今年何回めのインドネシア出張になるのでしょうか。9月27日から、またまたインドネシアへ出張します。
今回は、10月23日にいったん帰国し、28日に名古屋で講演した後、30日から11月5日まで再びインドネシアへ行きます。
今年はこれでインドネシア出張は打ち止め、と思っていましたが、11月の後半に1週間程度、ジョグジャカルタへ出張することになりそうです。
今年は当初、次のステップへ向けてじっくりと日本で会社設立しようと思っていたのですが、3月からJICA案件に関わり、それが11月まで続き、思ったよりも自分が関わらざるをえない部分が大きかったので、じっくりと言うわけにはいかなくなってしまいました。
でも、そのJICA案件は、日本の地方自治体とインドネシアの地方政府を農業・畜産業分野で連携させることは可能かどうかを実際に調査する内容。国境を越えて、ローカルとローカルを結びつけて新しい何かを起こす、を今後の仕事の使命と考えている自分にとっては、願ってもない内容の案件でしたので、関わることにしたのでした。
案件自体の中身やプロセスの是非はともかくとして、自分にとっては良い機会になったと思います。5年以上前から、ローカルとローカルをつなげて新しい何かを起こすことを考えてきたのですが、それが果たして、今後の世界にとって有用なことなのか。
砂糖の山に群がるアリのように、美味しいところに入って行って他の人のようにやった方が楽だったのではないか。そんなことを思いながら、これがコンサルタント・ビジネスとして成り立つのだろうか、という疑問を抱き続けてきました。
そして今、少しずつ、それが確信に変わり始めています。
砂糖の山でいっぱいの国や中央ではなく、なぜローカルなのか。そしてなぜ、自分はいったん知り合いとなって触れ合ったローカルと一生付き合う覚悟をするに至ったのか。
そう、自分の顧客となったローカルとは、先方から「もういいです」とお引き取り願われた場合を除いて、プロフェッショナルとして、一生ずっとお付き合いをしていく覚悟を決めました。ローカルの味方として生きていく覚悟を決めました。
よろしくお願いいたします。
では、またインドネシアへ行ってきます。
(上写真)本邦招へいプログラムを終えた、インドネシア・東ジャワ州バトゥ市農林業局長、マラン市農業局アグリビジネス部長とインドネシア料理レストラン「チャベ」で会食。バトゥ市、マラン市と福島市とを結んで、新しい何かを生み出す中長期的な連携を関係者とともに構想中です。今回の出張中に、バトゥ市とマラン市で彼らと協議を進めていきます。
2016年9月27日火曜日
2016年9月23日金曜日
便利屋にはならない、とちょっと愚痴る
この1週間、雨模様の日が続いたこともありますが、ちょっと不快なことがいくつかあって、悶々としていました。まあ、そんなこともあるものです。
このところ、JICA案件でのインドネシアの皆さんの招聘などに関連して、日本語からインドネシア語に訳された資料の翻訳チェックをするという仕事がありました。それも、招聘プログラムが始まる前、プレゼン資料8本(1資料には15本前後のスライド)のインドネシア語訳をチェックする、それも超特急の2日間で、といった話です。
資料が全部テキスト形式なら楽なのですが、地方自治体のプレゼン資料なので、画像形式が満載。グラフィックや図表も画像だったりすると、そこにある日本語の一つ一つに、テキストボックスを貼り付けていく作業を延々行うことになります。
テキストボックス内はあらかじめ地の色に合った色で塗りつつ、下の日本語文字が見えないように隠さなければなりません。地方自治体のプレゼン資料は字が細かく、プレゼン資料なのに平気で4ポイントとか5ポイントとかいう小さい文字が画像として貼り付けられていたりします。
これらを根気よく進める作業をわずか2日で終わらせるのは、けっこうしんどいです。しかも、今回のは、訳が誤っているものがあり、全部翻訳し直しというのも含まれていました。2日間、朝から夜中まで集中して、何とか締め切りまでに間に合わせられましたが、疲労困憊、ヘトヘトで食事もとらずに眠ってしまいました。
でも、依頼主は、どんなに面倒で骨の折れる作業かは分からないことでしょう。だって、自分でやったことのない人には分からないものだからです。今回のも、下手をすると、タダ働きになるところでした。皆さんだったら、このような手の込んだ作業に報酬をいくら払いますか。
問題は、それを約束通り、期限を守ってやってしまったこと。「ほう、できるじゃないか」ということになって、もっと厳しい条件で仕事が降ってくる可能性もありえます。
誰でもはできない仕事の多くが、誰でもできる仕事と同じように扱われているのではないか、そんな気がします。
この仕事が終わった後、JICA案件とは別の仕事で、同じようにプレゼン資料の日本語からインドネシア語への翻訳を依頼されました。これもやはり、画像形式の部分がかなりあり、細かなテキストボックス貼りを続けました。
報酬を受け取る段になって、突然、別のプレゼン資料の翻訳が追加されました。そして、私がやるかどうかの返事をする前に、この別の追加分も含んだ報酬が一方的に銀行口座へ振り込まれてしまいました。こうなると、「やらない」とは言わせない、と強制された気分になり、依頼主に強く抗議しました。
「こんなやり方でビジネスをしているのか」と問いただすと、今回が初めてだと言います。本当かなあ。「このぐらいなら嫌とは言わないだろう」と、私のことを甘く見ていたに違いありません。この依頼主には、これまで色々と親切にしてきたのですが、それが甘く見られる要因になったのだと思います。
