2020年6月30日火曜日

国が民を優劣で選別するのは憲法違反



民主主義を標榜する国家が国民を優劣で選別する。日本は、そんな国家だった。そして、もしかすると、今もそんな国家なのかもしれない。

戦後日本に、優生保護法という法律が存在した。優生保護法とは、優生学的断種手術、中絶、避妊を合法化した法律で、1948年から1996年まで存在した。制定の背景には、戦後の治安組織の喪失・混乱や復員による過剰人口問題、強姦による望まぬ妊娠の問題があったという。

そのなかには、不良な子孫の出生防止にかかわる条項というものがあり、1996年に優生保護法が廃止されるまで存在した。

今日(6/30)、かつて、不良ということで、本人の知らぬ間に断種手術を受けた男性らが国を相手に訴えた裁判の判決が東京地裁であった。東京地裁は、旧優生保護法下の強制的な手術について違憲性を指摘したものの、不法行為である手術から20年以上経過して民法上の賠償請求権が時効になっているとして、国への賠償請求を退けた。

原告の当該男性はすでに70代となり、人生の大半を不遇なままに暮らさざるを得なかった。国家によって「不良国民」と烙印を押され、本人の同意なしに手術を施された彼のこれまでの人生と人権は、取り戻せなかった。

いつの時代の話だろうか。民主主義国家である日本という豊かな先進国が、納得できる基準も明確でないまま、あたかも本人を騙したかのように、個人の体に介入した事実。

国は、320万円という賠償金に相当する金額を支払ったとして終わりにしているようだが、賠償には応じていない。カネを払ったからといって、一国民の人生を勝手に奪った事実は消えない。同様にハンセン病患者や知的障害者なども手術を受けさせられていた。民主主義国家・日本の真っ黒い歴史である。

旧優生保護法の下、国民を選別し、国にとって好ましくない人間の人生を奪うことがつい25年前まで法的に認められていたが、それは過去のものとなっているだろうか。というのは、国、というか、国を司る自分たちのような選ばれし者とは違う下々の者、国にとってはどうでもいい存在の者、という選民思想を折に触れて感じるからだ。

役に立つか立たないか。生産性が高いか低いか。能力があるかないか。国を司る選ばれし者と思っている者たちの口からそんな言葉が飛び出し、そうした空気が日本中を覆いつくしている。

そして、弱い立場の者、恵まれない境遇の者、失敗してしまった者、それらは、自分の能力不足による結果である、という自己責任論が支配的になり、その結果、不遇な者たちは「自分がダメだから」と自分自身を責める。国も社会も誰も自分を守ってくれない。自分を励ましてくれない。でも、きっと、それは自分が悪いからなのだ。自分に非があるからなのだ。そして、生きる意味を見い出せず、自分自身の存在を否定する行為にすら至らしめる。

国が悪い。社会が悪い。自分以外の何者かのせいにしたい、という気持ちが、社会に対する過激な破壊行動を招くこともあり得る。インドネシアではまだそんな空気が消えていない。しかし、日本では、そうした行為をすべきではない、社会秩序を乱してはいけない、という意識が支配的である。というよりも、不遇なのは自分だけではないのに、自分だけ誰かのせいにしてはいけない、という気持ちが自分を自省させる面がある。

不遇なのは自分ではないと分かっているのに、不遇な他者と連帯して抗議活動を行う、ということにはなっていかない。自分たちもそんな社会にした一員であり、自分のことは自分で解決しなければならない、と思ってしまうからだ。

従順な子羊。国を司る選ばれし者にとっては、実に容易に飼いならすことができる存在だ。だって、何につけても、子羊たちは自己責任、自分が悪いと思ってくれているから。

国が民を優劣で選別する根っこは、学校教育にあると思う。試験でいい成績を取り、先生に気に入られ、いい学校に入り、エリートコースに乗れた者は、優秀な者、選ばれし者と自認していく。他方、そのルートから外れた者は、ダメな者、劣った者、役に立たない者、生産性のない者、と自他ともにレッテルを貼り、うまくいかなかったのは自分のせいだと刷り込まれていく。

旧優生保護法は廃止されても、国が民の優劣を選別する状況は、何も変わっていないのではないか。役に立つとは誰の何に役に立つことなのか。人間にとっての生産性とはいったい何を意味するのか。

コロナ禍で、多くの人々は、自分の家族のために、他者に感染させるような可能性をできる限り抑制するために、自発的に自粛行動を採ったのだと思う。国を司る選ばれし者は、自分の言うことに下々の者が従ったなどと勘違いしないでほしい。そのおかげで余計な財政負担をせずに済んだと喜ばないでほしい。下々の者に対して「自己責任」という魔法をかけ続ければいいのだ、とうそぶかないでほしい。

その根っこにあるのは、不良というレッテルを貼って個人の人生を奪った優性学的思想、自分のような選ばれし者とダメな者を区別する選民意識に他ならない。

思いやりには、上から下への目線、恵まれた者から不遇な者へという意識を感じることが多い。そして、逆に、不遇な者から恵まれた者に対しても、思いやりを受けて当然という雰囲気を感じることがある。そこに決定的に欠けているのは、両者の間での誠意と信頼である。思いやりが双方向にならない。人間と人間としての関係にならない。恵まれた者は施したふりをし、不遇な者は施しをもらうのが当然、ととてもドライな関係になっている。

地球温暖化が世界的な課題となっているが、日本には、誠意と信頼を回復させる心の温暖化が緊要なのだと感じている。自分でできるところから始めていく。そんな人があちこちで少しずつ増えていって、自分の周りを温かくし、社会を温かくしていくしかない。そして、恵まれた者たちが不遇な者たちとの誠意と信頼に基づいた関係をつくるために能動的に動くことが必要だろう。

国から一方的に不良というレッテルを貼られ、本人の知らぬ間に手術を受けた方々を思いつつ、下々の者の一人として、とりとめもなく書いてしまった。



2020年6月27日土曜日

「よりどりインドネシア」月例オフ会(6/27)開催報告



初めての試みとして、6月27日(土)日本時間午後2時から、情報ウェブマガジン「よりどりインドネシア」の購読者を対象としたオンラインでのオフ会を開催し、無事に終了しました。

15名から申し込みがあり、13名が参加しました。まず、私からオフ会の趣旨説明をした後、参加者の自己紹介を行いました。今回の13名のうち、インドネシア在住者が8名、日本在住者が5名でした。13名のなかに「よりどりインドネシア」の執筆者が3名含まれます。

参加者のお一人からご提供いただいた写真(鮮明度を落としています)

参加者の興味は、歴史、芸能、ビジネス、バティック、社会福祉など様々で、各自の自己紹介の後に参加者どうしでの質問コーナーを設けたのですが、これがけっこう盛り上がりました。

ひととおり自己紹介セッションが終わり、質問コーナーの話題が新型コロナウィルスの話になっていったので、「インドネシアと日本における新型コロナと人々の暮らし」という内容で私から話題提供し、参加者間で自由に話し合いをしてもらいました。

たとえば、新型コロナに対する人々の対応のゆるさや日常生活を大事にする姿勢、様々な感染症の存在・流行するインドネシアでの新型コロナの位置づけが必ずしも日本のように特別視されていない様子、それが故の日本のような新型コロナ感染に関係した差別がインドネシアではあまり目立たない可能性、など、色々興味深い話が出ました。

13名の参加者だったせいか、参加者全員がゆったりと対話し合える環境を作ることができ、途中で対話を止める必要もありませんでした。

やはり、こうした対話の機会を通じて、様々な新しいアイディアや考え、示唆や気づきが生まれてくるものだと改めて感じました。

そして最後に、今後のオフ会等の運営について、意見を出し合いました。今のところ、次のような形で進めていこうということになりました。
  • 「よりどりインドネシア」月例オフ会は、原則として、毎月最終土曜日の日本時間午後3~5時にオンライン開催する。対象は「よりどりインドネシア」購読者とする。
  • 月例オフ会とは別に、1~2ヵ月に1回程度、一般向けを対象とする「よりどりインドネシア」特別講座(仮称)をオンライン開催。毎回、テーマを設定する。
  • 特別講座(仮称)は、テーマによっては、日本人だけでなく、日本人とインドネシア人とを一緒にしたバイリンガルでの開催を検討する。
基本的に、上記の月例オフ会・特別講座(仮称)のオンライン開催は無料で行いたいと思いますが、特殊でセンシティブな内容の場合には、有料での開催も検討可能かと思います。

ということで、次回の「よりどりインドネシア」月例オフ会は、購読者を対象に、2020年7月25日(土)午後3~5時での開催を予定いたします。

また、7月中に第1回の「よりどりインドネシア」特別講座の開催を予定しています。詳細が決まりましたら、皆様にお知らせいたします。

本日の「よりどりインドネシア」月例オフ会にご参加いただいたYY様、MO様、KW様、KF様、YT様、TT様、HT様、ST様、RO様、TH様、NF様、YY様、SN様、誠にありがとうございました。引き続き、よろしくお願いいたします。


2020年6月25日木曜日

3年目最後の「よりどりインドネシア」第72号発行、執筆者を大募集中



6月22日に発行した「よりどりインドネシア」第72号は、最初に発行してから3年目の最終版です。今回は、原稿5本、全44ページと盛りだくさんの内容になりました。
第72号の内容は以下のとおりです。

