2020年12月30日水曜日

年末年始に東京から帰省しないということは・・・

2020年12月30日、例年と同じく、この日は正月関連の食材を妻と一緒に買いまわる日である。

いつもだいたい、買い物に行くところは決まっていて、伊達巻と蒲鉾はあそこ、年越しそばと天ぷらはここ、正月3が日におせち以外で食べるための食材はあれとこれをあそこで、といくつかのスーパー、店、デパ地下などをめぐる。

今年はちょっと様子が違っていた。

いつも行くスーパーでいつものように買い物をし、レジに並ぼうと思ったら、一番奥の精肉売り場まで行列が続いているのである。なにこれ、どうして今年はこんなに行列が長いの?

その長さは、インドネシアの大きなスーパーで、手際が悪く、値段や品物を確認するためにレジを離れ、持ち場から何分間もいなくなってしまうレジ係のおかげで、延々と並び続けていなければならない、あの状況に匹敵するものだった。

とはいっても、東京のスーパーのレジ係は職人芸で手際が良く、行列に並んでも、確実に前へ進んでいく。このスーパーでは、レジ係が二人いて、一人がレジを打ち、もう一人は持参したマイバッグに品物を入れてくれる。魚などの生鮮品だと、ドライアイスを持ってきてくれて入れてくれる。

ともかく、年末年始に東京から帰省しないということは、こういう状況が起こるということなのだ。

新型コロナ感染者数が増え続ける東京で、その様子は、傍から見ればまさに「密」である。でも、買い物用カートンのおかげで、前後の客とのソーシャルディスタンスが確保できている。不気味なぐらいだが、行列に並んでいる人々は全員マスクをしており、かつ、誰も話をしない。飛沫はほぼ飛んでいないと思われる。

スーパーからの帰り、妻と一緒に、赤く染まる空を大通りの交差点から眺めていた。昔、冬になると、ここから富士山が見えたのだという。

ここから下っていく坂は、富士見坂という。今や、ビル群が建ってしまい、富士山の稜線の一部しか見ることができない。

2020年12月26日土曜日

大好きな洋食屋さんでささやかな夕食 [2020/12/25]

自宅から歩いていける距離に大好きな洋食屋さん「フランス亭」がある。

コック帽をかぶったおじさんと話好きのおばさんで切り盛りしている、町の小さな洋食屋さん。時々、無性に行きたくなる洋食屋さんなのだ。

昨日(12/25)は、妻と池袋で用事を済ませた後、一緒にお邪魔した。常連さんたちで混み始める時間より早めに、午後6時半前に行ったら、誰も来ていなかった。

私はビーフシチュー入りの洋食弁当Cを、妻はマカロニグラタンを注文した。洋食弁当Cには、大ぶりのエビフライも2本入っている。でも、絶品なのは、ニンジンのグラッセなのだ。


妻には、エビフライ1本、ビーフシチューのビーフの塊1個、ニンジンのグラッセ1個を提供し、マカロニグラタン少々と物々交換した。


まだ子どもの頃、グラタンという名前は知っていたが、東京へ出てくるまでに食べたことはなかったと記憶している。ここのグラタン、本当に愛すべき美味しさなのだ。

町の洋食屋さんでのささやかな夕食。これから、この店へ来る1回1回が大切な思い出になっていくような気がする。次回は、チキンピカタを食べに来る予定だ。

2020年12月21日月曜日

門松が立った [2020/12/19]

2020年12月19日、我が家の門の前に早々と門松が立った。まだクリスマス前なのだが・・・。


毎年、今頃になると、昔から知り合いの鳶のHさんが「門松を立てるからね」と言ってやってきて、立ててくれていた。昨年は、ちょうど、新しい自宅が建設中で、外構と門ができていなかったので、簡易的な門のところに小さな門松を立てた(下写真)。