結局、この追加分も仕上げて納品しましたが、この依頼主との関係は今後、再検討しなければならないと思うに至りました。
インドネシアに関する情報が欲しい、といってくる人はいますが、その多くがタダで情報を取ろうとしてきます。そうした方の多くはタダで情報をもらえてラッキー、と思っていることでしょう。経費節約の折り、そのようなやり方を奨励する企業も少なくないかもしれません。
通訳や翻訳などの作業に対してもそうです。通訳や翻訳をどこか一段下に見ている、そんな印象を受けることもあります。何というか、相手に対する尊敬の気持ちを持っているようには見受けられないのです。
通訳や翻訳については、原則として私は請け負いません。なぜならば、専門の通訳者や翻訳者がおり、彼らがプロフェショナルとしてやるべき仕事だからです。私自身、通訳や翻訳の技術を学んだことはなく、彼らの領分に分け入るつもりはありません。
しかし、前述のように、2日間で膨大な量の作業をどうしても済ませなければならない、予算の都合で外部にはどうしても頼めない、といったのっぴきならない諸事情があれば、引き受けざるをえないと感じます。それでも、依頼主から感謝の気持ちを受けることは稀です。
一人のプロフェショナルとして活動している以上、便利屋にはなりません。こちらが親切にしているのをいいことに、タダで情報が取れてラッキー、ささっと作業終わらせてくれてラッキー、と軽く思うような方々とは、仕事を一緒にするつもりもありません。こうやって、少しずつ、自分がすべき仕事、自分でなければできない仕事の比重を高め、仕事と成果の価値を高めていきたいと思うのでした。
愚痴ってしまいました。ふー。
それにしても、福島市の老舗・喜多屋さんのそばはずっと昔から美味しい!(本文とは何の関係もありません。悪しからず)
このところ、JICA案件でのインドネシアの皆さんの招聘などに関連して、日本語からインドネシア語に訳された資料の翻訳チェックをするという仕事がありました。それも、招聘プログラムが始まる前、プレゼン資料8本(1資料には15本前後のスライド)のインドネシア語訳をチェックする、それも超特急の2日間で、といった話です。
資料が全部テキスト形式なら楽なのですが、地方自治体のプレゼン資料なので、画像形式が満載。グラフィックや図表も画像だったりすると、そこにある日本語の一つ一つに、テキストボックスを貼り付けていく作業を延々行うことになります。
テキストボックス内はあらかじめ地の色に合った色で塗りつつ、下の日本語文字が見えないように隠さなければなりません。地方自治体のプレゼン資料は字が細かく、プレゼン資料なのに平気で4ポイントとか5ポイントとかいう小さい文字が画像として貼り付けられていたりします。
これらを根気よく進める作業をわずか2日で終わらせるのは、けっこうしんどいです。しかも、今回のは、訳が誤っているものがあり、全部翻訳し直しというのも含まれていました。2日間、朝から夜中まで集中して、何とか締め切りまでに間に合わせられましたが、疲労困憊、ヘトヘトで食事もとらずに眠ってしまいました。
でも、依頼主は、どんなに面倒で骨の折れる作業かは分からないことでしょう。だって、自分でやったことのない人には分からないものだからです。今回のも、下手をすると、タダ働きになるところでした。皆さんだったら、このような手の込んだ作業に報酬をいくら払いますか。
問題は、それを約束通り、期限を守ってやってしまったこと。「ほう、できるじゃないか」ということになって、もっと厳しい条件で仕事が降ってくる可能性もありえます。
誰でもはできない仕事の多くが、誰でもできる仕事と同じように扱われているのではないか、そんな気がします。
この仕事が終わった後、JICA案件とは別の仕事で、同じようにプレゼン資料の日本語からインドネシア語への翻訳を依頼されました。これもやはり、画像形式の部分がかなりあり、細かなテキストボックス貼りを続けました。
報酬を受け取る段になって、突然、別のプレゼン資料の翻訳が追加されました。そして、私がやるかどうかの返事をする前に、この別の追加分も含んだ報酬が一方的に銀行口座へ振り込まれてしまいました。こうなると、「やらない」とは言わせない、と強制された気分になり、依頼主に強く抗議しました。
「こんなやり方でビジネスをしているのか」と問いただすと、今回が初めてだと言います。本当かなあ。「このぐらいなら嫌とは言わないだろう」と、私のことを甘く見ていたに違いありません。この依頼主には、これまで色々と親切にしてきたのですが、それが甘く見られる要因になったのだと思います。
結局、この追加分も仕上げて納品しましたが、この依頼主との関係は今後、再検討しなければならないと思うに至りました。
インドネシアに関する情報が欲しい、といってくる人はいますが、その多くがタダで情報を取ろうとしてきます。そうした方の多くはタダで情報をもらえてラッキー、と思っていることでしょう。経費節約の折り、そのようなやり方を奨励する企業も少なくないかもしれません。
通訳や翻訳などの作業に対してもそうです。通訳や翻訳をどこか一段下に見ている、そんな印象を受けることもあります。何というか、相手に対する尊敬の気持ちを持っているようには見受けられないのです。
通訳や翻訳については、原則として私は請け負いません。なぜならば、専門の通訳者や翻訳者がおり、彼らがプロフェショナルとしてやるべき仕事だからです。私自身、通訳や翻訳の技術を学んだことはなく、彼らの領分に分け入るつもりはありません。
しかし、前述のように、2日間で膨大な量の作業をどうしても済ませなければならない、予算の都合で外部にはどうしても頼めない、といったのっぴきならない諸事情があれば、引き受けざるをえないと感じます。それでも、依頼主から感謝の気持ちを受けることは稀です。
