2020年8月27日木曜日

インドネシアの若者とナショナリズム

8月の月例オフ会、テーマは若者とコレクティブ

よりどりインドネシア第76号の発行と舞台裏


2020年8月25日付のインドネシアの日刊紙 KOMPAS を読んでいたら、小さいが、興味深い記事が載っていた。「インドネシアの若者におけるナショナリズムの意味合いはより主観的である」(Pemaknaan Nasionalisme di Kalangan Anak Muda Lebih Subyektif)という記事である。

https://www.kompas.id/baca/muda/2020/08/24/pemaknaan-nasionalisme-di-kalangan-anak-muda-lebih-subyektif/

この記事は次のような文章で始まる。

(1998年以降の)改革の時代以降、若者はナショナリズムの意味合いをそれぞれの経験に基づいたより主観的なものと捉えている。若者のナショナリズム意識の実践は、地域資源を使ってコミュニティを開発する方法といった形で現れる。

この出だしだけで興味をそそられる。なぜなら、これまで、インドネシアにおける民族主義の象徴と言えば、独立闘争であったり、国家の豊かな自然であったりしたからである。

従来のナショナリズムで強調されていたのは、インドネシアという独立を勝ち取った国家であり、ときには国家を第一とする国家主義とも受け止められるような捉えられ方もよく見られた。なぜなら、ジャワ族とかミナンカバウ族とかいう「民族」(あるいは種族という言葉で区別する)をもとにした「民族主義」を強調することは、統一国家インドネシアの分裂の危機を招きかねないからである。インドネシアをまとまらせるためにも、ナショナリズムは国家を意識したものにならざるを得なかった。

ところが、この記事によると、民主化以降のインドネシアの若者のナショナリズム意識は、国家よりもローカルへ向かっているというのである。そして、ナショナリズムを環境保全、地域文化の振興、インドネシア語使用への誇り、コロナ禍の保健衛生プロトコルなどに関連付けている。その結果として、多くの地域に様々なコミュニティが生まれ、連帯のイメージが変わってきており、この傾向は、他国の若者のナショナリズム意識とも異なる、という。

記事によると、インドネシアの若者は、インターネットや携帯などの利用などで個人主義的になったというよりも、地域の価値を前面に出すような集合的(kolektif)になってきている。ナショナリズム意識が変わってきたのは、以前と今とで脅威の中身が変化したからである。かつては侵略や異なるイデオロギーがナショナリズムに対する脅威だったのが、今では、地域資源や環境の絶滅を脅威と感じている。

このため、若者は地域で起業し、天然資源、人的資源、地域文化を活用して付加価値のある商品を作り出そうとしており、このような起業こそが、若者のアイデンティティとして認識されているのだという。

若者どうしの連帯を促している最大の要因は環境問題であり、気候変動や水不足は直接地域に影響を与える現実のイシューである、とする。

でも、これは本当にそうなのだろうか。

この記事を読みながら、私は、スハルト長期政権が崩壊した1998年以後の民主化されたインドネシアの歩みを振り返ってみた。この期間は民主化の時代であるとともに、地方分権化の時代でもあった。

私がJICA長期専門家(地域開発政策アドバイザー)として赴任していた1995~2001年の間に、インドネシアは中央集権から地方分権へ大きく舵を切った。ドイツのGTZや世銀が法規など地方分権化の制度設計を支援しているなかで、私は、日本の一村一品運動のエッセンスを地方政府に伝え、自分たちの地域をどう開発するか、地域が主体的に考える必要性とその方策を助言し続けた。それまでの地方政府の開発政策は、中央政府からの指示待ちだったからだ。そして、地域開発政策が中央=地方の垂直的関係から、地方どうしが学び合い、健全な地域間競争と協力を行う水平的な関係へと変化することを願い続けた。

そして現在、地方分権化で汚職が地方へ広まったという負の側面は否定しがたいものの、地方政府による他地方視察が盛んに行われ、ある地方でのグッドプラクティスは中央を経由することなく地方が勝手に学び合うようになり、地方どうしが様々な産品開発や住民サービスなどで競争するようになった。私が20年以上前から望み続けてきたことが、インドネシアの地方アクターによって、ある程度は実現されてきたのだと思う。

そしてそれは、地方政府レベルだけではなかった。たしかに、地方へ行く先々で、様々な若者グループに出会い、その構成員はゆるく重なり合っている。彼らの活動は歯を食いしばるような悲壮感溢れるものでは全くなく、仲間どうしでやれる範囲のことを無理なくやるような形で進められている。かといって、自分の地域だけに留まっているわけではなく、インターネットやSNSを通じて、他の地域、時には外国の若者ともゆるくつながっている。

