2021年9月20日月曜日

天祖神社の例大祭に秋を感じた

台風一過の昨日(9月19日)の東京は、久々の秋晴れ。日中はまだちょっと暑いが、久々に2人で散歩してみた。

そういえば、我が家も氏子になっている天祖神社の例大祭ではないか。新型コロナの影響で、昨年も今年も、町内会ごとのお神輿が街中を練り歩くのは中止。

新型コロナ前は、子ども神輿と大人神輿があった。学校に上がる前の娘もかつて「その他大勢」として子ども神輿を引いてお菓子をもらったものだ。我が町内会では神輿に加えて小さな山車もあり、代々引き継がれてきた笛太鼓のお囃子が聞こえてくると、あっお祭りだ、と思ったものだった。

昨年と今年は、天祖神社の氏子代表である各町内会代表が一緒に、神社の領域内をくまなく回る形で行われている。その範囲は、池袋サンシャインの東隣のイケサンパークから西巣鴨駅に至る、かなり広い範囲である。

天祖神社へ行くと、ちょうどお神楽が演じられていて、人々がパラパラとそれを眺めていた。



恵比寿さんや獅子舞が現れ、最後には、獅子舞が子どもたち(+昔の子どもたち)の頭をパクリ、パクリ。和やかで微笑ましい雰囲気が境内にみなぎった。

天祖神社にお参りして、お神楽を眺めて、そろそろ秋なのだなあ、と思った。

そういえば、日が陰るのがずいぶんと早くなった。

雲ひとつない真っ青な空。

巣鴨付近で見た北の空、まっすぐ水平な幾層もの薄雲に映える夕暮れの赤。

そして、東のビルの間から昇ってくる十三夜の月。

なにげない、ごくごく普通の光景がやけに美しい。

この地に暮らして、もう30年余になる。

2021年9月15日水曜日

皆んな逝ってしまった・・・

前回書いてからちょうど5ヵ月、ブログを書けなかった。忙しかったわけではない。本当に書けなかったのだ。

毎日が悲しくて、つらくて・・・。

思い出さなくて済むように、いつも何かを詰め込んでも、ふと空いた瞬間に思い出してしまう毎日だった。

どうして、どうしてなのだろう。わずか1年の間に、インドネシアで出会った大切な大切な方々があんなにもたくさん逝ってしまうなんて・・・。

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初めてジャカルタに住んだ1990~1992年、下宿していたラワマングンの大家さんである「母」、そして「母」が亡くなって1ヵ月もしないうちに、「弟」の一人も旅立ってしまった。ジャワ人の敬虔なカトリック教徒の家だった。

この下宿は、今も、私のアジトというか隠れ家として、ジャカルタに行くたびに潜んでいたところ。周りに外国人のいない、お金持ちもいない、ごくごく普通の人々の住む地域。「父」はもうだいぶ前に亡くなって、「母」を3人の「弟」と1人の「妹」が支えてきた。 

最初に感染したのは2番目の「弟」(次男)と奥さん。続いて、3番目の「弟」(三男)の奥さんが感染し、間もなく亡くなった。3番目の「弟」の悲しみはどれほどのものだったろうか。しばらくして、2番目の「弟」(次男)と奥さんが回復。その頃だった。「母」が危ない、という知らせが入ったのは。

「母」の回復を東京からひたすら願い続けたが、ほどなくして「母」は逝ってしまった。私がラワマングンに居るといつも食事を作ってくれる。一時期、足が悪くなって歩きにくくなったのに、私がアジトとして旧下宿に滞在するようになると、食事を作るのが楽しみで、あっという間に足もよくなり、元気になってしまった。30年前の下宿時代からずっと、「母」の料理は私のジャカルタの大切な記憶である。

「母」の料理で一番好きだったのがラクサ。マレーシアやシンガポールのとは一味違うラクサ。

(2018年5月12日撮影)

2番目の「弟」は1番目の「弟」と3番目の「弟」を連れて、アンチョールからスピードボートを出し、沖合で「母」の遺灰を海へ撒いた。そのビデオをFB経由で眺めていた。ジャカルタの海に行けば、「母」を感じられるはず。

しかし、話はこれで終わらなかった。「母」の遺灰を撒きに行った1番目の「弟」の感染が確認されたのである。1990年、ラワマングンに下宿してインドネシア大学大学院へ通う日々のなかで、最初に様々なあらゆることを教えてくれたのが、当時、インドネシア大学歯学部4年生だった1番目の「弟」だった。彼なしでジャカルタ生活がすんなり始められたとは思えない。彼は卒業後、歯科医になった。腕利きの評判の良い歯科医として患者さんから慕われていた。 

感染が確認された後、1番目の「弟」はすぐに病院に入れず、5日間待たされた。その間に症状が悪化、ようやくICUに入れたものの、その後まもなく亡くなった。

2番目の「弟」と3番目の「弟」は再び海へ出た。1番目の「弟」の遺灰をジャカルタの海へ撒くために。ジャカルタの海に行けば、「母」にも1番目の「弟」にも会えるはず。

そう思うと、あの汚れた、到底きれいには見えないジャカルタの海が、私にとっても特別な意味を持ってくるような気がしてしかたがない。

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失ったのは、ラワマングンの「家族」だけではない。1985年に研究所へ入所し、インドネシアと関わり始めてからずっと見守り、励まし、支えてくださった「父」も逝ってしまった。当時、すでに政府高官で、私がインドネシアに滞在する時には必ず保証人になってくださり、日本からジャカルタへ行くと言えば、必ず一保堂のほうじ茶を土産に持ってくるようにせがむ「父」だった。

「父」との思い出も数限りない。 2014年4月には、85歳の「父」をインドネシアから日本へ連れてきて、「父」に世話になった方々との再会の旅をエスコートした。東京だけでなく、私の故郷・福島、お世話になった方との再会のために宝塚、そして京都を旅した。

 
「父」と一緒に行ったときの福島市の花見山。桜が満開だった。(2014年4月17日撮影)

日本から戻った後、老齢ということもあり、「父」は何度か、死線をさまよったことがあったが、そのたびに蘇った。不死身だと思っていた。

「父」との思い出のなかには、私の心の奥底にずっとしまっておきたいとても大切な出来事があった。「父」は忘れているかもしれないが、「父」のおかげで私は今も生きているのだ。

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私にとって、とても大切なインドネシアでの「家族」。よりによって、どうして皆んなわずかの間に逝ってしまうのか。

一人になると、泣いた。何度も、泣いた。

「家族」以外にも、いったい、何人、インドネシアの恩人、友人、知人が亡くなったことか。

JETRO専門家時代に、公私にわたりお世話になったインドネシア商工会議所元事務局長。

そのときのディスカッションパートナーだった全国工芸輸出業者協会ジャカルタ支部長。

マカッサルで本当にお世話になったハサヌディン大学のWP先生、デザイナーのRさん。

亡くなる1年前にパルで再会し、またの再会を約束した中スラウェシ州政府高官である友人SAさん。

パプア州を訪問したときに世話になったジャヤプラの州政府高官のMさん。

皆んな、逝ってしまった。

自分のなかの「インドネシア」の根幹が音を立てて崩れていく・・・

自分の「インドネシア」を形作っていた大切な土台が消えていく・・・

もう、自分がインドネシアから離れるサインなのだろうか・・・

揺らいでいる。自分のなかの「インドネシア」が揺らいでいる・・・

36年かけて築いてきた大切な何かが崩れかけている・・・

 