一人のプロフェショナルとして活動している以上、便利屋にはなりません。こちらが親切にしているのをいいことに、タダで情報が取れてラッキー、ささっと作業終わらせてくれてラッキー、と軽く思うような方々とは、仕事を一緒にするつもりもありません。こうやって、少しずつ、自分がすべき仕事、自分でなければできない仕事の比重を高め、仕事と成果の価値を高めていきたいと思うのでした。
愚痴ってしまいました。ふー。
それにしても、福島市の老舗・喜多屋さんのそばはずっと昔から美味しい!(本文とは何の関係もありません。悪しからず)
2016年9月19日月曜日
ジャカルタお掃除クラブの5年間
発展途上国の多くの都市が直面する最大の問題の一つがゴミ問題です。インドネシアもその例外ではありません。
首都ジャカルタの大きな目抜き通りは街路樹の緑に溢れ、色とりどりの花が咲き乱れています。広めの歩道も完備した大通りを通りながら、「インドネシアも発展したなあ」と感じた方々も多いことと思います。
でも、外国人があまり通らない裏通りに入った途端、様相は変わります。下水道の普及率が数%というインドネシアの大都市で、平気で川や側溝にゴミを捨てている人を見かけます。高級車の窓から道の真ん中に堂々とゴミを捨てる人を見たこともあります。
そんな姿を見ながら、一つの仮説を思いつきました。インドネシアと日本では、公園や道路のような「公共の場所」についての認識が違うのではないか、と思ったのです。
日本での「公共の場所」とは、みんなの場所。一方、インドネシアでの「公共の場所」とは、誰のものでもない場所。
みんなの場所だから、次に使う人のことを考えてきれいにするのでしょう。でも、誰のものでもない場所なら、きれいにしようと思うでしょうか。ゴミはそういうところへ捨てられるのではないでしょうか。
実際、インドネシアの低所得層の方々の住むところを訪れると、家の中や周りはみんなきれいにしています。でも、その集落の入口や他の集落との境、あるいは目の届かない隠れた場所は、ゴミでいっぱいです。
誰でも、自分のいるところ(自分のものであるところ)はきれいにしておきたいので、誰のものでもないところ(政府所有のものも含む)へゴミを捨てるように思うのです。
目に見えないところ、みんなのものとは見なさないところだったら、きっと日本でも、分からないようにゴミを捨てるのではないでしょうか。
そして、日本でもインドネシアでも、誰も見ていないときにゴミを捨てるのです。インドネシアでよく見るのは、誰も見ていないと思った人がポロリと路上へ、タバコの吸い殻などのゴミを(捨てるではなく)落とす光景です。たまたま、私がそれを見ていて、落ちたものを「落ちましたよ」と言って拾ってあげると、すごくバツが悪そうです。
みんなの場所の指す範囲や数が日本では広く、インドネシアでは狭いのかもしれません。
また、インドネシアのあるイベントでゴミを拾っていたら、「拾うな」と言われました。ゴミ拾いを職業としている人がいるので彼らの仕事を奪うな、というのです。そういう考え方の人は、きっと大多数なのだと思います。
このようななかで、ジャカルタをきれいにしたいと思う人々が始めた「ジャカルタお掃除クラブ」の活動が、様々な紆余曲折を経て、5年目を迎えました。
人口1000万人の大都市のゴミ問題とゴミに対する人々の認識を考えると、彼らの活動が意味を持つのか、という疑問が湧くのもうなずけてしまいます。日本関連のイベントなどで活動すると、他人のゴミを拾ってくれる清掃員と捉える人が多くいたようです。
でも、5年の間に、いろいろな変化が起こり始めました。まず、日本人だけで始めた活動が今ではインドネシア人が中心の活動へ変わり、参加者も徐々に増えてきています。ジャカルタだけだったのが、スラバヤ、メダン、バニュワンギなどの他都市へ広がり始めました。そして、別の名前のグループが、同様の活動を始めました。
形だけかもしれませんが、可燃ゴミと不燃ゴミとを分けたゴミ箱がジャカルタなどで一般的に見られるようになりました。「ゴミ箱はどこにあるのか」と聞かれることが多くなりました。地方都市などでは、地方政府がリサイクル・ゴミを収集して業者へ売るゴミ銀行の運営にかかわり、住民に「ゴミはお金になる」という意識を植えつけ始めました。
インドネシア第2の都市スラバヤは、ジャカルタとは違ってきれいな街、という評判があります。たしかに街を歩くとそう感じます。でも、それは、今のリスマ市長が環境美化局長だったときから予算を十分にとり、朝も夜も、頻繁に市政府が人員を配して清掃活動を行なっているからなのです。市民のゴミに対する意識が他よりも進んでいるからではないのが残念です。先はまだ長いと言わざるをえません。
ジャカルタお掃除クラブの活動は、市民の意識改革を目指しています。設立者である芦田氏は大事な友人ですが、彼の活動にエールを送りつつ、お掃除クラブが必要でない世の中になることがお掃除クラブの最終目標だよね、とずっと言い続けてきました。
5年経って、意識改革へ向けたその活動は、根っこをしっかり生やし始めたのだと感じています。そして、彼らの真摯な活動から、日本の我々自身が学ぶことも大きいのではないかと確信します。
ジャカルタお掃除クラブが日本を視察した際の活動を振り返るビデオ(インドネシア語版)が完成しました。以下のフェイスブックのサイトで予告編を見ることができます。
予告編
なお、日本語版全編をご覧になりたい方は、芦田氏(ts_ashida@yahoo.co.jp)までご連絡ください。DVDを無料でお送りするそうです(インドネシア国内のみかどうか、ご本人にご確認ください)。