●新型コロナをめぐるマカッサルの3事件(松井和久)
住民が迅速抗体検査を拒否、病院から感染を疑われる患者を持ち逃げ、陽性となった妊婦の胎児は死亡。マカッサルで起きた3事件を松井がお伝えします。

●ウォノソボライフ(30):仕立屋さんに起こったこと(神道有子)
ウォノソボの仕立て屋さんがバズったのはなぜか。それとシラミ取りとの関係は?。連載中の神道さんが解説します。

●ジャワの羽衣伝説 – “Babad Tanah Jawi”より–(その1)(太田りべか)
太田さんは、ジャワの古典から羽衣伝説を取り上げ、羽衣伝説とジャワの王朝との意外な興味深い関係を推理します。

●ラサ・サヤン(6):中村兵(石川礼子)
モロタイ島で発見された中村輝夫という元「日本兵」は台湾へ戻りました。彼のことをもっと知ってもらいたいという石川さんの思いがこもった一作です。

●いんどねしあ風土記(18):ヌサンタラ・コーヒー物語(前編)〜コーヒールネッサンス~(横山裕一)
横山さんの連載は、満を持してのコーヒー物語の前編です。大のコーヒー好きの横山さんの心のこもったエッセイを堪能してください。 

第72号のカバー写真は、ジャカルタの街中で野菜を売り歩く行商人のおじさん

もともと、「よりどりインドネシア」は様々ないくつものインドネシアを描き、伝えることを目的としてきたので、できるだけ様々な執筆者に自由に書いていただく媒体とすることを目指してきました。

これまで、主宰者の私は必ず最低1本は書くように努め、それを実行してきましたが、常に2週間おきに何か書ける、というわけではありませんでした。ときには、材料が決まらず、発行日ギリギリ、あるいは1~2日送らせてなんとか書く、ということもありました。論文と違って、査読や読み直しなどの手間ひまをかけていない分、原稿のできはデコボコでしたが、とにかく書かなければいけないというプレッシャーがありました。

今回は私以外の原稿で4本となり、そろそろ、私が何も書かない号が出てもいいのかなと思う反面、私が次は何を書くかを楽しみにしてくださっている方もいるので、書かなくてもいいか、やっぱり書くか、個人的にちょっと悩ましいところではあります。

というわけで、今も、執筆者を大募集しています。毎号とか毎月とか決めて書いていただいてもいいですし、不定期に気の向いたときに書いていただいてもかまいません。一般の方々向けなので、論文ではなくエッセイ調で分かりやすく、できれば写真や絵を添えていただければ、と思います。

写真だけ、というのもOKです。写真エッセイのようなこともしてみたいです。

もちろん、執筆していただいた方には、薄謝ですが、原稿料をお支払いいたします。執筆者には本誌の購読会員になっていただきますが、1年間に3~4本書いていただければ、購読料の元が取れる格好になります。

皆さんも、自分のインドネシアを「よりどり」に執筆してみませんか。私も、編集人として原稿完成までのお手伝いをさせていただきます。

そして、購読者の皆さんどうしで、様々なインドネシアを共有して楽しみ、深め、広める場として、月例オフ会を企画しました。日本語のメディアや一般に言われているのとは同じようで違う、違うようで同じ、いくつものインドネシアをシェアできる場にしていきたいと思っています。

どうか、力を抜いて、ゆるーくお付き合いください。皆さんと「よりどりインドネシア」の誌上で、あるいはオフ会の場で、お会いできるのを楽しみにしております。


2020年6月23日火曜日

インドネシアで自転車に乗っていた



新型コロナウィルス感染拡大のなかで、混雑する電車やバスを避けて、自転車で通学・通勤する人が増えている、というような話を聞きます。世界中で、ちょっとした自転車ブームが起こっているとか、いないとか。

日本で自転車というと、すぐに思いつくのはママチャリでしょうか。電動のママチャリもよく見かけるようになりました。近所へお買い物に出かけるときなど、気軽に乗れる乗り物としてのママチャリが、一般的な日本で想定される自転車だと思います。

私も、福島での移動ではママチャリを愛用しています。東京では、27インチのややスポーツ系の自転車に乗っています。

スポーツ系といえば、昔、子供の頃は、方向指示器やフォグランプの付いたスポーツ系の自転車がよく売られていて、ああいうの欲しいなあと思ったものでした。

実は、インドネシアでも、マカッサルにいるときには自転車に乗っていました。日本の感覚で、買ったのはママチャリを少し進化させたややスポーツ系の軽快車。ギヤチェンジが3段階ぐらいのものでした(下写真)。


しばらく軽快車に乗った後、友人から「交換してほしい」といわれて、後輪に泥除けの付いていない白いスポーツ系の自転車に変わりました。

自転車に乗ってあちこち散歩するのが大好きなので、当時住んでいた、マカッサル市の東部(ハサヌディン大学そば)から街の中心部(海岸沿い)へ、約8キロぐらいの道を走ろうと向かったものでした。

ところが・・・。途中にペッテラーニ通りという、片側4車線の大きな道路を横断しなければなりません。インドネシアの大通りには、当時、横断歩道がほとんどなく、自動車は途中にある方向転換路でUターンする作りになっています。ここをどうやって横断するのか。

そう、決死の覚悟で横断しなければなりません。横断歩道も、自転車が通れる歩道橋もないので、交差点で自動車の流れが少なくなったのを見計らって、一気に横断するのです。

インドネシアでは当時、交差点で左折車は一旦停止せずに、信号が赤でも左折して良い決まりになっていたので、左折車の流れが止まらないと横断できないのです(止まってくれる左折車はまずありません)。場合によっては、一時、中央分離帯に沿って逆走せざるを得ないこともあります。

そうした決死の覚悟でペッテラーニ通りを横断し、海岸へ向かって進みますが、途中でも、4車線に5列にも6列にもなった車に追い立てられ、ペテペテと呼ばれる乗合には幅寄せされ、死ぬかと思ったことは数知れません。

こうしたことを繰り返しながら、改めて実感したのは、当時のマカッサルの街は、自転車で移動することを全く想定していない、ということでした。実際、私以外で、自転車で移動している人を見かけることはありませんでした。

あまりに危ないので、自転車に乗るのは、ペッテラーニ通りよりも東側、当時住んでいた家の周辺に限ることにしました。

ところが、毎週日曜日になると、歩行者天国になった海岸通りをたくさんの自転車が走るのです。健康志向が高まり、健康のために自転車に乗りましょう、と南スラウェシ州政府やマカッサル市政府の高官や軍・警察の幹部たちが集って、海岸通りをみんなで自転車で走ります。

そして、もう一つ分かったことがありました。それは、彼らの乗っている自転車です。いずれも高級なスポーツ系で、私の乗っていた自転車の値段の3~10倍ぐらいする自転車でした。そう、自転車に乗るというのは、庶民が健康増進のために乗るのではなく、一部エリートの道楽なのだ、ということでした。

普通の人は、自転車には乗らず、バイクか乗合に乗って移動するのです。ある友人によると、バイクを購入するには、50万ルピア程度の頭金さえ払えば、あとはローン払いにして、すぐ手に入ります。他方、自転車を購入するには、ローンはなくとも、100万ルピア払わなければなりません。庶民感覚的には、バイクを購入するほうが簡単な気がするのだといいます。

インドネシアでも、自転車専用レーンが設けられたり、自転車で移動できる歩道橋などが整備されて、私がペッテラーニ通りを決死の覚悟で横断した頃に比べれば、自転車に乗れる環境は格段に整備されてきました。

それでも、インドネシアの普通の人々からみれば、自転車は一部の金持ちの楽しみであり、日曜日のカーフリーデーで乗るもの、と眺めているような気がします。自転車を買うぐらいならばバイクを買えるわけですし・・・。

ちょっと前までの自転車は、中古のボロボロの自転車にヨレヨレの格好のおじいさんが乗っている、みすぼらしく、貧しい人々の乗り物、というイメージでした。そのイメージは、バイクが普及することで払拭され、バイクに乗ることが貧しさからの脱出のシンボルとイメージされました。

なお、ジャワ島の田舎では、日本と同じようなママチャリ型の自転車がけっこう普及していて、自転車自体は中国製のようなのですが、日本自転車(Speda Jepang)とよばれています(下写真)。


以上、インドネシアでの自転車は、日本や欧米での自転車とはちょっと違ったイメージで捉えられている可能性がある、というお話でした。


2020年6月21日日曜日

「よりどりインドネシア」月例オフ会(6/27)開催



私が主宰している情報ウェブマガジン「よりどりインドネシア」のオフ会の開催予告をしておりましたが、下記のとおり、開催することになりましたので、お知らせします。

 2020年6月27日(土):
 日本時間の午後2時~(出入自由で2時間ぐらいを想定)

オフ会は無料で、ZOOMにて開催します。すでに、10名以上の方から参加表明が来ています。参加ご希望の方々へは、ZOOMへのアクセスURLを後ほど送らせていただきます。

