質を、そこで生きてきた地域社会の本質を、見つめ直して、決してよそ者に魂を売ることのない自分たちが主体の観光のあり方を考えつくす、貴重な機会が今ではないかと思います。

かくいう私も、外部者(よそ者)の一人です。ですから、私の言うことにも騙されないでほしい、と思うのです。

Go To キャンペーンが強行されても、私は旅には出ません。関係者の方には申し訳ないですが、旅にはまだ出ません。私自身も、自分はどう生きていくのか、どう生き残っていくのか、様々にじっくり考えていきたいと思っています。

正直に言えば、自分は月給取りではないし、経済的にも、誰かを助ける余裕などありませんが、それでも、誰かを助けなければならないのではないか、と自分の中でもがいたりしています。金銭だけが助ける手段ではないですわけですし・・・。

Go To キャンペーンが強行されても、私のように旅に出ない人々はかなりいるのではないかと思います。政府の言うことをそのまま聞くのではなく、自分でまだその時期ではないと判断した人々がかなり出ると思います。

でも、旅行業者の方々は、旅に出ない人々を責めることができるでしょうか。感染する・させるリスクを強いてでも、人々に旅に出てほしいでしょうか。そう思っている旅行業者があるとするならば、旅ができるようになった後も、自分はその業者を利用しないだけです。旅行業者が何を考えているか、見続けて、その業者が利用するに値するかどうかを冷徹に検討し、値しない業者は使わない。それだけです。

今の機会に観光の本質を、観光の舞台である地域社会の本質を、しっかりと考え抜き、業者に依存せずに生き残っていこうとする観光地を、私自身は応援したいし、そう生きる人々の教えから学びたいです。

一回限りの数字の一つでしか数えられない匿名の観光客ではなく、固有名詞で覚えてもらえ、ほどよい関係が継続する、そんな外部者(よそ者)でありたいと自分は願っているのです。

福島市飯野の吊るしびな。福島市と合併後も、地元の人々は飯野としての
地域性を生かしたまちづくりを模索し続けている。商店街の店ごとに違う
吊るしびなは一見の価値がある。2018年2月18日撮影。


2020年7月13日月曜日

よりどりインドネシア特別講座(第1回)のお知らせ(7/18)


このたび、いくつもの様々なインドネシアを共に知り、共に学び、共に楽しむ機会として、一般の方々向けに、オンラインによる「よりどりインドネシア特別講座」(無料)を開催する運びとなりました。

1~2ヵ月に1回程度、ゲストスピーカーを招いてお話を聴くとともに、スピーカーと参加者、参加者どうしの対話の機会を大事にしたいと考えております。また、内容とスピーカーの意向に応じて、使用言語を日本語・インドネシア語のバイリンガルで行い、日本の方々とインドネシアの方々が直接に対話できる機会も想定しています。

この講座に参加される方々にとって、新たなインスピレーションや思ってもみなかったアイディアや、人と人とのつながりが生まれる場となるように努めていきたいと思います。皆様のご参加をよろしくお願いいたします。

早速ですが、以下のとおり、よりどりインドネシア特別講座の第1回を開催いたします。
  • とき:2020年7月18日(土)日本時間15時~(2時間程度)
  • スピーカー:高島雄太氏(Yayasan Satu Jalan Bersama)
  • テーマ:「インドネシアのハンセン病問題から考える、感染症が引き起こす差別について」
  • 司会:松井和久(松井グローカル合同会社)
今回は、インドネシアの現場でハンセン病問題に関わっている高島雄太さんに、インドネシアでのハンセン病の現状と支援活動についてお話しいただきます。併せて、そこからみえた社会の根強い差別をどのように克服していけるのかについて、ご自分の考えを提示しながら、コロナ禍の今、ハンセン病について理解することの意味や感染症に留まらない様々な形の差別について、参加者の皆さんと楽しく深く対話できればと思っております。

なお、今回の講座は、日本語・インドネシア語のバイリンガルでの開催とし、インドネシアの方々にも参加を呼びかけます。スピーカーは日本語で発表し、発表資料はインドネシア語併記とする予定です。質疑応答や対話では、適宜、司会者が簡易的に通訳も務めます。

参加ご希望の方は、以下のURLにアクセスし、ご登録ください。ZOOMでの開催となり、定員は最大100名とさせていただきます。皆さまの参加を心よりお待ちしております。



