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2016年7月31日日曜日

バトゥ市の若き農業後継者との出会い

7月27日、東ジャワ州バトゥ市での訪問の最後に、有機農業を進める若い農民に出会いました。彼は農民グループの中心人物で、見せてもらった約0.5haの畑で、様々な工夫をした有機農業を行っていました。

この畑はデモンストレーションと種苗用の畑で、様々な野菜やハーブが植えられていました。野菜のなかで、何種類ものケールが植えられていて、それらは一般用に出荷するのですが、それ以外の野菜やハーブは種苗用で、この畑以外の場所にある12カ所の別の畑で生産しているということです。

ケールや野菜の脇には害虫駆除用の植物が細かく植えられているほか、いくつかの野菜が注意深く組み合わされながら植えられていました。

ハーブなどの苗は、ヨーロッパなどから得られたものを色々と試験的に植えているようです。以前、日本から人参の苗を入手して植えてみたが、うまくいかなかったと言っていました。

この若き農民の父親は、バトゥ市にある農業高校の元校長先生で、退職後、地元に残って有機農業の実践を続けてきました。息子であるこの若き農民は、国営クラカタウ製鉄で機械エンジニアとして働いていましたが、それを辞めて故郷へ戻り、農業後継者として、父とともに、有機農業に取り組んでいます。

そんな彼を見ながら、日本でも優秀な若者たちの一部が地方へ移住して農業に取り組み始めていることを思い出しました。インドネシアでも、同じように、都会や有名企業から地方へ移り、農業を始める若者たちがいました。

これまでインドネシア、とくにジャワ島の農村部を歩きながら、どこでも農業後継者不足という話を聞いてきました。農業は儲からない。未来のない農業を子どもに継がせたくない。そんな声を聞いてきました。

また、ジャワのある地方政府では、後継者がいないので、中国からの大規模ライス・ファーミングの投資を歓迎する、といった話さえ聞こえました。目に言えないところで、インドネシアの農業が壊れていくのではないかという危機感さえ感じてきました。

今回、バトゥ市で出会った若き農業後継者の姿は、そんななかで、とても頼もしく見えました。単に儲けるためではなく、地域のための農業をしていこうという姿勢が鮮明だったからです。そして、自分の農民グループを通じて、その理念を実践する、地に足のついた態度がしっかりしていました。

もしかしたら、バトゥ市からもう一度インドネシアの農業を立て直せるのではないか。

私が福島市の皆さんをお連れしたとき、バトゥ市の農業局長は「農民と地域を守り、一緒にグローバリゼーションの荒波に対抗する農業を進めたい」と語りかけました。そのときの彼の真摯な潤んだ目を忘れることはできません。

バトゥ市の若き農業後継者をいつか日本の若き農業後継者たちとつなげ、お互いに意識し合わせながら、農民と地域を守る、安全安心の農業の未来をつくっていけたら・・・と思わずにいられませんでした。

2016年7月30日土曜日

大マラン圏のリンゴの運命

熱帯のインドネシアとは思えない光景をよく見かけます。そう、街中のスーパーや果物店、地方の街道沿いの屋台、村のパサール、どこでもリンゴを見かけるのです。

リンゴは、熱帯の果物ではないはず。もちろんそうです。これらのリンゴの大半は、ニュージーランド、アメリカ、オーストラリア、中国などから輸入されたリンゴなのです。

リンゴは健康によい果物、という話が広まっているためか、インドネシアではリンゴの消費が増えている様子です。

でも、実はインドネシアでもリンゴは作られています。そのほとんどは、東ジャワ州マラン市、バトゥ市、マラン県からなる大マラン圏(Malang Raya)産です。

なかでも、観光地のバトゥ市は、「リンゴの街」と自称するほどで、市内のあちこちにリンゴを形どった休憩所や標識を見ることができます。

でも、日本のリンゴのような大きくて立派なものは見かけません。ほとんどが小さく、垂直に伸びた枝にたくさん実っています。



これだと収穫するのは大変だろうなあと思っていたら、大きく立派にして収穫することはほとんどないという事実がありました。

すなわち、リンゴ畑は観光農園とし、入園料を払った観光客に好きなだけ摘んでもらうのです。観光客が摘んだ後、残った小さなリンゴは加工へまわし、リンゴジュース、リンゴチップス、リンゴサイダーなどになります。



労働力を雇って丁寧に収穫するとなると、労賃コストがかかります。それを節約して観光客に摘んでもらうほうがコストもかからないし、楽です。

リンゴの観光農園には、大型バスで毎日たくさんの観光客がやってきます。国内だけでなく、マレーシアや台湾などからもやってきます。たしかに、東南アジアでリンゴ狩りのできるところなど、ここ以外にほとんどないようにも思えます。

結局、生食用のリンゴのほとんどは輸入リンゴで占められ、それが故に、ここで生食用のリンゴをつくる動機は生まれず、こうして観光農園+加工で十分やっていける、ということになります。

ある意味、経済合理的と言えなくもないのですが、こうなると、安全安心を確保するために手間暇かけるようなことはしなくなるでしょう。マラン市の果物加工業者は、「ほとんどの熱帯果物は化学肥料や農薬の心配をしなくてもいいが、リンゴは例外だ」と言っていました。

折しも、バトゥ市は有機農業を進めており、オレンジやグァバなどの有機認証を進め、生食用として売り出しています。リンゴも有機認証へ向けて手をつけたところですが、現状のままで果たしてうまくいくのか、疑問です。

