2021年4月15日木曜日

新しい旅立ち?、一人暮らししていた頃を思い出した

新型コロナ禍がまだまだ衰えを見せないなか、4月になって、我が家でもいくつか新しい旅立ちを思わせるような日常が出てきた。

たとえば、4月から娘が一人暮らしをするということで、引っ越しした。といっても、都内なのだが、大学の授業の関係で、大学の近くに居を構えたという次第。自宅から通っても1時間ちょっとなのだが、電車に乗っているのがかなり疲れるらしい。でも、今学期も結局、オンライン授業が多い様子。親としては、一人暮らしが彼女の今後の自立へ向けての価値ある経験となっていくことを願うばかりだ。

一人暮らしを始める娘を眺めながら、自分の大学生活から妻と結婚するまでの独身生活の頃を思い出した。高校卒業前に大学を受けて全滅。というか、国立と私立の一つずつしか受験しなかった。「滑り止め」という言葉を知らなかった。あまりにも初心な田舎の受験生だった。

大学浪人中は、父の教え子で埼玉県に住んでいるSさんのお宅に下宿した。毎週、Sさんから世の中というものについて講話があり、ときには説教された。東京に出てきて分かったのは、世の中には様々な人々がいる、ということだった。最初は、今まで見たことないような人々に遭遇するたびに驚いていたが、時期に、それらは当たり前の光景になっていった。

毎日、予備校に通い、一浪して大学に入り、1~3年生は民間団体の運営する男子寮で生活した。親からの仕送りは寮費を含めて月5万円。家庭教師のアルバイトで3万円を得て、月8万円で生活した。サークルの関係で部屋に自腹で黒電話をひいたのだが、そのときには、貯金残高が数百円まで減って慌てた。

大学4年から就職1年目は、月1万8千円の家賃の6畳一間、汲み取り式トイレ、湯沸かし器なしのところに住んだ。その辺りでは最も築年数が古い建物だったらしい。風呂は銭湯だが、夜遅くなるなどして、何日も入れないこともあった。夜寝ていると、いつも天井裏でガタガタ大きな音がした。毎日、ネズミが運動会をしていた。冬はコタツと小さな電気ストーブで寒さをしのぎ、夏は扇風機で暑さをしのいだ。このような生活で、汗をうまく処理できず、子供の頃からの持病のアトピー性皮膚炎が極度に悪化した。

今思うと、快適な学生ライフをおくったとはとても言えなさそうに思える。経済的に余裕がなく、大学の友人たちとの付き合いをそれなりにしていくために、切り詰められるところは切り詰め、我慢できることはできるだけ我慢して毎日を暮らした。弟も大学に行っていたし、親も経済的に厳しかったので、仕送りを増やしてほしいとはいえなかった。

研究所に就職して、毎月それなりの収入を得るようになって、生活に少し余裕が出てきた。少しずつ貯金をしたが、当時のバブル全盛期の世の中がどこか遠い世界に感じるような日々を送っていた。あの頃から今に至るまで、自分のなかの生活スタイルや生活に対する意識が大きく変わったような実感はない。

持病のアトピー性皮膚炎が快方へ向かったのは、結婚して、生活がある程度安定し、インドネシアへ2年間滞在した後のことだった。結婚したおかげで、少しはまともな生活が送れるようになったように思える。

でも、今も、必要なもの以外は求めず、質素な生活を続けている。元々、お金持ちにはなれないと思っていたし、実際、現実もそうだった。

そう、自分は変われなかったが、時代は変わったのだ。

娘の引っ越しを手伝い、一人暮らしに必要なものを色々と準備しながら、彼女にはとにかく楽しく有意義な学生生活を送ってほしい、と思った。それは、親としての気持ちだ。でも、そんな娘をちょっぴりうらやましく思う自分もいた。

2021年4月9日金曜日

なぜ今回、森を守ろうと動く若者について書いたか

ここ数日間は、毎度のごとく、情報ウェブマガジン『よりどりインドネシア』の編集・発行とそれへの自分の原稿執筆で時間を費やしていた。それでブログの更新が遅れてしまった。