いつかは、大切な「家族」や恩人、友人、知人とお別れしなければならないときが来る、といえばそうなのだ。それが今、一度に押し寄せてきた。

そんな時代もあったよね、といえるまでには、まだだいぶ時間がかかりそうだ。

思い出したら、また泣くだろう。泣けばよい、のだ。

インドネシアへ行けるようになったら、まずはお墓参りだな。


笑っている顔しか思い出せない。大切な大切な「家族」、恩人、友人、知人。

ありがとう。本当にありがとう。出会えて本当によかった。

2021年4月15日木曜日

新しい旅立ち?、一人暮らししていた頃を思い出した

新型コロナ禍がまだまだ衰えを見せないなか、4月になって、我が家でもいくつか新しい旅立ちを思わせるような日常が出てきた。

たとえば、4月から娘が一人暮らしをするということで、引っ越しした。といっても、都内なのだが、大学の授業の関係で、大学の近くに居を構えたという次第。自宅から通っても1時間ちょっとなのだが、電車に乗っているのがかなり疲れるらしい。でも、今学期も結局、オンライン授業が多い様子。親としては、一人暮らしが彼女の今後の自立へ向けての価値ある経験となっていくことを願うばかりだ。

一人暮らしを始める娘を眺めながら、自分の大学生活から妻と結婚するまでの独身生活の頃を思い出した。高校卒業前に大学を受けて全滅。というか、国立と私立の一つずつしか受験しなかった。「滑り止め」という言葉を知らなかった。あまりにも初心な田舎の受験生だった。

大学浪人中は、父の教え子で埼玉県に住んでいるSさんのお宅に下宿した。毎週、Sさんから世の中というものについて講話があり、ときには説教された。東京に出てきて分かったのは、世の中には様々な人々がいる、ということだった。最初は、今まで見たことないような人々に遭遇するたびに驚いていたが、時期に、それらは当たり前の光景になっていった。

毎日、予備校に通い、一浪して大学に入り、1~3年生は民間団体の運営する男子寮で生活した。親からの仕送りは寮費を含めて月5万円。家庭教師のアルバイトで3万円を得て、月8万円で生活した。サークルの関係で部屋に自腹で黒電話をひいたのだが、そのときには、貯金残高が数百円まで減って慌てた。

大学4年から就職1年目は、月1万8千円の家賃の6畳一間、汲み取り式トイレ、湯沸かし器なしのところに住んだ。その辺りでは最も築年数が古い建物だったらしい。風呂は銭湯だが、夜遅くなるなどして、何日も入れないこともあった。夜寝ていると、いつも天井裏でガタガタ大きな音がした。毎日、ネズミが運動会をしていた。冬はコタツと小さな電気ストーブで寒さをしのぎ、夏は扇風機で暑さをしのいだ。このような生活で、汗をうまく処理できず、子供の頃からの持病のアトピー性皮膚炎が極度に悪化した。

今思うと、快適な学生ライフをおくったとはとても言えなさそうに思える。経済的に余裕がなく、大学の友人たちとの付き合いをそれなりにしていくために、切り詰められるところは切り詰め、我慢できることはできるだけ我慢して毎日を暮らした。弟も大学に行っていたし、親も経済的に厳しかったので、仕送りを増やしてほしいとはいえなかった。

研究所に就職して、毎月それなりの収入を得るようになって、生活に少し余裕が出てきた。少しずつ貯金をしたが、当時のバブル全盛期の世の中がどこか遠い世界に感じるような日々を送っていた。あの頃から今に至るまで、自分のなかの生活スタイルや生活に対する意識が大きく変わったような実感はない。

持病のアトピー性皮膚炎が快方へ向かったのは、結婚して、生活がある程度安定し、インドネシアへ2年間滞在した後のことだった。結婚したおかげで、少しはまともな生活が送れるようになったように思える。

でも、今も、必要なもの以外は求めず、質素な生活を続けている。元々、お金持ちにはなれないと思っていたし、実際、現実もそうだった。

そう、自分は変われなかったが、時代は変わったのだ。

娘の引っ越しを手伝い、一人暮らしに必要なものを色々と準備しながら、彼女にはとにかく楽しく有意義な学生生活を送ってほしい、と思った。それは、親としての気持ちだ。でも、そんな娘をちょっぴりうらやましく思う自分もいた。

2021年4月9日金曜日

なぜ今回、森を守ろうと動く若者について書いたか

ここ数日間は、毎度のごとく、情報ウェブマガジン『よりどりインドネシア』の編集・発行とそれへの自分の原稿執筆で時間を費やしていた。それでブログの更新が遅れてしまった。

今回で91号。毎月2本発行しているが、発刊以来、1度も欠号を出していない。今年中に記念すべき第100号を迎えるのかと思うと、ちょっとワクワクする。『よりどり』で知り合った執筆者の皆さんたちがまたいい人たちで、いつの間にか、執筆者どうしでSNSグループをつくり、何かというと楽しそうにああだこうだと仲良くやっているのがとても良い。

そんな執筆者に加わる仲間をずっと募集中だ。インドネシアについて、何か書いてみたい方、いつでもご相談いただければうれしい。よほど常軌を外れた内容でないかぎり、ほぼそのまま掲載している。短い原稿もあるし、長い原稿もある。それぞれに趣があり、玉石混交なのが『よりどり』たるところと思っている。

私自身は、これまで、内容的なバランスを考え、インドネシアでホットな話題となっている政治経済・時事ネタを中心に取り上げ、現在進行形のまま、完結せぬまま、執筆してきた。そして必ず、単なる情報提供、時事解説にならないように、必ず私なりの分析視点や情報を入れて来たつもりである。

ただ、最新号の第91号では、敢えて時事ものではなく、カリマンタンで森林火災の消火活動と慣習法社会の復興を目指す若者に焦点を当てた。こうした若者の存在に、これからのインドネシアへの希望をみるからである。

私自身、これまで、インドネシアの各地を歩き、その地方地方で多くの若者たちに出会ってきた。彼らの希望と苦悩、意欲と諦め、現実への不満と体制への従順など、「インドネシアの若者は・・・」などと簡単に一括にできない姿をそのまま受け止めようとしてきた。

実は、今回取り上げたスマルニ・ラマンさんとは面識はない。彼女について書かれたいくつかの記事を踏まえて書いた。そして書きながら、本人に会いたい、中カリマンタン州の彼女の現場で会いたいと思い始めた。

彼らの強さは、現場を踏まえていることにある。自分たちの生活環境が脅かされる日々。気をつけないと自分の家に火が延焼してくる危険を常に感じる生活。誰かが対処してくれるのを待つ余裕はない。そして、消火や防火をしながら、なぜこのような事態がここで起こっているのか、自分のこれまでの人生や家族・祖先などからの教えの中からその根本原因を探ろうとする。都会の高名な権威ある専門家から教わったのではない、自分自身で考えて考えて編み出そうとしてきた思考の継続をもとにして動いている。

本当に、彼らにとってはまさしく自分事なのである。

環境破壊が進んでいったら、自分たちが自分たちでなくなる。ダヤックでなくなる。ダヤック族というのは、身体的なものだけでなく、彼らの生活空間や歴史的に続く精神認識や自然環境を含めて形成されるものだからである。自分たちのいちばん大切なものが消されていく・・・。その感覚は、私の含む外部者がどれだけ彼らに共感や同情を寄せても、理解できるものではないと思う。

そして、理解できないから、外部者が外部者の利益のために、地元の人々の生活空間を破壊していく。そこには、土地に染み込んだ人間と自然の記憶への想像力などありえない。

我々が遠くの安心できる場所から「地球環境を守れ」と唱えるのと、生活を破壊された彼らが訴えるのとはその深さは大きく異なる。しかし、スマルニ・ラマンさんたちの生活空間が壊されることと地球環境を守ることとはつながっている。

我々は、スマルニ・ラマンさんの居るところから遠くにいるから安全なのではない。彼女らの生活が破壊されることは、地球環境が破壊される無数の事象の一コマなのである。それに我々が気づかないとしたら、それは、「福島から270キロ離れているから東京は安全だ」と演説した愚か者の感覚と大差ないのかもしれない。

インドネシアの若者、とくに地方の若者の環境問題への感度は、我々が思うよりもはるかに高いと思う。それは日夜、自分たちの生活が脅かされているからだ。他方、インドネシアの現政権は、国民をもっと豊かにするための開発を優先し、インフラ整備や食糧増産を主とし、それに大きな影響を与えない範囲で環境を守る姿勢を見せている。