若者のナショナリズム意識が主観的になっていることで、トップダウン型の開発パラダイムはボトムアップ型に変えられていくべきではないか。技術を活用して同じ仲間を助ける、環境を守る、といった今の若者のナショナリズム意識に基づく行動は、ローカルからグローバルへと展開していくのではないか。そんなふうに記事は指摘している。

ああ、そうなんだ。私は、そう思った。

私が描いているグローカル、すなわち、生活の場であるローカルから深く発想して行動し、ローカルとローカルがつながって新しい価値を創り出す、ということが、インドネシアの地域の若者によって現実化しているではないか。そこには、彼らがナショナリズムを自身のコンテクストで考え(それを主観的といってもよい)、起業のような形で自立的に動き、地域資源や地域文化を絶滅から守り、育てる、という動きがある。

もし、この記事が本当で、インドネシアの地域で、そんなことが起こっているなら、そうなるとは20年前には思いもしなかった。そうなったらいいなあという希望はかすかにあったが。でも、現実に、そのような方向で動いているということなのか。

この KOMPAS の小さな記事は、私が思い描いてきた、空想とも思えた新しい世界が本当に生まれてきているのだという小さな確信を抱かせてくれた。

よし、前へ進む!

2006~2010年、マカッサルに長期滞在していたとき、我が家の大半のスペースを敢えて地元の若者のコミュニティに開放し、活用してもらった。この写真は、彼らが敷地内に建てたスペースにゲストを招いて、ディスカッションミーティングを行なっている様子。その後、彼らの多くが様々なコミュニティを作り、今もゆるくつながって活動している。
(2007年10月7日撮影)

8月の月例オフ会、テーマは若者とコレクティブ

2020年8月24日月曜日

よりどりインドネシア第76号の発行と舞台裏

インドネシアの若者とナショナリズム

インドネシアの独立宣言記念日にあたって


8月23日、よりどりインドネシア第76号を発行しました。今回の発行にあたっての私の舞台裏のお話をします。

当初、戦後75周年に合わせて、日本占領期のインドネシアのある出来事について書こうかと思っていました。それは、900人ものロームシャが死亡したモクタル事件(モクター事件)と呼ばれるある事件です。

それは1944年8月以後、東ジャカルタのクレンデルにある収容所で起こった事件でした。破傷風ワクチンの接種をした後にロームシャが次々に亡くなった事件ですが、その中に破傷風毒素が入っていたことが分かりました。果たして、破傷風毒素が誤って混入されたのか、それを故意に混入したのか、日本軍による人体実験だったのか、真相は闇のままです。

日本軍は当時、現地人医師モクタル(モクター)が混入を認めたとして、モクタルを処刑しました。ところが、その後、当時の目撃談などから、自分以外の現地人医師を救出するためにモクタルが罪を被ったという証言が現れました。当時の日本軍のなかに、731部隊に関係していた人物が当時現地に居て、破傷風毒素が混入されたバンドゥンの防疫研究所に所属していたことが明らかになっており、日本軍による関与と証拠隠滅の疑いが示唆されています。

ただ、当時、他の感染症ワクチン開発において、その緊急性から、日本で動物実験を行わずにいきなり人体実験を行ったケースがいくつもあったことや、日本軍のロームシャに対する非人道的な態度、スマトラやスラバヤで感染症の日本人専門家が現地人を何百人も殺したと言っていたという話などを総合すると、日本軍の関与が疑われることも十分あり得るのではないかと思ってしまいます。

そうした話をまとめてみようと思ったのですが、何せ、色々と関係の資料を読み込む必要があるのと、とても優秀な疫学者のモクタルの名誉回復を果たしたいという意識が事実以上の物語を作ってしまっている可能性も考えられたため、まだ不確かなままに書くのは好ましくないと考え、書くのを止めにしました。

その代わりに取り上げたのは、経済政策の話です。インドネシアの2020年第2四半期のGDP成長率マイナス5.32%は、インドネシア史上2番目の落ち込みでしたが、周辺他国と比べればかなり健闘したと言える数字でした。そして、8月14日の大統領演説で発表された2021年度予算案についても概略を説明してみました。

最後に、轟さんの「往復書簡-インドネシア映画縦横無尽」の読み応えのある原稿が送られてくるのを待って、8月23日に発行しました。

というわけで、今回は、以下の5本になります。

▼2021年度予算案と今後の経済の展望(松井和久)⇒ 第2四半期のマイナス成長の後、新型コロナ対策と経済回復を目指す2021年度予算案が発表されました。今後の経済を松井が展望しました。https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/22739/

▼ウォノソボライフ(32):良妻賢母2020(神道有子)⇒ 神道さんの好評連載、今回は、地元のPKKの活動に着目しながら、ウォノソボにおける女性の社会活動と社会的地位向上を考えます。そこにはフェミニズムとは異なる面があるようです。https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/22737/