今回で91号。毎月2本発行しているが、発刊以来、1度も欠号を出していない。今年中に記念すべき第100号を迎えるのかと思うと、ちょっとワクワクする。『よりどり』で知り合った執筆者の皆さんたちがまたいい人たちで、いつの間にか、執筆者どうしでSNSグループをつくり、何かというと楽しそうにああだこうだと仲良くやっているのがとても良い。

そんな執筆者に加わる仲間をずっと募集中だ。インドネシアについて、何か書いてみたい方、いつでもご相談いただければうれしい。よほど常軌を外れた内容でないかぎり、ほぼそのまま掲載している。短い原稿もあるし、長い原稿もある。それぞれに趣があり、玉石混交なのが『よりどり』たるところと思っている。

私自身は、これまで、内容的なバランスを考え、インドネシアでホットな話題となっている政治経済・時事ネタを中心に取り上げ、現在進行形のまま、完結せぬまま、執筆してきた。そして必ず、単なる情報提供、時事解説にならないように、必ず私なりの分析視点や情報を入れて来たつもりである。

ただ、最新号の第91号では、敢えて時事ものではなく、カリマンタンで森林火災の消火活動と慣習法社会の復興を目指す若者に焦点を当てた。こうした若者の存在に、これからのインドネシアへの希望をみるからである。

私自身、これまで、インドネシアの各地を歩き、その地方地方で多くの若者たちに出会ってきた。彼らの希望と苦悩、意欲と諦め、現実への不満と体制への従順など、「インドネシアの若者は・・・」などと簡単に一括にできない姿をそのまま受け止めようとしてきた。

実は、今回取り上げたスマルニ・ラマンさんとは面識はない。彼女について書かれたいくつかの記事を踏まえて書いた。そして書きながら、本人に会いたい、中カリマンタン州の彼女の現場で会いたいと思い始めた。

彼らの強さは、現場を踏まえていることにある。自分たちの生活環境が脅かされる日々。気をつけないと自分の家に火が延焼してくる危険を常に感じる生活。誰かが対処してくれるのを待つ余裕はない。そして、消火や防火をしながら、なぜこのような事態がここで起こっているのか、自分のこれまでの人生や家族・祖先などからの教えの中からその根本原因を探ろうとする。都会の高名な権威ある専門家から教わったのではない、自分自身で考えて考えて編み出そうとしてきた思考の継続をもとにして動いている。

本当に、彼らにとってはまさしく自分事なのである。

環境破壊が進んでいったら、自分たちが自分たちでなくなる。ダヤックでなくなる。ダヤック族というのは、身体的なものだけでなく、彼らの生活空間や歴史的に続く精神認識や自然環境を含めて形成されるものだからである。自分たちのいちばん大切なものが消されていく・・・。その感覚は、私の含む外部者がどれだけ彼らに共感や同情を寄せても、理解できるものではないと思う。

そして、理解できないから、外部者が外部者の利益のために、地元の人々の生活空間を破壊していく。そこには、土地に染み込んだ人間と自然の記憶への想像力などありえない。

我々が遠くの安心できる場所から「地球環境を守れ」と唱えるのと、生活を破壊された彼らが訴えるのとはその深さは大きく異なる。しかし、スマルニ・ラマンさんたちの生活空間が壊されることと地球環境を守ることとはつながっている。

我々は、スマルニ・ラマンさんの居るところから遠くにいるから安全なのではない。彼女らの生活が破壊されることは、地球環境が破壊される無数の事象の一コマなのである。それに我々が気づかないとしたら、それは、「福島から270キロ離れているから東京は安全だ」と演説した愚か者の感覚と大差ないのかもしれない。

インドネシアの若者、とくに地方の若者の環境問題への感度は、我々が思うよりもはるかに高いと思う。それは日夜、自分たちの生活が脅かされているからだ。他方、インドネシアの現政権は、国民をもっと豊かにするための開発を優先し、インフラ整備や食糧増産を主とし、それに大きな影響を与えない範囲で環境を守る姿勢を見せている。

インドネシアの環境問題、とくに熱帯林保全や海洋保全は、グローバルな環境問題と直結している。目の前の泥炭林火災は、そのローカルだけの問題ではなく、膨大なCO2排出などを通じて、地球環境に影響を与えていく。ローカルの問題がグローバルと直結している、まさにグローカルの視点で見なければならないのである。