インドネシアの環境問題、とくに熱帯林保全や海洋保全は、グローバルな環境問題と直結している。目の前の泥炭林火災は、そのローカルだけの問題ではなく、膨大なCO2排出などを通じて、地球環境に影響を与えていく。ローカルの問題がグローバルと直結している、まさにグローカルの視点で見なければならないのである。

だからこそ、現場で環境問題と闘うインドネシアの若者たちの存在を我々が知ることが大事だ。そう思って、今回の原稿を書いた。これからも、そうした若者たちの姿を追っていく。そして、ローカルで彼らが孤軍奮闘しているのではなく、たくさんのグローバルな世界での個人がその活動を見守り、応援していることを示したい。

いうならば、スマルニ・ラマンさんらは、我々の代わりに環境問題と闘っている、とでもいえるか。そして、我々も、彼らの代わりに、各々の現場で各々のレベルの環境問題と闘っているといいたい。

地方の現場で環境問題と闘うスマルニ・ラマンさんらとどこかで知り合い、彼らの活動を適切に支えられる人の輪を創っていきたい。そして、様々な「スマルニ・ラマンさん」を見つけ出し、彼らを外部へ紹介し、彼らを見守り、連帯する仲間を増やしていきたい。

ローカルとグローバルが直結するグローカルな問題としての地球環境問題。自分の生活空間を守るためではあっても、結果的に、熱帯雨林や珊瑚礁の海を我々の代わりに守ってくれるローカルの人々を我々が支えられる仕組みをみんなで一緒に創っていきたい。

2021年4月5日月曜日

復活祭を祝う島々をサイクロン「セロジャ」が襲った

ようやく日本でも報道され始めたが、インドネシア南東部、西ヌサトゥンガラ州スンバワ島付近から東、東ヌサトゥンガラ州のほぼ全域、さらに東ティモールへ至る広い地域で、サイクロン「セロジャ」による暴風と洪水が発生し続け、現時点で100人以上が死亡し、多くの人々が家を失うなど甚大な被害が発生しているようだ。


SNSやTwitterには、河川の増水で流される橋、濁流にのまれて横転するバイク、破壊された家屋、浸水した集落などの生々しい写真や動画が次々にアップされている。


この地域は島嶼部で、たくさんの島々から成り立っている。このため、100人以上が死亡といっても、それはあくまでも確認できた数字である。孤立・寸断された地域が無数にあり、停電が続き、通信手段が途絶している状況を考えると、被災者・死者の数は我々の想像以上に及ぶ可能性が大きい。

住民の多くは敬虔なカトリック教徒であり、4月2日からの復活祭を平穏に祝うはずだった。「セロジャ」はその復活祭に時期を合わせたかのように、復活祭を祝うはずだった人々の暮らしを破壊してしまった。

もともと、東ヌサトゥンガラ州から東ティモールへかけては、年間降水量の少ない、乾燥した土地である。雨季も短く、乾季に水をどのように確保するかが最大の課題となるような地域だった。このため、降水量が年間を通じて多いジャワ島のような肥沃な土地は少なく、米作などの農業には適さない場所として知られる。米以外のトウモロコシやキャッサバなどの自給的農業生産と畜産・漁業などで生計を立て、同時にマレーシアやジャワ、スラウェシなどへの出稼ぎに頼る面も大きかった。

そんな、水に恵まれない土地に襲来した「セロジャ」は、恵みの雨どころか、人々の暮らしを破壊するような雨と風をもたらしてしまった。人々の多くはきっと、こんな雨や風をあらかじめ想定した暮らしをして来なかったに違いない。残念ながら、乾燥したこの地でどうやって水を確保するかは常に考えていたに違いないが、まさか洪水が起こることを想定して対策をしようなどということはなかったのではないかと想像する。

この地域の人口は、ざっとみて1,000万人前後であり、インドネシアの全人口2.7億人、ジャワ島の人口1.45億人からみるとわずかであり、首都ジャカルタの人口にほぼ等しい。毎年のように雨季にひどい洪水の被害にあっているジャワ島の人々からすると、今回の「セロジャ」によるこの地域の被害が相対的に甚大になることをなかなか想像できないのではないだろうか。

今回の事態を見ながら、1996年2月のある出来事を思い出した。当時、私はジャカルタにいた。4月からのマカッサルでのJICA専門家業務の準備をしていた。あの日、パプア州で大地震が起こり、ビアク島が大津波に襲われ、多数の人々が亡くなった。ちょうどその頃、ジャカルタのメディアでは、断食明け大祭前の帰省ラッシュの様子がずっと報じられていて、ビアクの惨事については一切報道がなかった。国軍が救援機を飛ばしたのは、断食明け大祭になってからのことだった。ビアクは忘れられていた。

今回も、ジャカルタで話題になっていたのは、コロナ禍にもかかわらず、あるセレブの結婚式が行われ、それにジョコウィ大統領やプラボウォ国防大臣が出席したことだった。ビアクから25年たった今でも、東ヌサトゥンガラは忘れられているのか。

BBCは、「セロジャ」による洪水被害の拡大について、地方政府が森林伐採を進めた住民を非難し、環境NGOが政府の環境政策を批判するという、責任のなすりつけ合いをさっそくしている様子を報道している。今は何をすべきなのか。それをともに考えることはまだできていない。

2021年4月4日日曜日

相対性を意識させる学びの場をつくる:田谷さんの魔法について

私の契約最後の国際機関日本アセアンセンターのASEAN最新事情ウェビナーでは、福井県の農園たや代表の田谷徹さんをお招きし、「ASEANと日本の人材育成~福井の技能実習生の事例から~」と題して講演していただいた。田谷さんとは、もう20年以上のお付き合いがある。

講演では、技能実習制度の実態と福井の農業の現状について話した後、技能実習生を受け入れている農園たやでの取り組みについて語ってもらった。

福井でのとくに農業での人手不足の背景には、米作に偏重した農業構造とともに、地元の若者の農業離れ、というか、若者が地元のコミュニティへの関心を失っている現状があることが指摘された。

若者が地元コミュニティへの関心を失っているのは、様々なコミュニティ内の人間関係やしがらみ、長年にわたる慣行や風習への硬軟取り混ぜた強制などが自分という個を束縛し、規制することへの反発なのかもしれない。そう思うのは、故郷・福島を離れて東京へ出てしまった自分自身の経験がもとにある。地元は好きなのに、そこに留まるといろいろと面倒なのだ。

そんなところへやってくるのが技能実習生。本来、技能実習制度は、日本で技能や技術を学び、それを母国で活かすことが期待される国際協力事業のはずだが、現実には、2~3年間よそへ移動できない労働力として人手不足軽減を目的として実施されている。それは、実は、技能実習生を労働需給のために利用することを禁止する技能実習法に違反している。すなわち、人手不足を理由に技能実習生を受け入れている企業や事業所はすべて法律違反なのである。それが黙認されることで、日本経済の底辺が支えられているのが現状なのだ。

田谷さんの農園たやもインドネシア人技能実習生を受け入れている。ただ、人手不足を補うために誰でもいいから来てほしい、というのとはだいぶ異なる。田谷さんは、インドネシアの農業高校と協力し、その卒業生を受け入れている。日本と同様、農業高校といっても、卒業生の多くは農業以外の職業に就職する傾向が強まっている。だから、田谷さんのところへ来る技能実習生もまた、必ずしも農業を志しているとは限らない。

それでも、田谷さんは受け入れる。農園たやの農作業も担ってもらうが、何より大事にしているのは、彼らが帰国後にどうするのか、ということである。そのために、彼らに帰国後のビジネスプランを意識させ、段階を踏んでそれを完成させる。帰国前にはそれを発表させる。そして、帰国後の彼らをモニタリングし、そのビジネスプランがどう実施されているか、されていないか、定期的にチェックし続ける。

