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2021年1月12日火曜日

搾取からの脱出、またグローカルな妄想

宮本常一『調査されるという迷惑』という本をご存じだろうか。私がこの本の存在を知ったのは、インドネシア地域研究を仕事とするようになってしばらくしてからだったが、この本と出会う前から、この本で宮本常一が書いているのと同じようなことをずっと思っていた。

インドネシア地域研究者としての自分は、もちろん、インドネシアについて調査研究をする。インドネシアで様々な人々に会い、地域を訪れ、そこで得た情報をもとに分析し、調査研究報告書をまとめ、論文として発表する。

論文をどこに発表するのか。多くの場合は、日本語の出版物を通じた日本の方々に対してであり、あるいは学会やセミナーなどでの発表や講演という形になる。日本の機関に所属し、日本側に調査研究の費用を賄ってもらうのだから、日本のための調査研究であることは当然である。日本のために、インドネシアを調査研究し、日本社会へ還元するのは、言うまでもないことである。

かつて、地域研究は、相手側の地域において、自国の利害や利益を獲得するために、あるいは場合によっては相手側を屈服させて支配するための基礎情報として、相手側の地域を徹底的に調べるということが行われた。その意味で、地域研究は極めて戦略的かつ意図的に行われた。地域研究者の仕事は、そこではスパイと見なされてもあながち間違いではなかったかもしれない。

自国のための地域情報を収集・分析することを求められた、かつての地域研究。今はそうではないと思いたいが、本当にそうだろうか。

そこで、搾取、という言葉が思い浮かんでくる。研究者が自国の学会やセミナーで発表し、業績を積んでいくために、フィールドでデータや情報を収集する。フィールドで情報収集される側、調査される側は、それが彼らにとって何を意味するかを理解しないまま、おそらく、客人である研究者に対するもてなしの一環として、情報収集やインタビューに対応してくださる。もしかすると、本当は田んぼで除草作業をするはずだったのに、それを中止して応じてくれているかもしれない。あるいは、子どもが熱を出したので町の病院へ連れていかなければならないのを、何とか親戚に頼んで、インタビューに応じてくださっているかもしれない。

データや情報を一刻も早く収集したい立場の者には、そのようなフィールドの個々の人々の事情などは想像できないだろうし、想像する必要もないと考えるかもしれない。往々にして忘れがちなのは、フィールドの個々の人々にも生活があり、人生があり、そのほんのわずかの瞬間によそ者である研究者がおじゃまさせてもらっているという意識である。

私自身の話でいうと、研究者として仕事を始めてしばらくの間は、フィールドで会う人々との出会いは一期一会に過ぎない、と思っていた。自分のベースは日本であり、調査研究成果を出すためにインドネシアへ出張してきたのであって、今回お会いした方々とは、きっともうお会いすることはないだろう、と思っていた。実際、当時は面白がって自慢気味に話していたことでも、今にして思うと、ずいぶん失礼なことを言ったり、したりしていた、と恥ずかしくなることが多々ある。でも、自分から他人に言わなければ、それらの(恥ずかしい)出来事は自分しか知らない。このころはまだ、旅の恥は掻き捨て、という状態だったと思う。

それが変化したのは、調査研究の仕事をいったん休み、JICA専門家として実務的な仕事でつごう5年間、マカッサルに滞在してからである。いわゆる国際協力の仕事ということで、インドネシア側にとって有益となりそうなアドバイスをし、インドネシア側のよりよい政策の実現のために、インドネシア側の人々と一緒になって考え、議論し、行動する日々を経験したのである。

自分も含めて、日本のインドネシア地域研究者の成果の多くは、インドネシア側には全く知られないまま歴史の中にうずもれていく。すべてのインドネシア地域研究者が、インドネシアで自分の研究やその成果について発表しているわけではない。日本ではインドネシアに関する専門家でも、肝心のインドネシアでは誰にも知られていない、ということはある。