今年は、外構や門をつくるときに、門の前に、門松を立てるための穴を2つあけてもらった。そこに今回、門松を立ててもらったのである(下写真)。

妻によると、今年は、Hさんの息子さんが来て、門松を立ててくれたそうだ。昨年のに比べたら、段違いに立派な門松になった。

我が家の周辺では、こんな門松を立てている家は見かけない。我が家を除いて、ほとんどがアパートやマンションになっている。我が家は山手線の北側だが、南側へ行くと、商店街では、昔からの店が門松を立てている。

家は新しくなったが、門松は、これまで通り、まだ残っている。そんな我が家である。

新しい家はできたのだが、我々はまだ古い家に居て、同じ敷地内に立っていることをいいことに、のんびりとそのうち引っ越しすることになるのだろう。

2020年12月18日金曜日

ときどき昔ばなし(1):ジャカルタ初赴任前

インドネシアと付き合って35年が経つ。最初に赴任したのは、首都ジャカルタ2年間だった。研究所の海外派遣員として、国立インドネシア大学大学院に入った。

入学試験は日本では受けられなかった。入学試験を受けるために有休をとってジャカルタへ飛び、インドネシア人の皆さんと机を並べて、2日間、6科目の記述式試験を受けた。

なぜ、インドネシアで大学院生になったのか。当時は1990年、スハルト政権の絶頂期である。研究者用の調査ビザを取るのはとても難しかった。今でこそ、数ヵ月でとれる(という話の)調査ビザだが、当時は半年かかるか1年かかるか、出ないか、全く予想がつかなかった。とくに、政治社会関係の調査を行うための調査ビザはほとんど出ないと言われていた。

それで、学生ビザにしたのである。学部卒で研究所に入ったので、インドネシア大学大学院で修士課程に入った。

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当初は、国連が資金を出して開設する人口・労働特設コースに入るつもりだった。インドネシアの学卒労働市場を研究テーマにしていたからである。そして、同コースを所管するインドネシア大学人口問題研究所に入り浸る、という計画だった。

しかし、待てど暮らせど、人口・労働コースが開設されるという話が聞こえてこない。当時、ジャカルタ駐在の海外調査員の大先輩が情報を集めてくださっていた。そしてとうとう、人口・労働特設コースを諦めて通常の経済学研究科に入るように勧められた。

人口・労働特設コースならば試験がなさそうだったのだが、経済学研究科だと試験を受けなければならない、という。科目は、もう、うろ覚えだが、小論文、英語、経済数学、統計学、ミクロ経済学、マクロ経済学だったと思う。そして、試験はジャカルタへ出向いて受けなければならなかった。

研究所に「試験を受けるためのジャカルタ行きを出張扱いにできないか」と懇願したが、「落ちたらどうする?」と言われて拒否された。やむなく、有給休暇をとり、自腹でジャカルタへ飛んだ。

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経済学研究科の試験問題はもちろん、すべてインドネシア語だった。受験会場の教室には、おそらく40~50人ぐらいの受験生がいたと思う。私は、インドネシア語を学び始めて5年ぐらいだったが、無謀にも、インドネシア語で答案を書いた。正しいインドネシア語かどうか分からないが、とにかく書いて書いて書きまくった。今にして思うと、よくもまあ、そんなことをしたものだとあきれてしまう。

すべての科目で、他の受験生は皆、試験時間が終わる前にどんどん出ていってしまう。いつも最後まで残っているのは自分だけだった。ミクロ経済学もマクロ経済学も、2時間の試験時間なのに、皆んな1時間ぐらいで出ていってしまう。すごく優秀なのだ、と思った。2時間ギリギリまで居残って試験問題と格闘している自分を、試験監督の女性が「早く終わってくんないかな」という目つきで見ていたのを思い出す。

経済学理論だって分かっているわけではない。インドネシア語だってできるわけではない。試験問題をちゃんと理解して解答したのかどうかも、実は定かではなかった。でも、とにかく参加はした。研究所の上司が「落ちたらどうする?」といった言葉が急に現実的なものに感じたものだった。