首都ジャカルタの大きな目抜き通りは街路樹の緑に溢れ、色とりどりの花が咲き乱れています。広めの歩道も完備した大通りを通りながら、「インドネシアも発展したなあ」と感じた方々も多いことと思います。
でも、外国人があまり通らない裏通りに入った途端、様相は変わります。下水道の普及率が数%というインドネシアの大都市で、平気で川や側溝にゴミを捨てている人を見かけます。高級車の窓から道の真ん中に堂々とゴミを捨てる人を見たこともあります。
そんな姿を見ながら、一つの仮説を思いつきました。インドネシアと日本では、公園や道路のような「公共の場所」についての認識が違うのではないか、と思ったのです。
日本での「公共の場所」とは、みんなの場所。一方、インドネシアでの「公共の場所」とは、誰のものでもない場所。
みんなの場所だから、次に使う人のことを考えてきれいにするのでしょう。でも、誰のものでもない場所なら、きれいにしようと思うでしょうか。ゴミはそういうところへ捨てられるのではないでしょうか。
実際、インドネシアの低所得層の方々の住むところを訪れると、家の中や周りはみんなきれいにしています。でも、その集落の入口や他の集落との境、あるいは目の届かない隠れた場所は、ゴミでいっぱいです。
誰でも、自分のいるところ(自分のものであるところ)はきれいにしておきたいので、誰のものでもないところ(政府所有のものも含む)へゴミを捨てるように思うのです。
目に見えないところ、みんなのものとは見なさないところだったら、きっと日本でも、分からないようにゴミを捨てるのではないでしょうか。
そして、日本でもインドネシアでも、誰も見ていないときにゴミを捨てるのです。インドネシアでよく見るのは、誰も見ていないと思った人がポロリと路上へ、タバコの吸い殻などのゴミを(捨てるではなく)落とす光景です。たまたま、私がそれを見ていて、落ちたものを「落ちましたよ」と言って拾ってあげると、すごくバツが悪そうです。
みんなの場所の指す範囲や数が日本では広く、インドネシアでは狭いのかもしれません。
また、インドネシアのあるイベントでゴミを拾っていたら、「拾うな」と言われました。ゴミ拾いを職業としている人がいるので彼らの仕事を奪うな、というのです。そういう考え方の人は、きっと大多数なのだと思います。
++++++++++
このようななかで、ジャカルタをきれいにしたいと思う人々が始めた「ジャカルタお掃除クラブ」の活動が、様々な紆余曲折を経て、5年目を迎えました。
「インドネシア=日本の新たなパートナーシップ」セミナー」
(2015年1月28日)に登場したジャカルタお掃除クラブの面々
でも、5年の間に、いろいろな変化が起こり始めました。まず、日本人だけで始めた活動が今ではインドネシア人が中心の活動へ変わり、参加者も徐々に増えてきています。ジャカルタだけだったのが、スラバヤ、メダン、バニュワンギなどの他都市へ広がり始めました。そして、別の名前のグループが、同様の活動を始めました。
形だけかもしれませんが、可燃ゴミと不燃ゴミとを分けたゴミ箱がジャカルタなどで一般的に見られるようになりました。「ゴミ箱はどこにあるのか」と聞かれることが多くなりました。地方都市などでは、地方政府がリサイクル・ゴミを収集して業者へ売るゴミ銀行の運営にかかわり、住民に「ゴミはお金になる」という意識を植えつけ始めました。
インドネシア第2の都市スラバヤは、ジャカルタとは違ってきれいな街、という評判があります。たしかに街を歩くとそう感じます。でも、それは、今のリスマ市長が環境美化局長だったときから予算を十分にとり、朝も夜も、頻繁に市政府が人員を配して清掃活動を行なっているからなのです。市民のゴミに対する意識が他よりも進んでいるからではないのが残念です。先はまだ長いと言わざるをえません。
ジャカルタお掃除クラブの活動は、市民の意識改革を目指しています。設立者である芦田氏は大事な友人ですが、彼の活動にエールを送りつつ、お掃除クラブが必要でない世の中になることがお掃除クラブの最終目標だよね、とずっと言い続けてきました。
5年経って、意識改革へ向けたその活動は、根っこをしっかり生やし始めたのだと感じています。そして、彼らの真摯な活動から、日本の我々自身が学ぶことも大きいのではないかと確信します。
ジャカルタお掃除クラブが日本を視察した際の活動を振り返るビデオ(インドネシア語版)が完成しました。以下のフェイスブックのサイトで予告編を見ることができます。
予告編
なお、日本語版全編をご覧になりたい方は、芦田氏(ts_ashida@yahoo.co.jp)までご連絡ください。DVDを無料でお送りするそうです(インドネシア国内のみかどうか、ご本人にご確認ください)。
2016年9月16日金曜日
本邦研修が無事終了
JICA案件で、インドネシアの地方政府からの参加者を招いて行ってきた本邦研修が昨日、無事に終了しました。
この案件は、インドネシアの地方政府と日本の地方自治体とが農業・畜産業分野で連携できるかどうかをサーベイすることを目的にしています。
9月11〜13日は福島市を訪問しました。福島市民家園では、福島で盛んだった養蚕業が実は6次産業(1次+2次+3次)だったことを改めて確認できました。
福島市役所では、急遽、小林香・福島市長を表敬することができ、インドネシアからの参加者はとても感激した様子でした。
JAふくしま未来では、直売所、資材センター、JAバンク支店、共選場などを見学し、インドネシアと日本の農業協同組合の違いなどを学びました。