コロンブスの卵だった。つまり、多くの場合、技能実習は、実習生を受け入れる企業や事業所のニーズが最初にあり、人手不足という問題がある程度充足されれば、それで終わりになる。実習生が母国に帰ってからどうなるのかに関心がない。しかし、技能実習は本来、実習生側のニーズ、すなわち、技能や技術を学ぶ、ということから始まるものなのである。

しかし、その実習生もまた、日本へ来る実際の目的は、技能・技術の習得ではなく、渡航などにかかった借金を返済するためのお金を稼ぐことである。人手不足で誰でもいいから来てほしい企業や事業所と、どこでもいいから金を稼ぎたい実習生との間で、奇妙な思惑の一致があり、現状を変えることが難しくなっている。

私自身は、技能実習制度を、実習生のニーズから始め、そのニーズに日本の受入側を合わせるという、本来の形にすべきであると考えてきた。そのために、彼らの母国の地域レベルでの技能・技術ニーズを丁寧に追い、できれば、その地域の行政や学校・職業訓練機関などを通じて実習生が日本へ送り出され、彼らを受け入れてニーズを満たす技能・技術を教えられる日本の企業・事業所を探してマッチングさせ、2~3年の実習期間と帰国後のモニタリングをしっかり行い、技能実習の成果が母国の送り出し地域でどのように生かされたかを検証できるようにしたいと考えてきた。

だが、田谷さんの講演を聴いて、少し考えを改める必要が出たように感じた。

田谷さんはいう。実習生は別に何かを学びたいという強い動機や意欲を持ってなくても良いし、金を稼ぎたいという目的で来てくれてもよい。でも、日本で技能実習をしている間に彼らに魔法がかかる。彼らが帰国後にどうありたいのか、どうしたいのか。それを主体的に考えるように魔法がかかる。そう、田谷さんのところで受け入れた実習生には魔法がかかるのだ。

田谷さんは実習生に帰国後の自分のあり方を強く意識づける。それを促すのが帰国後に実現したいビジネスプランづくりである。彼らにとってそれは自分事。農作業を行いつつ、試行錯誤しながら自分の将来を考える彼らのプロセスに田谷さんは徹底的に付き合う。

そして、母国であるインドネシアと日本との違いを理解し、帰国後に母国で実現させるビジネスプランをつくるうえで、母国インドネシアを相対的に見る視点を獲得する。すなわち、日本に来ていることを生かして相対性を意識させるのである。

自分の将来を考え、現実的なビジネスプランを作成するなかで、彼らの中から様々な学びを得たい、そのためにどこそこへ見学・視察へ行きたい・社会見学したい、という気持ちが出てくる。田谷さんはヒントは出すが、どこへ行くか、行って何を学ぶのか、どのような交通機関を使ってどのように行くか、すべて実習生が自分たちで調べて行動するように促す。このプロセスで、実習生は電車の乗り方やきっぷの買い方なども主体的に学ぶ。

あたかも、高校生の自分で組み立てる修学旅行のような、大学生の自分で組み立てるゼミ旅行のような、そんな様相である。実習生が自分のために自分で学ぶ環境を作っていくのである。

田谷さんの魔法とは、これなのだ。実習生が自分の将来を意識し、田谷さんの適切な助言や導きを受けながら、主体的に自分のビジネスプランを創り上げていく。それは自分の将来に直結するビジネスプランである。

自分の将来に直結するビジネスプラン。最初はお金を稼ぐために来た実習生が、田谷さんに魔法をかけられ、自分の将来を考え、その実現へ向けて主体的に動いていく。

田谷さんは、技能実習生に対して、相対性を意識させる学びの場を創っていたのだ。そして、彼らの将来を見守っていく「親」のような役割を果たしている。

このような技能実習ならば、実習生がたとえ学びを意識しないで来日しても、魔法がかかって学ぶようになるだろう。それは自分の将来のための学びになるのだから。

そして、ふと気づいた。

これは、技能実習生に限った話だろうか。

もし、日本の若者にも同じような魔法がかかったら、自分の将来のための学びになるだろうか、と。

ただ、その学びは、若者を地域コミュニティに留めることを目的とすべきではない。むしろ、敢えて、自分の地域コミュニティとは異なる地域コミュニティに2~3年間かかわり、農作業をしながら、自分のビジネスプランを作り上げていく。大人たちは、若者が地域コミュニティに留まることを期待しても構わないが、決して強制してはならない。そんな若者を温かく見守っていく。たとえ、その若者が学びを得た土地を離れたとしても。

そんな学びの場が各地に生まれてくれば、なにかが変わってくるのではないか。

若者を地域に固定するための移住を半ば強制するようなやり方は、やめたほうがよいのではないか。それならば、若者が地域コミュニティから離れていく理由を、まずは、自分たちの胸に手を当てて、省みることから始めるのではないか。自分がもし若者だったら、この地域コミュニティにいたいと思うか、と。

地域コミュニティの魅力を高めるのが容易でないとしても、そこを学びの場にすることは可能なのではないか。その学びとは、よそから来る若者たちの将来を共に考え、彼らが主体的に自分の将来をビジネスプランのような形で明確にさせていくプロセスを伴走する、そういう大人に自分たちが変わることではないだろうか。たとえよそから来た若者が定着せずにまたどこかへ行ってしまったとしても、その若者の将来を温かく見守れる、そんな若者を輩出する学びの場であることに誇りを持てる、それがいつの間にかその地域コミュニティの新たな魅力になっていく、ということがあってもよいのではないか。

学びの場では、教えることも必要だが、学びを促すことのほうがずっと大事だと思う。学びを促す手法を学びながら、実習生や若者をよそから受け入れる側自身が変わっていく覚悟と柔軟性を保つ必要があることは言うまでもない。

田谷さんの講演を思い出しながら、日本の地方をそうした実習生や若者にとっての「学びのワンダーランド」にするような、何らかの働きかけをしてみたくなってきた。田谷さんのような「学びの場」をつくる同志が日本のあちこちに、いや、世界のあちこちに生まれてきたら、なんて思ってしまう。

2021年4月2日金曜日

日本アセアンセンターの仕事、とりあえず終了

昨年10月から半年間、国際機関日本アセアンセンターの外部招聘コンサルタントという肩書で、合計12回、ASEAN最新事情ウェビナーを企画、実施してきた。今回の契約期間は6ヵ月間ということで、ひとまず、同センターでのウェビナーの仕事は終了した。

この間、ウェビナーにご参加いただいた皆様には深く御礼申し上げます。拙い進行役、拙い私自身の講演でお聞き苦しい点やご批判等もあろうかと思います。この場を借りて、そのような感想を持たれた皆様にお詫び申し上げます。

思ったよりも自由にウェビナーを企画させてもらえて、センターには深く感謝している。また、ウェビナーをどのように行なったらいいかについても、随分といろいろなヒントや助言をいただけた。

12回のウェビナーは、すべて、私が話してもらいたいと思った方々に話していただき、そのすべての方々が私の予想や期待を大きく上回る内容の話をしてくださったと思う。講演車の方々とは、進行の手順や講演内容は共有したものの、質疑応答やそれに付随した私からの関連質問などは、即興的なもので、なんだかジャズのセッションのような、呼べば応える、本当に嬉しく、楽しく、ありがたいひとときだった。

半年間のセンターとの契約は終了したが、今後、またウェビナーの企画や実施をすることになるかどうかは、全くわからない。私のやり方を支持する人も否定する人もいることだろう。どのようなものであっても、そうですよね、と受け止めるだけである。

私自身は、私自身からの発信を強めていきたいと考えており、その中には当然、今回のようなウェビナーやオンライン会議を考えている。幸か不幸か、4月はわりと時間があるので、この機会に準備を整えて、発信していくつもりである。準備ができたら、皆さんにお知らせしたいと思う(なかなか準備ができなかったとしても、どうかご容赦を、と前もって予防線を張っておこう)。