だからこそ、現場で環境問題と闘うインドネシアの若者たちの存在を我々が知ることが大事だ。そう思って、今回の原稿を書いた。これからも、そうした若者たちの姿を追っていく。そして、ローカルで彼らが孤軍奮闘しているのではなく、たくさんのグローバルな世界での個人がその活動を見守り、応援していることを示したい。

いうならば、スマルニ・ラマンさんらは、我々の代わりに環境問題と闘っている、とでもいえるか。そして、我々も、彼らの代わりに、各々の現場で各々のレベルの環境問題と闘っているといいたい。

地方の現場で環境問題と闘うスマルニ・ラマンさんらとどこかで知り合い、彼らの活動を適切に支えられる人の輪を創っていきたい。そして、様々な「スマルニ・ラマンさん」を見つけ出し、彼らを外部へ紹介し、彼らを見守り、連帯する仲間を増やしていきたい。

ローカルとグローバルが直結するグローカルな問題としての地球環境問題。自分の生活空間を守るためではあっても、結果的に、熱帯雨林や珊瑚礁の海を我々の代わりに守ってくれるローカルの人々を我々が支えられる仕組みをみんなで一緒に創っていきたい。

2021年4月5日月曜日

復活祭を祝う島々をサイクロン「セロジャ」が襲った

ようやく日本でも報道され始めたが、インドネシア南東部、西ヌサトゥンガラ州スンバワ島付近から東、東ヌサトゥンガラ州のほぼ全域、さらに東ティモールへ至る広い地域で、サイクロン「セロジャ」による暴風と洪水が発生し続け、現時点で100人以上が死亡し、多くの人々が家を失うなど甚大な被害が発生しているようだ。


SNSやTwitterには、河川の増水で流される橋、濁流にのまれて横転するバイク、破壊された家屋、浸水した集落などの生々しい写真や動画が次々にアップされている。


この地域は島嶼部で、たくさんの島々から成り立っている。このため、100人以上が死亡といっても、それはあくまでも確認できた数字である。孤立・寸断された地域が無数にあり、停電が続き、通信手段が途絶している状況を考えると、被災者・死者の数は我々の想像以上に及ぶ可能性が大きい。

住民の多くは敬虔なカトリック教徒であり、4月2日からの復活祭を平穏に祝うはずだった。「セロジャ」はその復活祭に時期を合わせたかのように、復活祭を祝うはずだった人々の暮らしを破壊してしまった。

もともと、東ヌサトゥンガラ州から東ティモールへかけては、年間降水量の少ない、乾燥した土地である。雨季も短く、乾季に水をどのように確保するかが最大の課題となるような地域だった。このため、降水量が年間を通じて多いジャワ島のような肥沃な土地は少なく、米作などの農業には適さない場所として知られる。米以外のトウモロコシやキャッサバなどの自給的農業生産と畜産・漁業などで生計を立て、同時にマレーシアやジャワ、スラウェシなどへの出稼ぎに頼る面も大きかった。

そんな、水に恵まれない土地に襲来した「セロジャ」は、恵みの雨どころか、人々の暮らしを破壊するような雨と風をもたらしてしまった。人々の多くはきっと、こんな雨や風をあらかじめ想定した暮らしをして来なかったに違いない。残念ながら、乾燥したこの地でどうやって水を確保するかは常に考えていたに違いないが、まさか洪水が起こることを想定して対策をしようなどということはなかったのではないかと想像する。

この地域の人口は、ざっとみて1,000万人前後であり、インドネシアの全人口2.7億人、ジャワ島の人口1.45億人からみるとわずかであり、首都ジャカルタの人口にほぼ等しい。毎年のように雨季にひどい洪水の被害にあっているジャワ島の人々からすると、今回の「セロジャ」によるこの地域の被害が相対的に甚大になることをなかなか想像できないのではないだろうか。

今回の事態を見ながら、1996年2月のある出来事を思い出した。当時、私はジャカルタにいた。4月からのマカッサルでのJICA専門家業務の準備をしていた。あの日、パプア州で大地震が起こり、ビアク島が大津波に襲われ、多数の人々が亡くなった。ちょうどその頃、ジャカルタのメディアでは、断食明け大祭前の帰省ラッシュの様子がずっと報じられていて、ビアクの惨事については一切報道がなかった。国軍が救援機を飛ばしたのは、断食明け大祭になってからのことだった。ビアクは忘れられていた。