2020年7月9日木曜日

「よりどりインドネシア」第73号発行、4年目突入



2020年7月8日、ウェブ情報マガジン「よりどりインドネシア」第73号を発行しました。今号で、2017年7月に創刊してから4年目に突入しました。

この間、一度も欠号を出すことなく、毎月2回、計73本の「よりどりインドネシア」を発行し続けてこれたことを嬉しく思います。これもひとえに、執筆者の皆さんと購読者の方々、そしてそれ以外の方々からの応援や励ましのおかげであると、ここに深く感謝申し上げます。

インドネシアはバリ島やジャカルタだけではない、数え切れない様々ないくつものインドネシアがあることを、少しでも日本の皆さんに伝え、知って、楽しんでもらいたい、という「よりどりインドネシア」の主旨がどの程度受け入れられてきたか、まだまだ確信は持てません。ただ、日本の地方が様々であるように、いやそれよりもはるかに多様なインドネシアの様子を伝えていく活動は、今後も続けていきたいと思うのです。

別のポスティングで話をしようと思いますが、ウェブ情報マガジンに加えて、オンラインを活用した月例オフ会のほか、一般の方々向けの無料特別講座も行なっていきたいと考えております。

以下、「よりどりインドネシア」第73号の内容をご紹介しておきます。

カバー写真は、フィリピンとの国境近くの北スラウェシ州サンギヘ島の
市場でサゴ椰子澱粉を売るおじさん

▼コロナ禍での中国人労働者の入国許可問題(松井和久)
コロナ禍のなかで中国人労働者500人の入国が政府によって許可されました。松井はそれへの抗議行動と入国許可の背景を探りました。

▼ロンボクだより(33):折り重寝る子どもたち(岡本みどり)
岡本さんの連載は、子どもたちの「折り重寝る」様子を微笑ましく描いています。コロナ禍での社会的距離のことを考えてしまいます。

▼ラサ・サヤン(7):~私のインドネシア音楽~(石川礼子)
石川さんの連載は、ご自分の音楽の話から始まるのですが、それを超え、音楽を通じてインドネシアと故郷の浜松市とをつないでしまう展開がすごいです。

▼いんどねしあ風土記(19):ヌサンタラ・コーヒー物語(中編)~コーヒー文化紀行~(横山裕一)
横山さんのコーヒー物語は中編です。アチェのコピ・サリン、ジョグジャのコピ・ジョス、ドリアンとコーヒーとの関係が紹介されていますが、それぞれ独特のコーヒー文化、奥が深いです。後編は次の第74号へと続きます。

引き続き、ご愛読のほどをよろしくお願いいたします。 


2020年7月6日月曜日

2本目のオンライン講義用動画作成してのひとりごと



このところ、色々とふさぎ込み、マイナス思考に陥る傾向が出てしまっていたが、何とか気持ちを切り替えて、今日は、オンライン講義用の動画を作成していた。

今回のも、5月に作成したのと同様、母校での講義用の動画である。さすがに、以前、1本作っていると、2本目はずいぶんと慣れた感じにはなるが、それでも、しゃべりの途中で言葉が出ずに止まってしまい、何度も録り直す場面も多々あった。

今回のオンライン講義は、当初、対面での簡単な2人1組の対話演習を入れたかったのだが、オンラインではそれも叶わず、その意味ではやや不本意な内容になってしまった感がある。まあ、それでも、対話演習のエッセンスは少し入れ込むことはできたので、講義としての体裁はとれたと思う。

それにしても、オンライン講義になることで、講義を作る側には今までよりも真剣さが求められているような気がする。手抜きができない、と思えるのである。言いよどんでお茶を濁したり、聴講する学生の様子を見ながら内容の難易度を下げたり、といったことができない。当然、学生からの反応も分からない。達成感や充実度が分からないまま、とにかく動画を作る、ということになっている。

図書館が利用できるならば、むしろ、課題を出して、1ヵ月間の期間を与え、学生に少し骨のある内容のレポートを書かせたりすることも可能だろう。そのほうが、学生の主体的な学びが大きいような気がする。でも、図書館が利用できないのであれば、それは無理だ。

私の学生時代、大学は自分が主体的に学ぶ場と意識していた。出席をとる授業も多くなく、半ば放任主義だったので、実際にしっかり学んだかどうかは別にして、自分が学びたいと思うものを集中的に学べる環境だった。何かを学びたいから、その特定の大学へ行く、という意識だった。

今はどうなのだろうか。就職活動があるから大学の授業を休む、というような話を聞くと、自分の学生時代とはずいぶん変わったものだと思わざるを得ない。大学の経営方針もまた、時代とともに変わり、今や、学問の追究よりも組織の存続が大事になっているのであろう。