日本アセアンセンターでの最後のウェビナーとなった3月31日の田谷徹さんの講演だが、個人的に、様々な示唆を得た。色々なインスピレーションが湧いてきた。目からウロコに近い話もある。

それらについては、できたら明日以降、このブログに書いてみたい。

2021年4月1日木曜日

4月からブログ再開

結局、3月はこの個人ブログを書かずじまいで終わってしまった。新年度のスタートだからというわけではないが、今日4月1日から少しずつ書き始めることにしたい。

この「ぐろーかる日記」は、一時、弊社法人サイトに掲載することとしたのだが、やはり、個人的な何気ない内容を書き留める場として、続けていきたい。これまでよりも、よりありふれた日常や個人的な考えなどを書く場になるだろう。

法人業務である地域づくり、ビジネス支援、国際協力に係る調査、アドバイス、コンサルティングに関する内容は、法人サイトに掲載する。インドネシアに関する情報・分析は、法人サイトで引き続き行う。

このブログでは、地域づくり、ビジネス支援、国際協力に関して個人的に思っていることや、その他、美味しいもの、面白いこと、身の回りの小さな出来事、家族の話、世の中の様々な物事へのコメント、などを徒然なるままに書いていくことにしたい。

2021年2月27日土曜日

かつて馴染んでいたのに使わなくなった言葉たち

いつの頃からなのだろうか。知らないうちに、かつて馴染んでいたのに使わなくなった言葉、使えなくなった言葉があることに気がついた。

それらは、国際協力、経済協力、開発協力、援助、国際交流といった言葉である。

かつて、私はJICA専門家として、インドネシアのマカッサルを中心に、地域開発政策アドバイザーという名前で、国際協力の最前線で働くことを仕事とした経験がある。JICA長期専門家としてのべ7年、それに同短期専門家やJETRO専門家としての年数を加えると、10年近く、国際協力の名のもとに仕事をしてきた。

JICA専門家時代、中スラウェシ州パル市庁舎でルリー市長と面会中の筆者(2000年4月26日)

今でも、便宜的に、法人としてお引き受けする業務のなかに、「国際協力」という言葉が入っている。しかし、「協力する」という言葉に強い違和感をますます感じるようになり、大っぴらに「国際協力」と自分からは言い出せなくなった。

それはなぜなのか。

協力というのは、相手が「協力が必要だ」と思わない限り、成立しない。自分が「相手にとって自分の協力が必要だ」と思っても、たとえ詳細な調査研究によって協力の必要性が立証されたとしても、相手が「協力が必要だ」と自覚しない限り、協力は成立しない。

しかし、自分と相手との立場は異なる。力関係も異なる。先進国と途上国というくくりで「協力」という言葉を使うならば、そしてそのことを自分も相手も認識しているならば、なおさらのことである。

日本と途上国との「協力」は、書面上、途上国から協力の要請があり、それに日本が応えるという形を取る。そのためには、途上国から協力要請があがる前に、協力ニーズ調査が行われている必要がある。誰がそのニーズ調査を行うのか。多くの場合、協力したい側、すなわち日本が行うのが実状である。

途上国側は、日本からの援助供与を念頭に置くので、よほどのことがない限り、日本側からの「協力」提案を拒むことはない。

仮に、日本側からの「協力」提案と違う提案が途上国側から出てきた場合、日本側はそれを歓迎して、日本側の提案を修正したり、取り下げたりするだろうか。そういう場合もあるだろう。しかし、援助する側の視点で、修正や取り下げを拒むことのほうが多くなるのではないか。よほどの内容でない限り、途上国側は、日本からの援助を歓迎するから、それがご破産になりかねない事態は回避する。

こうして、「協力」と言いながら、両者の間には上下関係が明確に存在することになる。それは日本が途上国側に強いている面と同時に、途上国側もそれをある意味方便として上下関係を受け入れているといってよい。

国際協力以外の世界でも、たとえば、途上国とビジネスを行う場合でも、先方の事情やニーズはおかまいなしに、「途上国のためになる」「ビジネスで途上国の人々を救う」といって自分たちの視点のみでビジネスを行うケースが意外に多いのではないだろうか。

日本から見ていれば、国際協力も「ビジネスで途上国の人々を救う」ことも、素晴らしいことであると見える。しかし、日本では、それが相手側とも共有・納得し合った認識であるかどうかは問われない。

もちろん、最初から協力ニーズが相手側と一致していなければならないわけでは必ずしもない。事業をすすめるなかで、協力ニーズがより熟れ、相手側との間で共通認識が出てそれが強まる場合ももちろんある。でも、協力したい側が自分のシナリオどおりに協力を進め、それ以外の相手側からのシナリオを認めないというような態度になるならば、それは「協力」という名の自己満足にすぎない、と思うのである。

もしも、私たちに対して外国から「協力したい」と申し出があったら、私たちはそれを受け入れるだろうか。日本=先進国という認識を持つ我々は、たとえばインドネシアが協力を申し出ても受け入れようとはしないのではないか。それはインドネシアを途上国と認識する「上から目線」によるものではないだろうか。

日本が割と不得意な先進技術普及のための汎用化・低コスト化には、たとえば、途上国の知恵や適正技術をもとにした一種のリバース・イノベーション的な技術に関する日本への協力が重要ではないかと思うのだが。あるいは、1回1回使い切りの小口化商品の販売ノウハウなどを途上国から学ぶことも今後の日本の地方へのマーケティングで有用になってはこないか。

日本側が途上国側の現状を十分に深く理解・把握することなく、日本の技術や知識の優位性を理由に「協力」を提案する、そして、それを受け入れてもらえるはずだと考えるのは、あまりにも「上から目線」ではないか。

厳しい言い方だが、これは、国際協力の現場で活躍したいと思っている学生・若者たちにもあてはまるものである。より良い世界を一緒に作っていきたい、という気持ちや希望は大いに尊重したい。素晴らしいと思う。でも、そのまえに、他者への想像力や物事を多角的に見る力を養い、自分の考えを客観的に見れるもう一人の自分を常に持つようにまずしたい。自分の「協力したい」という思いを受け入れてくれるよう説得するのではなく、その思いは本当に適切なのか常に疑い、誤っていれば常に修正できる態度を養いたい。

国際協力、経済協力、開発協力、援助、国際交流、といった言葉を使えなくなった自分が今よりどころとしている言葉は・・・一緒にやる、である。

日本側が途上国側に教えるだけではない。途上国側も日本側へ教える。双方が教え合う関係、双方が相手を思い合う関係。何かを提案した側は相手からの批判や改善提案をしっかり受け止める。そして、より良い方策や解決策を一緒に考え、一緒に試行錯誤する。その一緒にやるプロセスは、事業終了後の成果と同じかそれ以上に価値あるものとなるはずである。

本来は、これが協力なのだと思う。しかし、現実の「協力」という言葉は手垢まみれになってしまっている。

一緒にやるにあたっても、国と国との関係における日本側から途上国側への資金供与といった形では、双方が教え合う関係は本質的に生み出せない。利潤を追求する企業間でも難しいかもしれない。まずは、共鳴した個人間・地域間で何かを小さく一緒に始め、その後の事業展開や必要性に応じて、企業や政府が適宜関わってくる、ということは否定しない。

一緒にやるために必要なのは、相手を深く知ること、そして、その結果としての信頼関係である。もうそこには、先進国とか途上国とか、そんなことはどうでもよくなっているはず。可愛そうとか助けたいではなく、面白くて楽しくてもっと素敵な世の中になる、それを一緒に創っていく、という気持ちが支配的にあるのではないか。

きっと、もうそんな時代に入っているのだ。国際協力、経済協力、開発協力、援助、国際交流といったお題目がないと動けない時代ではないのだ。そんなお題目は、必要ならば後から考えればよい。何かを一緒にやる、という行為やプロセスを大事にしながら、そこで培われた信頼関係を他者による信頼関係でつなげて、協力などという言葉が色あせてくるような、もっとワクワクして面白い世の中を創っていきたい、と思う。