▼プニン沼伝説(太田りべか)⇒ 太田さんは、プニン沼伝説の基本型とそこからの派生型を紹介し、ジャワの民話がどう伝承されていくかを示しています。同時に、物語の最期に教訓が常に最後に書かれることに疑問も呈します。https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/22738/

▼ジャカルタ寸景:踏切の番人たち(横山裕一)⇒ 横山さんは今回は短編ですが、ジャカルタのありふれた風景の一つ、鉄道踏切の番人たちの様子をやさしい眼差しで描いています。ボランティアである彼らの思いに迫ります。https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/22736/

▼往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第3信:「辺境」スンバ島からのスハルト体制批判映画『天使への手紙』をめぐる評価軸(轟英明)⇒ インドネシア映画往復書簡の第3信は、轟さんがスンバ島を舞台とするガリン・ヌグロホ監督の初期作『天使への手紙』を取り上げ、2つの観点から新たな解釈を試みました。映画ファンは必読の内容です。https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/22743/

『よりどりインドネシア』はウェブ版のほか、PDF版での購読も可能です。PDF版は、指定メールアドレスへ毎回お送りいたします。PDF版をご希望の方は、メールにて matsui@matsui-glocal.com へお知らせください。なお、最初の1ヵ月間は無料お試し購読期間となります。よろしくお願いいたします。



2020年8月17日月曜日

インドネシアの独立宣言記念日にあたって

よりどりインドネシア第76号の発行と舞台裏

35年前の8月12日を思い出す


今日8月17日は、私がお付き合いしてきたインドネシアの独立が75年前に宣言された日である。インドネシアでは、この日をもって、インドネシア共和国として独立したとしている。

ただ、実際には、この後、旧宗主国オランダとの独立戦争が続き、実際上の意味で国際社会から独立したと見なされるのは、1949年12月のハーグ円卓会議において、インドネシア共和国以外の国・自治国を含めたインドネシア連邦共和国が承認され、オランダから主権移譲されたことによる。その後、1950年8月、国・自治国がインドネシア共和国に合流して、単一国家としてのインドネシア共和国が名実ともに成立した。

というわけなので、1945年8月17日に独立は宣言したが、その後の幾重もの困難を乗り越え、5年の年月を経て、独立国家としての体裁が整えられたのである。

巷では、「日本軍によってインドネシアは独立できた」という言説が聞こえてくる。これは正確ではない。たしかに、日本軍がオランダ領東インド領内へ侵攻したことで、最終的にオランダの植民地支配に終止符が打たれた。だが、日本軍が侵攻する前から、オランダ領東インド内では独立を志向する動きがすでにあった。

日本軍の侵攻の目的は資源の確保であり、そのための手段として、オランダ領東インドをオランダから独立させて大東亜共栄圏の一部に組み込もうとしたのである。日本軍の侵攻がオランダ領東インドに独立の機運を高めた面はあったが、主体性を持った真の自立的な国家としてオランダ領東インドを独立させる意図は日本軍にはなかった。

日本軍はマレー語を広めたが、それが、結果的に、後のインドネシア語につながった面はある。しかし、それは一直線ではない。ジャワ島などで日本軍に対する住民蜂起が起こると、日本軍はマレー語の使用を禁止し、日本語を強制する方針へ転換した。このこと一つとっても、日本軍が本当にマレー語を広めて独立後の国語にしようとしていたとは到底考えられない。

大東亜共栄圏で、日本と旧オランダ領東インドは「兄弟」ではなかったのか。兄が弟に日本語を強制する、ロームシャなどとして強制労働を強いる、というのは、当時の言葉でいえば教育なのかもしれないが、今の言葉でいえば、虐待ではないか。

もちろん、個々人ベースでみれば様々な日本人がいたはずである。現地の人々に農業技術を教えた人、常に親切丁寧に接した人、現地の人々から慕われた日本人も少なくなかったはずである。その一方で、日本人に殴られた、罵声を浴びせられた、強制労働させられた、日本人が本当に怖かった、という現地の人々もいたはずである。現地の人々に対して、乱暴で差別的な態度をとった日本人も少なくなかったはずである。

どんな人でも、自分の過去を振り返ったとき、他者から責められたくはない。自分の過去を傷つけられたくない。自分の過去の行為を正当化したい。そう思うのは、人間の常である。

だから、様々な日本人がいたにもかかわらず、自分にとって好ましい日本人の事例をとりあげて、それで「日本は」と一般化しようとする。たとえば、かつて現地に赴いていた人物の思い出話を真に受けて、「日本人は皆いい人たちだった」という言説を作ってしまう。もちろん、本当にその人物がいい人だったかもしれない。でも、だから日本人全員がいい人だったと結論づけることはできない。その人はいい人だった、というのがせいぜいである。