インドネシア、いや東南アジアでも希少なリンゴ産地であるこの地で、生食用のリンゴが輸入リンゴを駆逐する、といったことはもはや起こりえないのでしょうか。それは、安全安心の果物というカテゴリーにリンゴは入るのだろうか、という問いでもあります。

インドネシアで見かける中国産のふじリンゴ。そうだ、自分が中学生ぐらいだった頃、たくさんの中国からの技術研修生が福島市のリンゴ農家に学びに来ていたっけ。このふじリンゴの技術は、もしかしたら、あの時の福島市で学んだ技術ではないのだろうか。

7月26〜28日、福島市の方々をこの地にお連れし、リンゴ園などをまわりながら、そんなことをふと思い出しました。今回の出張の簡単な活動報告を以下のリンクに書きました。

 福島市の皆さんとマラン市・バトゥ市へ

2016年7月25日月曜日

パサール・サンタは今

このところ、出張中の雑務でなかなかブログ更新ができず、個人的にも少しまずいなと思っているのですが、まあ、やむをえません。できる範囲でゆるーく書き続けていこうと思います。

昨日(7/24)、久々にジャカルタのパサール・サンタへ行ってみました。

パサール・サンタといえば、近年、3階部分の区画を若者たちが借りて、様々な小ビジネスを始め、活況を呈していると話題になっていました。一時は、入居希望者が後を絶たず、半年ごとに入れ替えとするほどの盛況ぶりで、伝統的な市場の活性化モデルとして注目されていました。

とくに、平日はオフィスで働く若者たちが土日のみここで小ビジネスをする、というのも結構あったので、昨日の日曜日、またあの活況に会えると期待して行ったのです。


行ってみたら、シーンとしていました。ほとんどの区画はシャッターが閉まったまま。閑散としていました。

あのかつての土日の賑わいはどこへ行ってしまったのだろうか・・・と訝しがって、開いていた小さな本屋の店主に話を聞きました。

曰く、数年前までは賑わっていたが、その後、急速に客足が減ったとのこと。客足が減るにつれ、短期的利益を目的に事業を行っていた人々が継続できなくなり、どんどん撤退していったとのこと。今も残っているところは、短期的利益を求めるのではなく、しっかりした経営理念のもとで中長期的観点から事業を行っているところだ、ということでした。

その小さな本屋も、大手書店などの流通に乗りにくい地方の小さな出版社の出す良書を集めて、細々とながら、それらを世の中へ紹介していくことを使命としている、ということでした。スラバヤやマカッサルの私の友人たちの名前が何人も出てきて、ちょっとビックリでした。こんな本屋がまだ頑張っているところに、何となく救われる思いがしました。

熱し易く冷め易い。そんなインドネシアの人々の気質が思い浮かびました。

この本屋の向かいには、麺を出すスタンドがあり、そこで食べてみました。これがオリジナルのなかなかの麺でした。


見た目はただの麺ですが、汁がややカレー味で、独特の美味しさを醸し出しているのです。ワンタンも美味しく作ってあり、想像よりもずっと工夫して作られていました。

そう、ほかのどこにもない味でした。そうしたオリジナリティがこうした事業を支えているのでしょう。

この店を切り盛りするアンドゥリ君は大学生ですが、メルボルンにいた兄がこの味を開発したのだとか。本人は、フィリピンへ行ってパイロットになりたかったが、家族の反対で諦めたのだそうです。


この店は今度、スカルノハッタ国際空港の新第3ターミナルにも出店を予定しているそうです。今後の展開が楽しみです。

2016年7月21日木曜日

「さよなら皆様」、お別れを終えて

今回の急な一時帰国は、家族の大事な一人とのお別れのためでした。故人を偲び、お通夜と告別式を無事に終えました。

今回のお別れで、「さよなら皆様」という曲をもう一つ知りました。もう一つというのは、中学生の卒業式のときに歌った「さよなら皆様」とは違う曲だったからです。

私の知っている「さよなら皆様」(岡田陽作詞・柳沢昭作曲)の歌詞は、以下のようなものでした。歌ったことのある方も少なくないと思います。

 さようなら皆様 またいつか会う日まで
 懐かしい思い出を いつまでも胸に
 さよなら 皆様

 さようなら皆様 またいつか会う日まで
 声合わせ歌おうよ 歌に思い込めて
 さよなら 皆様

今回、故人を偲んで、棺にお花を入れてお送りするときに流してもらったのが、次のもう一つの「さよなら皆様」でした。

 さよなら皆様
 さようなら ご機嫌よう

 楽しい思い出 心に秘めて

 お別れいたしましょう。
 また会うその日まで

 さよなら皆様
 さようなら ご機嫌よう

 お別れいたしましょう。
 また会うその日まで

 さよなら皆様
 さようなら ご機嫌よう
 さようなら ご機嫌よう

宝塚歌劇の公演終了後に場内にかかる音楽でした。亡くなるまで、ずっと宝塚歌劇が大好きで、ちょっと自分勝手だけれども、いつも前向きで、元気に生きていった故人をお送りするには、本当にピッタリの曲でした。

さあ、気を取り戻して、7月21日に再びジャカルタへ戻ります。

2016年7月18日月曜日

多様性、まずは存在を認めることから

日本へ一時帰国して、いやーな感じの内容を取り上げたブログを読みました。ちなみに、このブログの執筆者の姿勢には強く共感しており、このようなことが起こってほしくないという気持ちです。