一緒にやる、をたくさん創っていくために、動いていく。そこで新しい価値が生み出されるようにつないでいく。

2021年2月25日木曜日

ようやく旧宅から新宅へ引っ越した

このブログでも何度か取り上げてきた東京の自宅の旧宅から新宅への「引っ越し」。

2020年10月26日のブログで家の話を書いた。

⇒ 東京の都心の庭のある我が家でご一緒しませんか

ずるずると時は過ぎ、ようやく2月23日、引越し業者さんの手を借りながら、引っ越しできた。

といっても、新宅は旧宅の隣。業者を頼まなくとも、自分たちだけでできそうに思われるかもしれないが、やはり、タンスやら机やら棚やら、大きくて重いものは、やはり自分たちだけでは無理。専門家に頼んで正解だった。

ダンボールは大・中合わせて70箱。でも結局、すべての荷物は移せなかった。大きいものは運んだが、旧宅にはまだ色々と荷物が残ったまま。今までののんびりペースから察すると、少しずつ少しずつ片付けていくことになるだろう。4月の新しい年度前には片付かないだろう。まあ、我々のペースでやるしかない。

それでも、引っ越し日を2月23日と決めてしまったので、ようやく引っ越しが実現した、といっても過言ではない。さすがに、数日前から怒涛のようにダンボール箱へ詰め続け、詰めども詰めども終わりの見えない荷物の多さに圧倒されつつ、ほぼ徹夜のような日々が続き、食事もとることを忘れ、フラフラになりながら、なんとか2月23日を乗り切って、いつの間にか寝込んでいたらしく、気がつくと24日の朝だった。

新宅のリビングに積まれたダンボール箱に囲まれながら、新宅での荷物整理を少しずつ進めている。少し時間はかかるが、徐々に新しい生活をつくっていくことになる。

ブログには色々書けないが、この新宅への引っ越しは、わたしたち家族にとって大きな意味を持つ、ようやくたどり着いた、新しい一歩になる。楽しくて嬉しくなる、笑い合って温かく暮らせる場所にしていきたい。

2月23日の夜は、妻と一緒に、近所にできたちょっとオシャレなラーメン店LOKAHIで夕食。この店はハマグリで丁寧に出汁をとったラーメンをベースに、ちょっと変わった創作ラーメンを頻繁に出してくる。この日は、定番のハマグリ・ラーメン(塩)に加えて、変わりラーメンの「牛白湯の濃厚煮干中華蕎麦」(下写真)というのをいただいた。

引っ越し蕎麦は、移転先のご近所さんに蕎麦を振る舞うのだが、敷地内での旧宅から新宅への移動だったので、ただの引越し時に食べた蕎麦(ラーメン)という、どうでもいい話。

落ち着いたら、旧宅を整えて、前掲の2020年10月26日のブログで書いたように、どなたかに住んでいただけたらと今も思っている。国籍・性別・年齢を問わず、この庭のある空間を愛し、ゆったりと静かにおだやかに住んでいただける方がみつかるといいな、と思っている。

2021年2月19日金曜日

新型コロナ禍のおかげで良かった個人的なこと

こんなタイトルをみたら、不謹慎に思う人もいるかもしれない。

皆んなが苦しいときに、自分だけ楽しかったり、笑ったりしてもいいのだろうか。やっぱり、苦しい気持ちでいなければならないのだろうか。

そんな気持ちになることが、10年前の東日本大震災以来、頻繁にある日々を過ごしてきた。

今回もそうだ。新型コロナ禍で皆んなが大変な状況にある。

実は、自分だってそうだ。予定していた昨年から今年にかけての仕事は次々になくなり、どうやって日々を過ごしていくか、家族を養っていくかで汲々としている。

そんななかで、もしかすると、新型コロナ禍のおかげで良かったのかもしれない、と思えることがひとつあった。

自分は、毎月、かかりつけ医のところで血液検査を行い、コレストロール値を測り、診察を受けている。診察を受けて処方される薬を毎日、ずっと飲み続けてきた。これまで、高脂血症と共生してきたのである。

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あれは、1990年8月、前の職場の海外派遣員として、初めてインドネシア・ジャカルタに2年間滞在したときから始まる。初めての長期滞在、インドネシアに居る間にしかできないことは何でもやってみよう、と様々なことを体験してみた。敢えて、一軒家ではなく、ふつうのジャワ人の家庭の「長男」として下宿した。

そのなかで、最も熱心に取り組んだことは、食べることだった。

毎朝、大家さんが用意する朝食は、ブルーバンドというマーガリンを塗った上にチョコレッド・スプレッドのかかったパン2枚、毎朝ボゴールから自転車で配達に来る牛乳屋さんの牛乳を温めたもの(いつもタンパク質の膜が貼っていた)、砂糖がいっぱい入った温かいオレンジ水、それに甘ーいコーヒー。

最初は、全部、完食・完飲できなかった。でも1ヵ月経つと、容易に完食・完飲できるようになった。

昼は外で食べ、問題は夕方。大家さんは必ず、間食を用意してくれる。それは芋を揚げたものだったり、バナナを揚げたものだったり、中に具の入った豆腐を揚げたものだったり、要するに油で揚げたものだった。

出されたものは残さず食べる。これが私のモットー。

夜、友人や知人と外食する予定があっても、大家さんは夕飯を必ず用意している。出かける前に、夕食を食べていかなければならない。そして、外食も決してセーブしない。

下宿に帰ってきて夜中、集落を歩く屋台の声が聞こえる。大家の末娘が屋台を呼んで、ミー・ドクドクという名の麺を注文する。「松井も食べるよねー?」と聞かれるので、「もちろん」と返事をする。そして、夜中に食べる。

これで何食になった? 結局、毎日、5~6食を食べる生活になった。

その結果・・・。

1990年8月から2年間のジャカルタ滞在で、体重が20キロ近く増えてしまった。日本からやって来て久々にあった友人・知人が皆、私の変わりように目を丸くしたものだった。一番ビックリしていたのは、1年後にジャカルタで合流した妻だった、かもしれない。

それ以来、食べ物の出会いは一期一会、をモットーに、インドネシアのどこへ行っても、その土地々々の食を求め続け、食べ続けた。新しい美味しさに出会う喜び、美味しく食べられる喜びを感じながら、食べ続けた。

これは、シンガポールでも、マレーシアでも、ベトナムでも、インドでもどこでも、もちろん日本でも、どこでも変わらなかった。自分にとって、食べることは生きること、だった。

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こうして、高脂血症と「お友だち」になった。健康診断では、必ず指摘された。それも、かなりひどい状態だと診断された。ある医者からは、日本人の高脂血症患者の上位5%に入っていて重症、とんでもない、とまで言われた。JICA専門家の派遣前健康診断でも指摘され、それが理由で派遣が中止になるのではないか、といつもビクビクしていた。

これだけ健康診断で指摘されると、自分は何かとんでもなく悪いことをしてしまったのではないか、という罪悪感を抱くようになった。そしてときには自分を責めた。これまで、食べることで幸せを感じてきた自分を責めた。インドネシアで何でもかんでも食べまくった自分を責めた。

炭水化物を一切食べない、食べる量を半分にする、毎日縄跳びを1,000回する、といったことを続けたこともあった。それまで堪能してきた大好きなインドネシア料理も食べずに我慢した。すると、1週間も経たないうちに、体に異常が発生した。

手でペンが持てなくなったのである。ペンで文字を書こうとすると、手が震えて書けないのだ。手の震えが止まらなくなったのだ。

これはさすがにビックリした。インターネットで調べると、かなりまずい状況になる可能性のあることが分かった。

そして、炭水化物をとった。久々の炭水化物はとても美味しかった。翌日、手の震えは止まっていた。ペンも普通に持てるようになった。

インドネシア在在中も、定期的にコレステロール値は病院で測っていた。でも、バタバタしていたので、ちょっと値が良くなると、行かなくなった。そして、また、元の木阿弥になった。そんな状況を何度も繰り返した。