研究搾取、ということを深く思った。

自分もまだまだだ。お世話になった方々へちゃんと返せていない。自分はまだまだ地方語では残念ながら無理だが、拙いながらも、インドネシア語でならインドネシアへ発信することができる。英語で全世界へ伝えることも大事だが、少なくとも、自分としては、インドネシア語で発信することをもっと試みてみようと思う。それが前回のブログで宣言したことの一つである。

研究者に限る必要はないが、日本人がインドネシア語でインドネシア社会へ向けて発信する「場」をつくりたい。いや、日本人に限る必要はない。インドネシア語を母語としない、世界中のどの人々でも、インドネシア語でインドネシア社会へ向けて発信する「場」にすればよいのだ。そこでの共通言語はインドネシア語。発信者はインドネシア語を母語としないインドネシア人以外の人々。地域研究者や院生などによる研究成果の中間発表でもいいし、インドネシア文化や社会について思うことを発表してもよいし・・・。

堅苦しい「場」ではなく、インドネシア語を共通言語として様々な人々が行き交う交差点のような「場」。そこで出会った人々が、インドネシアを共通項として想像もしなかったような新しいつながりをつくっていくかもしれない。

これと同じような「場」が、ベトナム語やスワヒリ語やタミール語などででき上がっていく・・・。それらは、排除するための場ではなく、その様々な外国語を通して、世界中の人々がつながっていく場になりはしないだろうか。

またしても、グローカルな妄想になってしまった。

2021年1月3日日曜日

2021年に始めたいこと

2021年に始めたいことがいくつかある。年の初めに宣言しておきたい。とりあえず、今、思いついている3点、すなわち、(1)インドネシア語でインドネシア社会へ向けて発信するメディアを立ち上げる、(2)「よりどりインドネシア」をウェブ情報マガジンからコミュニティへ拡大する、(3)インドネシア・ウォッチャーに限定したクローズド・サロン(私塾)を開始する、を挙げる。

その1:インドネシア語でインドネシア社会へ向けて発信するメディアを立ち上げる

これまでも、インドネシア語での発信は行ってきたが、より積極的かつ継続的に、インドネシア語でインドネシア社会へ向けて発信する。発信媒体としては、ブログ以外に、オンライン+YouTubeチャンネルを活用する。発信内容は大きく2つに分かれる。

第1に、インドネシア語でいくつもの日本を発信する。面白く楽しい観光案内は他へゆずる。日本の政治・経済・社会の現状や課題のほか、日本の地方・ローカルとそこで生きる人々や地域づくりに焦点を当てる。ゲストを招いた場合には、日本人にインドネシア語で発信してもらうほか、私が日本語をインドネシア語に訳して発信する。

第2に、インドネシア語でインドネシアの政治・経済・社会の現状や課題について評論する。今までは多くを日本語で発信してきたが、今後は、インドネシア語でインドネシアについてより多く積極的に発信していく。インドネシアのマクロの問題だけでなく、日本の地域づくりの経験を踏まえて、インドネシアの地方での地域づくりの諸問題により焦点を当てる。

現在、インドネシア人有識者である友人と共同での媒体の立ち上げを計画中。インドネシア語での発信においては、この友人との媒体も有機的に活用する。

その2:「よりどりインドネシア」をウェブ情報マガジンからコミュニティへ拡大する

2021年中に第100号を迎えるウェブ情報マガジン「よりどりインドネシア」のさらなる内容充実を図りながら、インドネシアについて安心してゆるりと楽しく情報交換できる場としての「よりどりインドネシア・オンラインオフ会」を拡充していく。

オンラインオフ会は基本的に「よりどりインドネシア」購読者が対象だが、購読者以外の一般の方々が参加できる「よりどりインドネシア・特別講座」も実施していく。このようにして、「よりどりインドネシア」をウェブ情報マガジンからコミュニティへ拡大させていく。