個人のあなたを集団でイジメるばかりで助けない社会

このブログでは、参院選の際に、安倍総理の選挙演説の周辺で、「アベ政治を許さない」というプラカードを掲げた一人の女性が、大勢の人々によってその場から排除される様子が描かれています。おそらく、相当に度胸のある女性の覚悟を決めた行為なのでしょう。少しも怯まぬこの女性に対して、ちょっとびっくりするような言葉さえも投げつけられています。

おそらく、逆の場面、すなわち、安倍政権を批判する人々が大勢の場で、一人で政権を支持するプラカードを掲げる人がいたら、やはり同じように取り囲まれ、排除されるのだろうな、と思いました。

こうした選挙演説の場は一般に開放された場所であり、政権を支持する人も批判する人もいることは容易に想定できます。でも、演説している人の気分を害さないようにするためなのか、主張の異なる人を排除することが行われています。

「アベ政治を許さない」というプラカードを掲げた一人の女性に対して、なだめるように「あなたのためだから」という声が聞こえましたが、それはどういう意味なのでしょうか。放置すると暴力を振るわれるかもしれないから、お引き取りいただいたほうがよい、という意味なのでしょうか。その女性はきっと、それをも覚悟して、自分の主張を示し続けたのかもしれません。

こうした同調圧力は、選挙演説に限りません。日々の生活の中で、他と違うことをしようとしたときに、「悪いことは言わないから、やめておいたほうがあなたのためだよ」と親切に忠告されることは、珍しいことではないと思います。

あなたのため、とは何でしょうか。(あなたが)いじめられたり、差別を受けたり、場合によっては暴力を振るわれたりしないように、でしょうか。(あなたの)進学や就職に不利になる、という理由でしょうか。と同時に、騒ぎを起こされて波風立ったら困る、という自分の立場を守るため、でもあるのではないでしょうか。「そのへんのこと、わかってくれよ」というのが本音だったりするかもしれません。

日本では、警察がイスラム教徒を監視しているという話を聞きますが、真面目に暮らしているイスラム教徒がそれを心底支持するとは思えません。それは、今も「外国人監視部」(POA: Pengawasan Orang Asing)が警察にあるインドネシアで暮らした経験のある自分には、よく分かります。

「多様性の中の統一」をモットーとするインドネシアでは、通常、他人に危害を加えない限りは、その人の存在を認め、放置します。しかし、いったん危害を加えたならば、徹底的に摘発します。

そうした姿勢は、日本から見ると生ぬるく見えるかもしれません。でも、様々な宗教や種族からなる人々がいるインドネシアでは、そうしなければ国としての統一は維持できないのです。

自分と意見の異なる人がいるのは当たり前です。「そういう人もいるよね」とまずは存在を認め、たとえ目障りであっても、温かく見守り、拡声器などで騒いで演説の妨害をするような行為に至れば、しかるべき措置をとればよいと思うのです。

2016年7月16日土曜日

急遽、一時帰国

8月6日までインドネシア出張中なのですが、急な家族の事情があり、7月16〜21日に一時帰国することとなりました。

この期間、前々から楽しみにしていたカカオツアーのコーディネーターを務めることになっていたのですが、やむなく断念することになりました。

このツアーには、企業などの環境配慮・CSRなどの専門担当者の方々が参加することになっており、ツアーの現場の様々な事象から、面白くてユニークな意見交換や議論ができると、とても期待していたので、本当に残念です。また、今後、エコツーリズムを意識したインドネシアでのより深い学びのツアーを作っていきたいと考えていたので、今回のツアーを主催した方々と協働できないかとも考えていました。

自分勝手かもしれませんが、今回の件でそうした今後のお付き合いの種が無くなってしまわないことを祈るばかりです。皆様、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

こうして、グダグダとブログを書いて、読んでくださる方々がいるということを感じられるのも、今ここに生きているからこそ、なのだということを改めてかみしめています。

クアラルンプールKLIA2空港にて

(インドネシア・バンドン南部の山間部で栽培されているアジサイの花)

2016年7月14日木曜日

スカルノハッタ空港での新たな楽しみ

ジャカルタの玄関口、スカルノハッタ国際空港。ジャカルタからスラバヤへ、ガルーダの国内線に乗るために、2Fターミナルに行きました。

今日は、昼食をとるのを忘れて、農業省での打ち合わせをしたせいか、夕方4時頃に空腹のピークが来てしまい、スカルノハッタ空港で何か食べてからスラバヤ行きに取ろうと決めていました。

2Fターミナルで食事をするときは、大抵、ニングラットのラウォンを食べることが多いのですが、この間、老大(ラオタ)が店を出していたのを見たので、寄ってみました。

この店は本店がバリ島のクタにある中華粥屋さんで、マカッサルに支店があったため、自分としては馴染みの店になりました。マカッサルには、朝、中華粥を食べさせるワンタン麺屋などがたくさんあるのですが、ラオタはそれとは一線を画し、中華粥のみで勝負していました。マカッサルの多くの店より、粥があっさりしているのが特徴です。

空腹を満たすために食べたのは、海南家鴨飯。海南ライスとダックという取り合わせです。


期待通り、これがけっこう美味しかったのです。あえて粥を食べなかったのですが、海南飯もなかなかのレベルでした。もちろん、ダックは絶妙の焼き具合で、皮の部分の脂がたまりませんでした。