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2016年からもう一度日本を拠点に活動するようにしてから、東京の自宅近くのクリニックに毎月通い、血液検査をしてコレステロール値を測り、かかりつけ医の診察を受けるようになった。かかりつけ医は、念のため、動脈硬化が起こっているかどうか、X線写真を細かく撮って調べるように勧めてくれた。そこで、指定された医療機関で撮った。そこで言われた。「毛細血管までこんなにきれいに撮れているとは・・・。動脈硬化の様子はうかがえないです」と。

かかりつけ医に毎月通いながら、細かな血液検査の結果データを蓄積していった。日本に拠点を移したと言っても、頻繁にインドネシアへは出張していた。インドネシアに出張して戻ってきてすぐに血液検査、ということがよくあったが、そうしたときは、概してコレステロール値の値は悪かった。でも、2~3ヵ月に1回のペースで出かけていたので、日本で摂生するとどうなるか、ということが検証できないまま時間が過ぎていった。

そんななかで起こったのが、新型コロナ禍。

2020年3月1~11日のインドネシア出張の後、今日に至るまで、全く出張ができなくなった。海外どころか、弊社を登記した福島市にも行けていない。先方から暗に来ないでほしい、というメッセージを受け取っているからだ(福島から見ると東京は汚染地域で、東京から来る人間はとても怖い存在らしいし、狭い世界なので、何か起こったら先方が色々大変な目にあってしまう恐れもあった)。

それ以来、今に至るまで、東京の自宅と自宅から歩いて10分のレンタルスペース(仕事場として借りている個室)を行き来しながら、毎日を過ごしている。あんなに動くことに命をかけていた自分だが、動かないことに慣れ、動かないからこそできること、見えることに気づき始めた気さえしている今日このごろである。

そう、インドネシアへ出張しないまま、日本にずっといるなかで、毎月のコレステロール値がどうなるか、わかる環境になったのだ。

**********

少し前、かかりつけ医は、毎月のデータを見ながら、ここで一気に悪玉コレステロール値を下げるためにより強めの薬を処方し始めた。問題は、変動の大きい中性脂肪の値だった。血液検査の前の日に大食いすれば、その結果、一気に中性脂肪の値が急上昇する。

そして、今週、かかりつけ医の診察で示された血液検査の結果は・・・。

なんと、正常だった。

信じられない。これまでも、悪玉コレステロールと中性脂肪の値以外は正常、ということはたまにあったのだが。

きっと、別人のデータが間違って出されたのだろう、と、私はかかりつけ医に言った。しかし、かかりつけ医からは、他のデータの連続性などを詳しく説明され、明確に否定された。

1990年8月のインドネシア赴任以降、ずっとずっと30年以上、高脂血症と、戦ってきたというよりは共生し、それが日常だった人生のなかで、コレステロール値が正常と判断された、私にとっては歴史的な出来事となった。

これが、もしかしたら、新型コロナ禍のおかげでよかった個人的なことなのではないか、と思ったのである。

かかりつけ医の指示に従い、まだしばらくは薬を飲み続け、来月の検査で、今回と同様の結果が出れば、薬の処方を変える、とのことである。

コレステロール値が正常でも、また悪くなっても、食との出会いは一期一会のモットーを変えることはない。食べることは生きること。食を楽しみ続け、探求していくことに変わりはない。そして、早くインドネシアでまた食べまくりたい。ずっと禁断症状なのだ!!

アチェ州ロクスマウェで食べたシーフード中心のアチェ料理

2021年1月12日火曜日

搾取からの脱出、またグローカルな妄想

宮本常一『調査されるという迷惑』という本をご存じだろうか。私がこの本の存在を知ったのは、インドネシア地域研究を仕事とするようになってしばらくしてからだったが、この本と出会う前から、この本で宮本常一が書いているのと同じようなことをずっと思っていた。

インドネシア地域研究者としての自分は、もちろん、インドネシアについて調査研究をする。インドネシアで様々な人々に会い、地域を訪れ、そこで得た情報をもとに分析し、調査研究報告書をまとめ、論文として発表する。

論文をどこに発表するのか。多くの場合は、日本語の出版物を通じた日本の方々に対してであり、あるいは学会やセミナーなどでの発表や講演という形になる。日本の機関に所属し、日本側に調査研究の費用を賄ってもらうのだから、日本のための調査研究であることは当然である。日本のために、インドネシアを調査研究し、日本社会へ還元するのは、言うまでもないことである。

かつて、地域研究は、相手側の地域において、自国の利害や利益を獲得するために、あるいは場合によっては相手側を屈服させて支配するための基礎情報として、相手側の地域を徹底的に調べるということが行われた。その意味で、地域研究は極めて戦略的かつ意図的に行われた。地域研究者の仕事は、そこではスパイと見なされてもあながち間違いではなかったかもしれない。

自国のための地域情報を収集・分析することを求められた、かつての地域研究。今はそうではないと思いたいが、本当にそうだろうか。

そこで、搾取、という言葉が思い浮かんでくる。研究者が自国の学会やセミナーで発表し、業績を積んでいくために、フィールドでデータや情報を収集する。フィールドで情報収集される側、調査される側は、それが彼らにとって何を意味するかを理解しないまま、おそらく、客人である研究者に対するもてなしの一環として、情報収集やインタビューに対応してくださる。もしかすると、本当は田んぼで除草作業をするはずだったのに、それを中止して応じてくれているかもしれない。あるいは、子どもが熱を出したので町の病院へ連れていかなければならないのを、何とか親戚に頼んで、インタビューに応じてくださっているかもしれない。

データや情報を一刻も早く収集したい立場の者には、そのようなフィールドの個々の人々の事情などは想像できないだろうし、想像する必要もないと考えるかもしれない。往々にして忘れがちなのは、フィールドの個々の人々にも生活があり、人生があり、そのほんのわずかの瞬間によそ者である研究者がおじゃまさせてもらっているという意識である。

私自身の話でいうと、研究者として仕事を始めてしばらくの間は、フィールドで会う人々との出会いは一期一会に過ぎない、と思っていた。自分のベースは日本であり、調査研究成果を出すためにインドネシアへ出張してきたのであって、今回お会いした方々とは、きっともうお会いすることはないだろう、と思っていた。実際、当時は面白がって自慢気味に話していたことでも、今にして思うと、ずいぶん失礼なことを言ったり、したりしていた、と恥ずかしくなることが多々ある。でも、自分から他人に言わなければ、それらの(恥ずかしい)出来事は自分しか知らない。このころはまだ、旅の恥は掻き捨て、という状態だったと思う。

それが変化したのは、調査研究の仕事をいったん休み、JICA専門家として実務的な仕事でつごう5年間、マカッサルに滞在してからである。いわゆる国際協力の仕事ということで、インドネシア側にとって有益となりそうなアドバイスをし、インドネシア側のよりよい政策の実現のために、インドネシア側の人々と一緒になって考え、議論し、行動する日々を経験したのである。

自分も含めて、日本のインドネシア地域研究者の成果の多くは、インドネシア側には全く知られないまま歴史の中にうずもれていく。すべてのインドネシア地域研究者が、インドネシアで自分の研究やその成果について発表しているわけではない。日本ではインドネシアに関する専門家でも、肝心のインドネシアでは誰にも知られていない、ということはある。

研究搾取、ということを深く思った。

自分もまだまだだ。お世話になった方々へちゃんと返せていない。自分はまだまだ地方語では残念ながら無理だが、拙いながらも、インドネシア語でならインドネシアへ発信することができる。英語で全世界へ伝えることも大事だが、少なくとも、自分としては、インドネシア語で発信することをもっと試みてみようと思う。それが前回のブログで宣言したことの一つである。