すでに、「よりどりインドネシア」に執筆いただいている複数の方々から参加表明をいただいております。内容については、第1回ということもあり、参加者の自己紹介の後、「インドネシアと日本で新型コロナウィルスと付き合う日々をどうおすごしですか」(仮題)と題して、新型コロナの日々をどう暮らしているか、インドネシアと日本とで何が同じで何が違っているか、日本がインドネシアから、インドネシアが日本から学べることは何か、といったテーマで、参加者どうしが自由にゆるく語り合える機会にしたいと思います。

今後、オフ会は毎月、テーマを決めて開催したいと考えています。今回のオフ会で次回(7月)のオフ会のテーマも決めてしまいたいと考えています。

オフ会の司会は、僭越ながら、私が務めさせていただきます。

なお、誠に恐縮ですが、このオフ会は、「よりどりインドネシア」購読者を対象としております。ご興味のある方は、是非、この機会に購読者登録をし、仲間に加わっていただければと思います。購読者は、このオフ会への参加はもちろん、過去71本のバックナンバーをお読みになることができます。

ご購読は以下のサイトより、ご登録いただけます。

あるいは、PDF版での送付をご希望の方は、松井(matsiu@matsui-glocal.com)までメールにてご連絡ください。

いずれも、購読登録された後、1ヵ月間の無料お試し購読期間があります。

登録された方へは、登録確認後、すぐに6月27日のオフ会用ZOOMへのアクセスURLを送らせていただきます。

『よりどりインドネシア』最新号(第72号)は、これまでにない盛りだくさんの内容で、2020年6月22日に発行予定です。いくつものインドネシアを皆さんと一緒に知り、楽しんでいければと思っています。よろしくお願いいたします。

日本軍が掘った防空壕の入口。一体は公園化され、観光地となっている。
ちょうど約1年前に訪問した。(2019年6月23日撮影)


2020年6月16日火曜日

原田正純先生の思い出



6月12日が原田正純先生の命日だった。原田先生とお会いしたのは一度だけ。それも、インドネシアでお会いしたのだった。

そのきっかけは、先生の著書「水俣病」のインドネシア語訳の出版だった。2005年5月3~5日、先生とジャカルタ、マカッサルをご一緒した。5月3日にジャカルタの空港でお会いして、5月4日にマカッサルで出版記念講演をしていただいた。


2003年以降、北スラウェシ州で工場の排水による環境汚染、住民の健康被害が問題となっていた。その症状から「水俣病でないか」との噂が高まっていた。しかし、インドネシア側には当時、水俣病に関する正確な知識が欠けていた。正確な知識を欠いたまま、水俣病という話だけが大きくなっていた。

そうした話をマカッサルの友人たちとしていたときに、彼らから水俣病についての本をインドネシア語に訳して出版したいという話が出てきた。そこで、原田先生の岩波新書での著書を紹介し、著作権その他の話を日本側で調整するという話のうえで、マカッサルの友人たちが英語版からインドネシア語へ翻訳して出版する、ということになった。マカッサルの友人たちのなかに小さな出版社を営む者がいたのである。

原田先生と実際に翻訳に関わったマカッサルの仲間たち

そうして、翻訳された"Tragedi Minamata"は出版された。その出版記念イベントに、著者である原田先生をお招きしたのである。


出版記念講演の後、"Tragedi Minamata"は、インドネシア国内の書店で一斉に販売された。書店によっては、平積みで売られたほど注目された。ところが、環境問題の発端となった北スラウェシ州では、販売開始直後、市中の書店からこの本が一斉に姿を消した。問題の発生元の企業が販売された分をすべて買い占めたと噂された。

原田先生のインドネシアへの招聘に当たっては、友人の島上宗子さん(現・愛媛大学准教授)とマカッサルにある国立ハサヌディン大学のアグネス教授らと一緒に実現させた。

あのとき、原田先生の魂のこもった講演を、私は懸命に通訳した。必ず伝えなければ、と力が入ったことを覚えている。

インドネシアでは、この出版の話のずっと前に、ジャカルタ湾で水銀などの重金属汚染の疑いが出て、水俣病ではないかと騒がれたことがあった。原田先生は、そのときにインドネシアへ来訪し、調査をされていた。今回の話もそうだが、水俣病と断定するにはまだ至らないとの慎重な立場に立っておられた。

6月12日が先生の命日だということを思い出させてくれたのが、永野三智さんのフェイスブックでの投稿だった。彼女が晩年の先生にインタビューした記事の再掲だった。それがきっかけで、2005年のインドネシアでの原田先生とのささやかな時間を思い出したのだ。

永野さんの記事は、とても心に沁みるインタビューの内容だった。多くの方々に読んでいただきたく、ちょっと長いが、私にとっての備忘録としても、謹んで、以下に再掲させていただきたい。

**********

■水俣病患者とは誰か

永野: 今日は原田さんの言葉を、しっかりと残させてもらいたいと思ってやってきました。まず、水俣病患者と一言で言っても、その言葉を使う人の立場や場合によって多様な水俣病が存在していますよね。原田さんが考える水俣病患者とは?

原田: 医学的には水俣病というのは一つしかないですよ。それを勝手に、認定や司法上、救済法上とつけている。これがまずおかしい。確かに重症、軽症の差はある。しかし、身の回りができる人が軽症で寝たきりが重症かって、単純に言えばそうかもしれないけど、患者の持っている苦痛からいけばどっちがひどいかは本当はわからないですよ。通説、通常、症状の重さによって患者を分けるというのは、世間一般常識的に受け入れられている。それだっておかしい。医学的には水俣病というのは一つしかないですよ。そこがまず矛盾ですよね。

永野: 矛盾というと、認定患者かどうかを判断するのはお医者さんではなくて、最終的には県知事ですよね。

原田: そういうことは他の病気ではありえないですよ。そしてまた、水俣病でもあり得ない。医師団というか審査会が棄却を決めている。医者の立場ならば有機水銀の影響があるかどうか判断すればいい。
ところが補償金を受ける資格を審査してる。だからおかしくなっちゃう。医学的な判断がベースにあっても、救済するかは社会的判断でしょう。越権行為ですよ。どっちかはっきりしないといけない。医学的な立場で貫くんだったら、認定は関係ないですよ。影響があるかないかを判断すればいい。そして医学的な立場だったら水俣病が三種類も四種類もあっちゃ困る。救済の判断だとするならば、医学の判断だけじゃなくてプラスアルファですよ。
だから当然、医者だけで審査会を作って救済するかどうか判断するのは違法ですよ。むしろ行政や弁護士や被害者が参加しながら決めていくべきです。

■言葉を残す

原田: この頃やたら取材の多かっですよ。

永野: 残しておかなければとは思っているんですね。

原田: 確かにそうだと思うよ。石牟礼道子さんと僕と話しておかないといけないこと一杯ある。宇井純さんも死んじゃって、あの頃のことをしゃべれるのは、桑原史成さん。道子さんは僕が診察に行くと取材みたいにしてついて来よった。この人は誰だろうと思っていたら、後で苦海浄土を書く時に医学用語を聞きに来たんですよ。それで「この人作家だったんだ」と初めて分かった。患者の診察に関心があるというのは保健婦さんかなと思ってたんですけどね。

その頃もう一人、人物がいて。大学で「東大の研究者が資料を集めて回ってる、謎の男だから用心するように」と言われてた。それが宇井純さん。だけど、面識があるようになったのは、第一次訴訟がおこってから。それから、桑原史成さんと僕は、当時接点がなかった。僕が現地にごそごそ入って行った時に、「学生さんが写真を撮りに来ているよ」という噂はあっちこっちで聞いたけどね。出会ったのは、ずっと後で、なんとなんとベトナム。僕がベトナムの調査に行ってる時に、桑原さんも来てて、ばったり。「あ、あなたが桑原さん」って感じでね。向こうもびっくりして。

永野: そこでの接点はあるんですね。そしたら桑原さんとぜひ話をしてほしいですね。

原田: あの頃、桑原さんの見た水俣をね。あの人まじめだから、「なんで水俣に関心持ったの」って言ったら、あの頃「飯が食えんかった。これで有名になろうと思った」。だけど僕に言わせると「これは大変な事件だから、ちゃんと記録しておけば飯が食えるようになる」と思ったこと自体がね。

永野: すごい嗅覚。

原田: すごい嗅覚ですよ。その頃の写真家なんて誰も関心持たなかったんだから。そこに目をつけたというのはたいしたもんですよ。宇井さんはまた別の意味で関心を持ったんだけどね。だから僕らが関心持ったのは、普通の当たり前。医者が病人に関心を持つのは当たり前でね。

僕はたまたま熊大の神経精神科に入った。その頃は熊大全部あげて水俣病に取り組んでいて、神経精神科の私たちの科が専門なの。イギリスからマッカルパインて言う人が神経精神科に来てて、本当は彼が最初に有機水銀説を言い出した。その時、通訳でついて来てたのが、その後神経内科の教授になる荒木淑郎ですよ。神経精神科の宮川太平教授が、マッカルパインを信用しとったら、ちょっとどうにかなっていた。マッカルパインの話を聞きに行くって言ったら、「あんな馬鹿な話聞くな」って言われてね。 昭和三三年、一九五八年。だからもう、熊大の大部分は有機水銀説に傾いていた。彼はイギリス出身だから、ハンター・ラッセルの論文を読んでいた。いろんな疑いの中の一つとして有機水銀があるというような話。一番早く言い出したんじゃないかと思うけど、もう分からない。ただ、我々の世界は誰が最初に論文を書いたかで、そこからいくと、武内忠夫先生ですね。

永野: 原田さんは、何故水俣病のことをやり続けられたんですか?