今回も、ジャカルタで話題になっていたのは、コロナ禍にもかかわらず、あるセレブの結婚式が行われ、それにジョコウィ大統領やプラボウォ国防大臣が出席したことだった。ビアクから25年たった今でも、東ヌサトゥンガラは忘れられているのか。

BBCは、「セロジャ」による洪水被害の拡大について、地方政府が森林伐採を進めた住民を非難し、環境NGOが政府の環境政策を批判するという、責任のなすりつけ合いをさっそくしている様子を報道している。今は何をすべきなのか。それをともに考えることはまだできていない。

2021年4月4日日曜日

相対性を意識させる学びの場をつくる:田谷さんの魔法について

私の契約最後の国際機関日本アセアンセンターのASEAN最新事情ウェビナーでは、福井県の農園たや代表の田谷徹さんをお招きし、「ASEANと日本の人材育成~福井の技能実習生の事例から~」と題して講演していただいた。田谷さんとは、もう20年以上のお付き合いがある。

講演では、技能実習制度の実態と福井の農業の現状について話した後、技能実習生を受け入れている農園たやでの取り組みについて語ってもらった。

福井でのとくに農業での人手不足の背景には、米作に偏重した農業構造とともに、地元の若者の農業離れ、というか、若者が地元のコミュニティへの関心を失っている現状があることが指摘された。

若者が地元コミュニティへの関心を失っているのは、様々なコミュニティ内の人間関係やしがらみ、長年にわたる慣行や風習への硬軟取り混ぜた強制などが自分という個を束縛し、規制することへの反発なのかもしれない。そう思うのは、故郷・福島を離れて東京へ出てしまった自分自身の経験がもとにある。地元は好きなのに、そこに留まるといろいろと面倒なのだ。

そんなところへやってくるのが技能実習生。本来、技能実習制度は、日本で技能や技術を学び、それを母国で活かすことが期待される国際協力事業のはずだが、現実には、2~3年間よそへ移動できない労働力として人手不足軽減を目的として実施されている。それは、実は、技能実習生を労働需給のために利用することを禁止する技能実習法に違反している。すなわち、人手不足を理由に技能実習生を受け入れている企業や事業所はすべて法律違反なのである。それが黙認されることで、日本経済の底辺が支えられているのが現状なのだ。

田谷さんの農園たやもインドネシア人技能実習生を受け入れている。ただ、人手不足を補うために誰でもいいから来てほしい、というのとはだいぶ異なる。田谷さんは、インドネシアの農業高校と協力し、その卒業生を受け入れている。日本と同様、農業高校といっても、卒業生の多くは農業以外の職業に就職する傾向が強まっている。だから、田谷さんのところへ来る技能実習生もまた、必ずしも農業を志しているとは限らない。

それでも、田谷さんは受け入れる。農園たやの農作業も担ってもらうが、何より大事にしているのは、彼らが帰国後にどうするのか、ということである。そのために、彼らに帰国後のビジネスプランを意識させ、段階を踏んでそれを完成させる。帰国前にはそれを発表させる。そして、帰国後の彼らをモニタリングし、そのビジネスプランがどう実施されているか、されていないか、定期的にチェックし続ける。

コロンブスの卵だった。つまり、多くの場合、技能実習は、実習生を受け入れる企業や事業所のニーズが最初にあり、人手不足という問題がある程度充足されれば、それで終わりになる。実習生が母国に帰ってからどうなるのかに関心がない。しかし、技能実習は本来、実習生側のニーズ、すなわち、技能や技術を学ぶ、ということから始まるものなのである。

しかし、その実習生もまた、日本へ来る実際の目的は、技能・技術の習得ではなく、渡航などにかかった借金を返済するためのお金を稼ぐことである。人手不足で誰でもいいから来てほしい企業や事業所と、どこでもいいから金を稼ぎたい実習生との間で、奇妙な思惑の一致があり、現状を変えることが難しくなっている。