もっとも、その人物は本当のことを言っていないかもしれない。自分の過去を傷つけたくはないからだ。その人物が戦後要職に就いていたりすれば、なおさらである。しかし、えらい人が言うのだから間違いない、という根拠のない思い込みも現れてくる。

インドネシアの人々は我々に会うと、多くの場合、日本が好きだと言う。あたりまえである。我々が見知らぬ外国人に会ったとき、いきなり「お前の国は嫌いだ」と面と向かって言うだろうか。嫌韓・嫌中の人が、韓国人や中国人に会ったときに直接そう言えるだろうか。

逆に、我々が外国へ行ったときに、初対面の人から「日本人は嫌いだ」と言われたらどうだろうか。たとえ嫌いだとしても、面と向かって「嫌い」とは言わないのではないか。

面白い経験がある。あるとき、ジャカルタで、韓国人のふりをしてタクシーに乗ったときのこと。タクシーの運転手に日本人について訊いたら、「俺は韓国人のほうが好きだ。日本人はケチで物事をはっきり言わない」と答えるのだ。日本人から韓国人について訊かれれば「日本人のほうがいい。韓国人は乱暴で粗野だ」と答えるのだ。彼らは、お客に合わせて言っているだけなのである。それを真に受けて、インドネシアでは日本人のほうが韓国人よりも好かれている、という言説が日本人社会でなんと多かったことか。

何を言いたいかと言えば、誰かが言うことをきちんと吟味せずに、「日本軍は礼儀正しく、現地民に愛された」とか「インドネシア人は日本が好きだ」とか、簡単に一般化すべきではない、ということである。そういう人もいた、という程度に抑えておくべきではないか。日本人が皆、そうではないし、インドネシア人が皆、そうではない。その当たり前のことを忘れてはならない。

もう一つ。これは以前、ブログにも書いたが、インドネシアが親日かどうかを気にする日本の人々は、親インドネシアだろうか。日本は相手からの親日を求める一方で、相手に対する親近感を深めているだろうか。多くは、インドネシアに親日であってほしいけれども、自分は親インドネシアなどということを考えてもみていないのではないか。それで、本当に真の信頼関係が築けるのか。

自分にとって都合のいいときには相手に信頼関係を求める一方、自分からは相手との信頼関係を築く努力をしているとはいえない。これが今の日本なのではないか。

前に、国家ではなく地域、と書いた。国家間で軋轢が起こったら、国民はそれに引きずられるのか。個人と個人、地域と地域、そうした関係のなかでこそ、相手からの信頼と相手への信頼を醸成し、国家間の利害対立を超えた関係づくりをしていく必要があるのではないか。それがなければ、我々の生活を国家が脅かす事態を招く恐れがあり得る。

インドネシアが親日かどうかより、一人でも多くの日本人がインドネシア人と知り合い、普通の人間どうしで友だちになり、仲よくなっていく、そういう話を進められたらと思う。国家とは関係なく、日本人が好きなインドネシア人とインドネシア人が好きな日本人が増えていくことのほうが大事だと思う。

私の主宰する「よりどりインドネシア」は、そんな関係性を増やしていく流れを作ることを目的としている。

ともかく、75年目のインドネシア独立宣言記念日をお祝いしたい。インドネシアの数え切れない友人・知人たちの具体的な顔を思い浮かべながら。

12年前、南スラウェシ州トラジャで出会った子どもたち(2008年8月7日撮影)


よりどりインドネシア第76号の発行と舞台裏

35年前の8月12日を思い出す


2020年8月12日水曜日

35年前の8月12日を思い出す

インドネシアの独立宣言記念日にあたって

なぜ国家ではなく地域なのか


35年前の8月12日、東京発大阪行きの日航JL123機が御巣鷹山山麓に墜落し、520人もの人々が亡くなった。日本の航空機事故で最悪の惨事となった。35年経った今も、遺族の方々が慰霊登山をしたり、あるいはしずかに、あの日、命を奪われた大切な人々のことを深く思い続けている。

あの日、私は、インドネシアにいた。西ジャワ州チマヒにいた。

35年前、大学を卒業して就職した研究所で、インドネシアとの今に至る付き合いが始まった。研究所では原則、入所1年目は現地語をイロハから学び、対象地域の基礎的な知識を身につけることに専念し、海外への出張はなかった。2年目からは出張のチャンスがあった。

入所して初めて学び始めたインドネシア。新米でも世間からはインドネシア研究者とみられてしまう引け目もあり、現地語を学び始めたばかりにもかかわらず、少しでも早くインドネシアの現地へ行きたいと思っていた。そこで、6月に始めてもらったボーナスを全部使い、有給休暇を取って、とにかく、8月にインドネシアへ行くことにした。

