2021年2月27日土曜日

かつて馴染んでいたのに使わなくなった言葉たち

いつの頃からなのだろうか。知らないうちに、かつて馴染んでいたのに使わなくなった言葉、使えなくなった言葉があることに気がついた。

それらは、国際協力、経済協力、開発協力、援助、国際交流といった言葉である。

かつて、私はJICA専門家として、インドネシアのマカッサルを中心に、地域開発政策アドバイザーという名前で、国際協力の最前線で働くことを仕事とした経験がある。JICA長期専門家としてのべ7年、それに同短期専門家やJETRO専門家としての年数を加えると、10年近く、国際協力の名のもとに仕事をしてきた。

JICA専門家時代、中スラウェシ州パル市庁舎でルリー市長と面会中の筆者(2000年4月26日)

今でも、便宜的に、法人としてお引き受けする業務のなかに、「国際協力」という言葉が入っている。しかし、「協力する」という言葉に強い違和感をますます感じるようになり、大っぴらに「国際協力」と自分からは言い出せなくなった。

それはなぜなのか。

協力というのは、相手が「協力が必要だ」と思わない限り、成立しない。自分が「相手にとって自分の協力が必要だ」と思っても、たとえ詳細な調査研究によって協力の必要性が立証されたとしても、相手が「協力が必要だ」と自覚しない限り、協力は成立しない。

しかし、自分と相手との立場は異なる。力関係も異なる。先進国と途上国というくくりで「協力」という言葉を使うならば、そしてそのことを自分も相手も認識しているならば、なおさらのことである。

日本と途上国との「協力」は、書面上、途上国から協力の要請があり、それに日本が応えるという形を取る。そのためには、途上国から協力要請があがる前に、協力ニーズ調査が行われている必要がある。誰がそのニーズ調査を行うのか。多くの場合、協力したい側、すなわち日本が行うのが実状である。

途上国側は、日本からの援助供与を念頭に置くので、よほどのことがない限り、日本側からの「協力」提案を拒むことはない。

仮に、日本側からの「協力」提案と違う提案が途上国側から出てきた場合、日本側はそれを歓迎して、日本側の提案を修正したり、取り下げたりするだろうか。そういう場合もあるだろう。しかし、援助する側の視点で、修正や取り下げを拒むことのほうが多くなるのではないか。よほどの内容でない限り、途上国側は、日本からの援助を歓迎するから、それがご破産になりかねない事態は回避する。

こうして、「協力」と言いながら、両者の間には上下関係が明確に存在することになる。それは日本が途上国側に強いている面と同時に、途上国側もそれをある意味方便として上下関係を受け入れているといってよい。

国際協力以外の世界でも、たとえば、途上国とビジネスを行う場合でも、先方の事情やニーズはおかまいなしに、「途上国のためになる」「ビジネスで途上国の人々を救う」といって自分たちの視点のみでビジネスを行うケースが意外に多いのではないだろうか。

日本から見ていれば、国際協力も「ビジネスで途上国の人々を救う」ことも、素晴らしいことであると見える。しかし、日本では、それが相手側とも共有・納得し合った認識であるかどうかは問われない。

もちろん、最初から協力ニーズが相手側と一致していなければならないわけでは必ずしもない。事業をすすめるなかで、協力ニーズがより熟れ、相手側との間で共通認識が出てそれが強まる場合ももちろんある。でも、協力したい側が自分のシナリオどおりに協力を進め、それ以外の相手側からのシナリオを認めないというような態度になるならば、それは「協力」という名の自己満足にすぎない、と思うのである。

もしも、私たちに対して外国から「協力したい」と申し出があったら、私たちはそれを受け入れるだろうか。日本=先進国という認識を持つ我々は、たとえばインドネシアが協力を申し出ても受け入れようとはしないのではないか。それはインドネシアを途上国と認識する「上から目線」によるものではないだろうか。

日本が割と不得意な先進技術普及のための汎用化・低コスト化には、たとえば、途上国の知恵や適正技術をもとにした一種のリバース・イノベーション的な技術に関する日本への協力が重要ではないかと思うのだが。あるいは、1回1回使い切りの小口化商品の販売ノウハウなどを途上国から学ぶことも今後の日本の地方へのマーケティングで有用になってはこないか。

日本側が途上国側の現状を十分に深く理解・把握することなく、日本の技術や知識の優位性を理由に「協力」を提案する、そして、それを受け入れてもらえるはずだと考えるのは、あまりにも「上から目線」ではないか。