原田: 逆に僕は、なんでみんな続けんのだろうと思う。というのは、医者ですからいろんな病気にぶつかります。だけど、有機水銀中毒で、しかも環境汚染によって食物連鎖を通しておこした中毒なんていうのは人類史上初めてですよ。医学を選んで、世界で初めて経験したようなものにぶつかる確率はものすごく少ない。だから、なんでみんなもう少し関心持たんのだろう、あるいはもっと積極的に関係してこないんだろうって思う。関心持って来たら、政治的な目的だったり、それか全くその逆で、あれは政治的だとかね。大体医学界がおかしい。

今頃世界中では、何を議論にしているかというと、微量長期汚染の胎児に及ぼす影響でしょ? 日本で調べれば一番ちゃんと分かったわけでしょ。今となっては、だけどね。だから五〇代、六〇代が今どういう影響を受けているかというのが問題。そういう意味で僕は二世代訴訟に関心持ってるわけですよ。今までずっと関心持ってたけど、若い時代はみんな逃げちゃってましたよね。

■第二世代の障害

原田: やっぱりある時期が来ないと調査がちゃんとできなかった。差別とか、いろんな問題があって第二世代というのはみんな逃げていた。理論的には第二世代、胎児性世代というのは調べたかったんです。水俣病はハンター・ラッセル症候群を頂点にして、裾野の方が分かってきたでしょ。一つ、そこには「病像がはっきりしていないから救済できない」という行政の嘘がある。病像がはっきりしていないから、救済できない。感覚障害だけの水俣病があるかどうかとか。

でも実際は調べてみると、しびれだけなんていう人は少なくて。自覚症状を無視するから感覚障害だけになるけど、頭が痛い、からすまがりがある、力がなくなって途中で歩けなくなる、いっぱいある。ところがマスコミも含めて帳面上、感覚障害だけの水俣病があるかないかの議論になって。しかも、学問的にはまだそこがはっきりしてないみたいな風に。しかし今分かってることだけで、十分救済はできる。救済に支障ができるほどじゃない、「分からない」を理由に救済ができないなんて馬鹿なことないわけです。

今度は胎児性世代に関して言うと、これは全然手がつけられてない。見たら分かるような脳性小児麻痺タイプしか今のところ救済されてない、その裾野がね。じゃぁ、なにで救済されているかというと、大人の基準、つまり感覚障害で引っかかってる。それは当たり前ですよ。おなかの中でも汚染をうけて、たまたま生まれてからも魚を食べてるから、大人の基準でも当てはまる。しかし、そのこととおなかの中で影響を受けたことは別問題ですよ。そしてむしろ、それに当てはまらん人の方が深刻なんです。環境庁が作った判断条件の中に、胎児性の世代は感覚障害がない場合があることははっきりと明記している。それなのに大人の基準を当てはめる。そこの矛盾をちゃんと指摘しなきゃいかん。

被害者の会が大和解した時、僕は一所懸命反対した。今から一〇年も二〇年も裁判するというのは、年を取った人はわかる。だけど、若い世代を大人の基準で判断すると軽く切られてしまう。僕はそこにちょっと異議が、異論があったわけです。あなたが知ってる患者で言うなら、和解したAさんなんて感覚障害証明できなかった。一応高校まで行ってるってことになってるでしょう。あの人の持っている重大な障害というのは見えていない。おそらくその世代にはAさんだけじゃなく、たくさんいるはずですよ。

永野: そうだと思います。生伊佐男先生という方が、第一次訴訟の時に袋小学校にいらして原告の聞き取りをしておられた。私も小学校の時に、二年間担任をして頂いて。当時、ボールを投げても取れなかったり朝礼で倒れる子どもが多くて、教員たちは、「なまけてる」「気合いがたりない」と叱っていた。今になって考えたら、あそこは患者家族だし、魚も沢山食べている。症状があっておかしくない、そこに気がつくべきだった、っていうのを反省していらっしゃって。

原田: 反省はね、僕もしないと。一九六二-三年頃、僕は一所懸命、湯堂、茂道で胎児性の調査をしてる。知能テストをやったら成績がものすごく悪い。それで、あの地区には知的障害がものすごく多いという結論で終わってる。データを見てみると、Bさんなんて成績がものすごく悪かった。つまり従来の知的障害とは違う。Cさんだって、あのするどいセンスは、漢字が書けないのにね。症状がものすごいちぐはぐ、でこぼこがあるわけです。

永野: 脳の中に一個抜け落ちているところがある、そういう意味ですか?

原田: そうそう。だから障害が見えにくいんですよ。実はものすごくまだらになってる。それを一所懸命、若い世代はみんな隠してきたわけですよ。Bさんが一般的な知的障害者かというとそんなことないわけでしょう。ただどっかにちぐはぐな障害があって、それをやっぱり隠しているわけですよ。

永野: 本人にとってはものすごい努力ですよね。

原田: そうなんですよ。だから、Aさんは高校まで行ってる。どこがおかしいってことになるんだけど、おかしいんですよ。

■水俣病を続けるメリット

永野: 何をするにも自分自身にメリットがないとなかなか続けていけないと思うんですが、原田さんが水俣病に関わり続けるメリットというのは。

原田: メリットもいろいろあって。物質的なメリットや精神的なメリット。僕の場合はやっぱり好奇心ですよ。どうなってるんだろうと。これは別に、水俣病だけじゃないんです。三池だって、カネミ油症だって同じ。三池炭じん爆発の場合も、すごいトラブルがある。患者たちが医師団に対してすごい不信感を持ってつるし上げる。すると大部分の医者が怒っちゃって、「俺たちは患者のために来たのに、なんでつるし上げられるんか、もう知ったこっちゃない」みたいなね。「うそばっかり言うし」と、解釈しちゃう。

ところが、僕は好奇心があった。「なんでこの人たちはこんなにひねくれてんだろう」って。だって「向こうに注射二本してこっちに一本した、差別だ」って言うわけですよ。「あっちは第二組合で、こっち第一組合」って。こっちは、誰がどっちかわからないでしょう。そうすると、普通の、大部分の医者はそこで怒っちゃった。「何だこいつら、一所懸命やってるのに」って。だけど僕は、逆に興味があった。

永野: 医者として、というより、人としての興味って感じですか。

原田: 医者としてよりも、そうかもしれんね。むしろ知りたいと思う。一所懸命聞いてみたら、三池の炭鉱労働者たちの、二分されて、差別されての惨憺たる歴史があった。その差別される先頭に誰が立っていたか。

実は医者ですよ。天領病院って大病院があって、調べてみたら病院の組織はなんとなんと人事課の一部分だった。つまり、医療が人事管理に使われていた。そんなことは、調べてみなきゃ分かんない。医者対患者が、当然対立する。その対立がガス爆発の後まで引っ張ってきた。こっちは何も知らんで行ったことが、医者は体制側と、簡単に決めつけられてひとくくりですよ。しかし、歴史を遡ってみると本当に差別されている。例えば、風邪ひいたからと普通の病院に行くと「三日休みなさい」って診断書をくれて、会社に出すと「三日もいらん、この診断書は通用せん。天領病院の、会社病院の診断書もらってこい」っていう。会社病院に行くと、「三日も休まんでよか、一日でいい」ってね。全てそういうこと。労災もみんなそう。それで、医者と患者の中にものすごい不信感があった。そこに爆発が起こる。そこまで遡って調べてみれば、彼らがなんでこんなにひがんでいるのかがわかる。

僕がそれを話せば、知らずに反発してた医者仲間だってそれはよく分かる。それで、熊大は四〇何年もずっと追跡したわけですよ。水俣病だってそうなんですよ。チョロチョロっと調査に来て、しかも、第三水俣病の時なんか、九大の黒岩義五郎教授なんかが講習をやるわけでしょ。あの人は水俣病を見たことない。講習受けた人からちょっと聞いたけど、いかに嘘を見破るかという講習をやってるんですよね。「感覚障害は本人が言ってるだけだから信用できない」とかね。僕はいつも、裁判なんかでも言うんだけど、本来、医者が感覚障害があると言う場合は自覚障害じゃない。検査圧を強くしたり弱くしたり、何回もやってみて、これが診断なんだ。ところが、「感覚障害というのは本人が言うだけだから信用できん」ちゅうことは、自分の専門性をもう放棄してる、専門家じゃないと言ってるのと同じですよ。患者の言ったことを鵜呑みにするのではなくて、その中からどうあるのかということを確認するのが専門家でしょ。だから、馬鹿げた話ですよ。

そんなことも含めて、なんでみんな、もっと水俣のことに関心を持たないのかと。変な話だけど、世界で一人者になろうとしたらオンリーワンかナンバーワンですよ。医学の世界でナンバーワンになるのはなかなか難しい。だけどオンリーワンっていうのは、人がせんことをすりゃなるわけですよ。水俣病なんて、あんまりみんなせんからね。だから水俣病を一生懸命やったら、これはすぐ世界的にオンリーワンですよ、有名だから。売名行為でも何でもいいんですよ、とにかくやってくれれば。そこの違いがね。