入所直後の4月半ば、母校の大学院に入学したインドネシア人留学生のJさんを恩師から紹介してもらい、インドネシア語の先生になってもらった。ちょうど夏休みでインドネシアへ帰国しているJさんを訪ねて、インドネシアへ行くことにしたのである。Jさんの自宅があるのがチマヒだった。

初めてのインドネシア入国。1985年4月1日からビザなしで入国できるようになったという情報を聞いていたが、その情報が正しいかどうか心配だった。パスポートを手に持ちながらおどおどしていると、入国管理官から「こっちへ来い」と別室に呼ばれる。「米ドルを持っているか?」「財布を見せろ」といわれて財布を出した。

管理官は、前日に1泊したシンガポールで替えてきたルピア札の入った財布をしげしげと見た後、当時の最高額紙幣だった1000ルピア札を財布から一枚抜き取り、パスポートにポンと入国スタンプを押した。「行け」と指示されて、イミグレを通過した。これが私の最初のインドネシアの通過儀礼だった。

空港まで迎えに来てくれていたJさんに何があったかを話したら、Jさんは私がびっくりするぐらい平謝りに謝ってきた。「インドネシアを嫌いにならないでほしい」と繰り返した。

そんなJさんに連れられて、空港からチリリタンのバスターミナルへ向かい、そこからバンドゥン行きのバスに乗り込んだ。インドネシアでの初めての食事は、バスの休憩で立ち寄ったプンチャックを越えたところのスンダ料理の店。生まれて初めて、手でご飯を食べた。

バンドゥンの手前でバスを降り、Jさんの家に泊まった。約1週間、お世話になった。Jさんの家族と一緒にチマヒからバンドゥン、バンドゥンから夜行バスで夜明け前にジョグジャカルタに着いて、ボロブドゥールを訪れた後、「もう金がない」と言われ、ジョグジャカルタに泊まることなく、昼過ぎのバスでジョグジャカルタからチマヒへとんぼ返り。当時のバスにはまだエアコンがなく、椅子のクッションもほとんどなかった。本当にあの時は、本当に疲労困憊で、Jさん宅へ戻った次の日はひたすら寝た。

たぶん、ジョグジャカルタから戻った日かその翌日が1985年8月12日だったと思う。

チマヒの街中へ買い物に行ったJさんが日刊紙『コンパス』を買って帰ってきた。「日本で大変なことが起きた」と言いながら。私は無謀にも、『コンパス』に書かれているインドネシア語の記事を読もうとした。小さな辞書を携帯していたが、なぜかコリンズの「マレー語辞典」だったので、単語がうまく分からない。当時はまだ、接頭語や接尾語が分かっていなかった。それでも、日本で何が起こったのか、分かりたいと思った。

記事のインドネシア語の単語の意味はよく分からなかったが、どうもおそらく飛行機が墜落したという内容のようだった。何人か亡くなった方の名前が載っており、坂本九さんの名前を見つけた。しかも、墜落した飛行機は日本航空のようだった。

記事を読んだ後、急に飛行機に乗るのが怖くなってきた。日本から海外へ行ったのは、大学4年のゼミ旅行で行った韓国以来の2回目だが、一人だけで飛行機に乗ってきたのはこの時が初めてだった。日本へ帰れるんだろうか。墜ちたらどうしよう。今にして思えば、ただの笑い話だが、初めて一人で飛行機に乗ってインドネシアへやってきた23歳の自分は、本当に怖く感じていた。

そのとき利用したのは、シンガポール航空機だった。帰りはシンガポールで1泊し、翌日の便でシンガポールから成田に着いた。成田に着陸したときには、本当に安堵した。日航機墜落事故が甚大な飛行機事故だったと実感するのは、帰国後、繰り返し繰り返し流れるメディア報道によってだった。

以来、8月12日なると、毎年、Jさんがチマヒの街中で買ってきた新聞を食い入るように眺め、よく分かりもしないのに、何が書いてあるのか、一語一語、「マレー語辞典」をひきながら、坂本九さんの名前を見つけた自分、帰国便に乗るのをとても怖がった自分を思い出すのである。

35年経った今も御巣鷹山に眠る方々の冥福と航空安全を心から祈る。

2019年、久々にチマヒを訪れた。1985年、1993年以来3回目。チマヒ駅。

(2019年3月9日撮影)


インドネシアの独立宣言記念日にあたって

なぜ国家ではなく地域なのか


2020年8月10日月曜日

なぜ国家ではなく地域なのか

35年前の8月12日を思い出す

軍都だった広島、被害者は加害者だったことを改めて想う


これまで私自身、地域研究としてインドネシアに関わってきた。地域研究が一国研究として捉えられていた時代だった。インドネシアという一国に関する政治・経済・社会を総合的に研究し、「インドネシアとは」という形で語り、分析することが求められてきた。