厳しい言い方だが、これは、国際協力の現場で活躍したいと思っている学生・若者たちにもあてはまるものである。より良い世界を一緒に作っていきたい、という気持ちや希望は大いに尊重したい。素晴らしいと思う。でも、そのまえに、他者への想像力や物事を多角的に見る力を養い、自分の考えを客観的に見れるもう一人の自分を常に持つようにまずしたい。自分の「協力したい」という思いを受け入れてくれるよう説得するのではなく、その思いは本当に適切なのか常に疑い、誤っていれば常に修正できる態度を養いたい。

国際協力、経済協力、開発協力、援助、国際交流、といった言葉を使えなくなった自分が今よりどころとしている言葉は・・・一緒にやる、である。

日本側が途上国側に教えるだけではない。途上国側も日本側へ教える。双方が教え合う関係、双方が相手を思い合う関係。何かを提案した側は相手からの批判や改善提案をしっかり受け止める。そして、より良い方策や解決策を一緒に考え、一緒に試行錯誤する。その一緒にやるプロセスは、事業終了後の成果と同じかそれ以上に価値あるものとなるはずである。

本来は、これが協力なのだと思う。しかし、現実の「協力」という言葉は手垢まみれになってしまっている。

一緒にやるにあたっても、国と国との関係における日本側から途上国側への資金供与といった形では、双方が教え合う関係は本質的に生み出せない。利潤を追求する企業間でも難しいかもしれない。まずは、共鳴した個人間・地域間で何かを小さく一緒に始め、その後の事業展開や必要性に応じて、企業や政府が適宜関わってくる、ということは否定しない。

一緒にやるために必要なのは、相手を深く知ること、そして、その結果としての信頼関係である。もうそこには、先進国とか途上国とか、そんなことはどうでもよくなっているはず。可愛そうとか助けたいではなく、面白くて楽しくてもっと素敵な世の中になる、それを一緒に創っていく、という気持ちが支配的にあるのではないか。

きっと、もうそんな時代に入っているのだ。国際協力、経済協力、開発協力、援助、国際交流といったお題目がないと動けない時代ではないのだ。そんなお題目は、必要ならば後から考えればよい。何かを一緒にやる、という行為やプロセスを大事にしながら、そこで培われた信頼関係を他者による信頼関係でつなげて、協力などという言葉が色あせてくるような、もっとワクワクして面白い世の中を創っていきたい、と思う。

一緒にやる、をたくさん創っていくために、動いていく。そこで新しい価値が生み出されるようにつないでいく。

2021年2月25日木曜日

ようやく旧宅から新宅へ引っ越した

このブログでも何度か取り上げてきた東京の自宅の旧宅から新宅への「引っ越し」。

2020年10月26日のブログで家の話を書いた。

⇒ 東京の都心の庭のある我が家でご一緒しませんか

ずるずると時は過ぎ、ようやく2月23日、引越し業者さんの手を借りながら、引っ越しできた。

といっても、新宅は旧宅の隣。業者を頼まなくとも、自分たちだけでできそうに思われるかもしれないが、やはり、タンスやら机やら棚やら、大きくて重いものは、やはり自分たちだけでは無理。専門家に頼んで正解だった。

ダンボールは大・中合わせて70箱。でも結局、すべての荷物は移せなかった。大きいものは運んだが、旧宅にはまだ色々と荷物が残ったまま。今までののんびりペースから察すると、少しずつ少しずつ片付けていくことになるだろう。4月の新しい年度前には片付かないだろう。まあ、我々のペースでやるしかない。

それでも、引っ越し日を2月23日と決めてしまったので、ようやく引っ越しが実現した、といっても過言ではない。さすがに、数日前から怒涛のようにダンボール箱へ詰め続け、詰めども詰めども終わりの見えない荷物の多さに圧倒されつつ、ほぼ徹夜のような日々が続き、食事もとることを忘れ、フラフラになりながら、なんとか2月23日を乗り切って、いつの間にか寝込んでいたらしく、気がつくと24日の朝だった。

新宅のリビングに積まれたダンボール箱に囲まれながら、新宅での荷物整理を少しずつ進めている。少し時間はかかるが、徐々に新しい生活をつくっていくことになる。

ブログには色々書けないが、この新宅への引っ越しは、わたしたち家族にとって大きな意味を持つ、ようやくたどり着いた、新しい一歩になる。楽しくて嬉しくなる、笑い合って温かく暮らせる場所にしていきたい。

2月23日の夜は、妻と一緒に、近所にできたちょっとオシャレなラーメン店LOKAHIで夕食。この店はハマグリで丁寧に出汁をとったラーメンをベースに、ちょっと変わった創作ラーメンを頻繁に出してくる。この日は、定番のハマグリ・ラーメン(塩)に加えて、変わりラーメンの「牛白湯の濃厚煮干中華蕎麦」(下写真)というのをいただいた。