最後に訪れたあづま農園では、福島のリンゴとインドネシア(バトゥ)のリンゴとの違いを比較するとともに、農業者による観光農園の運営の様子を学びました。
研修の合間には、飯坂の旧堀切邸で足湯も堪能。
親切で優しい福島の人々と触れ合って、福島の印象がとても良いものになりました。宿泊したホテルでは、インドネシア人の女性従業員と会い、楽しそうにインドネシア語で話が弾んでいました。
最後の夜は、東京・目黒のインドネシアレストラン「チャベ」で、久方ぶりにインドネシア料理を堪能し、とても嬉しそうでした。
ともかく、1週間にわたった本邦研修は無事に終了。でも早速、週末までに仕上げなければならない急な仕事が入り、ゆっくり休む気分になれないままです。
この案件は、インドネシアの地方政府と日本の地方自治体とが農業・畜産業分野で連携できるかどうかをサーベイすることを目的にしています。
9月11〜13日は福島市を訪問しました。福島市民家園では、福島で盛んだった養蚕業が実は6次産業(1次+2次+3次)だったことを改めて確認できました。
福島市役所では、急遽、小林香・福島市長を表敬することができ、インドネシアからの参加者はとても感激した様子でした。
JAふくしま未来では、直売所、資材センター、JAバンク支店、共選場などを見学し、インドネシアと日本の農業協同組合の違いなどを学びました。
最後に訪れたあづま農園では、福島のリンゴとインドネシア(バトゥ)のリンゴとの違いを比較するとともに、農業者による観光農園の運営の様子を学びました。
研修の合間には、飯坂の旧堀切邸で足湯も堪能。
親切で優しい福島の人々と触れ合って、福島の印象がとても良いものになりました。宿泊したホテルでは、インドネシア人の女性従業員と会い、楽しそうにインドネシア語で話が弾んでいました。
最後の夜は、東京・目黒のインドネシアレストラン「チャベ」で、久方ぶりにインドネシア料理を堪能し、とても嬉しそうでした。
ともかく、1週間にわたった本邦研修は無事に終了。でも早速、週末までに仕上げなければならない急な仕事が入り、ゆっくり休む気分になれないままです。
2016年9月11日日曜日
13年ぶりに馬路村を訪ねて思ったこと
9月8日から、本邦研修の一環として、インドネシアから招聘した地方政府の役人の方々と一緒に、高知県に来ています。
9月8日は、高知龍馬空港に着いてすぐ、馬路村へ向かいました。私自身、馬路村を訪れるのは、2003年以来、13年ぶりのことでした。
当時、2004年にJICA短期専門家として、日本の地域おこしの事例をインドネシアで紹介するために、馬路村を訪れ、馬路村農協でヒアリングを行い、馬路温泉に1泊しました。ゆず関連商品を2万円ほど買い込み、それをかついで、インドネシアのポンティアナク、マカッサル、メダン、ジャカルタでのJICAセミナーで、馬路村の話をしたのでした。
農地に恵まれない馬路村は、1970年代に主要産業の林業が衰退し、米も野菜もほとんど生産できない状況の中で、地域資源として活用できそうなのは自生のゆずしかなく、ゆずの加工に村の将来を賭ける選択をしたのでした。自生のゆずは不格好で商品価値を見出せないものでしたが、見方を変えれば、無農薬で化学肥料も使っておらず、加工原料として安心安全のものでした。マイナスをプラスに変える発想の転換で、馬路村はゆずの加工を進め、多種多様な加工品を作り上げていきました。
人口わずか1200人の山村がどうやって地域おこしを進めていったのか。馬路村の話は、日本でも、インドネシアでも、多くの村々に希望と勇気を与えるものでした。
今回、13年ぶりに訪問した馬路村は、さらなる発展を遂げていました。前回、1箇所だったゆずの加工工場は5箇所に増え、そのうちの1つは見学コースも備えた立派な施設となっていました。営林署の跡地は「ゆずの森」と呼ばれる素敵な森として整備されていました。13年前、始まったばかりのパン屋はまだあり、より素敵な店になっていました。
しかし、13年経って、村の人口は930人に減っていました。人口は減っているのに、馬路村農協の生産規模・多角化はさらに進んだ様子で、機械化はもちろんのこと、村外からの労働力の受け入れも必要な状態になっているようでした。
馬路村のゆずグッズのファンは日本中に広がり、その評判は揺るぎないものとなっています。その一方で、馬路村がブランド化され、そのファンが増え、需要が拡大すると、馬路村農協の生産体制は、それへの対応を益々進めなければならなくなっているように見えました。村の人口減の中で、機械化を究極まで高め、従業員の生産性も上げていかなければならない、効率性をもっと追求しなければならない・・・。
そんなことを思いながら、ちょっと無理をしているのではないか、と思ってしまいました。通りすがりのよそ者の無責任な感想にすぎないですし、懸命に活動されている方々を決して批判するつもりはないのですが、そんなことを思ってしまったのです。そして、馬路村にそれを強いているのは、マーケットであり、我々消費者の行動なのではないか、と思うに至りました。
村の人口が減り、村の生き残りをかけて、市場需要に呼応して懸命に生産をしているうちに、自分たちのできる能力の限界にまで至ってしまってはいないか。市場の圧力は、それでもまだ馬路村に生産増を強いていくのではないかと危惧します。
「日本全国の心のふるさと」になろうとしてきた馬路村の人々が、市場からのプレッシャーでストレスを感じ、生活の幸福感を味わえないようになってしまったら、やはりまずいのではないか。ワーク・ライフ・バランスは、人間だけでなく、地域にも当てはまるのではないか。
地域おこしの成功事例として取り上げられてきたからこそ、その潮流からはずれてしまうことへの恐怖もあるかもしれません。でも、大好きな馬路村には、あまり頑張り過ぎて欲しくはありません。