その3:インドネシア・ウォッチャーに限定したクローズド・サロン(私塾)を開始する

現役のインドネシア・ウォッチャー、およびインドネシア・ウォッチャーにこれからなろうとする方々向けの限定したクローズド・サロンを開始する(おそらくフェイスブックにて)。サロンは一種の私塾のような形で、サロンへの参加者は全員、毎回交代で、インドネシアの直近の重要トピックについて報告し、報告者以外の参加者と議論する。

できれば毎週、あるいは2週間に1回、1時間程度開催したい。オフレコ的な内容を多々含むことになるので、クローズドなサロンとし、参加者には積極的な参加を求める。なお、情報取得のみを目的とする受け身の参加者はお断りする。

なぜ、これらを始めたいのか

ひと言でいえば、将来における日本とインドネシアとの関係を危惧するからである。相対的なものではあるが、日本におけるインドネシアへの関心の低下とともに、インドネシアにおける日本への関心の低下のなかで、双方の相互理解が表面的なものに留まり始めている。情報は氾濫しているのに、である。

情報分析においては、メディアの発達により、直近の詳しい状況はわかっても、それが歴史的に過去の事象や一見関係なさそうな他の事象とどのようにつながっているかについての分析が弱くなっている。また、ジャカルタやバリについての情報に偏り、その他のインドネシア、とくに地方に関する情報分析が不十分になっている。

日本はインドネシアの親日性に安心し、関係を深く根づかせていく努力を進められていない。インドネシアは日本のこれまでの協力に感謝する一方、これから日本がインドネシアと何をしていくのかを問い続けている。他方、中国や韓国などは、ニッケル製錬→EV用蓄電池製造など、明確な意図をもってインドネシアと接し始めている。これから日本はインドネシアと何をしていくのか。それが日本にとってはもちろんだが、インドネシアの今後にとってどのように有益で戦略的なのか、それを日本が語れなければ、より深く尊敬し合える関係をつくることはできない。

国と国との関係ばかり見てきたこれまでの両者の関係も再検討される必要がある。日本におけるインドネシア愛好者とインドネシアにおける日本愛好者のすそ野が広がり、技能実習やアニメだけではない、自動車や観光だけではない、両者の相互理解を深めていく、個々人が増え、できればそれが個人レベルでどんどんつながっていくことが望ましい。

私は、研究者として、コンサルタントとして、35年以上にわたってインドネシアとお付き合いしてきた。これまでは、その比較優位を活用し、インドネシアに関する様々なアドバイスやコンサルティングを行ってきた。そして今、気がついた。これからは、両者をつなぐ仲間をもっと増やすこと、双方に関心をもつ人々のすそ野を広げていくこと、インドネシアのことを想う日本人と日本のことを想うインドネシア人を増やしてつなげていくこと、これをしていこうと。

まずは、日本とインドネシアとの間で。そして、その次は、それぞれからの横展開で、様々な世界の人々やローカルをつないでいきたい。そして、それは、オンラインに頼らざるを得ない今だからこそ、逆に、より可能になったことではないかとも思うのである。

上記に賛同する方、仲間に加わりたい方は、メールで matsui@matsui-glocal.com までご連絡を。同様の呼びかけを、インドネシア語、英語でも行う予定である。

2020年10月20日火曜日

インドネシア風ミーゴレン、ハラルにして欲しい

←東京の都心の庭のある我が家でご一緒しませんか

→インドネシア政府が情報サイト『JAIPONG』を開設


色々日々思うことは多く、ときには絶望感に苛まれることもあって、ブログを書けそうで書けない毎日を送っています。日本学術会議の問題やら菅首相のインドネシア訪問やら、自分の気持ちをうまくまとめられず、たわいのないことを書いて、お茶を濁すような感じになってしまうのが、自分でも残念なのですが・・・。

今回は、インドネシア風ミーゴレンの話。もちろん、これは、最近、某コンビニで新発売された食品です。このところ、シンガポール風福建麺、西安風うま辛香油麺ビャンビャン麺など、アジアづいているこのコンビニが出したものです。


1日に必要な野菜の量の半分を摂取できる、というのがうたい文句。インドネシアのミーゴレンで野菜たっぷりなのは、あんかけのミーゴレン。イーフーミー(伊府麺)や揚げ焼きそば(ミー・クリン)あたりでしょうか。海老がのっているのはご愛敬ですね。