研究者に限る必要はないが、日本人がインドネシア語でインドネシア社会へ向けて発信する「場」をつくりたい。いや、日本人に限る必要はない。インドネシア語を母語としない、世界中のどの人々でも、インドネシア語でインドネシア社会へ向けて発信する「場」にすればよいのだ。そこでの共通言語はインドネシア語。発信者はインドネシア語を母語としないインドネシア人以外の人々。地域研究者や院生などによる研究成果の中間発表でもいいし、インドネシア文化や社会について思うことを発表してもよいし・・・。

堅苦しい「場」ではなく、インドネシア語を共通言語として様々な人々が行き交う交差点のような「場」。そこで出会った人々が、インドネシアを共通項として想像もしなかったような新しいつながりをつくっていくかもしれない。

これと同じような「場」が、ベトナム語やスワヒリ語やタミール語などででき上がっていく・・・。それらは、排除するための場ではなく、その様々な外国語を通して、世界中の人々がつながっていく場になりはしないだろうか。

またしても、グローカルな妄想になってしまった。

2021年1月3日日曜日

2021年に始めたいこと

2021年に始めたいことがいくつかある。年の初めに宣言しておきたい。とりあえず、今、思いついている3点、すなわち、(1)インドネシア語でインドネシア社会へ向けて発信するメディアを立ち上げる、(2)「よりどりインドネシア」をウェブ情報マガジンからコミュニティへ拡大する、(3)インドネシア・ウォッチャーに限定したクローズド・サロン(私塾)を開始する、を挙げる。

その1:インドネシア語でインドネシア社会へ向けて発信するメディアを立ち上げる

これまでも、インドネシア語での発信は行ってきたが、より積極的かつ継続的に、インドネシア語でインドネシア社会へ向けて発信する。発信媒体としては、ブログ以外に、オンライン+YouTubeチャンネルを活用する。発信内容は大きく2つに分かれる。

第1に、インドネシア語でいくつもの日本を発信する。面白く楽しい観光案内は他へゆずる。日本の政治・経済・社会の現状や課題のほか、日本の地方・ローカルとそこで生きる人々や地域づくりに焦点を当てる。ゲストを招いた場合には、日本人にインドネシア語で発信してもらうほか、私が日本語をインドネシア語に訳して発信する。

第2に、インドネシア語でインドネシアの政治・経済・社会の現状や課題について評論する。今までは多くを日本語で発信してきたが、今後は、インドネシア語でインドネシアについてより多く積極的に発信していく。インドネシアのマクロの問題だけでなく、日本の地域づくりの経験を踏まえて、インドネシアの地方での地域づくりの諸問題により焦点を当てる。

現在、インドネシア人有識者である友人と共同での媒体の立ち上げを計画中。インドネシア語での発信においては、この友人との媒体も有機的に活用する。

その2:「よりどりインドネシア」をウェブ情報マガジンからコミュニティへ拡大する

2021年中に第100号を迎えるウェブ情報マガジン「よりどりインドネシア」のさらなる内容充実を図りながら、インドネシアについて安心してゆるりと楽しく情報交換できる場としての「よりどりインドネシア・オンラインオフ会」を拡充していく。

オンラインオフ会は基本的に「よりどりインドネシア」購読者が対象だが、購読者以外の一般の方々が参加できる「よりどりインドネシア・特別講座」も実施していく。このようにして、「よりどりインドネシア」をウェブ情報マガジンからコミュニティへ拡大させていく。

その3:インドネシア・ウォッチャーに限定したクローズド・サロン(私塾)を開始する

現役のインドネシア・ウォッチャー、およびインドネシア・ウォッチャーにこれからなろうとする方々向けの限定したクローズド・サロンを開始する(おそらくフェイスブックにて)。サロンは一種の私塾のような形で、サロンへの参加者は全員、毎回交代で、インドネシアの直近の重要トピックについて報告し、報告者以外の参加者と議論する。

できれば毎週、あるいは2週間に1回、1時間程度開催したい。オフレコ的な内容を多々含むことになるので、クローズドなサロンとし、参加者には積極的な参加を求める。なお、情報取得のみを目的とする受け身の参加者はお断りする。

なぜ、これらを始めたいのか

ひと言でいえば、将来における日本とインドネシアとの関係を危惧するからである。相対的なものではあるが、日本におけるインドネシアへの関心の低下とともに、インドネシアにおける日本への関心の低下のなかで、双方の相互理解が表面的なものに留まり始めている。情報は氾濫しているのに、である。

情報分析においては、メディアの発達により、直近の詳しい状況はわかっても、それが歴史的に過去の事象や一見関係なさそうな他の事象とどのようにつながっているかについての分析が弱くなっている。また、ジャカルタやバリについての情報に偏り、その他のインドネシア、とくに地方に関する情報分析が不十分になっている。

日本はインドネシアの親日性に安心し、関係を深く根づかせていく努力を進められていない。インドネシアは日本のこれまでの協力に感謝する一方、これから日本がインドネシアと何をしていくのかを問い続けている。他方、中国や韓国などは、ニッケル製錬→EV用蓄電池製造など、明確な意図をもってインドネシアと接し始めている。これから日本はインドネシアと何をしていくのか。それが日本にとってはもちろんだが、インドネシアの今後にとってどのように有益で戦略的なのか、それを日本が語れなければ、より深く尊敬し合える関係をつくることはできない。

国と国との関係ばかり見てきたこれまでの両者の関係も再検討される必要がある。日本におけるインドネシア愛好者とインドネシアにおける日本愛好者のすそ野が広がり、技能実習やアニメだけではない、自動車や観光だけではない、両者の相互理解を深めていく、個々人が増え、できればそれが個人レベルでどんどんつながっていくことが望ましい。

私は、研究者として、コンサルタントとして、35年以上にわたってインドネシアとお付き合いしてきた。これまでは、その比較優位を活用し、インドネシアに関する様々なアドバイスやコンサルティングを行ってきた。そして今、気がついた。これからは、両者をつなぐ仲間をもっと増やすこと、双方に関心をもつ人々のすそ野を広げていくこと、インドネシアのことを想う日本人と日本のことを想うインドネシア人を増やしてつなげていくこと、これをしていこうと。

まずは、日本とインドネシアとの間で。そして、その次は、それぞれからの横展開で、様々な世界の人々やローカルをつないでいきたい。そして、それは、オンラインに頼らざるを得ない今だからこそ、逆に、より可能になったことではないかとも思うのである。

上記に賛同する方、仲間に加わりたい方は、メールで matsui@matsui-glocal.com までご連絡を。同様の呼びかけを、インドネシア語、英語でも行う予定である。

2021年1月2日土曜日

謹賀新年、ブログを松井グローカルHPへ集約します [2021/01/02]

ぐろーかる日記をご覧の皆さま、2021年の始まりを色々な気持ちで迎えられていることと思います。

2020年中に起きた様々な出来事を思い出すと、あけましておめでとうございます、といってよいのだろうかという気持ちも正直湧いてきます。それでも、皆さまにとって、良き年となりますよう、心からお祈り申し上げます。

ところで、2021年の始まりを機に、これまで書いてきたブログを「松井グローカル」のホームページに集約することにいたしました。同ホームページ(https://matsui-glocal.com)の「Japanese/日本語」メニューの「日本語ブログ」、または「Blog/ブログ」の「日本語ブログ」から入ることが可能です。

あるいは、以下から直接入ることも可能です。

ぐろーかる日記

現在、過去のブログ記事を少しずつ集約中ですが、英語やインドネシア語でのブログ記事も、「松井グローカル」のホームページに集約していく予定です。

なお、当面、旧サイトと「松井グローカル」ホームページの両方に掲載するようにしていきます。FacebookやTwitterでのシェアリンクは今後、「松井グローカル」ホームページをリンクするようにしていきます。

「松井グローカル」ホームページでは、業務活動報告とブログの両方をご覧いただくことができるようにします。2021年に新しく始めようと思っていることなど、ブログで披露していきます。

引き続き、ご高覧のほど、よろしくお願いいたします。