2020年2月13日木曜日

固有名詞でつながる世界をつくるための対話

数日前、個人ツイッター(@daengkm)に次のようなつぶやきを書いた。
日本以外にいる、個人名でお付き合いしている友人・知人は何人いますか。自分は、ずいぶん前に、人数をもう数えられないので、数えるのをやめてしまった。
いつの頃からだろうか、友人をどの国の人か、人種は何か、宗教は何か、というような面から見ることができなくなった。インドネシア人だとか、イスラム教徒だとか、ブギス族だとか、そういううふうに見ることができなくなった。

もちろん、彼らとやり取りする言葉は違う。彼らがインドネシア語でメッセージをくれればインドネシア語で返し、英語でやりとりすることもあるし、日本語のときもある。

日本人だからより近い友人だとか、インドネシア人だけど近い友人だとか、そういうふうに思えなくなった。いるのは、ただ単に、信頼できる友人、話していて楽しい友人、意見は異なってもその違いを尊重してくれる友人、それだけである。

私たちは、この世に生を受けた場所がたまたまそこだった、親がたまたま国籍や種族がそうだった、ということで、何らかの属性をもって生まれてくる。国家が私たちを生まれさせたのではない。生まれたときの属性のなかに、偶然、たまたま、国家というものがそこにあったに過ぎない。

もちろん、たとえ国家がなかったとしても、人間は生まれるのだ。そして、国家のために生まれたのではない。自分が一人の人間として生きるために生まれたのだ。

2020年2月11日火曜日

よりどりインドネシア第63号発行、ニセ王国物語など

2020年2月9日、毎月2回発行のウェブ情報マガジン『よりどりインドネシア』の第63号を発行しました。以下のサイトから、その一部を読んでいただけます。

 よりどりインドネシア第63号

今号の内容は以下のとおりです。

インドネシアのニセ王国物語(松井和久)
2020年に入って、インドネシアでは様々なニセ王国が現れ、メディアを賑わせています。どんなニセ王国なのか、その内容を細かく見ていくと、そこに政治的な意図が見えてきました。どうしてニセ王国が現れるのか。既存の王国とニセ王国とを分けるものは何か。それらは本当に分けられているのか。インドネシアにいくつかある王国連合体組織についても、考察してみました。

ロンボクだより(28):震災の終わり(岡本みどり)
岡本さんの連載は、ロンボク地震から1年半経って、岡本さん自身の思うことを書かれています。震災は終わったのか。その問いをめぐっての思いです。岡本さんの原稿を読みながら、東日本大震災をはじめとする被災地での人々のことが思い浮かんできました。政府やメディアは「終わった」とか「まだだ」と、安易に言い過ぎてはいないだろうか、と改めて思いました。

パプアのラタパン(哀歌)を追いかける~セプティナ・ロサリナ・ラヤンさんの挑戦~(松井和久)
日刊紙『コンパス』の記事から、パプアの奥地でラタパンと呼ばれる哀歌の収録を進める若者の話を紹介します。ラタパンの持つ複層的な役割は、震災復興の観点からも注目できるのではないかと思いました。 他方、パプアでのラタパンの使われ方が、インドネシアによる抑圧や差別への批判に傾く傾向もあり、パプア奥地の人々によるラタパンの持つ意味が薄められているような印象を持ちます。

上記のような内容を含めました。多くの方にご一読いただければと思います。

今回のカバー写真は、中ジャワ州プルバリンガ県で二輪車のマフラーを製造する小企業の社長さんです。

2020年2月3日月曜日

地方に自らの足元を学ぶ場を広げる

大学入試の季節になってきた。大学の数や種類は、圧倒的に東京などの大都市に多い。このため、たくさんの若者が大学受験のために大都市へやってくる。

学びの機会は大学に限らないが、それでも、学びの機会の数は圧倒的に東京などの大都市のほうが多い。就業機会が大都市に多いことは明らかだが、就業に続く学びの機会が大都市に多いことが就業機会の大都市集中の理由でもあり、結果でもあるように思える。

彼らは何を学びに大都市へ向かうのだろうか。それは、普遍的な学問、すなわち、日本中、いや、世界中どこでも通用するユニバーサルな学問を学びに来るのだろう。学問の真理とは、理論や論理の普遍性にあるからである。

地方にも大学はあるが、そこで若者が学ぶものは、大都市で学ぶものと基本的に同じである。すなわち、世界中どこでも通用するユニバーサルな学問である。大都市へ行かずとも、地方の大学でそれを学べるはずである。しかし、若者は大都市へ向かい、地方の大学で学べるのと同じ学問を学ぶ。でも、それは本当だろうか。

地方の大学のプロの研究者ならば、より学問的にレベルの高い場所へ移って、自分の学問に磨きをかけたいと願う。その結果、地方の大学から大都市の大学へ移る。地方の無名大学から大都市の有名大学へ移り、研究者としての他者からの評価を上げていくことになる。

こうした大学を例にした状況をみれば、学ぶということがユニバーサルな学問だけである限りにおいて、学ぶ機会は大都市へ集中し、そこでの様々な相互作用によって、ユニバーサルな学問が進化していく、ということになる。

このことを否定することはできない。新しい理論や学説は、様々な研究者どうしの関わりのなかから生まれ、真理の追求が進められるからである。

では、地方には、学ぶ機会がないのだろうか。地方における知とは、おそらく、世界中のどこでも通用するものではないかもしれないが、その地方では必ずや通用する、というようなものである。たとえば、農耕儀礼などは、その地方の気候や風土と密接に結びついており、違う地方や大都市には当てはまらないものであろう。

そのような、ユニバーサルでない知は、学ぶ価値のないものなのだろうか。