私自身は、技能実習制度を、実習生のニーズから始め、そのニーズに日本の受入側を合わせるという、本来の形にすべきであると考えてきた。そのために、彼らの母国の地域レベルでの技能・技術ニーズを丁寧に追い、できれば、その地域の行政や学校・職業訓練機関などを通じて実習生が日本へ送り出され、彼らを受け入れてニーズを満たす技能・技術を教えられる日本の企業・事業所を探してマッチングさせ、2~3年の実習期間と帰国後のモニタリングをしっかり行い、技能実習の成果が母国の送り出し地域でどのように生かされたかを検証できるようにしたいと考えてきた。

だが、田谷さんの講演を聴いて、少し考えを改める必要が出たように感じた。

田谷さんはいう。実習生は別に何かを学びたいという強い動機や意欲を持ってなくても良いし、金を稼ぎたいという目的で来てくれてもよい。でも、日本で技能実習をしている間に彼らに魔法がかかる。彼らが帰国後にどうありたいのか、どうしたいのか。それを主体的に考えるように魔法がかかる。そう、田谷さんのところで受け入れた実習生には魔法がかかるのだ。

田谷さんは実習生に帰国後の自分のあり方を強く意識づける。それを促すのが帰国後に実現したいビジネスプランづくりである。彼らにとってそれは自分事。農作業を行いつつ、試行錯誤しながら自分の将来を考える彼らのプロセスに田谷さんは徹底的に付き合う。

そして、母国であるインドネシアと日本との違いを理解し、帰国後に母国で実現させるビジネスプランをつくるうえで、母国インドネシアを相対的に見る視点を獲得する。すなわち、日本に来ていることを生かして相対性を意識させるのである。

自分の将来を考え、現実的なビジネスプランを作成するなかで、彼らの中から様々な学びを得たい、そのためにどこそこへ見学・視察へ行きたい・社会見学したい、という気持ちが出てくる。田谷さんはヒントは出すが、どこへ行くか、行って何を学ぶのか、どのような交通機関を使ってどのように行くか、すべて実習生が自分たちで調べて行動するように促す。このプロセスで、実習生は電車の乗り方やきっぷの買い方なども主体的に学ぶ。

あたかも、高校生の自分で組み立てる修学旅行のような、大学生の自分で組み立てるゼミ旅行のような、そんな様相である。実習生が自分のために自分で学ぶ環境を作っていくのである。

田谷さんの魔法とは、これなのだ。実習生が自分の将来を意識し、田谷さんの適切な助言や導きを受けながら、主体的に自分のビジネスプランを創り上げていく。それは自分の将来に直結するビジネスプランである。

自分の将来に直結するビジネスプラン。最初はお金を稼ぐために来た実習生が、田谷さんに魔法をかけられ、自分の将来を考え、その実現へ向けて主体的に動いていく。

田谷さんは、技能実習生に対して、相対性を意識させる学びの場を創っていたのだ。そして、彼らの将来を見守っていく「親」のような役割を果たしている。

このような技能実習ならば、実習生がたとえ学びを意識しないで来日しても、魔法がかかって学ぶようになるだろう。それは自分の将来のための学びになるのだから。

そして、ふと気づいた。

これは、技能実習生に限った話だろうか。

もし、日本の若者にも同じような魔法がかかったら、自分の将来のための学びになるだろうか、と。

ただ、その学びは、若者を地域コミュニティに留めることを目的とすべきではない。むしろ、敢えて、自分の地域コミュニティとは異なる地域コミュニティに2~3年間かかわり、農作業をしながら、自分のビジネスプランを作り上げていく。大人たちは、若者が地域コミュニティに留まることを期待しても構わないが、決して強制してはならない。そんな若者を温かく見守っていく。たとえ、その若者が学びを得た土地を離れたとしても。

そんな学びの場が各地に生まれてくれば、なにかが変わってくるのではないか。

若者を地域に固定するための移住を半ば強制するようなやり方は、やめたほうがよいのではないか。それならば、若者が地域コミュニティから離れていく理由を、まずは、自分たちの胸に手を当てて、省みることから始めるのではないか。自分がもし若者だったら、この地域コミュニティにいたいと思うか、と。