村のキャパシティに見合った適正な規模で、市場に踊らされることなく、持続性を最大限に重視しながら、人々が幸せを感じられる悠々とした経済活動を主体的に行っていってほしいのです。
こんなことを言っても、それは、通りすがりのよそ者の、馬路村の現実をおそらく踏まえていない、勝手な感想に過ぎません。何か誤ったことを述べてしまったとすれば、深くお詫び申し上げます。
9月8日は、高知龍馬空港に着いてすぐ、馬路村へ向かいました。私自身、馬路村を訪れるのは、2003年以来、13年ぶりのことでした。
当時、2004年にJICA短期専門家として、日本の地域おこしの事例をインドネシアで紹介するために、馬路村を訪れ、馬路村農協でヒアリングを行い、馬路温泉に1泊しました。ゆず関連商品を2万円ほど買い込み、それをかついで、インドネシアのポンティアナク、マカッサル、メダン、ジャカルタでのJICAセミナーで、馬路村の話をしたのでした。
農地に恵まれない馬路村は、1970年代に主要産業の林業が衰退し、米も野菜もほとんど生産できない状況の中で、地域資源として活用できそうなのは自生のゆずしかなく、ゆずの加工に村の将来を賭ける選択をしたのでした。自生のゆずは不格好で商品価値を見出せないものでしたが、見方を変えれば、無農薬で化学肥料も使っておらず、加工原料として安心安全のものでした。マイナスをプラスに変える発想の転換で、馬路村はゆずの加工を進め、多種多様な加工品を作り上げていきました。
人口わずか1200人の山村がどうやって地域おこしを進めていったのか。馬路村の話は、日本でも、インドネシアでも、多くの村々に希望と勇気を与えるものでした。
今回、13年ぶりに訪問した馬路村は、さらなる発展を遂げていました。前回、1箇所だったゆずの加工工場は5箇所に増え、そのうちの1つは見学コースも備えた立派な施設となっていました。営林署の跡地は「ゆずの森」と呼ばれる素敵な森として整備されていました。13年前、始まったばかりのパン屋はまだあり、より素敵な店になっていました。
しかし、13年経って、村の人口は930人に減っていました。人口は減っているのに、馬路村農協の生産規模・多角化はさらに進んだ様子で、機械化はもちろんのこと、村外からの労働力の受け入れも必要な状態になっているようでした。
馬路村のゆずグッズのファンは日本中に広がり、その評判は揺るぎないものとなっています。その一方で、馬路村がブランド化され、そのファンが増え、需要が拡大すると、馬路村農協の生産体制は、それへの対応を益々進めなければならなくなっているように見えました。村の人口減の中で、機械化を究極まで高め、従業員の生産性も上げていかなければならない、効率性をもっと追求しなければならない・・・。
そんなことを思いながら、ちょっと無理をしているのではないか、と思ってしまいました。通りすがりのよそ者の無責任な感想にすぎないですし、懸命に活動されている方々を決して批判するつもりはないのですが、そんなことを思ってしまったのです。そして、馬路村にそれを強いているのは、マーケットであり、我々消費者の行動なのではないか、と思うに至りました。
村の人口が減り、村の生き残りをかけて、市場需要に呼応して懸命に生産をしているうちに、自分たちのできる能力の限界にまで至ってしまってはいないか。市場の圧力は、それでもまだ馬路村に生産増を強いていくのではないかと危惧します。
「日本全国の心のふるさと」になろうとしてきた馬路村の人々が、市場からのプレッシャーでストレスを感じ、生活の幸福感を味わえないようになってしまったら、やはりまずいのではないか。ワーク・ライフ・バランスは、人間だけでなく、地域にも当てはまるのではないか。
地域おこしの成功事例として取り上げられてきたからこそ、その潮流からはずれてしまうことへの恐怖もあるかもしれません。でも、大好きな馬路村には、あまり頑張り過ぎて欲しくはありません。
村のキャパシティに見合った適正な規模で、市場に踊らされることなく、持続性を最大限に重視しながら、人々が幸せを感じられる悠々とした経済活動を主体的に行っていってほしいのです。
こんなことを言っても、それは、通りすがりのよそ者の、馬路村の現実をおそらく踏まえていない、勝手な感想に過ぎません。何か誤ったことを述べてしまったとすれば、深くお詫び申し上げます。
2016年9月6日火曜日
自分の知らない東京
東京に住みながら、これまで見たことのなかった東京に出会うと、なんだかとても嬉しい気持ちになります。
昨日の夕方、夕暮れに向かう赤坂で、ふと見上げたときの一枚。
工事現場の2台のクレーンの間の青空と雲。秋の気配を感じるような、雲の形と流れ。きっと、あと1年もすると、ここには大きなビルが建てられ、こんな光景は見られなくなることでしょう。
ちょうど、「土木展」を観たあとだったせいか、珍しく、ちょっと無機質な写真を撮りたくなったのでした。
続いて、夜。
ふと、勝どき橋へ向かって、隅田川沿いを歩いてみました。
スマホ写真なので、ボケてしまいましたが、東京タワーを臨み、その手前に築地市場。築地市場は隅田川沿いに立地しているのだ、と改めて納得し、でも、今や隅田川を通しての水産物のやり取りはないのだなあ、とふと思いました。
勝どき橋には緑色の装飾がありました。
海からの風に吹かれながら、勝どき橋から南のほうへ歩いて行くと、もう一つ橋がかかっています。でも、暗いままで、何も明かりが点いていません。この橋を渡って、新橋のほうへ行けるのだろうか。と思って、近づいてみると。