大学のときに自ら学ぶことを身につけたならば、自ら主体的に学び続けることができる人生を得ることができるだろう。何も学ぶことは、教授や書物から学ぶだけでなく、世の中の様々なものや人から学ぶことも含まれる。

学ぶことは自分に対して問い続けることであり、それが社会に対して問い続けることであり、自分と社会とが問い続け合うことであろう。学ぶことを止めたとき、人間としての成長は止まる。

あーあ、こんな青臭いことを学生と語り合いたいものだと思ってしまう。相手にしてくれるかどうかは分からないけれど。

2週間前の東京の自宅の庭のくちなしの花。今はもう白くなくなってしまった。


2020年7月2日木曜日

香港が香港であり続けることを信じる



ここ数日、香港のことをずっと考えていた。香港がどうなってしまうのか、答えのない問いについて考えていた。頭が痛くなった。

初めて香港へ行ったのは、大学を卒業して数年後だった。大学時代の恩師やゼミの仲間たちと一緒に、油麻池のYMCAに泊まり、地下鉄に乗りまくって、九龍地区も香港島も、あちこち歩き回った。よく歩き、よく食べた。

近代的なネイザンロードを一歩入った女人街の賑わい。その雑踏の中で、ミカン箱に座って、釣り下がった蛇の皮を主人が手際よく裂いてパッパッと鍋に入れた蛇肉のスープ、体の芯から温まった。女人街からさらに裏の路地へ入ると、夜の灯りが小さくなり、薄暗いなかで歌を歌う人や大道芸人が、誰もいないなかで芸を披露していた。

銅鑼湾から湾仔へ向かう大通りから山側に一つ入ると、そこは生活の匂いのする空間。高齢の方々しか見えない飲茶屋でとびきり美味しい点心を味わい、立ち並ぶ店という店に吸い寄せられそうになった。ヴィクトリアピークから見た香港の夜景、わずか数分の特別な風情を味わったスターフェリー。日曜日の中環(セントラル)の公園で出会ったたくさんのフィリピンからの出稼ぎ労働者。船で渡った長州島は、きっと昔の香港はこんな港町だったと想像できるような別空間だった。

これらは、今から35年前の私の記憶の香港のイメージである。その後も、数回、香港を訪れたが、やはり飲茶を味わい、エッグタルトを探し、時間さえあれば食べ歩き。書店へ行くのも楽しみだった。

近代的で整然とした街並みの一方で、ごちゃごちゃした雑踏や生活臭ぷんぷんの人間むき出しの空間もある、そんな香港が大好きになった。生きることを楽しんでいる人々がいる一方で、生きるために必死な人々もたくさんいて、ぬるくてほんわかした日本の自分の周辺からすると、生きるのが厳しい・きつい感じもしたものだった。自由ではあるが、何かというとカネがモノを言い、心とか情けとかでうやむやに済ませない感じがしたのである。

ここで生きていくのは大変だけど、旅で行くのは何度でも行きたい。自分にとっての香港は、そんな印象の場所だった。

1997年7月1日、香港が中国へ返還され、50年間の一国二制度の実験が始まってから昨日で23年。香港は大きな節目を迎えた。

普通に考えれば、50年間、一国二制度を維持して、50年を終えていきなり翌日から一国一制度にガラッと変わるということは想像できない。中国からすれば、少しずつ、段階を経て、一国二制度を終わらせ、中国の他地域と同じ状態に持っていこうとするだろう。近年の度重なる騒動とその過激化を理由として、中国は一気に一国二制度を終わらせる方向へ舵を切ったものとみえる。

他方、中国化の傾向の強まりを感じた香港の民主化運動家らは、一国二制度の堅持を旗印にしつつも、あわよくば、一国二制度を撤回させて、民主的な香港を永遠に維持させていけるのではないかと思っていたのではないか。中国の今の体制がこれから27年後まで維持されるとは限らない。民主的な香港がそのまま維持される可能性をみたのかもしれない。

しかし、中国の現指導部は、一国二制度を27年後まで待つという選択はできなかった。民主化というか香港化が今後、中国の他地域へ波及する恐れを感じていたのではないか。国家体制の掌握力に絶対的な自信があれば、もっと別の柔軟な方法で懐柔できたのではないか、と思ってしまう。

香港警察があんなに残虐な行為をするとは思わなかった。香港映画に出てくる警察のイメージが強かったせいもあるだろう。かなり前から、彼らは本当に香港警察なのだろうかという疑念があった。狭い香港で、身内や知り合いに警察官のいる家族はすぐに分かるはずだと思うからである。自分の身内や知り合いがいるかもしれないデモ隊に、あのような残虐な行為ができるだろうか。あるいは、それほど、警察官は身分的・階層的に他の市民とは別の世界にいるのだろうか。