これでお値段は65,000ルピア。ニングラットのラウォンの他に、空港での楽しみができました。

ラオタの店はフードコートのロティボーイの向かいにあります。ぜひ、お試しあれ。

2016年7月12日火曜日

高級即席麺「豪華麺」を食べてみた

6月28日〜7月4日のゴロンタロへの出張時に最後、ジャカルタに2泊した際に、前から話を聞いていた高級即席麺をようやく手に入れることができました。

我が家では、ずっと昔から東京の家に、インドネシアを代表する即席麺のインドミーを常備していて、よく食べています。10年ぐらい前に、ご当地インドミーの5箱セット(スマトラ、ジャワ、カリマンタン、スラウェシ、東部諸島)を全て買って、数年かけて食べ尽くしたのもよき思い出です。

今回買ったのは、インドネシアの食品大手であるマヨラ(Mayora)グループの販売したバクミー・メワ(Bakmie Mewah)。直訳すると「豪華麺」、です。


箱に入った即席麺は初めて見ました。売りは、乾燥ではない鶏肉が入っていること。普通のインドミーが2500ルピア前後なのに、この「豪華麺」は7500ルピアもします。

しかも、これは汁なし麺。ちょっと意外なのですが、ジャカルタの麺屋で人々がどう食べているかを観察すると、我々のように汁を麺にかけて食べるのは多数派でなく、最初は麺だけを食べている人が多いように見えます。

個人的には、汁なし麺も大好きなので、期待して、東京の自宅で食べてみました。


たしかに、鶏肉は本物のそれでした。麺もシコシコしていて、普通のインドミーよりも生麺に近い感じ。汁なし麺として、なかなかの美味しさでした。

でも、これだけだと量がちょっと物足りない気がしました。「豪華麺」とはいうものの、お腹を満たすには不満が残る高級即席麺、でした。

2016年7月10日日曜日

アンゴラ、ブラジル、福島を結ぶサウダージ

7月8日、友人である渋谷敦志氏の写真展を見てきました。渋谷氏とは昨年、ダリケー株式会社主催のカカオ農園ツアーをご一緒して以来のお付き合いです。

今回は「Saravá~Brazilian Journey~」と題する写真展でした。1990年代半ばから20年以上、ブラジルと付き合ってきた渋谷氏の軌跡を感じさせるような写真が展示されていました。

写真展は7月14日まで、新宿コニカミノルタプラザで開かれています。詳しくは以下のサイトをご覧ください。

 渋谷敦志 写真展「Saravá~Brazilian Journey~」

合わせて、渋谷敦志写真集「回帰するブラジル」も購入しました。この写真集、アンゴラから始まり、そのすぐ後からは、ブラジル各地で過去20年間に撮影した写真の数々が続き、最後は福島で終わる、というものでした。


この写真集を貫くキーワードは、サウダージというポルトガル語です。

渋谷氏によると、サウダージとは、過ぎ去った時間への懐かしさ、何かが満たされない寂寞、心にはあるのに触れることのできない哀切、それらをぎゅっと詰め込んだ言葉にならない思いを表すようです。

渋谷氏は、彼自身の20年を超えた付き合いをしてきたブラジルに対するサウダージを抱きながら、写真の対象としての人々それぞれのサウダージに思いを馳せ、それを写真の中に表現しようとしてきたのかもしれません。

彼の写真の中の人々は、今を懸命に明るく生きているとともに、それぞれの人生の過去と今後を思いながら生きている、そんな様子を垣間見せています。それは、写真の中の人々の表情、とくにその目に表れているような気がしました。たまたま出会った被写体の彼らに対して、渋谷氏は、人間としての尊敬をもって、彼らの人生を映しだそうと誠意を持って向き合っている様子がうかがえる写真でした。

彼自身の、そしてブラジルでの被写体の人々の、サウダージが溢れ出してくる写真。そして、最後にそれが、東日本大震災の時に津波で家を流され、家族を失いながらも、前へ進もうとされている福島・南相馬の男性をめぐる写真で終わるところに、サウダージという言葉の持つ深さを感じたのでした。

渋谷氏は次のように書いています。

ーブラジル、アフリカ、そして福島。異なる三つの大陸をまたぎ、海を越え、サウダージは、ぼくを「いま、ここ」に連れてきた。そこから見える光景はかつての自分が思い描いていたものとはずいぶん違う。悲しい到達地と言えるかもしれない。失われた風景はもう戻らないかもしれない。でも、そこには心が残っていた。それは、人間が根源的に持つ生きる意志を確かめさせてくれるような何かでもあった。そんな心のよりどころのような場所に幾重にも立ち返り、生命の在り処にカメラを向けることで、未来を光で照らし出す可能性を探求しようとしているのだと思う。

渋谷氏の写真の真ん中には必ず人間とその人の人生がある、と思いました。サウダージを大切に大切にしながら、未来の光を映しだそうとする、真摯なカメラマンの姿がそこにはありました。

渋谷氏に教えていただいた、このサウダージというポルトガル語を、私も大事にしながら、前へ進んでいきたいと思いました。そして、これまで出会った人々やこれから出会う人々の未来に対して、もう一つ教えていただいたポルトガル語、サヴァーレ(祝福あれ)を送っていきたいと思いました。

2016年7月8日金曜日

久々のパフェ、今回は桃パフェ

ここ数日、ちょっと真面目にブログを書いてしまって、本来、思っていたような、ゆる〜いブログでなくなってきて、窒息してしまいそうです。

というのとはあまり関係ありませんが、今日は久々に、2人でパフェを食べに行きました。娘が甘いものが嫌いなので、私が海外に行っていると、妻は大好きなパフェを一人で食べには行かないようなのです。