具の下には、黒めの色の中太麺。一般的な上海焼きそばの麺よりちょっと太いぐらい。

お、この赤いのはサンバル(チリソース)!! やった、辛いのだろうな。期待してしまう。

それで、食べてみての感想は・・・。

割りと美味しい野菜焼きそば・・・という感じ。

サンバルにみえたものは、トマトペーストでした。それ自体はまずくないけど、辛くない。うーん、日本の野菜焼きそばだなあ。


原材料名をみても、どこにも「トウガラシ」と書かれていませんでした。

そして・・・。

なんと、ゼラチンと豚肉を使っているのですよ。

日本にいるインドネシア人のイスラム教徒の友人たちは、インドネシア風ミーゴレンを食べられないのかあ・・・。

日本でのハラルについての考え方ですが、イスラム教徒だけが食べるもの、と思っていないでしょうか。

ハラル食品は、イスラム教徒でなくても食べられます。食べていいのです。私たちが普通に食べていいのです。もちろん、中身によっては、牛を神聖なものとするヒンドゥー教徒の方々や菜食主義者で食べられない方もいらっしゃるかもしれませんが。

ハラル食品のマーケットは、おそらく、豚由来のもののマーケットよりも広いかもしれません。インスタントラーメンのマーケットで、なぜ日本のラーメンがなかなか入り込めない一方で、インドネシアのインドミーが世界中で受け入れられているのか。それはハラルだからです。

もちろん、日本のラーメンは美味しいですが、豚にこだわることで、逆に世界中で広くは受け入れられにくいのです。

今回のインドネシア風ミーゴレン、せめてゼラチンと豚肉を使わないで欲しかったです。使わなくても美味しくできます。もし、ハラルだったら、必ずや、日本国内のイスラム教徒だけでなく、海外でもこの商品は受け入れられることでしょう。

懐かしい故郷の味に出会えた、と思ったのに、食べられなくて残念、という友人たちの顔が思い浮かんでなりません。

是非、次回、インドネシア風ミーゴレンを販売するときは、ハラルにして欲しい、です。そして、辛い本物のサンバルも!


←東京の都心の庭のある我が家でご一緒しませんか

→インドネシア政府が情報サイト『JAIPONG』を開設


2020年10月14日水曜日

インドネシア政府が情報サイト『JAIPONG』を開設

←インドネシア風ミーゴレン、ハラルにして欲しい

→東京でルルド、以前に東ジャワで遭遇


インドネシア政府は、日本からインドネシアへの投資促進を目的として、日本語とインドネシア語でインドネシアのビジネス情報を提供する情報サイト『JAIPONG』を開設しました。リンクは以下の通りです。

・JAIPONG

ジャイポンというのは、西ジャワのスンダ族の踊りである「ジャイポンガン」からとったもので、躍動感を示したものらしいです。近年のジャイポンガンは、健康ブームに乗って、スポーツ民謡的な要素もみられるようになりました。

このサイトには、投資、輸出入、人材開発協力、政策データ、観光地などの項目ごとに情報が入っています。中身については、実際にご覧になってみてください。

JAIPONGのサイトのスクリーンショット

このJAIPONのリリースと合わせて、10月14日にはバーチャルでのインドネシア=日本ビジネスフォーラムも開催されました。以下のYouTubeサイトから録画を見ることができます。

・Indonesia-Japan Virtual Business Forum

この動画の最後に、動画で披露された様々な資料のダウンロード・サイトが出ていますので、ご利用ください。資料のなかには、日本からの投資を期待する案件の説明などが含まれています。

インドネシアは、雇用機会拡大のための外国投資誘致を目指して、雇用創出法(オムニバス法)を10月5日に国会成立させましたが、それだけでは、日本からの投資を呼び込むのは難しいのではないか、という主旨を、インドネシア語での個人ブログに書きました。興味のある方は、以下のサイトから入ってご笑覧ください。