もう、後は野となれ山となれ。元々、経済学研究科ではなくて人口・労働特設コースへ行きたかったのだ。しかたなくて経済学研究科を受けなければならなかっただけだ。落ちたら、そのときまた考えるしかない。研究所をクビになるわけでもなかろうし・・・。

帰国前に、シンガポールに寄って、シンガポール駐在の別の大先輩に1日お付き合いしていただいて、美味しいものを食べさせていただいて、シンガポールを堪能して、すっきりして、帰国した。

しばらくして、合格、という知らせを聞いた。実力で試験結果がよかったからではないだろう。ジャカルタ駐在の大先輩が、特別にお願いし、日本人だからということで合格にしてくれたのだろう、と自分は冷めていた。おそらく、研究所とインドネシア大学との良好な関係に資するためだったのだろう。

ともかく、というわけで、ジャカルタでの滞在が決まった。

(ときどき思い出して書きたくなったらいつか書く昔ばなし、つづく)

2020年12月16日水曜日

恋しいが嬉しいに変わっていく、FACEBOOKのおかげ [2020/12/16]

今日(12/16)の朝、自分のFACEBOOKページに、以前、インドネシアに住んでいたときの場所の名前と「恋しい」という言葉をずらずらとインドネシア語で書いて投稿した。

こんなふうに・・・。

Rindu Rawamangun. Rindu Jalan Lombok. Rindu Daeng Tompo. Rindu Perintis Kemerdekaan. Rindu Gunung Batu Putih. Rindu Duku Kupang Barat. Rindu semua.

Apple Musicが勝手に集めてくれる「オール・タイム・インドネシアン・ヒッツ」というのをエンドレスで聴いていた。知らない曲もある。昔、よく聴いた曲もある。聴いているうちに、無性に、昔住んでいたインドネシアの場所が恋しくて恋しくてしかたなくなった。

それをFACEBOOKに投稿したら、思いもかけず、たくさんのインドネシア人の友人がコメントを寄せてくれた。そのコメントの一つ一つが、嬉しかった。愛おしかった。コメントを寄せてくれた友人との個々の思い出がよみがえってきた。

2007年10月3日、マカッサルの我が家前に仲間が建てた東屋にて。
この日は中スラウェシ州ドンガラ県在住の環境活動家ヘダール氏(故人)を招いての
意見交換会だった。ヘダール氏からは、焼畑と山の人々の暮らしについて多くのことを学んだ。

FACEBOOKを始めたのは、マカッサルに住んでいた2007年頃だったと思う。マカッサルの友人・知人・仲間たちとやり取りするために始めた。その頃、日本ではまだFACEBOOKはあまり流行っていなくて、ほとんどすべての投稿はインドネシア語だった。

10年も20年も音信のなかったインドネシア人の友人たちとつながることができ、今でも彼らと好きなときにやり取りできている。また、講演会やイベントで顔を合わせただけの大学生たちもたくさん友達申請してきて、私が彼らのことを覚えていなくても、彼らは私のことを覚えていてくれた。

インドネシアには何度か長期滞在した。30年前、研究所の海外派遣員だったときは、2年の任期が終わったら帰るので、お世話になった東ジャカルタ・ラワマングンの下宿を除いて、インドネシアは調査研究の単なる対象という認識だった。帰国した後は、ほとんどのインドネシア人の知り合いとの関係は切れた。インドネシア滞在中の今からすれば恥ずかしい行為も、誰にも知られないから、記憶から消し去ることができた。

それが変わったのは、25年前に家族3人でマカッサルに住んでからだ。JICA専門家のときだった。付き合いがずっと濃密になった。毎日毎日、たくさんの方々と議論・情報交換した。マカッサルでの反華人暴動のときも、通貨危機でモノが市中になくなったときも、たくさんの方々に助けてもらい、私たちもできる限り、お世話になっているお手伝いや運転手や様々な人を必死で助けた。