今日のは、池袋東武の高野で桃のパフェでした。


昨年までは、帰国すると必ず2回はパフェを食べに行くので、フェイスブックにずいぶん写真をアップし、それを見るのを楽しみにしているらしい友人たちもいたようですが、このところ、日本でも地方へ出かけることが多く、なかなか2人で食べに行けずじまいだったので、本当に久しぶりでした。

そういえば、ジャカルタではパフェを見かけないですよね。他のアジアの主要都市でも、日本のようにパフェが食べられるようなところはないのでは、と思います。台湾デザートも大好きですが、ちょっと傾向が違いますよね。

もしかしたら、このパフェもまた、外来食文化を日本流に育てた、日本発の西洋風デザートなのかもしれません。和食の「和」の部分が時代とともにどんどん変化し、多様化していき、今度は世界各地に、和食文化由来の新しい「おいしいもの」が生まれてくるかもしれない、なんて考えると、ワクワクしてきてしまいます。

途上国での我々の立ち位置

第2に、発展途上国における我々の立ち位置についてです。

日本の政府開発援助は、日本政府が相手国政府へ行う援助です。ここでは、相手国政府が行う施策は国民のためになっているという仮説があります。たとえ相手国政府が国民から信頼されていなくとも、その仮説を崩すわけにはいきません。政府以外へ協力するということはありえないのです。

相手国政府から虐げられたり、反政府勢力だと見なされる国民から見れば、相手国政府は敵であり、それを支援する日本も敵視されるかもしれません。多くの発展途上国では、国民は政府を信用していないことが多いのです。汚職、腐敗、内戦などにより、国民の全幅の信頼を得ている政府など存在しないのです。

援助関係者の多くは、否が応でも、そうした国家の手先になります。援助の仕事は国家間の仕事であり、それに従事するということは、国家目的に則って仕事をするということになります。

反政府勢力が強いところでは、そうした援助は、自分たちの敵である現政権を支えることになる、と見なされます。それを遂行する日本人専門家も、彼らにとっては敵の一部になります。このことを十分に自覚して行動しなければならないのです。

発展途上国では、外国人は、インドネシアも含めて、未だに金持ちで裕福だと思われる傾向があります。現地の一般の方々からすると、外国人は別世界の人間で、ともすると、自分たちよりも上の優れた人々、と思い込んでいる場合が少なくありません。援助や技術移転では、どうしても日本から相手国へ教えてあげる、という無意識の上下関係ができてしまいます。こうして、国家を背にしながら、教える側と教えられる側とのスムーズな関係ができ上がってしまうのです。

私もそんな形で長い間仕事をしていました。そして、自分が自分でなくなっていくような気配を感じました。国家の名の下に仕事を進めることで、現地社会に対して張ってきた鋭敏なアンテナがどんどん鈍り、アドミのことに関わり始めると、現地社会がどんどん遠くなっていくような感覚が現れてきました。

それがまだ自覚できるうちに、感覚を取り戻すために、あえて、山羊や鶏と一緒にエアコンなしの長距離バスに乗ったり、青物市場の中を歩きながら商人のおばちゃんたちとダベったり、外国人も日本人も来ることはない小さな食堂を食べ歩きしたり、そんなことに努める日々がありました。努めないと自分がダメになってしまう、という感覚もありました。

そうやって、できる限り現地の人々に自分を近づけようと努めても、結局は、やはり外国人としてしか見てくれていないのだ、ということを改めて思いました。外国人、日本人という一般名詞の世界しか作れていないのでした。

ともすると、途上国での我々の立ち位置は、国家を背負った場合、相手国政府に反発する国内勢力からは敵意を持たれる可能性があり、また、事業の中で教え教えられる上下関係がついてしまうと、それに安住してしまい、現地社会から遠ざかるような感覚が現れてしまいます。

そうしたことを自覚し、自分が自分であることを忘れない自分を意識しながら、現地の人々から敵と見られないためにも、国家と一体化しない自分を持ち続けることが必要ではないかと思いました。そして、そうは言っても、外国人として一般化して現地の人々からは見られているという自覚も常に持ち続けることも大事だと思いました。

今日は、正直言って、うまく書けず、書いたものを消しては書き直しました。書いていてもどかしく、自分の言葉になっていないような気がしています。

2016年7月6日水曜日

「日本は安全だ」という根拠は何か

テロ事件について、もう少し書いてみたいことが2つあります。

第1に、今回の事件では日本人7人が犠牲となりましたが、もし日本人が犠牲にならなかったら、これほどテロ事件が日本で注目されたのだろうか、ということです。日本人が犠牲になったことで、「危ない」という話が急に広まっているように思います。

シリアやイエメンやイラクやガザなどでは、連日のように、犠牲者が出続けています。あまりに長く続いているので、感覚が麻痺しているような気さえします。アメリカやヨーロッパでも、テロの犠牲者が出ました。でも、我々は日本にいて、日本は安全で、テロの話はどこか遠くの他所の話のように思っていたのではないでしょうか。そこで犠牲になった方々のことをどれほど気にかけていたでしょうか。これは自分も含めての自戒です。

世界は、日本人が犠牲になったから、急に危なくなったわけではなく、ずっと危ない状態が続いているといってもよいのではないでしょうか。むしろ、国家と国家の戦争しかなかった時代よりも、統制の効かない複雑な状況になっているような気がします。

日本は安全だ、という根拠があるとすれば、それは何でしょうか。今までのところ、イスラム国を名乗るテロ事件は起こっていませんが、これから絶対に起こらないという論理的な理由はあるのでしょうか。