永野: 最後に水俣病患者は誰か、の結論を。

原田: 少なくとも私の考える水俣病というのは、汚染の時期に不知火海沿岸に住んでいて、魚介類を食べた人は全部被害者ですよ。理屈からいけば、本当は認定審査なんていうのはおかしな話ですよ。ある一定期間、一定時期に住んでた人たちは全部水俣病として処遇すべきですよ。その中で重症者とか軽症者とか、それに応じたランクをつけることはある程度は合理性があると思うんですね。ただ、こっからここはだめよとか、年代に線を引くことは不可能と思うんですね。

感覚障害での線も本当は引けないはずですよ。特に胎児性世代というのは、感覚障害がはっきりしない人がいるはずだから。それは環境庁自身が認めてるんだもん。じゃあ何を入れるか。それはやっぱり、いつどこに住んでたか、家族がどんな状況か、そういう状況証拠しかないでしょ。本来なら、例えば体の中から水銀を高濃度に検出すればそれが証拠ですよ。ところがそれをさぼったわけでしょ。おそらく今度の裁判なんかで、被告は「住所を調べたり、近所に患者が出てるかどうかは、それは間接的証拠じゃないか」と言うに決まってる。しかし間接的な証拠しかないようにしたのは誰かと。本当はそういうことせんでいいのよ。生まれた時に、ちゃんと調査したり計ったりしとけば、もめなかったんだけどね。それがないというのは患者の責任じゃないでしょ。

永野: こないだ相思社に来られた方が、「みんなあそこのスーパーの卵が安いわよ、お得よという感じで、救済措置の申請をする。それが嫌なのよね」っておっしゃった。でもよく考えたら、誰がどんな被害を受けたかなんて、今や誰にも分からなくなって、ここまできてしまった。だったら、その「お得よ」って感じでも、それで被害を受けた人たちが本当に助かるんだったら、それでいいじゃないかと思ったんですね。それは今まで行政が何もしてこなかったことの結果であって。

原田: 原爆手帳と同じでね、曝露受けていることは間違いないんだから、それが症状が出てるか出てないか、ひどいかどうかという差だから、かまわないんですよね。ただね、そうはいっても、構造が非常に複雑なの。

今手を挙げてる人たちは、かつて差別した側にいた人たちなの。自分たちが被害者って分からなかったわけです。だから患者を差別してきた歴史がある。現に、僕らはそれを見てきたからね。だから感情的にはどうしても納得できんとこもあるんだけど。ひどかったですよ、さっきの学校の先生じゃないけど、湯堂や茂道の患者や家族に対する差別って。差別した人たちが今手を挙げる。間違いなく彼らも被害者なんだ、被害者なんだけども気持ちは非常に複雑なのよ。でも患者を差別したけども、その彼らはよそに出て行くと差別を受けたわけですよ。そういう意味ではまた複雑。もちろん今手を挙げてる人たちも被害者であることには間違いない。

今、あなたが言ったように、水俣病特措法では地域指定かなんかしちゃって、当時住んでいた人たちには最低でも医療費だけは出さんとね。そんなんいちいち診察の必要ないんですよ。その中で、プラスアルファの人たちもあるわけだから、ランク付けていろいろやっていけばいいわけでね。そうすっと解決するわけですよ。大体どれくらいの費用がいるのかも、見通しがきく。みんな審査をして、どんだけ費用使ってますか。その費用を分けた方がいい。というのが、一方にはあってね。しかし一方では、かつて患者を差別した人たちが今被害者だって言って、わぁってやってるわけだからね。最初の患者さんたちの気持ちを思うと非常に複雑ですよね。それを僕は見てきてるからね。どこを原点にするかというと、それは僕はもう一次訴訟の人たちですよ。

永野: それが例えば原田さんとか、袋小学校の生伊佐男先生みたいに、差別していたんだと自覚したり、苦しかったんだって反省したりすればまた全然違うんですけどね。

原田: だから、僕はもやいなおしに反対してるんじゃないんだけど、加害者と被害者といた時ね、殴った方が反省して「反省をしている」と。で、殴られた方が「あなたたちがそがん反省しとるならね、仲直りしましょう」って、手を出すならわかる。でも、殴った方が「もう時間が経ったけん、水に流そう」って言ったって、それは、もやい直しにならないんですよ。本当のもやい直しっていうのは、被害者が手を差し伸べるような条件を作ることでしょ。それは日本と朝鮮との関係を見てもそうですよ。日本がいくら「仲直りしよう」って言ったって、駄目ですよ。殴られた方が、「日本がそれだけ一生懸命やってくれるんだったら、もう仲直りしましょう」って、向こうから手を出してくるなら話はわかる。本当のもやい直しですよ。

永野: そのもやい直しも、その言葉ができた時は、違ったと思うんです。それが一人歩きしていったり、それを利用して水俣病を終わらせようという方向に持って行くことは嫌です。

原田: それはもう、今まで何遍も歴史の中であったわけですよ。これで終わりとかね。市民大会開いて、水俣の再建のためにって。よく読んでみると、もう水俣病のことはもうこれで終わらせようということでしょ。病気した人が終わるわけないわけたいね。いろんなことがあってね。

■歴史に残す

永野: 水俣病は一つしかない、でもやっぱり、地域の人たちはまどわされてますよね。「本当の水俣病とそうじゃない水俣病がある」なんて話、よく聞きます。「手帳だけの人は本当じゃない」とか。

原田: 手帳にも何種類かあるからね。

永野: とらわれている、信じてる。やっぱり行政がやることは大きい、その通りだというふうに思ってしまう。

原田: だから、我々のすることは、大したことはできないんだけど、そういう流れに少しでも抵抗すると言うか。今度だって、あの大和解をしたけど、たった何人かの大阪の反乱軍のためにひっくりかえったんだから。世の中を動かすのは、僕は多数派じゃないと思うんですよ。だからね、水俣のあの九人が問題をずっと明らかにしていくんです。だからって言って、彼らが救われるかどうか、思うような判決が出るかというのはまた別問題。厳しいですよ。だけど、異議申し立てた人たちが少なくともいたっていうことは、歴史に残っていくじゃないですか。

永野: その人たちのことを証言としてずっと残していく。

原田: だから、裁判のメリットというのは、そういうことでしょう。ほんと、裁判で救われはせんもん。ただね、きちんと歴史に残っていくというね。

永野: 何もしなければ捨てられていきますもんね。忘れられてなかったことにされてしまいます。

**********

原発事故後の福島や、今の新型コロナウィルスをめぐる状況においても、インタビューの言葉の一つ一つが投げかける内容が様々な示唆を与えてくれているような気がしてならない。改めて、原田先生の遺されたものに敬意を表し、自分のこれからの行動に魂を込めていきたい。合掌。


2020年6月13日土曜日

「よりどりインドネシア」オンライン月例オフ会について



いつも「よりどりインドネシア」をご愛顧いただき、ありがとうございます。おかげさまで、2017年7月の発刊以来、3年が経過しようとしております。この間、毎月2回、休みなく発行できたのは、皆様のご支援によるものと深く感謝申し上げます。

2020年7月から4年目に入るこのタイミングで、今後、購読者の皆様を対象とした定例オフ会をオンラインで毎月開催したいと考えております。

定例オフ会では、その時々のホットな話題や執筆した作品をめぐるディスカッション、執筆者による生出演、その他の様々なインドネシア情報を含め、購読者の皆様と一緒に内容を色々考えていきたいと思っております。

記念すべき第1回オフ会を6月中にZOOMにて開催したいと考えております。現在、購読者の皆様へ日程について照会中です。来週には日程を確定できるものと思います。

このオフ会は、「よりどりインドネシア」購読者を対象としております。ご興味のある方は、是非、この機会にご購読いただければと思います。購読者は、このオフ会への参加はもちろん、過去71本のバックナンバーをお読みになることができます。

ご購読は以下のサイトより、ご登録いただけます。

あるいは、PDF版での送付をご希望の方は、松井(matsiu@matsui-glocal.com)までメールにてご連絡ください。

購読者の皆様と一緒に、楽しく面白い「よりどりインドネシア」のコミュニティを作っていければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

ゴロンタロ市南部の漁村で出会った子どもたち(2007年1月20日撮影)


2020年6月12日金曜日

マカッサルのワンタン麺が恋しくなってきた



私の好きなことは食べ歩き。とりわけ、その土地でしか食べられない美味しいものを探して、その土地で堪能することが何よりも好きです。

とくに、アジア。アジアなら、インドネシアだけでなく、どこへ行っても嬉しくて楽しいのは、ひとえに食べ物のおかげです。食べ物のおかげで、アジアから離れられなくなっているといっても過言ではありません。

毎日3食とも麺を食べるのは幸せ。毎日3食、2週間ずっとインド料理だけというのもとても嬉しいです。ペナンで1日5食食べたときは、本当に幸せでした。

そんな食べ物たちと出会えなくなって久しく、もう本当に食べたくて食べたくて、禁断症状がしょっちゅう出てきてしまいます。

なかでも、禁断症状が一番強く出るのが、インドネシア・マカッサルのワンタン麺!

