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2019年1月13日日曜日

教えないコンサルティングを目指して

自分は一応、コンサルタントと名乗っています。敢えて、教えないコンサルティングを標榜していきたいと思っています。

以前、JICA専門家でインドネシア政府に対する地域開発政策アドバイザーを務めたとき、アドバイザーやコンサルタントがどのような仕事だと見なされているかを理解しました。

ひと言でいえば、解決策を示してくれる仕事。

こうすればこうなるから、私が言ったとおり、このようにしなさい。そのようにペーパーを書いて、助言する。問題を解決してくれるスーパーマン、と言っても間違いではないでしょうか。

コンサルタントはその解決策を示して、対価としての報酬を受け取りますが、それを実行するのはコンサルタントにお願いした側です。

実行すると、コンサルタントが作文したとおりにはなかなかうまくいかないし、さらなる助言を求めるとなると、コンサルタントにさらなる報酬を支払わなければならなくなります。

コンサルタントは、「それは実行する能力が不足しているからだ」と言って、能力向上のための新たな研修プログラムの導入を勧めます。

その研修プログラムを導入した側は頑張って、能力向上の印として終了証をもらいます。そして、再び、コンサルタントの解決策に取り組みますが・・・。

コンサルタントという語を援助供与国・機関と置き換えても同じでしょう。

インドネシアでも日本でもどこでも、今日もまた、これと同じような出来事が起こっているかもしれません。

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この場合、コンサルタントが示した解決策は、本当に正しかったのでしょうか。コンサルタントが解決策を導くプロセスに、相手側はどれだけ関与したのでしょうか。

まず、最初の問題設定が間違っていたとしたらどうでしょうか。そう、最初にボタンの掛け違いが起こっていたとしたら、です。

相手側からすれば、都会から来たコンサルタントがいう問題設定が、まさか間違っているとは思わないかもしれません。思っていたとしても、「頭がいい人が考えたんだからきっと何か真実があるのかもしれない」「コンサルタントは組織トップの知り合いだし、政治家からの紹介でもあるから、間違っているなんて言って怒らせたらあとでどうなることか」などと考え、口をつぐむかもしれません。

次に、コンサルタントの仕事に相手側はどれだけ関わってきたでしょうか。住民を集めた公聴会なども開かれるかもしれませんが、そこでの発言に何らかの忖度が全くないと言い切れるでしょうか。

問題解決へ向けて、本音が出ているでしょうか。

本音が出るためには、その場が何を話しても安心できる場でなければなりません。そういう場をコンサルタントは作れているでしょうか。

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自分は、相手に問題解決を教えに行くのではなく、相手から本当の問題は何かを教えてもらいに行くという立場を採ります。

ちょっと、危なっかしいでしょうか。大丈夫か、この人は、と相手から思われるかもしれません。

もちろん、相手とお会いするまでに、二次情報だけでも、入手可能な限りの情報は収集し、できる限りの相手や地域に関する情報は頭に入れておきます。その段階でできる、自分なりの仮説も立てておきます。

でも、それは、自分の中に閉まっておきます。まずは、相手から教えてもらいます。

相手から話をお聞きしながら、簡単な対話を始めます。相手が答えやすい対話を続く限りしていきます。そのプロセスのなかで、自分が頭に入れてきた情報の再整理を行い、仮説の修正を続けていきます。

相手に対して、最初に「問題は何ですか」とは絶対に訊きません。だって、問題が分かっていれば、解決策もおのずとわかるはずだからです。

対話を続けながら、最初に「問題」と思っていたものが本当にそうなのか、違う角度からみなければならないのではないか、実はもっと違うことが「問題」だったのだ、というような気づきが起こっていくこともよくあるものです。

対話のプロセスを通じて、相手が納得する「問題」にたどり着いたとき、相手はそれが自分自身とも関わりのある「問題」だと認識できるのではないでしょうか。

ここで初めて、「問題」に対して相手がオーナーシップを感じ始める。すると、その「問題」は、誰かよそ者に解決してもらうのではなく、自らもその解決へ向けて関わっていかなければならない。自分事として認識するようになります。

そうなれば、後は、コンサルタントが何を言おうとも、自分たちで捕まえた真の「問題」を解決しようと自分たちで動き始めるのではないでしょうか。そうなれば、コンサルタントの立場は助言を適宜与える程度の従となり、いずれは必要とされなくなる存在となります。