テロではなくとも、街中でいきなり自動車が歩道へ突っ込んできたり、誰かを殺そうと人混みで騒いだりする事件は、日本でも起こります。テロ事件とそれらを一緒に扱うことはできないかもしれませんが、一人の国民としての危険からすると、同じことのように思えます。

すなわち、日本も含めて、世界中、どこでも突然予期せぬ危険に巻き込まれる可能性がある、ということを前提に、自分自身で危機管理をしなければならない、というふうに考えを変える必要があるのではないかと思います。誰も誰かを安全に確実に守ることなどできない、という前提に立つ必要があると思うのです。

それならば、我々は何もできず、家に閉じこもるしかないのでしょうか。守ってもらうことだけを願うならば、そうするしかありません。でも、それで生活ができるとは思えません。自分自身で危機管理をしながら、外の世界との間を行き来しながら、生活することになると思います。

それでも、日頃から情報収集をし、自分自身の危機管理上のリスクを少しでも下げる努力は必要です。外国人の溜まり場として有名な高級バー・レストランなどを避けたり、欧米系のホテルを避けたり、不用意に一人で夜の街をふらふらしない、深酒して街中で泥酔しないなど、日常のスリや強盗などを避ける基本的態度を身につけておく必要があります。

もちろん、言うまでもなく、政府や警察は可能な限り国民や住民を守る活動を行わなければなりません。でも、必要なのは、政府や警察に守ってもらうことで満足するだけでなく、自分も自分自身を守る行動を起こす、ということだと思います。

第2に、発展途上国における我々の立ち位置についてです。これについては、次回ブログで書きたいと思います。

2016年7月5日火曜日

日本人だから殺されるという不条理

7月1日にバングラデシュの首都ダッカで起きた大惨事。日本人7人のほか、イタリア人9人など20人が突然殺害されました。犠牲者の方々に心から哀悼の意を表します。

亡くなられた日本人の方々と同様、今JICAの仕事をしている自分にとって、とても他人事とは思えない事件でした。もしかしたら、ダッカのあそこにいたかもしれない。あるいは、ジャカルタで友人や知人と語らっている時に突然・・・。そんな場面を否が応でも想像せずにはいられなくなりました。

正直言って、このニュースをインドネシアのゴロンタロ州ボアレモ県で知ったとき、すぐに状況を理解することができませんでした。しかも、警察が突入する以前に、すでに殺害されていたとは・・・。犯人の目的はカネではなく、外国人を殺害すること、でした。

事件のだいぶ前から、テロリストから日本は「十字軍の一員」と見なされ、殺害対象になっているということが報じられていました。それでも、我々は「まさか」と思い、そのメッセージをこれまであまり本気で受け止めていなかったような気がします。

外国人であるがゆえに殺される、日本人であるがゆえに皆殺しされる、そんな馬鹿げた信じられないことが大真面目に起こってしまった・・・。本当に。ショックをまだ引きずったままです。

第2次世界大戦敗戦の苦い教訓と深い反省から、日本は、世界の人々から憎まれる国にならないように存在していこうとしてきました。それは、日本製品というモノを通じて、様々な経済協力を通じて、たとえ間接的にではあっても、世界中の人々がより良い生活を享受できるようになることを願ってきたのだと思います。

そして、我々のどこかに、これだけ色々してきたのだから、世界のすべての人々は日本に親しみや感謝の気持ちを持ってくれるはずだし、それが当然だ、という気持ちがあったのではないでしょうか。

それは、もしかしたら我々の思い込みだったのかもしれません。いや、思い込みだったと少し謙遜するぐらいがいいのかもしれません。おそらく、日本に好意を持っている方々の数は敵意を持っている方々の数をはるかに上回ることでしょう。でも、とても悲しいことですが、「日本人だから殺す」と考えている人がこの世界にいる、という想像力を持っていたほうが良いように思います。

テロリストの行為は非道であり、いかなる理由でもそれを認めることはできません。それがたとえ宗教や思想のベールをまとっていたとしても、です。

しかし、この世界には、特定の人種や民族を殺してきた過去があるし、今もヘイトスピーチで「〇〇人を殺せ!」といって恥じない人々も存在します。どうして、〇〇人が一つの人格や特徴で語れるのでしょうか。〇〇人にも、どの宗教にも、どの人種にも民族にも、良い人もいれば悪い人もいる、となぜ想像できないのでしょうか。

「〇〇人を殺せ!」などと叫ぶ人々は、本音ベースで付き合える、自分とは異なる宗教や人種や民族の友人や知人がいないのではないかと思います。

私は、たまたま何の因果か日本に生まれた日本人です。もしかしたら、アメリカに生まれたかもしれないし、たまたま親も日本人だった、という偶然を感じます。日本の外の世界で暮らすと、最初は日本人という目で見られますが、それがなくなっていき、私という個人として見てくれる友人や知人が増えていきました。私という個人があって、たまたま日本人だった、という感覚があり、私が日本人だから付き合う人よりも私が私だから付き合う人が増えていくのを感じてきました。

今回のテロリストの中には、英語で教育を受けた、恵まれた家庭のエリート予備軍が含まれていたとのことですが、外国を意識したからこそ、何らかの理由で外国人を嫌悪するようになったのだろうと思います。あるいは、自分が、腐ったエリートたちの予備軍であることに自己嫌悪を感じたのかもしれません。

そう、外国人だったら殺害する相手は誰でもよかった・・・。昨今、日本でも「殺す相手は誰でもよかった」といって殺人を犯す事件がたびたび起こっているのを思い出します。自分をこんな目に合わせた社会が悪い、誰かを殺すことで社会に天罰を、ということなのでしょうか。