そのスタンスは、基本的に、今でも維持している。「インドネシアとは」という語りや分析が求められているときには、それを前提として対応するようにしている。

ただ、インドネシアと関わり年月が長くなり、全34州のうちの28州を訪れ、様々な場所へ行くことで、「インドネシアとは」と一般的に括ることに満足できなくなってきた。州ごとだけでなく、州の中の県・市ごと、さらには県・市のなかの村落、集落ごとに、様々で個性を持っていることに気づかされた。こういう事例もある、ああいう事例もある、それを総合して「インドネシアとは」といえるのか、といつも悩んできた。

そうしているうちに、インドネシアという国家を論じる一国研究とは別に、様々な地域を対象に考察するための地域研究が必要だと考えるようになった。それは、必ずしも、一国研究の一部としてではなく、それぞれの地域を地域としてみるという形になっていった。

なぜなら、地域というのは、そこに住む人々の生活の場であるからだ。人々の生活と地域とは分かちがたく結びついている。人々にとって、国家とは雲の上のような存在であり、何かがあると、自分たちの生活の場にどかどかと外からやって来るものだからである。

国家がいかなるものであろうと、資本主義であろうと社会主義であろうと、権威主義であろうと独裁国家であろうと、地域は存在する。人々が生活する限り、地域は存在する。

考えてみると、国家で論じるから、国家間の優劣や国家としての威信といった話が出てくるのではないか。逆に考えると、国家がなければ、人々は本当に暮らしていけないのだろうか。死んでしまうのか。

いや、人々は生きていく。国家のあるなしにかかわらず、人々は生きていく。しかし、人は一人では生きていけない。生活の基盤となる地域はのこる。地域こそが、人々が生きていくために必要な単位である。

国家は、それ自体の存続のために、場合によっては、地域を破壊する。地域の人々の暮らしを破壊する。破壊されても、人々は新しい地域をつくる。苦しみながらも、新しい生活の場所で新しい地域をつくる。

戦争はその最たるものだ。戦争は国家と国家が戦う。これまでの戦争では、そのために国家は地域の資源や人々を強引に動員した。その動員を正当化するために、「お国のために」と地域の人々を洗脳した。地域の人々は洗脳されたかもしれないが、あるいは洗脳されたふりをして、国家からの強制動員や物資不足のなかで、毎日の生活を必死で守ろうとした。

人々が生活する場が地域である。地域がある範囲でまとめられたものが国家であるが、地域側からまとめてほしいと願ってまとめられたものではない。国家がまとめたのである。地域での人々の生活の現場から国家は遠いものになる。国家には個々の人々の生活実感が反映されにくいからだ。

でも、国家が亡くなればいいという話ではない。地域間の様々な問題を解決し、生活に必要な資源を適切に分配するために、国家は必要だと思う。地域では整備できない、多くの地域に共通に裨益するインフラなどは、国家が整備しなければならない。でも、国家目標のために、地域資源が収奪され、地域の人々の生活が破壊されることがあってはならない。

そして我々は、日本以外の世界各国もまた、同様であることを想像できるかどうか。どんな国家にも、そこで生きる人々がいる。人々の生活の場である地域がある。我々と同じように、毎日生活している人々がいる地域がある。

もっといい明日になってほしい。幸せになってほしい。元気で楽しく過ごしてほしい。平和であってほしい。そうした願いや希望は、根本的に、世界中の誰もが同じなのではないか。自分たちの生活やその基盤となっている地域を大事にしたいのではないか。たとえ、その国家が独裁国家であったとしても。

同じなのだ。人々の願いや希望は。皮膚の色や言語や生活習慣や風俗や思考方法や生活水準や地域性は違えども、地域での暮らしの中から生まれる人々の願いや希望は、世界中どこでも同じ。あたりまえといえばあたりまえのことだ。

それがいったん国家という範疇で物事を捉えると、あたかもその国家のすべての人々が国家に従順なモノトーンな人々になってしまいはしないか。そして、○○国の○○人はこういう奴らだ、危険だ、と(何らかの意図をもって)モノトーンな色が付けられ、好き、嫌い、といった感情で捉えるようになってしまう。その実、その国家の国民全員がそうだという証明などできるはずがない。

これだけ世界中がネットワークでつながれる時代に、まだ国家のみで世界を見ているのか、と思う。国家を通して世界を見る場合もあるし、国家をいう枠を外して、地域や集落を見るという場合もあっていいはずだし、後者がより多くなっていくことで、我々の他者への想像力がより高まっていけるだろうと思う。