マカッサルに住んでいたとき、そして出張で行っても、週に2~3回は必ず食べに行った、私の大好物なのです。ひいきにしている店が5~6店あって、今日は細麺が食べたいと思ったらあの店、油分の強いコッテリ系のスープが飲みたければあの店、ワンタンに加えて臓物も載せたければあの店、と、その日の気分で、どの店にするかを決めて食べに行きます。

面白いことに、麺、スープ、ワンタンのすべてが揃って美味しいという店はなく、微妙にそれそれのバランスが取れていないのです。それがまたいいのですが。

マカッサルのワンタン麺は、たとえばジャカルタのそれとはかなり異なります。


麺はやや太麺でコシあり。茹でた鶏肉と赤く縁取りされた焼豚。茹でワンタンと揚げワンタン。好みに応じて鶏の腸などの内臓が載ります。

スープは鶏ガラスープに青ネギがパラパラ。ごま油をスープまたは麺の上に好みの量かけます。ごま油をかけるのがポイントで、風味がぐっと増すのです。

そして、サンバル(チリソース)を適量、麺の上にかけます。このサンバルは、一般に、サンバル・マカッサルまたはサンバル・クニンと呼ばれるマカッサルのサンバルで、ちょっと黄色っぽい赤い色をしており、通常のサンバルABCなどに比べるとずっと辛いのです。でも、このサンバルでないと、マカッサルのワンタン麺にはなりません。

こうして、私の場合は、スープを少しずつ、スプーンで麺の上にかけていきます。ある程度かけて、麺となじませたら、おもむろに食べ始めます。

パリパリした揚げワンタンをスープに浸しながら、パリパリとシナシナを両方楽しみ、サンバルの辛さと焼豚の甘さの絶妙はミックスを味わい、ごま油の香りに惹かれながら、麺を食べていきます。

メニューにあるのは大か小のみ。私は必ず大を頼みますが、一般的には、小で十分な量です。


私がよく行った5~6軒のワンタン麺屋は、いわゆる中華街(pecinaan)と呼ばれる海岸近くの一画にあります。そして、ワンタン麺を食べていると、必ず現れるギター弾きのお兄さんがいます。違う店で食べていても、あたかも私の居場所を常に察しているかのように、なぜか必ず彼が現れるのです。それも、かつてマカッサルに住んでいるときからなので、もう25年もの付き合いになります。


名前も知らず、歌も下手なのですが、私がマカッサルでワンタン麺を食べに行くと、必ず彼が現れて、ギターの弾き語りをする、少しお礼を払ってあげる、というのがいつものパターンです。私のマカッサルのワンタン麺と彼は離れがたいものなのです。

マカッサルに住んでいたとき、同じJICAのたくさんの青年海外協力隊員の皆さんとも知り合いになりました。帰国前にご馳走しようと思って、ワンタン麺にしようというと、意外なことに、マカッサルのワンタン麺を知らない方々が多かった記憶があります。マカッサル以外の地方で活動しているということもありますが、おそらく、日頃はムスリムの方々との付き合いがほとんどなので、豚がどっぷり入ったこのワンタン麺のことを存じないままだったのだろう、と察します。彼らをワンタン麺屋へ連れていくと、必ずといっていいほど喜ばれたものでした。

ジャカルタにも、クラパガディンに何軒かマカッサルのワンタン麺を出す店がありますが、あのマカッサルの本物とは違うものでした。スラバヤにも別のマカッサルのワンタン麺を出す店がありましたが、違うものでした。残念ながら、あの美味しさは、マカッサルでしか味わえない美味しさなのだと知りました。

ワンタン麺を出す店のなかには、海南鶏飯やコーヒーも出す店があり、その多くは丸テーブルです。他方、揚げ焼きそば(Mi Kering)やナシゴレンを出す店では、ワンタン麺は出てきません。

マカッサルでは、ワンタン麺や海南鶏飯を出す店は海南系の子孫、揚げ焼きそばやナシゴレンを出す店は広東系の子孫、などと言われていました。

もちろん、マカッサルの揚げ焼きそばもナシゴレンも大好きで、とくに揚げ焼きそばはインドネシアで一番美味しいと思いますが、その話はまた別途としたいと思います。

ともかく、そろそろ、マカッサルのワンタン麺が恋しくて恋しくて、本当にヤバいです。


2020年6月10日水曜日

禅と瞑想



予定されていた仕事はほとんどすべてが延期または中止となり、出張に行くこともできず、インドネシアが恋しい気持ちが募るなか、今は東京の自宅で毎日を送っています。

このままで暮らしが成り立っていくのか、など悶々とする日もあれば、まあ何とかなるさ、と楽観とも諦めともつかないような日もありますが、精神的に揺れる私を家族が支えてくれていることをありがたく思う日々です。

そして、このブログやFacebookなどを通じて、また時にはZoom等での皆さんとのコミュニケーションにも支えられているなあと感じています。感謝いたします。

今日(6/10)は、今のところ、何か新しいことを前向きに、誰かのために、と思える日でした。そんな気分になるきっかけを得たのが、何気なく朝、視ていた「禅と21世紀」というテレビ番組でした。

様々な大事な言葉が語られていました。とくに、禅と瞑想はどう異なるのか、という話が心に沁みました。

禅を学んだ欧米の方々などのおかげで、欧米社会にも瞑想が根付いてきています。そこでは、瞑想は何のために行われるのでしょうか。マインドフルネスという言葉もよく聞きますが、それは、今、この瞬間を大切にする生き方、ということのようです。自分がどう自分らしく生きるか、ある意味、本当の自分をどう生きるか、という話なのかもしれません。

ところが、それは禅とは異なる、という話が出ていました。禅は、自分を開いていく、周りのものとの関係性のなかで開いていく、環境のなかに解き放ち、自分と周りの環境との境界がなくなっていく、自然や環境とつながっていく、ということが禅の根本の考え方だという話が展開されていました。

すなわち、瞑想やそれに基づくマインドフルネスは、自分をどうするか、自分を強くする、という自分の中へ閉じていくものである、と捉えられ、自分を開いていく禅とは反対の方向性を持つ、というのが禅の立場からの見方のようでした。

新型コロナウィルスの影響を受けた新しい社会という話の文脈で、私たちはどのように生きていくかが問われていることはたしかです。そのときに、私も含めて、自分をどうするか、自分はどう生きていくのか、自分をどう高めていくのか、という自分のことを考えることが多いような気がします。

同時に、物理的に他者と接触しない日々は、他者を思う想像力、自分が一人ではなく様々なものとの関係のなかで生きているのだ、という感覚をも再認識する日々のような気もします。

自分だけが生きているのではない。人間以外のもの、環境を含めた様々なものとの関係のうえで、自分が生きていて、周りのものや環境が心地よいもの、健やかなもの、楽しみや希望に満ちたものでなければ、自分の生も成立しない、と思い至ったとき・・・。

自分を他者や環境に対して開いていくのだなあ、と思ったのでした。自分が他者や環境をどうにかするのではなく・・・。

そこには、嘘・偽りや見栄、世間からの評価や勝ち負けなどは、必要ありません。ありのままの自分を受け入れ、他者や環境に対して自分を開いていく。もしかすると、富や名誉や名声などを得ることはなく、生活していくのも楽ではないことでしょう。

でも、自分が様々なものを世の中で構成している一つで、それらがすべて関係性のなかにあると自覚したとき、これまでの世間での常識や評価とは違う、勝ち負けや強弱を超越した、誰かが誰かを思う、他者や環境を想像できる、そんな生き方をすることで、今のやや悲観的な未来に、多少なりとも地に足の着いた希望をのこすことができるのではないか。

禅と瞑想の違いをつらつら考えながら、そんなことを想いました。

東京の自宅の庭は、いつの間にか、アジサイの季節を迎えていました。



2020年6月8日月曜日

よりどりインドネシア第71号を発行しました



毎月2回、いくつものインドネシアを伝えたいと思って発行している「よりどりインドネシア」。おおよそ毎月7日と22日に発行していますが、6月7日、第71号を発行しました。


カバー写真(上)は、南スラウェシ州の農村でキャッサバを茹でているおばさんです。茹でたキャッサバを発酵させたタペという食品を作り、マカッサルへ売りに行きます。

「よりどりインドネシア」第71号の内容は、以下の通りです。

●スラバヤの東南アジア最大の売春街は今 ~中小企業センターへの変貌~(松井和久)
松井の原稿はコロナ関連を一休みし、閉鎖されたスラバヤの元売春街ドリーを変え始めた活動について紹介しました。東南アジア最大規模だったドリーはどうなるのでしょうか。

●ロンボクだより(32):ジン(精霊)と信仰(岡本みどり)
岡本さんの連載はジン(精霊)のお話です。果たして、ジンはイスラムの信仰とどのような関係でロンボクの人々に捉えられているのか。興味津々です。

●ラサ・サヤン(5)~姪たち~(石川礼子)
石川さんのラササヤンは今回も読み応えある内容になりました。石川さんの姪に対する眼差しに思わずホロリとしてしまいそうです。