・Selamat Peluncuran JAIPONG, Tapi Belum Cukup untuk Menarik Investasi dari Jepang

雇用創出法(オムニバス法)については、今月中の何らかの機会に、その内容と問題点、政治社会的な影響も含め、まとめてお話する機会を作りたいと考えております。日時が決まりましたらお知らせします。なお、個別にお話することも可能ですので、ご入用の方は、メールにて matsui@matsui-glocal.com にコンタクトされてください。


←インドネシア風ミーゴレン、ハラルにして欲しい

→東京でルルド、以前に東ジャワで遭遇


2020年10月12日月曜日

東京でルルド、以前に東ジャワで遭遇

←インドネシア政府が情報サイト『JAIPONG』を開設


妻と一緒に、新居の庭に植える日本水仙の球根を買いに、椿山荘近くの園芸店へ行ったついでに、東京カテドラル聖マリア大聖堂へ行ってみました。

丹下健三氏が建築した建物は、荘厳かつ鋭敏で、天へ向かう曲線に見入ってしまったのですが、妻が「ルルドの奇跡、見に行こう」と言って、大聖堂を右に見ながら左へ曲がり、言われるままに進んでいくと・・・。ありました、ルルドの奇跡。



ルルドとは、フランスの西南、ピレネー山脈の奥地にある町で、1858年、キリストの聖母堂マリアが町外れの洞窟でベルナデツタという名の少女の姿になって現れ、平和のために祈るように勧め、そしてそこに湧いた霊水を飲むことで不治の病が完全に治った、という話がもとになっています。

説明板によると、教会の厳正な科学的調査によって、1862年にそれが事実であると認めたとのことです。ここにある洞窟は、1911年に実物と全く同じ大きさで建てられたものだそうです。

東京のど真ん中に、こんな場所があるんだー、と思いながら、ふと、「これって、たしかどこかで見たことあるなあ」と思いました。

それは、東ジャワ州クディリ近くでみたものでした。日本と同じレベルのケーキを出すクディリの友人の菓子店を他の友人たちと訪問した後、訪れた場所でした。


2015年4月4日でした。クディリの中心市街から18キロ離れたプサラン(Puhsarang)村にあるこのマリア像も、話は全く同じ、ルルドの奇跡でした。

きっと、世界中にこうしたルルドの洞窟があるのだろうな、と思いました。教会の厳正な科学的調査によって奇跡を証明、というところを理解するまでには到底至らないにしても。


2020年9月14日月曜日

インドネシアのクラフトワークをめぐる新しい動き

←よりどりインドネシア第78号発行+舞台裏

→よりどりインドネシア第77号発行、久々に2本投稿


Linkedinで知り合いになった友人(まだ実際の面識はない)が出しているウェブマガジンがあります。GARLANDという名前のこのマガジンは、クラフトやアートとそれを生み出す社会とのかかわりに関する話題が多く、いつも読みごたえのある記事が満載なのですが・・・。

最新号として送られてきた特集は、インドネシアのバティックなどクラフトワークを中心とするアートと社会の動向でした。特集の名前はPembaharu、インドネシア語で「刷新者」、何かを新しくしていく者、というような意味でしょうか。

以下のサイトで、それらの記事(英文)が読めます。

 ⇒ https://garlandmag.com/issue-20/

実際に記事を読んでいただければわかるのですが、インドネシアのとくに若い世代が、地域文化資源とAIを含む現代技術を融合させて、新しい時代のなかで、地域固有の文化資源に対してどのように新しい価値を付与させていくか、挑戦している姿がうかがえます。

たとえば、上の写真は、DiTenunという、地域の伝統的な織物にAIを活用させる試みについて書かれた次の記事から借りたものです。

・DiTenun: Artificial intelligence technology for Indonesian traditional Weaving

DiTenunではAIを活用し、地域別に独特の様々なモチーフをAIに記憶させながら、織手、AIやITの技術者のほか、数学者、歴史家、繊維デザイナー、コミュニティ開発専門家、起業家、中小企業者、ソーシャルメディア、ブランディング専門家など様々な分野の人々が関わり、地域固有の伝統的な文化に対して、新しい現代のなかでどのような価値を付与し、固有価値を守っていくか、というアプローチを試みています。