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私は、そのような、教えないコンサルティングを自分のモットーとしていきます。

地域をこれからどうしていったらいいか分からない、という漠然とした不安を持った方々とお会いし、対話を続けたいのです。そして、いつの間にか、コンサルタントが何かするのではなく、そこの方々が自分で何かしていくようにコンサルタントが適切に促す、という転換を起こしたいのです。そして、必要がなくなれば去る、という具合です。

インドネシアでも日本でも、様々な地方の実状を知りながら、そんな風に思っています。教えないコンサルティングは確実に求められている・・・、と。

そして、これは、日本全国の地方をめぐりながら、その土地土地の人々の話を丹念に聞き、適切な助言を行い、勇気づけ励ましてきた、尊敬する宮本常一氏の生き方に近づくことなのかもしれないと改めて思いました。

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でも、それはどうやってビジネスとなるのか。対価をどうもらうのか。

そこが当面の大きな課題です。家族をどうやって養っていくのか。自分たちがどうやって生活していくのか。

日々、できる限りの経費節約に努めつつも、現実の世界に目をつぶるわけにはいきません。自分なりの生活を成り立たせる経営モデルを造らなければなりません。

それでもなお、私は、教えないコンサルティングを目指していきます。

こうしたやり方に価値を見い出していただける方々と一緒に、まずは活動していきたいと思います。私と対話してみたいと思われる方は、いつでもご連絡ください。

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1月13~19日は、インドネシア・アチェへの出張へ行ってきます。羽田空港国際線ターミナルは、キラキラしていて、まぶしいぐらいでした。



2019年1月10日木曜日

ふくしま光のしずくイルミネーション

1月8日、福島を発つ前に、パセオ通りの光のしずくイルミネーションをちょっと眺めました。




今や、全国どの地方都市でも、冬にこうしたイルミネーションをつけるのが流行っています。このときは、パセオ通りを歩く人影も少なく、青っぽい色の光だったこともあり、ちょっと寂しい感じがしました。

寂しい感じ・・・。それは、45年以上前のにぎやかなこの通りをどうしても思い出してしまうからです。

あの頃、私がまだ小学生だった頃、この通りは、すずらん通りという名の福島で最もにぎやかなアーケード商店街でした。

おもちゃを買うのはトイランド、運動用品はオノヤ、文房具はくさの、美味しい果物は阿部庄、音楽関係はあきたやか日野屋、といった名店が揃っていました。

トイランドもくさのも、とっくの昔になくなってしまいました。オノヤは別の場所へ移転しましたが、あとの店はまだパセオ通りに健在です。

子どもの頃、母親や弟たちとトイランドへ行くのがどんなに楽しみだったことか。くさので好きな文房具を選ぶのがどんなにうれしかったか。

私の子ども時代の思い出がすずらん通りにはいっぱいありました。

45年以上経って、再びあの頃を思い出しながら、その年月の長さと移ろいゆく街の景色をずっとかなたに眺めていました。

そこにきらめいていた光のしずくイルミネーション。

私には、どうしても、力がなくなって弱くなってしまった街の涙のように思えて仕方がありませんでした。

時代は変わったんだよ、と、パセオ通りという名になった元すずらん通りがポツリとつぶやいた気がしました。

ユーミンの「あの日に帰りたい」を口ずさんでしまいました。

2019年1月6日日曜日

古民家の囲炉裏を囲んで新年の宴

1月5日は福島へ戻り、囲炉裏を囲んで新年の宴をしました。


我がオフィスのある福島市泉の敷地内には、明治6年に建てられた茅葺屋根の古民家で国登録有形文化財である「佐藤家住宅」があります。

そして、「佐藤家住宅」の北側に、30部屋ほどのサービス付き高齢者向け住宅「しみずの里」を建設中です。「しみずの里」は本年4月オープン予定で、入居者を絶賛募集中です。詳しくは、以下のサイトをご覧ください。ご興味のある方は、私のメールアドレスまでご連絡ください。

 しみずの里ホームページ
 しみずの里ブログ
 しみずの里インスタグラム

「佐藤家住宅」全景。手前の池は泉という地名の基になった泉。
145年前に建てられた「佐藤家住宅」はもともと養蚕農家の茅葺きの家で、
佐藤家は元県知事も輩出した名家。(2017年4月撮影)