●いんどねしあ風土記(17):あるイスラム教徒からみた新型コロナウィルス感染流行 〜ジャカルタ首都特別州~(横山裕一)
横山さんの連載は、イスラム教徒がイスラムの観点から新型コロナウィルス感染をどのように見ているのかを明らかにしています。納得できる面も感じられます。

上記のサイトから読者登録をしていただくことで、お読みいただけるようになります(有料購読となりますが、最初の1ヵ月は無料期間です)。

また、サイトからの読者登録以外に、同じ内容をPDF版にしたものを指定メールアドレスへ毎回送付する、という方法もあります。PDF版での送付をご希望の方は、お手数ですが、メールにて matsui@matsui-glocal.com までお知らせください。

**********

今回は、よりどりインドネシアの発行の裏話を少ししたいと思います。

いつものことなのですが、常連執筆者の皆さんから原稿をいただき、それを読みながら、体裁を整え、誤字・脱字等をチェックし、写真のサイズを調整するなどして原稿を編集。編集済みの原稿をいったん執筆者へお返しして再チェックしてもらい、必要であれば、加筆修正をしてもらい、最終稿を受け取ります。

最終稿を受け取った後、どこまでを無料部分にするかを判断したうえで、パブリッシャーズという雑誌掲載サイトにアップします。

この作業と並行して、私自身の原稿を書いていきます。毎月2本、何かを必ず書くという作業は、これまでにもありました。かつて、インドネシアに住んでいたときには、NNA(ニュースネットアジア)という媒体に「インドネシア政経ウォッチ」というコラムを月2回、全部で150本書きました。それでも、時によっては、題材を探すのが難しく、ギリギリまで何を書くかが決まらないこともたびたびでした。

それでも、何かを書かなければいけない、と自分に課して、何とか書いてきました。その時々によって、自分なりに出来栄えがよいときとあまりよくないときがありますが、自分で納得できるレベルはキープしたいと努めてきました。かつて、論文執筆を生業としてきたときのような厳密さや論理性を追求し、何度も数え切れないほど推敲するといったプロセスを経ておらず、限られた時間で、一般の方々向けに書くという作業なので、論文とは別物という意識で原稿を作成しているのが現状です。

このところ、ずっと新型コロナウィルス感染のことを書いてきていたので、今号についてはどうするか考えているうちに、今回は一回休みにして、前々から書こうと思っていた、スラバヤの元売春街の話を書くことにしました。

こうして、私の原稿を書き上げて、それをパブリッシャーズへアップした後、すべての原稿をまとめて、PDF版を作成します。その際、ページ送りなどの最終チェックをします。そして、PDF版での購読をしていただいている方々のメールアドレス宛にPDF版を送って、ようやく発行作業は終了です。

一連の作業をしながら、自分は編集の作業が好きなのだなあとつくづく思います。昔の職場でも、印刷所へ原稿を渡す前に、編集や校正の作業をするのが楽しかったことを思い出します。

そうはいっても、発行直前の数日は、何時間も集中して机に向かっているため、まあ年齢的な面もあるのかもしれませんが、けっこう疲労困憊になります。

そんな時間を毎月2回、経験するようになって、次回の第72号で3年目を終えます。7月からは4年目に入ります。

3周年を迎えるのを契機に、購読されている方々向けのオンラインでのオフ会や、特定のテーマを決めたウェビナーの開催を検討しています。詳細が固まりましたら、またこのブログ等を通じて、皆さんにお知らせしたいと思います。

引き続き、よろしくお願いいたします。


2020年6月6日土曜日

あるツイートについてインドネシア語で訊いてみた



先週末、ツイッターであるツイートが多くの人々に取り上げられてバズっていた。それは、ある大学での試験で、インドネシア=日本関係に関する文章が示され、それを要約させる問題だった。

ツイート主は、その問題を自分の子どもから見せられ、文章の内容が事実と異なると批判し、その問題を出した大学の先生を糾弾する内容だった。そして、ツイート主の見解を支持し、試験に出された問題の内容と大学の先生を批判するツイートが数え切れないほど連なっていった。

参考までに、そのツイートへのリンクを貼っておく。


一応、インドネシアについて長年研究してきた人間として、この事件を無視することはできないと考えた。ツイートの話の前に、試験問題について若干コメントしておく。

このような内容の試験問題を出した意図は理解できるし、学生に何を求めているかも理解できる。ただし、要約というのは個人的にあまり好ましくなかったという気がする。要約ということは、問題の文章の内容をそのまま受け止めさせることを意味する。先生の意見を押し付けられたかのような感覚を学生が持ってしまう可能性は否定できない。

私ならば、学生に自分の意見を書かせる。それを書かせるために、どんな本でもインターネットでも参考にしてかまわない「持込可」としつつ、意見を書くにあたって参考にした文献などの出所をすべて書かせる。学生がどのようなソースから自分の意見を形成しているのかという傾向を把握することを重視したいと思う。

**********

それはともかく、ツイートの流れを見ていきながら、日本でのインドネシアに対するある一定の見方のオンパレードで、その歴史観を正しいと信じている人々が確実に存在することを改めて確認できたと思う。

その見方というのは、(1) 日本のおかげでインドネシアは植民地から解放され独立できた。(2) 日本の3年半の統治はインドネシアにとって有益であり、オランダ植民地支配より過酷だったことはない。(3) インドネシアが日本に恩を感じており、だから親日なのだ、というようなものである。この見方に立てば、日本の占領統治がオランダ植民地時代より過酷だったとか、日本軍が残虐行為を行ったとかいうのは誤りで、そうした間違った言説を唱える者は反日思想で子供たちを洗脳しようとしている、という主張になる。

私自身は、この見方も含めて、インドネシア=日本関係の歴史については、様々な見方が存在することを了解している。それは日本人の間でもそうであるし、インドネシア人の間でも様々な見方がある。その多くは、個人的な経験や近しい人々から聞いた話が元になっており、どれが正しくてどれが間違っていると一様に結論付けられるものではない。インドネシアの学校で使われる歴史教科書の記述だって、本当に正しいかどうかは疑問である。もちろん、同様に、先に上げた「日本はすばらしい。だからインドネシアは親日なのだ」という見方が正しいかどうかも疑問である。

「日本はすばらしい。だからインドネシアは親日なのだ」という見方が日本社会で一定の支持を受けていることを、インドネシアの人々は知っているのだろうか、という疑問が湧き上がってきた。彼らの一部は、先の試験問題が偏向していて、「日本とインドネシアとの友好関係にマイナスだ」と日本にあるインドネシア大使館・総領事館へ問い合わせるとまで言っているのだから。まあ、それに対してどう回答がなされそうかは、何となく想像がつく。

というわけで、私の英語・インドネシア語ブログ「Glocal Diary for Local-to-Local」のなかで、インドネシア語でこの話を書き、彼らの反応を見ることにした。6月3日に投稿して、今日(6/6)までに110回のアクセスがあった。

ブログの原文については、以下のサイトを参照してほしい。


このブログのリンクは私のfacebookページにも貼ったので、インドネシア人の友人たちからのコメントは主にFacebook上に寄せられた。そのリンクも以下に貼っておく。


コメントには、様々な意見が寄せられた。その多くは、自分の親や家族から聞いた話だった。彼らは、インドネシアの教科書で、日本軍政の過酷さやインドネシア側から見た独立正史を学んでいる。そのうえで、日本軍政にプラスの面とマイナスの面があったという者、日本軍政でも陸軍と海軍は違うのではないかという者、昔と今の日本は違うという者、など、冷静でバランスのとれたコメントが並んでいた。

なかには日本語をよく理解できる友人もいて、彼はツイートを「すべて読んだ」と言ってきた。彼はそれについての直接のコメントは差し控えたが、私が英語・インドネシア語ブログに書いたことを日本語でも書いて日本人にも伝えるべきではないか、とコメントした。

まだこの後も、インドネシア人の友人たちからコメントが届くと思うが、彼らからは、先の「日本はすばらしい。だからインドネシアは親日なのだ」という見方への直接の反論・批判は今のところ出されていない。ただ、彼らがその見方と同じだとも断言できない。賛成とも反対とも言っていないのだから。大事なことは、そのような見方が日本にはけっこうあるということを彼らに分かってもらうことなのだと思う。

**********

先のツイートへの私なりのわだかまりについて、最後に述べておきたい。

第1に、自分たちの見方が正しくて、そうでないものは間違っている、とすることは賢明ではない。歴史で何が正しいかは、誰がどう関わったかによって異なる。教科書に書かれていることだって本当にすべて正しいかどうかは疑わしい。

第2に、彼らの依拠している情報ソースは、日本人が日本語で書いたものやインターネット情報が主であり、インドネシア語のものやインドネシア人の研究成果などにはほとんど触れられていない。インドネシア人がこう言っているというのは、すべて日本人が日本語で書いたもののなかにあり、書いた日本人の立場や意図を考えないわけにはいかない。

第3に、様々な見解が存在しうる歴史をただ一つの見解が正しいと決めつけ、その情報ソースもきちんと確認せずに、その見解と異なる見解を糾弾し、排除しようとする行為は、言いがかり以外の何物でもない。もし批判するならば、実名を名乗り、情報ソースを明示して、きちんと議論すべきである。