換言すると、伝統的な文化価値を新しくして守る、ということでしょうか。そこにAIを活用する、という発想がとても斬新に思えました。

日本でAIと言えば、担い手が少なくなり、いなくなるなかで、人間の果たしてきた役割をどのように代替させるか、といった視点が多いような気がします。たしかに、インドネシアの地域でも、伝統文化は古い人たちのものという認識が強く、時代を超えた継承をどのように進めるかという点で、日本と同様の難題に直面しています。

日本では多くの場合、伝統文化を昔のまま継承する、ということが重視され、新しい試みは異端として排除される様子があります。伝統を変えるということは、それまで伝統継承を担ってきた人々の役目を軽視し、場合によっては否定する、といった感情的な世代対立にも至りかねません。そうして、世代間の対話が成り立たず、伝統文化が消えていってしまう、ということが起こってきたのではないかと思います。

DiTenunの記事を読みながら、そこでは、AIという最先端技術を使って伝統を否定するのではなく、伝統を尊重し、それをどのように新時代に生かして新たな価値を創り出すか、というところにAIを使うという発想なのです。何のためにAIを使うか、という発想が、日本で一般にみられるものとは相当に異なるところに、ある意味、衝撃を受けました。

DiTenun以外の記事でも、微生物やバクテリアによる作用を通じて、二度と再現できないようなバティックの色を生み出しすことで新たな価値を付与しようとする試みや、零細企業者とデザイナーが組んで、昔の人しか見向きもしないような古ぼけた製品に新たなデザインを組み合わせて、時代に合った新しいものづくりを志向する試みなど、読みながらハッとするような、新しい動きが紹介されています。

そこに共通するのは、伝統文化や伝統工芸に対する、若い世代の敬意です。ともすると、若者たちは、時代に乗り遅れた感のある伝統を蔑み、否定し、それらを新しいものに置き換えることを進歩だと認識しがちです。しかし、ここで紹介されるのは、新しい技術で伝統文化や伝統工芸に取って代わるのではなく、それらをどのように新しい時代のなかで守っていくか、そのために新しい技術をどのように活用できるか、という発想がもとになっています。

実際、先端技術と伝統文化の融合をテーマに、若者たちが欧米で学び、自分たちの地域の現場でそれを試行錯誤している様子があります。

私たちは、発展とか進歩とかいう概念を、もう一度作り直す時期に来ているのではないでしょうか。インドネシアの地域の片隅で、何のアドバルーンも挙げずに、政府の公的支援とも無関係に起こっている、彼らPembaharuたちの活動には、これからの世界の新しい時代のなかのたしかな希望が見えるような気がしています。


←よりどりインドネシア第78号発行+舞台裏

→よりどりインドネシア第77号発行、久々に2本投稿


2020年9月4日金曜日

いくつかのウェビナーに参加してみての感想

←よりどりインドネシア第77号発行、久々に2本投稿

→8月の月例オフ会、テーマは若者とコレクティブ


今週は、9月1日、2日、3日とウェビナーに参加してみました。1日は、インドネシアの英字紙 Jakarta Post 主催の "Land without Farmers" と題するインドネシア農業に関するウェビナー(英語)、2日は、毎月連載しているSBCSインドネシア月報の解説ミニセミナー(日本語)、3日は、ERIAとASEAN事務局主催の食糧と農業に関するウェビナー(英語)、でした。


1日のウェビナーは、英字紙ということでインドネシア人のスピーカーもみな英語で話していましたが、人によっては厳しい様子もあり、インドネシア語でプレゼンしたスピーカーもいました。コメント欄やQ&A欄も眺めていましたが、こちらはほとんどがインドネシア語になっていました。