今回の新年の宴は、「佐藤家住宅」と「しみずの里」に関わる方々の新年会でした。

囲炉裏を囲んで餅を焼き、福島の正月料理を食べ、竹を切った特製お猪口でとっておきの日本酒を味わう、という催しでした。


何といっても、福島を代表する正月料理と言えば、いかにんじん。松前漬から昆布を抜いたようなものですが、両者には関係があるようです。
「時代は幕末。幕府が梁川藩(現伊達市梁川町)と松前藩(現北海道松前町)の領地を移し替える国替えを行った。その時、いかにんじんが北海道に渡ったのか、松前漬が本県にもたらされたのかは定かではない」(出所:【食物語・いかにんじん】ルーツ謎めく名脇役 素朴な味わいと食感
下の写真の左上がいかにんじんです。


日本酒も美味しく、正月料理もはずんで、いつもよりずいぶん飲んでしまいました。寒かったですが、囲炉裏の火を見ていると、本当に心が和んでくるのが分かります。

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今年は、サービス付き高齢者住宅「しみずの里」が4月にオープンするのに合わせて、国登録有形文化財「佐藤家住宅」を管理・運営するための法人化を含む組織づくりを行っていきます。

この「佐藤家住宅」をめぐる空間を、サービス付き高齢者住宅「しみずの里」の入居者だけでなく、地域住民の方々、外国の方を含む地域外の方々、子どもたちからお年寄りまで、誰もが楽しく、気持ちよく、生き生きと過ごせる空間にしていきたいと願っています。

よろしければ、「佐藤家住宅」を一度見にいらっしゃいませんか。また、この空間で何か催し物をしてみたい方、一緒に何かしてみたい方、古民家再生に関心のある方などいらっしゃいましたら、私のメールアドレスまでお気軽にご連絡ください。

勉強会、読書会、懇親会、ワークショップ、セミナー、お稽古ごとの練習、ゲートボール、子どもの遊び場、演奏会、映画上映会など、いろいろできると思います。

今年8月、ちょっと面白い企画がこの空間で行われるかもしれません。まだ構想段階ですが、どうぞお楽しみに。

2019年1月3日木曜日

我が家の近所の一風変わった「門松」

妻と一緒に、近所の天祖神社へ初詣に出かけました。

自宅近くの大塚駅南口は、天祖神社の門前町のような雰囲気を今も残しています。そこで、よくイメージされるのとは異なる「門松」を見つけました。


店の両端に背の高い竹が立てられ、その間の軒先に注連飾が掛けられています。竹の高さは2メートル以上あり、葉はついたままです。

他の店にも、同様の「門松」を見かけました。





地元民である妻によると、彼女がまだ小さい頃の年末の商店街は、どの店にもこうした「門松」が立てられ、高いところの竹の葉が、ずうっとたくさん揺れていたそうです。

かつては、毎年、鳶(トビ)の親方が売りに来る「門松」用の竹を買って、正月過ぎまで立てて、その後は、竹は洗濯物を干すための竿竹にしり、先端に切り込みを入れて柿の木の柿をとったり、短く切って垣根にしたりと、自分の家で使ったそうです。

妻の祖母や母は、そうした竹を活用する術を知っていて、毎年、「門松」あがりの竹を色々使っていたようです。

長い竹を使った「門松」を立てている店や建物は、昔から存在するところばかりです。その数は、片手で数えられるぐらい、本当に少ないものでした。

すなわち、大塚駅の周辺の物件のほとんどは、新しいものばかりだと言えます。第二次大戦後ほどなく、大塚駅のとくに北口の物件の多くは、新しくやってきたよそ者(外国籍の方々を含む)に買われたと言います。昔からの住民が所有する物件は多くありません。