○○国の○○人の△△さんと知り合うのではなく、△△さんと知り合う、でいいのだ。△△さんを知るには、必ずしも○○国を知る必要もない。△△さんのくらしや△△さんの生活する地域について知ることのほうが大事ではないか。すると、そこで、我々のくらしや生活する地域での願いや希望との共通点が見いだせるのではないか。そうした出会いを重ねていくことで、我々は、国家を語るときとそこの地域に生きる人々を語るときとの間に、大きな違いがあることに気づかされるはずである。

日本国と日本人を一致させる必要はない。そもそも日本人とは誰なのか。日本国籍を持っている者を日本国人というのが正しい。しかし、日本国籍を持っている者はすべてが日本国由来とは限らない。外国籍を持っていた方が日本国籍を取得する場合もある。逆に、日本国籍を持っていたものが外国籍になる場合もある。

日本人とは誰か。いま日本で生活している人は、国籍がどうであれ、日本人なのではないか。日本国へ税金を払って法に則って生活している人は、日本人なのではないか。

日本を愛する日本人もいれば、日本が嫌いな日本人もいる。それはあたりまえのことだ。国家に地域を収奪され、生活を破壊されるような経験をした人々に対して、国家を愛せといってもそれは無理な話だ。しかし、その人々にも暮らしがある。くらし続ける地域がある。地域は、その人々がその地域の他の人々の生活を脅かさない限りにおいては、国家を愛せない人々をも排除しない。

国家は変わる。社会主義から資本主義へ、軍国主義から民主主義へ、国家は変わり得る。しかし、人々の生活は変われない。暮らしていかなければならない。その基盤としての地域がある。国家に翻弄される人々を地域は受容する。それは日本だけではない。世界中がそうなのだと思う。

国家が人々に忠誠を強制するとき、生きていくために、人々は国家に忠誠を誓う。それは本心からではない。忠誠を誓わなければ、国家から強制的に排除され、場合によっては思想教育や洗脳を受けるからだ。それでも、人々が毎日くらす基盤としての地域は存在し続ける。

地域、とひとことで言っても、様々な領域がある。これまで述べてきた地域とは、必ずしも行政単位を意味しない。人々が暮らす領域には、複数の「地域」がある。人々の生活の基盤である地域をベースにして、世界中の無数の地域に生きる人々をみるとき、様々な違いの向こうに、くらしの中の共通の素朴な願いや希望を見い出せる。

私の思うグローカルは、グローバルに考えてローカルに行動する、ということ以外に、ローカルから考えてグローバルに行動する、ということをも含む。

地域単位で考えれば、国家間のような優劣を考える必要はない。○○人というようなレッテルを貼る必要もない。そこに生きる人々のくらしを想像し、そのくらしの根本の願いや希望が共通であることを意識して、必ずしも国家を通すことなく、地域と地域がつながりあうことが可能で、それが新しい世界をつくっていく一助になると思っている。

8月10日は山の日。福島市内・実家近くの二ツ山公園から見た吾妻連峰。

(2018年10月21日撮影。本文とは関係ありません)


35年前の8月12日を思い出す

軍都だった広島、被害者は加害者だったことを改めて想う


2020年8月5日水曜日

軍都だった広島、被害者は加害者だったことを改めて想う



8月4日の朝日新聞オピニオン欄で、「被爆建築、軍都の証人」という記事を読んだ。被爆された切明千枝子さんのインタビュー記事で、その一言一言に重みがあった。


8月6日は、75年前、世界で初めての本番での原爆投下が広島に対して行われてしまった日。その悲惨な経験を踏まえ、広島は平和と核兵器廃絶を訴える使命を果たし続けてきた。残念ながら、その広島の思いはまだ現実化されてはいない。

原爆ドームを臨む(2011年12月14日撮影)

原爆投下がなければ第二次世界大戦は終わらなかったのか、本当のところは結論づけられない。広島は、原爆の被害を世界へ向けて懸命に訴え続けてきた。

一方で、広島は軍都だった。日本軍の勝利のために、貢献しようとする都市だった。インタビューにあるように、被服支廠、兵器廠、糧秣支廠という3つの軍需工場が存在した。日清戦争のときには、広島に大本営があったという。

切明さんは語る。広島は戦争のおかげで大きくなった街。太平洋戦争に至るまでの日本の軍国主義のシンボル。広島が軍都だったこと、原爆被害を受ける前は加害の地であった、と。語り部である彼女は、だからあえて、戦前からの広島を語るのだ。

軍都だった広島は、戦争の重要な加害者だった。それが原爆投下で、一転して、悲惨な戦争の被害者となった。そして、その両者はつながっていたのである。戦争のもっとも重要な加害者だったから悲惨な戦争の被害者となったのだ。

その被害者の部分だけを切り取って平和を訴えても、原爆投下を正当化する側には響かない。広島は、過去の加害者としての自らの罪を深く省みて、二度と戦争の加害者にはならないという決意を持って、平和を訴えるに至ったのだと思う。