JICA専門家の任期が終わるとき、知り合った方々と一生付き合っていく、と決心した。それをスラウェシと一生付き合っていく、という言葉で表現した。

帰国後も、インターネットの電子メールでやり取りできた。でも、送ってもなかなか返信が来なかった。また、離れていってしまうのか、と思った。

2006年にふたたびマカッサルに単身赴任。縁あって、友人の一族の本家である2階建ての大きな家をまるごと借りた。はてどうしようか、と思ったときに、ひらめいた。マカッサルの地元の若者たちの活動スペースとして提供しよう、と。私は1階の後ろ半分に住み、残りは彼らに使ってもらう。

そうして、彼らのNGOのオフィス、自分たちで運営する図書館、映画上映などのイベントやセミナーを行うスペース、そしてカフェのある東屋までできた。マカッサルでは有名なパブリックスペースになった。

そのときなのだ、FACEBOOKを彼らと始めたのは・・・。

今はもう、そのスペースはマカッサルにはない。彼らが自分でもう少し小さいスペースを作って、それぞれに活動している。そして、それに加えて、インドネシアの有名な映画監督であるリリ・レザやメルボルン在住の小説家のリリ・ユリアンティと知り合い、リリ・レザの実家をリノベして、ルマタ(Ruma'ta、「あなたの家」という意味)というパブリックスペースができた。私もささやかながら協力した。

あのときから始めたFACEBOOK、今も時空を超えて、インドネシアで知り合った大切な友人たちとつながっている。住所や電話番号を探す必要はない。常にやり取りする必要もない。好きなときに「元気~?」と声をかければ、「元気だよ~」と返ってくる。

そんな束縛もストレスもない、ただつながっているという関係がFACEBOOKで作られた。そして今も、「恋しい」という私の発信に対して、返信してくれる友人たちがメッセージを送ってきてくれている。

そう、インドネシアはもう、自分とは不可分。でも、彼らの恩にまだ何も返していないに等しい。誠意をもって一つ一つ丁寧に対応していければなあ、と思う。

恋しい、が、嬉しい、に変わっていく。


Googleが突然動かなくなった夜

2020年12月15日火曜日

Googleが突然動かなくなった夜 [2020/12/14]

12月14日夜9時過ぎ、突然Googleが動かなくなって、慌てた。そして改めて、インターネットを使う日常がいかにGoogleに依存していたかを感じ入った。

最初は、自分のGmailアドレスがハックされたのかと思った。例の「アカウント1つですべての google サービスを」という表記が現れて、Gmailアドレスを入れるように求めてくる。そこでアドレスを入れると、「そのアドレスはGoogleには存在しない」と出てくる。なんどやっても同じ。「アカウント1つですべての google サービスを」という表記がなくならない。

一度パソコンの電源を切って、再度立ち上げても同じ。これは、パソコンがウィルスにやられたか、と思った。そのうち、iPadのNewsPicksで、Googleが障害を起こしているという情報が流れてきた。

Googleといえば、このブログも、GoogleのBloggerを使って書いている。今日は書けないか、せっかく昨日から書き始めたのに、と思って、午後11時半すぎに立ち上げてみたら、幸いなことに、Googleは復旧していた。よって、こうして今、ブログを書けている。

ツイッターを見ていたら、野口悠紀雄氏が、Googleが何億人という人々に無料でサービスを提供し、これまでほとんどずっと何百億ものやり取りを事故なく実現してきたことへの驚嘆をつぶやいていた。それをGoogleという民間企業が世界大で実現していることを考えると、まさに驚嘆に値するではないか。

そうであっても、一つのものに依存するリスクはやはりあるものだ、ということを思い知った。Googleに依存するインターネット生活も、再考していくことが必要だ。さしあたって、このブログを独自ドメインのサイトに移すほうが良いのでは、とも思った。どうするか、少し考えてみることにする。

12月12日には小石川植物園で紅葉狩りを楽しんだが、12月14日の朝、我が家の紅葉も美しく光っていた。


恋しいが嬉しいに変わっていく、FACEBOOKのおかげ

小石川植物園で紅葉狩りの後、如水会館へ

2020年12月13日日曜日

小石川植物園で紅葉狩りの後、如水会館へ [2020/12/12]