今も、店の盛衰が激しく、一年も経たずに新しい店へどんどん取って代わられていきます。そんな物件には、「門松」は全く見当たりません。

先の長い竹を使った「門松」は江戸時代からのもののようです。鳶の方々がずっと伝えてきたもので、彼らの年末の重要な仕事であり続けたのでしょう。

長い竹ではなく、途中で切った竹を使うバージョンも幾つか見られました。


我が家の門の前の門松も、このバージョンです。毎年、旧知の鳶の方がやってきて、クリスマス前に立ててくださいます。そして、松が明けると撤去してくださいます。

ちなみに、大塚駅北口から自宅までの間で、「門松」を立てているのはわずか2軒でした。いずれも、妻が幼い頃から存在するお店でした。

我が家のすぐ近くで、かすかに残っている「江戸」を感じられたひとときでした。

2019年1月2日水曜日

5年単位で人生を振り返る~新年を迎えて

新しい年を迎えました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

昨年(2018年)も、色々なことがありました。楽しかったこと。嬉しかったこと。悲しかったこと。辛かったこと。様々な出会いととても悲しい別れがありました。そして、おめでとうと心からは言えない人々のことを思いました。

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これまでの人生を振り返ってみると、おおよそ、5年ぐらいの単位で区切りがあり、その次のステップへ繋がってきたような気がします。

大学を卒業した後、研究所に入所した後の5年間は、研究者の卵としての修業期間でした。毎日、インドネシア語の新聞・雑誌と格闘していました。

その次の5年間は、2年間のジャカルタ滞在を経て、社会からは一人前の研究者と見なされていく期間でした。インドネシア研究者として必要なインドネシア語と日本人とほとんど接触を持たない現地生活体験を積み、帰国後は日本の産業政策を学ぶ機会を得ました。

その次の5年間は、研究所を休職し、JICA専門家(地域開発政策アドバイザー)としてインドネシアのマカッサルへ。地方の現場を歩き回り、関係者と議論する日々でした。研究者としての自分と実務家としての自分とが両立し始めました。

その次の5年間は、日本の地域おこしや地域づくりについて学ぶ期間となりました。インドネシアの地域開発政策に関わったことで、日本の地域を知らなければならないと痛感したためです。地元学やファシリテーションともこの頃に出会えました。

その次の5年間は、再びマカッサルに滞在し、マカッサルの地元の若者たちに家を解放して彼らとともに皆で使える公共空間を造りました。この公共空間から前衛芸術、パフォーマンス・イベント、作家養成講座など様々な活動が生まれていきました。

その次の5年間は、研究所を退職してフリーになり、日本とインドネシアに複数拠点を置き、両者をつなげる活動を試み始めました。この間に東日本大震災が発生し、故郷である福島のことを思いつつ、何ができるかを試行錯誤しました。

その次の5年間は、いったん日本へ拠点を戻し、福島での活動を模索しながら、個人事業主だったのを一人会社として法人化し、福島に登記しました。東京の自宅、福島のオフィス、インドネシア各地を行き来しながら仕事するスタイルができ始めました。

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そんな歩みをしながら30年以上が経過しました。

振り返ってみて、こんな人生で本当によかったのだろうか、という思いがしばしば浮かびます。

自分の後ろ盾になってくれるようなしっかりした組織や大立者がいるわけではありません。自分の言動や行動は、すべて自分の責任で行わなければなりません。

でも、裏を返せば、自分がまだ自分でいられる、ということでもあります。何事も、自分の頭で考え、自分で責任をとっていかなければならない、自立していなければならない、ということでもあるわけです。

今さら言うほどでもない、あたりまえのことなのですが。

社会的名誉や地位や肩書とは縁遠い世界で、自分らしさではなく、自分をどうつくり続けていくか。頼れるものは、自分を信頼してくださる方々との関係以外ないのですから、一つ一つの関わりをできる限り丁寧に大事にしていくことが肝要なのだと実感しています。

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世界のどこかでそこの人々と一緒になって新しい何かを創りたい。

研究所に入所するときに抱いた、この漠然とした初心は、今も忘れることはありません。これまでの人生を振り返ると、それが可能な場所に自分がいる状況へ、少しずつ動いてきたようにも思えます。そのために必要な知識や経験を積む機会を得ながら。

でも、初心は少し変わったのかもしれません。

今は、私が何かを創るのではなく、そこの人々が自ら創ることを一緒になって促し、そこで新たな価値が生まれるプロセスに関わり、その価値がそこの人々によって大事にされ、高められるようになったら、私はそことの関わりを終えて、次の場へ移っていく。

化学反応における触媒。目指すものは、それです。

私は私。

これからも、自分の人生が終わるまで、5年ぐらいの区切りで、新たな展開が続くのでしょうか。ただのごく普通の人間ではありますが、人間として少しでも深化していければとは思っています。