なるほど、今、築地市場移転問題で話題になっている、例の橋でした。工事は11月30日まで、と書かれています。もちろん、渡れないので、勝どき橋へ戻りました。
この橋の向かって左側にも築地市場の一部があります。そう、この橋が築地市場の中を突き抜いている形になっています。なるほどね。
築地市場移転問題は、まだしばらく紆余曲折ありそうですが、結局は、新たな打開策なく、世論の関心が落ち着いた頃を見計らって、収まってしまうシナリオでしょうか。
それはそうとしても、東京タワーを背に、隅田川の反対側から見る築地市場の風景は、なかなか絵になるような気がしました。
昨日の夕方、夕暮れに向かう赤坂で、ふと見上げたときの一枚。
工事現場の2台のクレーンの間の青空と雲。秋の気配を感じるような、雲の形と流れ。きっと、あと1年もすると、ここには大きなビルが建てられ、こんな光景は見られなくなることでしょう。
ちょうど、「土木展」を観たあとだったせいか、珍しく、ちょっと無機質な写真を撮りたくなったのでした。
続いて、夜。
ふと、勝どき橋へ向かって、隅田川沿いを歩いてみました。
スマホ写真なので、ボケてしまいましたが、東京タワーを臨み、その手前に築地市場。築地市場は隅田川沿いに立地しているのだ、と改めて納得し、でも、今や隅田川を通しての水産物のやり取りはないのだなあ、とふと思いました。
勝どき橋には緑色の装飾がありました。
海からの風に吹かれながら、勝どき橋から南のほうへ歩いて行くと、もう一つ橋がかかっています。でも、暗いままで、何も明かりが点いていません。この橋を渡って、新橋のほうへ行けるのだろうか。と思って、近づいてみると。
なるほど、今、築地市場移転問題で話題になっている、例の橋でした。工事は11月30日まで、と書かれています。もちろん、渡れないので、勝どき橋へ戻りました。
この橋の向かって左側にも築地市場の一部があります。そう、この橋が築地市場の中を突き抜いている形になっています。なるほどね。
築地市場移転問題は、まだしばらく紆余曲折ありそうですが、結局は、新たな打開策なく、世論の関心が落ち着いた頃を見計らって、収まってしまうシナリオでしょうか。
それはそうとしても、東京タワーを背に、隅田川の反対側から見る築地市場の風景は、なかなか絵になるような気がしました。
2016年9月4日日曜日
サゴやしデンプンのつくり方
昨日のブログで取り上げたサゴやしデンプンですが、いったい、どんな風に作られるのでしょうか。1999年8月、インドネシアの北スラウェシ州にあるサンギル島に行ったときの写真がありますので、それで簡単に紹介してみます。
まず、サゴやしの木を切り、細く繊維状にします。
繊維状に切ったものは下のような形状をしています。
ここから必要量を取り出します。
サゴやしデンプンを作る作業所は下のようなものです。
樋(とい)には水が流れています。
そこへ、細かく切ったサゴやしの繊維を入れます。
サゴやしの繊維がさらされた水は、白く濁って、樋(とい)を流れていきます。
樋(とい)の底に沈殿した白いもの、それがサゴやしデンプンです。後は、これを乾燥させれば終わり、なのでしょう。
これらの写真は、今から17年前のものですが、おそらく、村では、今もこんな風にしてサゴやしデンプンを作っているのではないかと思います。
昨日のブログで紹介した、最初のサゴやしデンプン(アルファマートで売られていたもの)は、実は、私の友人の友人が関わって製造しているものであることが、フェイスブックを通じて分かりました。おそらく、上の写真よりも近代的な方法で製造していることでしょう。
インドネシアのサゴやしのほぼすべては、栽培ではなく、自然に生えてきたものです。しかし、サゴやしを食べる人々は「遅れている」「未開だ」とみなされたり、あるいはそう自分で思い込んだりして、だんだん食べなくなり、代わって、米を食べるようになっていきました。
緑の革命以前のインドネシアでの主食に占める米の比率は半分ぐらいだったのですが、今ではその比率が95%に達しています。米を食べることは、近代化の象徴とも捉えられていたのかもしれません。
しかし、先のアルファマートで売られているサゴやしデンプンを製造する私の友人の友人たちのように、地域資源としての地元の伝統食の良さを見直し、もう一度、体に良いものを自分たちの食生活の中に生かしたいと動き始めた人々もいます。彼らは、日本のO教授らと一緒に、インドネシアでのサゴやし栽培の可能性をも追及しています。
17年前にサンギル島へ行ったときは、お土産にどっさりサゴやしデンプンをもらい、当時住んでいたマカッサルまで持ち帰りました。サンギル島のサゴやしデンプンは、南スラウェシ州パロポのそれよりも目が細かく、品質が良いという話で、わが家分を取り置いた後、サゴやしデンプンでお菓子を作りたいという友人たちに小分けしました。
まず、サゴやしの木を切り、細く繊維状にします。
繊維状に切ったものは下のような形状をしています。
ここから必要量を取り出します。
サゴやしデンプンを作る作業所は下のようなものです。
樋(とい)には水が流れています。
そこへ、細かく切ったサゴやしの繊維を入れます。
樋(とい)の底に沈殿した白いもの、それがサゴやしデンプンです。後は、これを乾燥させれば終わり、なのでしょう。
これらの写真は、今から17年前のものですが、おそらく、村では、今もこんな風にしてサゴやしデンプンを作っているのではないかと思います。
昨日のブログで紹介した、最初のサゴやしデンプン(アルファマートで売られていたもの)は、実は、私の友人の友人が関わって製造しているものであることが、フェイスブックを通じて分かりました。おそらく、上の写真よりも近代的な方法で製造していることでしょう。
