2021年9月20日月曜日

天祖神社の例大祭に秋を感じた

台風一過の昨日(9月19日)の東京は、久々の秋晴れ。日中はまだちょっと暑いが、久々に2人で散歩してみた。

そういえば、我が家も氏子になっている天祖神社の例大祭ではないか。新型コロナの影響で、昨年も今年も、町内会ごとのお神輿が街中を練り歩くのは中止。

新型コロナ前は、子ども神輿と大人神輿があった。学校に上がる前の娘もかつて「その他大勢」として子ども神輿を引いてお菓子をもらったものだ。我が町内会では神輿に加えて小さな山車もあり、代々引き継がれてきた笛太鼓のお囃子が聞こえてくると、あっお祭りだ、と思ったものだった。

昨年と今年は、天祖神社の氏子代表である各町内会代表が一緒に、神社の領域内をくまなく回る形で行われている。その範囲は、池袋サンシャインの東隣のイケサンパークから西巣鴨駅に至る、かなり広い範囲である。

天祖神社へ行くと、ちょうどお神楽が演じられていて、人々がパラパラとそれを眺めていた。



恵比寿さんや獅子舞が現れ、最後には、獅子舞が子どもたち(+昔の子どもたち)の頭をパクリ、パクリ。和やかで微笑ましい雰囲気が境内にみなぎった。

天祖神社にお参りして、お神楽を眺めて、そろそろ秋なのだなあ、と思った。

そういえば、日が陰るのがずいぶんと早くなった。

雲ひとつない真っ青な空。

巣鴨付近で見た北の空、まっすぐ水平な幾層もの薄雲に映える夕暮れの赤。

そして、東のビルの間から昇ってくる十三夜の月。

なにげない、ごくごく普通の光景がやけに美しい。

この地に暮らして、もう30年余になる。

2021年9月15日水曜日

皆んな逝ってしまった・・・

前回書いてからちょうど5ヵ月、ブログを書けなかった。忙しかったわけではない。本当に書けなかったのだ。

毎日が悲しくて、つらくて・・・。

思い出さなくて済むように、いつも何かを詰め込んでも、ふと空いた瞬間に思い出してしまう毎日だった。

どうして、どうしてなのだろう。わずか1年の間に、インドネシアで出会った大切な大切な方々があんなにもたくさん逝ってしまうなんて・・・。

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初めてジャカルタに住んだ1990~1992年、下宿していたラワマングンの大家さんである「母」、そして「母」が亡くなって1ヵ月もしないうちに、「弟」の一人も旅立ってしまった。ジャワ人の敬虔なカトリック教徒の家だった。

この下宿は、今も、私のアジトというか隠れ家として、ジャカルタに行くたびに潜んでいたところ。周りに外国人のいない、お金持ちもいない、ごくごく普通の人々の住む地域。「父」はもうだいぶ前に亡くなって、「母」を3人の「弟」と1人の「妹」が支えてきた。 

最初に感染したのは2番目の「弟」(次男)と奥さん。続いて、3番目の「弟」(三男)の奥さんが感染し、間もなく亡くなった。3番目の「弟」の悲しみはどれほどのものだったろうか。しばらくして、2番目の「弟」(次男)と奥さんが回復。その頃だった。「母」が危ない、という知らせが入ったのは。

「母」の回復を東京からひたすら願い続けたが、ほどなくして「母」は逝ってしまった。私がラワマングンに居るといつも食事を作ってくれる。一時期、足が悪くなって歩きにくくなったのに、私がアジトとして旧下宿に滞在するようになると、食事を作るのが楽しみで、あっという間に足もよくなり、元気になってしまった。30年前の下宿時代からずっと、「母」の料理は私のジャカルタの大切な記憶である。

「母」の料理で一番好きだったのがラクサ。マレーシアやシンガポールのとは一味違うラクサ。

(2018年5月12日撮影)

2番目の「弟」は1番目の「弟」と3番目の「弟」を連れて、アンチョールからスピードボートを出し、沖合で「母」の遺灰を海へ撒いた。そのビデオをFB経由で眺めていた。ジャカルタの海に行けば、「母」を感じられるはず。