引っ越し蕎麦は、移転先のご近所さんに蕎麦を振る舞うのだが、敷地内での旧宅から新宅への移動だったので、ただの引越し時に食べた蕎麦(ラーメン)という、どうでもいい話。

落ち着いたら、旧宅を整えて、前掲の2020年10月26日のブログで書いたように、どなたかに住んでいただけたらと今も思っている。国籍・性別・年齢を問わず、この庭のある空間を愛し、ゆったりと静かにおだやかに住んでいただける方がみつかるといいな、と思っている。

2021年2月19日金曜日

新型コロナ禍のおかげで良かった個人的なこと

こんなタイトルをみたら、不謹慎に思う人もいるかもしれない。

皆んなが苦しいときに、自分だけ楽しかったり、笑ったりしてもいいのだろうか。やっぱり、苦しい気持ちでいなければならないのだろうか。

そんな気持ちになることが、10年前の東日本大震災以来、頻繁にある日々を過ごしてきた。

今回もそうだ。新型コロナ禍で皆んなが大変な状況にある。

実は、自分だってそうだ。予定していた昨年から今年にかけての仕事は次々になくなり、どうやって日々を過ごしていくか、家族を養っていくかで汲々としている。

そんななかで、もしかすると、新型コロナ禍のおかげで良かったのかもしれない、と思えることがひとつあった。

自分は、毎月、かかりつけ医のところで血液検査を行い、コレストロール値を測り、診察を受けている。診察を受けて処方される薬を毎日、ずっと飲み続けてきた。これまで、高脂血症と共生してきたのである。

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あれは、1990年8月、前の職場の海外派遣員として、初めてインドネシア・ジャカルタに2年間滞在したときから始まる。初めての長期滞在、インドネシアに居る間にしかできないことは何でもやってみよう、と様々なことを体験してみた。敢えて、一軒家ではなく、ふつうのジャワ人の家庭の「長男」として下宿した。

そのなかで、最も熱心に取り組んだことは、食べることだった。

毎朝、大家さんが用意する朝食は、ブルーバンドというマーガリンを塗った上にチョコレッド・スプレッドのかかったパン2枚、毎朝ボゴールから自転車で配達に来る牛乳屋さんの牛乳を温めたもの(いつもタンパク質の膜が貼っていた)、砂糖がいっぱい入った温かいオレンジ水、それに甘ーいコーヒー。

最初は、全部、完食・完飲できなかった。でも1ヵ月経つと、容易に完食・完飲できるようになった。

昼は外で食べ、問題は夕方。大家さんは必ず、間食を用意してくれる。それは芋を揚げたものだったり、バナナを揚げたものだったり、中に具の入った豆腐を揚げたものだったり、要するに油で揚げたものだった。

出されたものは残さず食べる。これが私のモットー。

夜、友人や知人と外食する予定があっても、大家さんは夕飯を必ず用意している。出かける前に、夕食を食べていかなければならない。そして、外食も決してセーブしない。

下宿に帰ってきて夜中、集落を歩く屋台の声が聞こえる。大家の末娘が屋台を呼んで、ミー・ドクドクという名の麺を注文する。「松井も食べるよねー?」と聞かれるので、「もちろん」と返事をする。そして、夜中に食べる。

これで何食になった? 結局、毎日、5~6食を食べる生活になった。

その結果・・・。

1990年8月から2年間のジャカルタ滞在で、体重が20キロ近く増えてしまった。日本からやって来て久々にあった友人・知人が皆、私の変わりように目を丸くしたものだった。一番ビックリしていたのは、1年後にジャカルタで合流した妻だった、かもしれない。

それ以来、食べ物の出会いは一期一会、をモットーに、インドネシアのどこへ行っても、その土地々々の食を求め続け、食べ続けた。新しい美味しさに出会う喜び、美味しく食べられる喜びを感じながら、食べ続けた。

これは、シンガポールでも、マレーシアでも、ベトナムでも、インドでもどこでも、もちろん日本でも、どこでも変わらなかった。自分にとって、食べることは生きること、だった。

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こうして、高脂血症と「お友だち」になった。健康診断では、必ず指摘された。それも、かなりひどい状態だと診断された。ある医者からは、日本人の高脂血症患者の上位5%に入っていて重症、とんでもない、とまで言われた。JICA専門家の派遣前健康診断でも指摘され、それが理由で派遣が中止になるのではないか、といつもビクビクしていた。