インドネシアのサゴやしのほぼすべては、栽培ではなく、自然に生えてきたものです。しかし、サゴやしを食べる人々は「遅れている」「未開だ」とみなされたり、あるいはそう自分で思い込んだりして、だんだん食べなくなり、代わって、米を食べるようになっていきました。
緑の革命以前のインドネシアでの主食に占める米の比率は半分ぐらいだったのですが、今ではその比率が95%に達しています。米を食べることは、近代化の象徴とも捉えられていたのかもしれません。
しかし、先のアルファマートで売られているサゴやしデンプンを製造する私の友人の友人たちのように、地域資源としての地元の伝統食の良さを見直し、もう一度、体に良いものを自分たちの食生活の中に生かしたいと動き始めた人々もいます。彼らは、日本のO教授らと一緒に、インドネシアでのサゴやし栽培の可能性をも追及しています。
17年前にサンギル島へ行ったときは、お土産にどっさりサゴやしデンプンをもらい、当時住んでいたマカッサルまで持ち帰りました。サンギル島のサゴやしデンプンは、南スラウェシ州パロポのそれよりも目が細かく、品質が良いという話で、わが家分を取り置いた後、サゴやしデンプンでお菓子を作りたいという友人たちに小分けしました。
2016年9月3日土曜日
サゴやしデンプンがコンビニで売られる時代
先週のカカオツアーで、インドネシアの西スラウェシ州ポレワリのコンビニに行ったら、サゴやしデンプンが売られていました。
まず、アルファマートで売られていたのがこれです。
製造元は、南スラウェシ州パロポ市にある業者。パロポといえば、サゴやしデンプンを使った料理や菓子の開発が盛んなところです。
次は、インドマレで売られていたもの。
こちらは、製造元がジャカルタの業者です。サゴやしデンプンを「茨粉」と中国語で書くのを初めて知りました。
ちなみに、1999年8月に、北スラウェシ州のサンギル島の市場で見たときは、サゴ椰子デンプンはこんな感じで売られていました。今も、一般の市場では、このように売られています。
サゴやしデンプンがコンビニで売られる時代になったのだなと感心するとともに、近代化の中で、廃れるのではないかと思っていたサゴやしデンプンが、こうして近代的なコンビニの中に入り込んでいるということを興味深く思いました。
なぜなら、(とくに東インドネシア地域の)多くの人々が、「サゴやしデンプンを食べているのは未開だ、遅れている」と思い込んで、サゴやしデンプンを食べるのを止め、緑の革命で増産した米を食べるようになっていったからです。
小麦粉や片栗粉のように、手軽に買えるサゴやしデンプンを使うことで、健康食材であるサゴやしデンプンがもっと注目されてもいいのではないかと思いました。
参考までに、過去の私のブログで、サゴ椰子デンプンについて書いた主なもののリンクを貼っておきます。お時間のあるときにでも、ご笑覧ください。
マサンバのバゲアは一味違う(2008年10月29日)
レバランでおいしいもの(2008年10月3日)
パペダとクラディ(2007年12月12日)
ジャヤプラの味「パペダ」(2007年6月16日)
まず、アルファマートで売られていたのがこれです。
製造元は、南スラウェシ州パロポ市にある業者。パロポといえば、サゴやしデンプンを使った料理や菓子の開発が盛んなところです。
次は、インドマレで売られていたもの。
こちらは、製造元がジャカルタの業者です。サゴやしデンプンを「茨粉」と中国語で書くのを初めて知りました。
ちなみに、1999年8月に、北スラウェシ州のサンギル島の市場で見たときは、サゴ椰子デンプンはこんな感じで売られていました。今も、一般の市場では、このように売られています。
サゴやしデンプンがコンビニで売られる時代になったのだなと感心するとともに、近代化の中で、廃れるのではないかと思っていたサゴやしデンプンが、こうして近代的なコンビニの中に入り込んでいるということを興味深く思いました。
なぜなら、(とくに東インドネシア地域の)多くの人々が、「サゴやしデンプンを食べているのは未開だ、遅れている」と思い込んで、サゴやしデンプンを食べるのを止め、緑の革命で増産した米を食べるようになっていったからです。
小麦粉や片栗粉のように、手軽に買えるサゴやしデンプンを使うことで、健康食材であるサゴやしデンプンがもっと注目されてもいいのではないかと思いました。
参考までに、過去の私のブログで、サゴ椰子デンプンについて書いた主なもののリンクを貼っておきます。お時間のあるときにでも、ご笑覧ください。
マサンバのバゲアは一味違う(2008年10月29日)
レバランでおいしいもの(2008年10月3日)
パペダとクラディ(2007年12月12日)
ジャヤプラの味「パペダ」(2007年6月16日)
2016年9月1日木曜日
ポレワリで出会ったこんなモノ
今回のカカオツアー中、滞在先のインドネシア、西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県で、こんなモノに出会いました。
ポレワリ・マンダール県のウォノムルヨ市場で見たのですが、頭の上にリボンの付いたヒジャブが2体並んでいます。
リボン付きを見たのは初めてで、しかも、右のはキティちゃん(偽物?)の柄です。
「見てるんじゃないわよ!」とでも言いたげな眉毛のマネキンさんも、ちょっとした迫力です。
リボン付きのヒジャブを身につけた女性をまだ見たことはありません。もし、街中で見かけた方がいらしたら、私にもお知らせください。
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