しかし、話はこれで終わらなかった。「母」の遺灰を撒きに行った1番目の「弟」の感染が確認されたのである。1990年、ラワマングンに下宿してインドネシア大学大学院へ通う日々のなかで、最初に様々なあらゆることを教えてくれたのが、当時、インドネシア大学歯学部4年生だった1番目の「弟」だった。彼なしでジャカルタ生活がすんなり始められたとは思えない。彼は卒業後、歯科医になった。腕利きの評判の良い歯科医として患者さんから慕われていた。 

感染が確認された後、1番目の「弟」はすぐに病院に入れず、5日間待たされた。その間に症状が悪化、ようやくICUに入れたものの、その後まもなく亡くなった。

2番目の「弟」と3番目の「弟」は再び海へ出た。1番目の「弟」の遺灰をジャカルタの海へ撒くために。ジャカルタの海に行けば、「母」にも1番目の「弟」にも会えるはず。

そう思うと、あの汚れた、到底きれいには見えないジャカルタの海が、私にとっても特別な意味を持ってくるような気がしてしかたがない。

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失ったのは、ラワマングンの「家族」だけではない。1985年に研究所へ入所し、インドネシアと関わり始めてからずっと見守り、励まし、支えてくださった「父」も逝ってしまった。当時、すでに政府高官で、私がインドネシアに滞在する時には必ず保証人になってくださり、日本からジャカルタへ行くと言えば、必ず一保堂のほうじ茶を土産に持ってくるようにせがむ「父」だった。

「父」との思い出も数限りない。 2014年4月には、85歳の「父」をインドネシアから日本へ連れてきて、「父」に世話になった方々との再会の旅をエスコートした。東京だけでなく、私の故郷・福島、お世話になった方との再会のために宝塚、そして京都を旅した。

 
「父」と一緒に行ったときの福島市の花見山。桜が満開だった。(2014年4月17日撮影)

日本から戻った後、老齢ということもあり、「父」は何度か、死線をさまよったことがあったが、そのたびに蘇った。不死身だと思っていた。

「父」との思い出のなかには、私の心の奥底にずっとしまっておきたいとても大切な出来事があった。「父」は忘れているかもしれないが、「父」のおかげで私は今も生きているのだ。

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私にとって、とても大切なインドネシアでの「家族」。よりによって、どうして皆んなわずかの間に逝ってしまうのか。

一人になると、泣いた。何度も、泣いた。

「家族」以外にも、いったい、何人、インドネシアの恩人、友人、知人が亡くなったことか。

JETRO専門家時代に、公私にわたりお世話になったインドネシア商工会議所元事務局長。

そのときのディスカッションパートナーだった全国工芸輸出業者協会ジャカルタ支部長。

マカッサルで本当にお世話になったハサヌディン大学のWP先生、デザイナーのRさん。

亡くなる1年前にパルで再会し、またの再会を約束した中スラウェシ州政府高官である友人SAさん。

パプア州を訪問したときに世話になったジャヤプラの州政府高官のMさん。

皆んな、逝ってしまった。

自分のなかの「インドネシア」の根幹が音を立てて崩れていく・・・

自分の「インドネシア」を形作っていた大切な土台が消えていく・・・

もう、自分がインドネシアから離れるサインなのだろうか・・・

揺らいでいる。自分のなかの「インドネシア」が揺らいでいる・・・

36年かけて築いてきた大切な何かが崩れかけている・・・

 

いつかは、大切な「家族」や恩人、友人、知人とお別れしなければならないときが来る、といえばそうなのだ。それが今、一度に押し寄せてきた。

そんな時代もあったよね、といえるまでには、まだだいぶ時間がかかりそうだ。

思い出したら、また泣くだろう。泣けばよい、のだ。

インドネシアへ行けるようになったら、まずはお墓参りだな。


笑っている顔しか思い出せない。大切な大切な「家族」、恩人、友人、知人。

ありがとう。本当にありがとう。出会えて本当によかった。