海外であれ、日本であれ、いつ何時、そのような目に合わないとは言えない世の中になってしまいました。その意味では、残念ながら、あるとき突然自分が理由もなく殺される、ということを完全に防ぐことは難しいと言わざるをえない気がします。

そうであれば、開き直るしかないのではないでしょうか。今までと同じように活動を続けるしかないと思います。ただし、そのとき、いつそういう目にあっても後悔しないよう、瞬間瞬間を懸命に生きていく、という気持ちが今までよりも強くなるように思います。

日本は安全で海外は危ない、とも一概には言えないと思います。むしろ、日本の外へ出て行って欲しい。それは、自分が自分であることを取り戻すためです。日本人である前に自分であるということを。そうすると、世界は自分を日本人という色眼鏡で必ずしも見ていない、自分が何者であるかを見ているのだ、ということに気がつくはずです。

こんな状況にしたのは〇〇のせいだ、と誰かを批判したり、溜飲を下げたりして、何かを前へ進められるのでしょうか。我々自身が動くことによって、理不尽なテロや無差別殺人が起こらない世の中を作っていかなければならないのではないでしょうか。そして、そう思っているのは我々だけでなく、世界中の多くの人々が心からそう願っているということを知って、行動していくことではないでしょうか。

より良い世界を目指して活動したのに、今回のような不慮の死を遂げてしまった方々のことを胸に、日本人である私は、自分の中の「個人」をも大切にしながら、前へ進みます。

レバランを前に、トルコ、イラク、サウジアラビアで自爆テロが起こり、マレーシアでも爆弾事件があり、インドネシアでも7月5日、中ジャワ州ソロ市で警察を狙った自爆テロが起こりました。イスラム教徒にとって最も幸せで楽しいレバランまでわずか数日、それを味わうことなく、たくさんの方々が亡くなりました。こんなことをする者たちが、恥ずかしげもなくイスラムを名乗っていることに強い憤りを感じます。

インドネシアも明日はレバランです。神への祝福と平和を願う無数の祈りが世界中のモスクで捧げられることでしょう。私を含む非イスラム教徒も、一緒に平和の祈りを捧げられればと思います。

2016年7月4日月曜日

断食中の機内食、ガルーダの場合

今回のゴロンタロ州ボアレモ県訪問は、断食中の用務でした。

断食明けは7月6日と予定されていますが、通常、月が新月かどうか、実際に見て判断するので、直前まで決まりません。というわけで、イスラム教徒の皆さんは、「もういくつ寝ると・・・」という感じで、指折り数えて断食明けを待っているところです。

断食中でも、私たち非イスラム教徒は通常通り飲食をしてかまいません。もちろん、断食中の方には一応「食べさせていただきます」と断わりを入れるのが礼儀でしょうね。

イスラム教徒としては、異教徒に断食を強制させることは罪という意識があります。昔、役所の職員と一緒に地方出張したとき、たまたまタイミングを逃して飲まず食わずとなり、気がつくともう夕方の4時でした。職員たちは「お願いだから食べてくれ」と懇願され、カーテンのかかった小さな食堂へ押し込まれてしまいました。

今回も、一緒に動いてくださったカカオ栽培指導のコンサルタントの方と運転手が、気を遣って、田舎なのでなかなかないのですが、いつも昼食の場所を探してくださいました。おかげで、昼食をとることができました。

ところで、断食中の飛行機の機内食ですが、今年は少し例年と変わった光景を目にしました。これまでは、通常通りの食事が供され、断食中の人には食事が供されませんでした。

今回、ガルーダ・インドネシア航空で目にしたのは、紙の箱に入った食事です。1時間程度の短距離飛行の時にはパンなどの入った紙の箱が渡されますが、通常の食事もまた、紙の箱に入って渡されたのです。中を開けると・・・。


ガルーダのマーク入りのポリ袋が1枚入っています。この袋、紙の箱をお持ち帰りするための袋なのでした。断食中の客も、紙の箱に入った食事をお持ち帰りできるようにしたのでした。機内で見ていると、ほとんどの客が紙の箱をポリ袋に入れて持ち帰っていました。

工夫しましたね、ガルーダ・インドネシア航空。5つ星航空会社と認定された自信が、こうしたちょっとしたサービス向上に結び始めたような気がしました。

2016年7月3日日曜日

山頂までトウモロコシ畑

ボアレモ県に滞在3日目の7月2日は、県南東部の村を訪問しました。本当は6月30日の午前中に訪問予定だったのですが、「雨がひどくて、道路状況が良くないので、来ないほうが良い」と言われて、行けなかった村です。ゴロンタロ空港へ向かう途中での寄り道でした。

スラウェシ島のマカッサルからマナドまで通じるトランス・スラウェシ道路から一本入ると、その道は、舗装されてはいるものの、穴だらけで、中には舗装が剥がれてガタガタになっている、急なアップダウンの道でした。上り下りが相当に急で、たしかに、これでは、大雨の中、行くのはかなり危険だと思わざるをえない道でした。

標高は上がっていきますが、道の両側はトウモロコシ畑が広がり、しかも遠くに見える山々の頂までトウモロコシ畑が広がっている様は圧巻でした。トウモロコシ畑を広げるために、削られた山肌があちこちに見られます。

村に着くと、そこもまた、山の頂までトウモロコシ畑でした。山肌が削られ、新たにトウモロコシ畑となるであろう様子もうかがえます。



昨日訪問した別の村では、かつてはほとんどがトウモロコシを栽培していたのに、今は皆んな止めてしまい、カカオへ転作していました。曰く、種子や肥料などの代金を商人から借りても、収穫の時に返済すると儲けがほとんどでないかマイナスになる、化学肥料や殺虫剤の投与で農地がダメになるのに加えて自分たちにも健康障害が出る、といった理由でした。