最初は、あのようなツイートを相手にする必要はないかと思っていた。しかし、そのツイートに1万を超える「いいね」がついている現実を見たときに、これはインドネシア人の友人たちにもこの状況を伝える必要があると感じたのである。

もしかすると、インドネシア側から見たら、「日本はすばらしい。だからインドネシアは親日なのだ」という見方に内心ではカチンと来るかもしれない、と想像できる。インドネシアは、自分たちで独立を勝ち取ったと信じているかもしれないし、そう思っているのが普通だからである。

私も、インドネシアで出会った様々な方々からそれぞれの日本との関わりや戦争のときの話を聞いてきた。インドネシアと言えども、場所によって、状況は様々だったはずである。おそらく、内心には色々な思いを持ちながらも、私に気持ちよく話してくれる人たちを大事にしたいと思う。そうしているうちに、彼らとの間で、インドネシアとか日本とかということが、いつの間にか溶けてなくなっていくのを感じるのである。

東京を訪れたインドネシアの高校生たちをサンシャインへ案内
(2019年3月19日)


2020年6月4日木曜日

差別における被害者と加害者



アメリカでは、ミネアポリスでの黒人男性ジョージ・フロイド氏の死亡事件を契機に、デモや騒動が全国へ広がったが、一向に収まる気配を見せていない。

彼を結果的に窒息死させた警官は、過去18年間に18件の抗議を受けた問題児だった。この警官とともにいて、その行為を止めなかった残り3人の警官も起訴された。

その3人のうちの一人は、東南アジアの少数民族であるモン族の出身で、ベトナム戦争のときに米軍に協力したのを契機にアメリカへ渡り、警官になった人物であった。この事件のすぐ後、モン族出身者の店舗などが抗議者たちによって焼き討ちにあった。

以上の話は、インドネシア語の新聞を読んでいて初めて知った。日本の新聞でも報道されていただろうか。

今のアメリカでの黒人差別への抗議運動は、そのなかに、別の人種差別意識を内在させている可能性を注視する必要がある。アメリカ社会のなかで、アジア出身者が黒人から受けてきた暴言や差別の経験もSNS上などで多数現れている。マジョリティによるマイノリティ差別という観点で見なければならない面もある。

アメリカは大統領選挙を目前に、白人票や黒人票を意識した表面的な政治的発言が目につく。黒人の経験したこれまでの苦悩や差別をしっかりと学び、理解することはもちろん必要だが、それが黒人だけを特別視して、黒人による他者への差別に目をつぶる結果となれば、社会の分断が解消へ向かうことはない。

同時に、アジア系だって差別されてきたというアジア系の人々も、果たして自分たちはこれまでに差別を全くしてこなかったのかという点を自問し、胸に手を当てて、謙虚に省みることも必要だろう。

誰でも、自分だけが可哀そうな被害者だと思っているが、もしかしたら加害者にもなっているかもしれないと思い至ることはなかなかできない。

そういえば、新型コロナウィルスは、他者から感染させられるだけでなく、知らぬ間に自分が他者へ感染させるかもしれない、ということを気づかせてくれた。被害者であると同時に、加害者でもあり得る、という感覚が徐々に普通に受け入れられるようになっている。

もっと謙虚になろう。差別されたと抗議すると同時に、自分も誰かを差別しているかもしれない、と。その差別は人種だけではない。学歴であったり、出身階層であったり、血筋であったり、職業であったり、容姿であったり・・・。差別の種は多種多様である。

差別することで、自分の存在を確認しているかのような。私自身も、振り返ると、そんなことが全くなかったとはいえない気がする。自分に自信がないときほど、他者を差別したくなるのかもしれない。

そして、自分よりも上でかなわない相手に対しては、服従という名の自分をへりくだる逆差別をするのではないか。前回書いた、白人だから職務質問をしない警官も、その一例なのではないか。

日本でもインドネシアでも、初対面の相手が自分と比べて相対的にどれぐらい上か下かを推し量って対応する、というケースに何度も出くわした。そうやって、人は常に差別または逆差別をしているように思える。

人間とは、自分を自分たらしめるために、たとえ明示的でなくとも、あるいは無意識に、他者を差別して生きている動物、とまで言ったら言い過ぎだろうか。

謙虚に自省する時間を持たなければ・・・。

インドネシア・南スラウェシ州の村で出会った
ある大家族の面々(2003年2月23日撮影)


2020年6月2日火曜日

アメリカの人種差別反対デモを見て思ったこと



アメリカでは今、ミネアポリスでジョージ・フロイドという名の黒人男性が警察官による拘束で死亡する事件がきっかけとなり、全国で黒人などへの人種差別反対デモが続いている。

新型コロナウィルス感染による死者数で、黒人の死亡率が白人ほかのそれの2倍以上という現実は、新型コロナ感染の危険性が高いなかで、底辺で社会を支える仕事で働き続けるエッセンシャルワーカーなどに黒人が多く就業していることを反映していると見られており、アメリカ社会における人種問題の根深さが大きく露呈された格好になっている。

為政者はこうした状況を率先して解決する態度を示さず、今の状況が次の選挙での自分への攻撃材料になることを極度に恐れ、アメリカ第一と言いながら、自分第一の態度を採り続けている。自分の再選しか頭になく、アメリカ社会の危機に正面から向き合おうとはしていない。ひどいものだ。でも、多くのアメリカ市民は、そんな為政者の態度を諦めの目で放置はしないだろう。健全な市民社会とは何か、を目の前に見せてくれる、他者への思いやりと尊敬を示す名もなき人々の勇気ある行動がSNSにどんどん流れてくる。

そうしたアメリカの現状を見ながら、少し思い出したことがある。

一つは、異端者であるが故に、違法性のある者という疑いの目で見られるということ。

アメリカでの黒人差別は、黒人であるが故に罪人や悪人に見られているのではないかとの怖れを常に黒人に強いている様子がある。多くの黒人がそうやってアメリカ社会のなかで恐怖を常に持ちながら生活していることを想像する。

東京の私の自宅のあるところは、昔から外国人が多く居住しており、日頃から普通に外国人と接している場所である。でも、ほぼ常に警察官がパトロールしていて、白人以外の外国人に対して次々に職務質問をし、場合によっては数人で取り囲んで、あたかも犯罪者をみつけたかのような態度で接している。

白人以外の外国人であるが故に、不法滞在者と見なされて職務質問され、たまたま在留カードを所持携帯していないと、罪人扱いされ得る。

私もインドネシアで、外国人であるが故に、疑われたことが何度もある。一番よくあるのは、入国時のイミグレでのやりとり。インドネシアへに出入国が多いことから、何か変なことをしているのではないかという疑いをかけられる。

ふと思ったのだが、政府高官、エリートなど社会的ステータスが高いと認識されると、黒人だからとか外国人だからとかいう理由で、疑いの目で見られることはまずない。私も、公用旅券で出入国する際には、イミグレの係官の対応がとても丁寧になるという経験があった。たしかに、私のふだんの格好では外交官にもビジネスエリートにも見えないだろう。

黒人でも社会的に有名な人を警察は疑ったりはしないだろう。日本で白人は、逆に白人であるがゆえに、疑わないということがあるのではないか。

日本も相当に人種差別意識が高い。しかしそれを日本人は認識しないし、正そうともしない。

もう一つは、暴動である。

アメリカで今起こっている暴動は、平和的なデモの後に、他地域からのよそ者が組織的に入り込んで略奪行為をする、というパターンだと報じられている。すべてがそうだとはいえないだろうが、暴動が自然発生的なものだけでなく、意図的に起こされている面があることは想像がつく。

インドネシアでも、そうした形の暴動はこれまでにいくつもあった。昨年5月のジャカルタ暴動も同じような構図だった可能性が高い。

ただ、暴動発生の構図が似ているということを指摘することはそうなのだが、私が不思議に思うのは、これだけアメリカ全土にデモや暴動が広がっているのに、アメリカが危険だという話が聞こえてこないことだ。

インドネシアならば、ジャカルタで暴動が起これば、ジャカルタ以外が平穏でも、インドネシアは危険だという認識が広まる。場合によっては、在留邦人の強制避難帰国、自衛隊機を派遣しての救援、といった話さえ出てくる。

この違いは何なのだろうか。

そうか、これも差別問題なのだ。

アメリカは先進国、インドネシアは発展途上国。だから、アメリカで暴動が起こっても危険ではなく、インドネシアで起こると危険になるのではないか。

そして、先進国としてみているアメリカは白人のアメリカなのだ。アメリカ社会の中の黒人など白人以外の存在は無視されているのではないか。

インドネシアも、見ているのはジャカルタのインドネシア。しかも、官僚やビジネスエリートなど華人やジャワ人のインドネシア。華人やジャワ人以外のインドネシア人の存在は無視されているのではないか。

アメリカ社会の複雑な構造を現実としてそのまま捉える。インドネシア社会の複雑な構造を現実としてそのまま捉える。

差別意識を基礎としたステロタイプな見方を脱し、様々な人々や社会の存在を寛容に当たり前のものとして受け入れられなければ、分断と差別に蓋をしたまま、薄っぺらい民主主義ごっこを続けることになる。

酒は飲んでいないが、今日はちょっと荒っぽく書きすぎた。