もちろん、あきらかに、デモ隊側も警察を挑発していた面はある。事態がエスカレートするにつれて、高尚な目的から離れて、仲間がひどい目に遭った両者が憎しみをぶつけ合っていた面も強かったと感じる。

同時に、おそらく、こうした事態にならなければ知り合いになることもなかったであろう、匿名の市民どうしが連係し、互いに助け合う光景は、共通の敵が明確だったという理由はあるにせよ、個人主義者ばかりと思っていた香港の人々の内面に何らかの重要な変化を引き起こしたようにも思う。

これまでデモ隊に対して冷めた目で見ていた人々は、このような状態になることを警戒して恐れていたのかもしれない。彼らは、民主的な香港を守るという意識は同じでも、中国側の挑発に乗って反発し、最後には、絶望のうえに香港独立まで主張せざるを得なくなる、といった事態は慎重に避けたかったのではないか。表向きは中国に従順にふるまいつつも、魂までは売り渡さない、時間を稼いでうまくしのいで、若者たちの命や生活を脅かさせないように何とかうまくやっていく、と思っていた人々もきっと少なくなかったと思う。

そんな人々のなかにも、中国指導部に対してそのような慎重な態度ではもう駄目だ、という絶望感が強まり、行くところまで行ってしまった結果でもあるのだろう。

香港問題を内政とする中国は、国家安全法の成立・施行をいつでもできた。もっと早く、あるいは27年後にすることもできた。1997年7月以降、香港は中国領なのだから。イギリスやアメリカが、一国二制度50年間維持に違反した、と非難しても、内政干渉の一点張りで否定してしまえるのは、最初から明らかだった。

香港はこれでもう駄目になってしまうのか。1997年7月に中国へ返還されたときにも、香港はもう駄目になるという見方が強かったと思う。その後の23年で、たしかに香港への中国の影は強まったが、香港は香港であり続けた。もちろん、これほど激しいデモや警察の暴力がひどい状況になるとは予想できなかったかもしれない。しかし、香港は、随一ではなくなったかもしれないが、依然としてアジアの金融センターの一角を占め続けた。その位置づけを中国が簡単に放棄するとは思えない。

香港は、したたかに香港であり続けるだろうし、そうであることを信じている。国家安全法は、たとえ中国の現指導部体制に変化があっても、中国という国家が存在する限り、香港を縛り続ける。香港が中国の一部であり続けることは、一国二制度の約束でも明らかである。

香港がどうなるか、ということは、中国がどうなるか、そして台湾はどうなるのか、ということとパラレルに見ていかなければならない。中国の現指導部体制とその統治手法が永遠に続くとは思えない。中国は、表向き、一国二制度を否定も破棄もしていない。中国の態度が軟化する可能性もあるし、逆に硬化する可能性もある。一国二制度の建前を維持するために、中国がどのような統治を行っていくか、注目してみていくしかないが、中国に追随するか、香港は独立するか、といった二律背反ではない、より現実的でしたたかな解決策を香港は目指していくのではないか、と期待したい。

世界は、香港で何が起こったかを見続けてきた。香港の若者たちや一般市民がどんな気持ちで立ち上がったのか、警察にどのような暴力を受けたのか、をしっかり記憶に焼き付けた。自分たちの生活が国家によって脅かされるという絶望を垣間見せた。悲しいことだが、多くの人々が、身の安全と安らかな生活を求めて、香港を離れることになるだろう。

国家安全法は、香港を訪れた旅行者でも、中国の体制に対して批判的な言動をとったと見なされれば、処罰の対象にするといわれる。香港以外、たとえば日本においても、治外法権で中国が直接処罰することができないにしても、同様の扱いと見なされるようである。この点については、各国が自国民の言論の自由を守る対応をきちんと行わなければならない。

これにより、香港の問題は、もはや香港人だけの問題ではなく、中国に関して意見を述べる世界中のすべての人々にとっての問題ともなった。悲しいことだ。

香港の専門家ではない自分は、お粗末な感想しか語れない。ただ、香港が今後どのようになっていくかを、中国がどのようになっていくか、台湾はどうなるのか、と合わせて、見続けていきたいと思う。そしてまた、体制がどうなろうとも、おそらく変わることのない、飲茶の点心やエッグタルトを求めて、何度も香港を訪れる日が来ることを願っている。香港が香港であり続けることを信じている。