翻って、程度の差こそあれ、同じ戦争の(被害者であり)加害者であるはずの他の日本の者たちは、過去の加害者としての自らの罪を深く省みているだろうか。原爆を落とされた広島や長崎をことさらに特別視していないだろうか。

私は戦争を知らない。しかし、戦争に反対することができず、程度の差こそあれ、戦争に加担した者たちの子孫であり、その歴史の一端を踏まえた存在でもある。自分の親や祖父母の世代が戦争に加担した事実を否定することはできない。

原爆や核兵器の悲惨さは世界へ訴え続けなくてはならない。核兵器の必要のない世界を作らなければならない。しかし、それを日本が被害者として訴え続ける限りは不十分ではないか。被害者である以前に加害者であったことを忘れることなく、(戦争の)勝者・強者が敗者・弱者を支配するような世界を変えなければ、平和は訪れない、核兵器が不要にはならない、と訴えていかなければならないのではないか。

広島は、被害者である前に加害者であった。その事実を踏まえてこそ、核兵器廃絶や世界平和を訴え続ける意味があるのだと思う。そして、広島を広島だけにするのではなく、我々もまた「広島」であるということを自覚して行動していくことが求められるのだと思う。

過ちは繰り返しませんから・・・。その過ちとは、戦争に積極的に加担した軍都・広島の過ちであり、それに加担した我々の過ちである。自分たちの過ちなのである。真の平和運動はそこから始まるのである。

平和公園から原爆ドームを臨む(2011年12月14日撮影)


2020年8月3日月曜日

マナドお粥は日本でもきっと受け入れられる



前回のブログで、マナド料理の代表として、ナシ・クニン(イエローライス)を紹介しましたが、日本で受け入れられそうなのは、ナシ・クニンだけではありません。今日、ご紹介するのは、お粥と焼魚です。

まずは、お粥から。マナドお粥(Bubur Manado)、あるいはティヌトゥアン(Tinutuan)と呼ばれるものです。マナドの代表的な朝食です。

具に入るのはカボチャ、空心菜、トウモロコシなどの野菜とお粥。肉は入りません。近年、麺を加えることもできるようになりました。


マナドお粥の発祥はよく分かっていませんが、オランダ時代の食糧難のときにありあわせの物でお粥にしたという説があります。ただ、日本でも、戦時中の食糧難の時代にカボチャや芋をお粥で一緒にしてよく食べたことを考えると、もしかすると、戦時中、マナドへ進駐したの日本軍由来の可能性もあるかも、と思ったりします。

マナドお粥を専門に食べさせる店は、1970年代にはあったという話があります。その元祖は、マナド市内のワケケ通り(Jl. Wakeke)にありました。ワケケ通りにあるHotel Queen(現在のQuint Hotel)を出て右へ曲がり、数分歩いた右側の店が元祖です。

昔、1996~2001年に在マカッサルJICA専門家を務めていたとき、マナドへ出張すると、Hotel Queenを定宿にしていました。もちろん、お目当ては、マナドお粥の元祖の店で朝食をとること。Hotel Queenは朝食込みが標準だったのですが、あえてホテルでは朝食をとらず、マナドお粥を目指すのです。

マナドお粥と一緒に食べる付け合わせは、私の場合は、次の二つ。


まずは、カツオの燻製(Cakalang Fufu)。チャカラン・フーフーと呼ばれるもので、市場に行くと、こんなふうに売られています。


新鮮なカツオで作った燻製は、マナドお粥とベストマッチです。

もう一つは、これ。


ニケ(Ikan Nike)という小魚をかき揚げにしたもの。一般にニケ・ゴレン(Nike Goreng)と呼ばれています。

チャカラン・フーフーとニケ・ゴレンをかじりながら、適宜、マナドお粥にサンバル(チリソース)を加えて、ゆっくり食べる。マナドに行ったら、必ず食べる朝食です。

インドネシアには、ナシ・ゴレンやミー・ゴレンなど、脂っこい料理しかないと思っている方がいるなら、このマナドお粥はおすすめです。ヘルシーであっさり。お腹にもやさしい食べ物です。

このマナドお粥、戦時中の食糧難のときに食べた粗末な食べ物、という年配の方々の記憶も呼び起こしてしまうかもしれませんが、ヘルシーで栄養のある美味しい食べ物として、日本でも受け入れられるのではないかという気がします。

マカッサルにも美味しいマナドお粥屋さんがありました。基本的には同じなのですが、カツオの燻製とニケ・ゴレンはなかなか揃わない点で、本場マナドに軍配が上がります。

簡単に作れて、体にもやさしいマナドお粥。日本でも市民権を得るといいな!

日本で受け入れられそうなマナド料理、まだあります。それはまた別の記事で。