ゴロンタロ州は、北スラウェシ州から2000年に分立してから、州を挙げてトウモロコシ生産を奨励し、「トウモロコシ州」としてゴロンタロ州の名前を売りました。それから15年、トウモロコシ生産の弊害が出ている一方で、この村のように、今もなお、山を裸にし、トウモロコシを植え続け、森がなくなっていく状況も併存しています。

トウモロコシ栽培のための森林減少を食い止めるため、代替物としてカカオを含めたアグロフォレストリーの奨励が試みられていますが、この村のトウモロコシ栽培の広範な拡大を見ていると、アグロフォレストリーの前途は相当に多難だと思わざるをえません。

こんな村でも、ゴロンタロの断食明け直前の風物詩トゥンビロ・トヘの準備が行われていました。


トゥンビロ・トヘとは、灯を照らすということで、元々は、夜のイスラム礼拝を人々に伝えるための道しるべの灯りとして使われたようです。昔のブログでトゥンビロ・トヘについて書いたことがありますので、参考までにリンクを貼っておきます。

ゴロンタロ「灯りの祭典」

トゥンビロ・トヘは、なかなか幻想的できれいなので、機会があれば見に行かれたらと思います。州全体で行われ、今回訪問したすべての村で、準備が行われていました。でも、膨大な数の灯りをつけるために燃やされる大量の灯油とそこから発せられる二酸化炭素のことを思うと、ちょっと複雑な気持ちになります。

2016年7月1日金曜日

発酵カカオ、未発酵カカオ

昨日は、午後、ようやく雨が上がり、再びカカオ農家を訪問することができました。

カカオは収穫後、実を割って中からカカオ豆を取り出し、それを発酵させてから、天日干しにして水分を飛ばし、加工へまわす、というのが一般的です。カカオを発酵させると、あのカカオ独特の芳醇な香りが生まれ、チョコレート原料となります。


上の写真はカカオ豆を半分に切った断面です。右から3番目付近の黒いのが発酵カカオです。一番右側は半分ぐらい発酵しています。残りの紫色のものはまだ発酵が十分でないカカオです。

ところが、ボアレモのカカオ農民の多くはカカオを発酵させず、未発酵のまま集配人に売ってしまいます。それはなぜでしょうか。

一つには、すぐにお金が欲しいからです。何はともあれ、現金がすぐに欲しいので、未発酵のまま天日干しして、すぐに売ってしまうのです。集配人も、天日干しして、水分を飛ばすことしか要求しません。

二つには、発酵は面倒くさいのです。発酵させる4〜5日間が無駄になるし、1日に何回かは発酵中のカカオを手でかき回さなければならないし、発酵してくるとカカオが熱くなるし、こんな手間暇かけたくない、という理由です。

そして、それらの理由の根本には、集配人から提示される価格は一つで、発酵してもしなくても、買い取り価格が同じ、という問題があります。

皆さんがカカオ農家だったら、それでも発酵させますか。しないですよね。

インドネシア産カカオは、世界市場では低品質のカカオとみなされており、しかも家畜のエサ用など低品質カカオの市場が存在するので、あえていいカカオを作らなくても済む構造ができ上がっています。

実は、発酵カカオと未発酵カカオの価格差がないという問題は、私がマカッサルでJICA専門家として地域開発政策アドバイザーを務めていた20年前から、全く変わっていないのです。それを今回、改めてボアレモのカカオ農家で確認しました。

しかし、状況は変わり始めました。ごくごく一部ですが、発酵カカオを未発酵カカオよりも高く買い取る動きが出始めました。その先陣を切った企業の一つがダリケーです。

ダリケーは発酵カカオを高く買い取るだけでなく、カカオ農民に対して、カカオの栽培・管理技術、発酵の方法などを指導し、それをマスターしてちゃんとした発酵カカオを作った農民からはプレミアムをつけた価格で買う、ということをスラウェシで行なっています。でもこれは、良いものを作った人には正当な価格で評価する、という商売として当たり前のことをやっているに過ぎないのです。

ボアレモ県のカカオ生産は年産わずか1000トンぐらいの少量生産ですが、県政府がカカオ栽培を奨励し、苗木や肥料などを無料で農民に配っています。このやり方だと、農民はオーナーシップを持たず、やる気も出ないのではないかと思いました。

ところが、現場へ行くと、過去にカカオ生産を経験した農民がリーダー格となり、他の農民を発酵カカオ生産へ誘っていました。


彼らの多くは、これまでトウモロコシ農家でした。気候変動の影響か、トウモロコシ生産が2期連続で不作となり、中間業者から借りた借金の返済に追われたと言います。トウモロコシで地獄を見た農民たちは、1回植えれば20〜30年持ち、毎週のように収穫でき、しかも初期費用は政府もち、というカカオへなびきました。そして、今、発酵させると、世界市場では高く売れるということを農民が知り始めました。

ボアレモ県のカカオ生産は、まだ緒につき始めたばかりで、生産量はごくわずかです。しかし、長年カカオを作ってきた農家とは違い、最初から発酵カカオの良さを理解し始めています。これからの戦略を間違えなければ、少量ではあるが、高品質の発酵カカオを生産できる場となり得るかもしれません。

これからのボアレモ県のカカオ農民の努力に注目していきたいです。