2日はわずか15分の日本語でのミニセミナーで、私は、自分の連載部分を含めて、過去1ヵ月間のインドネシア経済の概要を5分にまとめて話をしました。ポイントは、感染拡大の継続、2020年第2四半期のマイナス成長は近隣国に比べれば健闘、2021年予算案はやや楽観的、ジャワ島の都市部の貧困人口増大などジャワの経済回復がカギ、といった内容でした。

3日のウェビナーは、シンガポール、マレーシア、タイのスピーカーで、オール英語で進められました。

私自身は、コロナ禍でのインドネシアを含む東南アジアの農業について興味があったのですが、残念ながら、1日のウェビナーも3日のそれも、私の期待に沿う内容ではありませんでした。

第1に、コロナ禍での農業の現状についての言及が2020年第2四半期の農業部門のGDP成長率の話のみで、コロナ禍で何がより厳しくなっているのか、あるいは影響が意外に少ないのかなど、農業生産や農家の現場での話が聞けませんでした。コロナ禍以前の農業の一般的な話は出てくるのですが、コロナ禍で何が変わったのかについての言及はなかったのです。

第2に、現場から遠い話に終始していました。その中心は、フィンテックとデジタル化でした。農家から消費者に至るまでの取引費用の高さなど物流の問題への言及はありましたが、それはコロナ禍以前にも指摘された基本問題でした。農業に対する制度金融をどうするかは重要な課題ですが、それにフィンテックやデジタル化を入れることで何がどうh具体的に改善されるのかが明らかにされたとは言い難い内容でした。

第3に、農家の実態に基づいた話はなく、消費者の視点から農産品をどのように効率的に流通させるかという点に終始していました。すなわち、生産者と消費者をいまだに分けて議論しているという印象を持ちました。おそらく、今後は、生産者と消費者をどうつなげて顔の見える関係をつくっていくか、消費者が生産者をどのように支えていくか、ということが重要になってくると思うのですが、そうした点への言及はありませんでした。

このように、私としては、期待していた内容が聞けず、現場から遊離した、コロナ禍以前からの基本問題の話ばかりで、解決策はフィンテックやデジタル化だ、というような話だったので、正直言って、残念でした。

もし自分がウェビナーを主宰して開催するとしたら、トピックに合わせてスピーカーを選ぶだけでなく、そのなかで話し合うべきポイントを3~4点ぐらい明確にしたうえで、そのポイントを論点とした議論がスピーカー間であらかじめ共有したうえで、ウェビナーで議論できるような形にしなければならないな、と思いました。

さて、これからどんなふうに、私なりのウェビナーを作ってみるか、もう少しほかのウェビナーに参加しながら、じっくりと考えてみたいと思います。そして、時宜を見て、皆さんに私なりのウェビナーをご披露したいと考えています。


←よりどりインドネシア第77号発行、久々に2本投稿

→8月の月例オフ会、テーマは若者とコレクティブ


2020年8月17日月曜日

インドネシアの独立宣言記念日にあたって

←よりどりインドネシア第76号の発行と舞台裏

→35年前の8月12日を思い出す


今日8月17日は、私がお付き合いしてきたインドネシアの独立が75年前に宣言された日である。インドネシアでは、この日をもって、インドネシア共和国として独立したとしている。

ただ、実際には、この後、旧宗主国オランダとの独立戦争が続き、実際上の意味で国際社会から独立したと見なされるのは、1949年12月のハーグ円卓会議において、インドネシア共和国以外の国・自治国を含めたインドネシア連邦共和国が承認され、オランダから主権移譲されたことによる。その後、1950年8月、国・自治国がインドネシア共和国に合流して、単一国家としてのインドネシア共和国が名実ともに成立した。

というわけなので、1945年8月17日に独立は宣言したが、その後の幾重もの困難を乗り越え、5年の年月を経て、独立国家としての体裁が整えられたのである。

巷では、「日本軍によってインドネシアは独立できた」という言説が聞こえてくる。これは正確ではない。たしかに、日本軍がオランダ領東インド領内へ侵攻したことで、最終的にオランダの植民地支配に終止符が打たれた。だが、日本軍が侵攻する前から、オランダ領東インド内では独立を志向する動きがすでにあった。