これだけ健康診断で指摘されると、自分は何かとんでもなく悪いことをしてしまったのではないか、という罪悪感を抱くようになった。そしてときには自分を責めた。これまで、食べることで幸せを感じてきた自分を責めた。インドネシアで何でもかんでも食べまくった自分を責めた。

炭水化物を一切食べない、食べる量を半分にする、毎日縄跳びを1,000回する、といったことを続けたこともあった。それまで堪能してきた大好きなインドネシア料理も食べずに我慢した。すると、1週間も経たないうちに、体に異常が発生した。

手でペンが持てなくなったのである。ペンで文字を書こうとすると、手が震えて書けないのだ。手の震えが止まらなくなったのだ。

これはさすがにビックリした。インターネットで調べると、かなりまずい状況になる可能性のあることが分かった。

そして、炭水化物をとった。久々の炭水化物はとても美味しかった。翌日、手の震えは止まっていた。ペンも普通に持てるようになった。

インドネシア在在中も、定期的にコレステロール値は病院で測っていた。でも、バタバタしていたので、ちょっと値が良くなると、行かなくなった。そして、また、元の木阿弥になった。そんな状況を何度も繰り返した。

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2016年からもう一度日本を拠点に活動するようにしてから、東京の自宅近くのクリニックに毎月通い、血液検査をしてコレステロール値を測り、かかりつけ医の診察を受けるようになった。かかりつけ医は、念のため、動脈硬化が起こっているかどうか、X線写真を細かく撮って調べるように勧めてくれた。そこで、指定された医療機関で撮った。そこで言われた。「毛細血管までこんなにきれいに撮れているとは・・・。動脈硬化の様子はうかがえないです」と。

かかりつけ医に毎月通いながら、細かな血液検査の結果データを蓄積していった。日本に拠点を移したと言っても、頻繁にインドネシアへは出張していた。インドネシアに出張して戻ってきてすぐに血液検査、ということがよくあったが、そうしたときは、概してコレステロール値の値は悪かった。でも、2~3ヵ月に1回のペースで出かけていたので、日本で摂生するとどうなるか、ということが検証できないまま時間が過ぎていった。

そんななかで起こったのが、新型コロナ禍。

2020年3月1~11日のインドネシア出張の後、今日に至るまで、全く出張ができなくなった。海外どころか、弊社を登記した福島市にも行けていない。先方から暗に来ないでほしい、というメッセージを受け取っているからだ(福島から見ると東京は汚染地域で、東京から来る人間はとても怖い存在らしいし、狭い世界なので、何か起こったら先方が色々大変な目にあってしまう恐れもあった)。

それ以来、今に至るまで、東京の自宅と自宅から歩いて10分のレンタルスペース(仕事場として借りている個室)を行き来しながら、毎日を過ごしている。あんなに動くことに命をかけていた自分だが、動かないことに慣れ、動かないからこそできること、見えることに気づき始めた気さえしている今日このごろである。

そう、インドネシアへ出張しないまま、日本にずっといるなかで、毎月のコレステロール値がどうなるか、わかる環境になったのだ。

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少し前、かかりつけ医は、毎月のデータを見ながら、ここで一気に悪玉コレステロール値を下げるためにより強めの薬を処方し始めた。問題は、変動の大きい中性脂肪の値だった。血液検査の前の日に大食いすれば、その結果、一気に中性脂肪の値が急上昇する。

そして、今週、かかりつけ医の診察で示された血液検査の結果は・・・。

なんと、正常だった。

信じられない。これまでも、悪玉コレステロールと中性脂肪の値以外は正常、ということはたまにあったのだが。

きっと、別人のデータが間違って出されたのだろう、と、私はかかりつけ医に言った。しかし、かかりつけ医からは、他のデータの連続性などを詳しく説明され、明確に否定された。

1990年8月のインドネシア赴任以降、ずっとずっと30年以上、高脂血症と、戦ってきたというよりは共生し、それが日常だった人生のなかで、コレステロール値が正常と判断された、私にとっては歴史的な出来事となった。

これが、もしかしたら、新型コロナ禍のおかげでよかった個人的なことなのではないか、と思ったのである。

かかりつけ医の指示に従い、まだしばらくは薬を飲み続け、来月の検査で、今回と同様の結果が出れば、薬の処方を変える、とのことである。

コレステロール値が正常でも、また悪くなっても、食との出会いは一期一会のモットーを変えることはない。食べることは生きること。食を楽しみ続け、探求していくことに変わりはない。そして、早くインドネシアでまた食べまくりたい。ずっと禁断症状なのだ!!

アチェ州ロクスマウェで食べたシーフード中心のアチェ料理