地域コミュニティの魅力を高めるのが容易でないとしても、そこを学びの場にすることは可能なのではないか。その学びとは、よそから来る若者たちの将来を共に考え、彼らが主体的に自分の将来をビジネスプランのような形で明確にさせていくプロセスを伴走する、そういう大人に自分たちが変わることではないだろうか。たとえよそから来た若者が定着せずにまたどこかへ行ってしまったとしても、その若者の将来を温かく見守れる、そんな若者を輩出する学びの場であることに誇りを持てる、それがいつの間にかその地域コミュニティの新たな魅力になっていく、ということがあってもよいのではないか。

学びの場では、教えることも必要だが、学びを促すことのほうがずっと大事だと思う。学びを促す手法を学びながら、実習生や若者をよそから受け入れる側自身が変わっていく覚悟と柔軟性を保つ必要があることは言うまでもない。

田谷さんの講演を思い出しながら、日本の地方をそうした実習生や若者にとっての「学びのワンダーランド」にするような、何らかの働きかけをしてみたくなってきた。田谷さんのような「学びの場」をつくる同志が日本のあちこちに、いや、世界のあちこちに生まれてきたら、なんて思ってしまう。

2021年4月2日金曜日

日本アセアンセンターの仕事、とりあえず終了

昨年10月から半年間、国際機関日本アセアンセンターの外部招聘コンサルタントという肩書で、合計12回、ASEAN最新事情ウェビナーを企画、実施してきた。今回の契約期間は6ヵ月間ということで、ひとまず、同センターでのウェビナーの仕事は終了した。

この間、ウェビナーにご参加いただいた皆様には深く御礼申し上げます。拙い進行役、拙い私自身の講演でお聞き苦しい点やご批判等もあろうかと思います。この場を借りて、そのような感想を持たれた皆様にお詫び申し上げます。

思ったよりも自由にウェビナーを企画させてもらえて、センターには深く感謝している。また、ウェビナーをどのように行なったらいいかについても、随分といろいろなヒントや助言をいただけた。

12回のウェビナーは、すべて、私が話してもらいたいと思った方々に話していただき、そのすべての方々が私の予想や期待を大きく上回る内容の話をしてくださったと思う。講演車の方々とは、進行の手順や講演内容は共有したものの、質疑応答やそれに付随した私からの関連質問などは、即興的なもので、なんだかジャズのセッションのような、呼べば応える、本当に嬉しく、楽しく、ありがたいひとときだった。

半年間のセンターとの契約は終了したが、今後、またウェビナーの企画や実施をすることになるかどうかは、全くわからない。私のやり方を支持する人も否定する人もいることだろう。どのようなものであっても、そうですよね、と受け止めるだけである。

私自身は、私自身からの発信を強めていきたいと考えており、その中には当然、今回のようなウェビナーやオンライン会議を考えている。幸か不幸か、4月はわりと時間があるので、この機会に準備を整えて、発信していくつもりである。準備ができたら、皆さんにお知らせしたいと思う(なかなか準備ができなかったとしても、どうかご容赦を、と前もって予防線を張っておこう)。

日本アセアンセンターでの最後のウェビナーとなった3月31日の田谷徹さんの講演だが、個人的に、様々な示唆を得た。色々なインスピレーションが湧いてきた。目からウロコに近い話もある。

それらについては、できたら明日以降、このブログに書いてみたい。

2021年4月1日木曜日

4月からブログ再開

結局、3月はこの個人ブログを書かずじまいで終わってしまった。新年度のスタートだからというわけではないが、今日4月1日から少しずつ書き始めることにしたい。

この「ぐろーかる日記」は、一時、弊社法人サイトに掲載することとしたのだが、やはり、個人的な何気ない内容を書き留める場として、続けていきたい。これまでよりも、よりありふれた日常や個人的な考えなどを書く場になるだろう。

法人業務である地域づくり、ビジネス支援、国際協力に係る調査、アドバイス、コンサルティングに関する内容は、法人サイトに掲載する。インドネシアに関する情報・分析は、法人サイトで引き続き行う。

このブログでは、地域づくり、ビジネス支援、国際協力に関して個人的に思っていることや、その他、美味しいもの、面白いこと、身の回りの小さな出来事、家族の話、世の中の様々な物事へのコメント、などを徒然なるままに書いていくことにしたい。