1カ月近くブログを書かないでいたが、これからまた、少しずつでも日記として書いてみたい。途中でしばし途切れるかもしれないが、ご容赦のほどを。

12月12日(土)、今年はこれまで、なかなか紅葉を見に行けなかったので、妻と一緒に、小石川植物園へ出かけた。入場料は500円に値上がっていたが、来場者もさほど多くなく、ゆっくりと紅葉狩りを楽しむことができた。

午後4時半の閉園ギリギリまで楽しんで、小石川植物園を出て、白山を上って降りて、都営地下鉄三田線の白山駅まで歩く。ここで、帰宅する妻と別れて、私は神保町へ。

半年に一度、如水会館で開かれる、一橋大学竹内記念フォーラムに出席。このフォーラムは、かつて日本地理学会会長やイタリア日本文化会館館長を務めた、故・竹内啓一教授の教えを受けた一橋大学ゼミ(社会地理学研究室)卒業生が自主的に集まって行う一種の勉強会である。

新型コロナ感染防止対策ということで、マスク着用のまま如水会館に入館して手指消毒、体温測定後、会場に入室。毎回、ビール付きで夕食のお弁当が出るのだが、今回は、マスクを外してお弁当を食べる間は無言で、という約束。ビールはなし。美味しいお弁当を味わう暇もなく、無言で黙々と食べて、食べ終わったら再開、という形だった。

今回は、帝京大学経済学部の山本健兒教授がミュンヘンの事例を取り上げ、「ドイツの大都市における『問題街区』のリノベーションはジェントリフィケーションか」という題で発表された。山本氏のミュンヘンでの滞在経験を踏まえて、「問題街区」の住宅修繕は、住民の階層が全面的に入れ替わらなかったという意味において、ジェントリフィケーションとは言えない、というお話だった。

昨今、このジェントリフィケーションという言葉が、階層間の入れ替えがない場合でも使われる場合があり、定義を厳密にして議論する必要がある、と力説しておられた。

山本氏の話を拝聴しながら、ジャカルタとスラバヤの都市開発の違いを思い起こしていた。ジャカルタでは、旧住民を立ち退かせて再開発し、高所得者向けのアパート群やショッピングセンターが次々と建設され、街区の様相が一変した場所が多数存在する。一方、スラバヤでは、1970年代頃からカンプン改善プロジェクトの名の下に、都市中心部のコミュニティを残したままま、そのコミュニティの住環境を改善していく手法を採ってきた。

ジャカルタでは、旧住民の居住空間が周縁に追いやられたものの、面としての開発が可能になったため、近代都市としての機能がより発揮できるようになった。

一方、スラバヤでは、都市中心部の再開発が難しいまま都市化が進むと同時に、都市中心部のコミュニティの所得が向上してくると、次世代を中心にスラバヤ郊外へ移る傾向が強まり、彼らが移った後の旧コニュニティにはよそ者が入り込み、空間価値が高まらないままになる、という、ある意味でカンプン改善プロジェクトの弊害ともいえる現象が起こっている。

入れ替わった階層による居住者階層の高度化を伴うジェントリフィケーションは、都市計画者から見れば、都市としての機能や空間価値・不動産価値を高めるという意味でプラスの評価になるのだろう。他方、旧居住者の立場からすれば、不当に居住空間を奪われてしまうのであれば、人権上の観点から、ジェントリフィケーションは避けるべきものと考えられるだろう。

ジェントリフィケーションをどのようなタイムスパンで見るかも重要になってくるだろう。インドネシアを含む、新興国と言われる国々の都市問題を考えていくうえで、現在進行中ともいえるジェントリフィケーションは、旧市街リノベーションなどとともに、注意深く見ていく必要のある現象だと思った。


Googleが突然動かなくなった夜

中スラウェシ州のある親友の訃報