日本軍の侵攻の目的は資源の確保であり、そのための手段として、オランダ領東インドをオランダから独立させて大東亜共栄圏の一部に組み込もうとしたのである。日本軍の侵攻がオランダ領東インドに独立の機運を高めた面はあったが、主体性を持った真の自立的な国家としてオランダ領東インドを独立させる意図は日本軍にはなかった。

日本軍はマレー語を広めたが、それが、結果的に、後のインドネシア語につながった面はある。しかし、それは一直線ではない。ジャワ島などで日本軍に対する住民蜂起が起こると、日本軍はマレー語の使用を禁止し、日本語を強制する方針へ転換した。このこと一つとっても、日本軍が本当にマレー語を広めて独立後の国語にしようとしていたとは到底考えられない。

大東亜共栄圏で、日本と旧オランダ領東インドは「兄弟」ではなかったのか。兄が弟に日本語を強制する、ロームシャなどとして強制労働を強いる、というのは、当時の言葉でいえば教育なのかもしれないが、今の言葉でいえば、虐待ではないか。

もちろん、個々人ベースでみれば様々な日本人がいたはずである。現地の人々に農業技術を教えた人、常に親切丁寧に接した人、現地の人々から慕われた日本人も少なくなかったはずである。その一方で、日本人に殴られた、罵声を浴びせられた、強制労働させられた、日本人が本当に怖かった、という現地の人々もいたはずである。現地の人々に対して、乱暴で差別的な態度をとった日本人も少なくなかったはずである。

どんな人でも、自分の過去を振り返ったとき、他者から責められたくはない。自分の過去を傷つけられたくない。自分の過去の行為を正当化したい。そう思うのは、人間の常である。

だから、様々な日本人がいたにもかかわらず、自分にとって好ましい日本人の事例をとりあげて、それで「日本は」と一般化しようとする。たとえば、かつて現地に赴いていた人物の思い出話を真に受けて、「日本人は皆いい人たちだった」という言説を作ってしまう。もちろん、本当にその人物がいい人だったかもしれない。でも、だから日本人全員がいい人だったと結論づけることはできない。その人はいい人だった、というのがせいぜいである。

もっとも、その人物は本当のことを言っていないかもしれない。自分の過去を傷つけたくはないからだ。その人物が戦後要職に就いていたりすれば、なおさらである。しかし、えらい人が言うのだから間違いない、という根拠のない思い込みも現れてくる。

インドネシアの人々は我々に会うと、多くの場合、日本が好きだと言う。あたりまえである。我々が見知らぬ外国人に会ったとき、いきなり「お前の国は嫌いだ」と面と向かって言うだろうか。嫌韓・嫌中の人が、韓国人や中国人に会ったときに直接そう言えるだろうか。

逆に、我々が外国へ行ったときに、初対面の人から「日本人は嫌いだ」と言われたらどうだろうか。たとえ嫌いだとしても、面と向かって「嫌い」とは言わないのではないか。

面白い経験がある。あるとき、ジャカルタで、韓国人のふりをしてタクシーに乗ったときのこと。タクシーの運転手に日本人について訊いたら、「俺は韓国人のほうが好きだ。日本人はケチで物事をはっきり言わない」と答えるのだ。日本人から韓国人について訊かれれば「日本人のほうがいい。韓国人は乱暴で粗野だ」と答えるのだ。彼らは、お客に合わせて言っているだけなのである。それを真に受けて、インドネシアでは日本人のほうが韓国人よりも好かれている、という言説が日本人社会でなんと多かったことか。

何を言いたいかと言えば、誰かが言うことをきちんと吟味せずに、「日本軍は礼儀正しく、現地民に愛された」とか「インドネシア人は日本が好きだ」とか、簡単に一般化すべきではない、ということである。そういう人もいた、という程度に抑えておくべきではないか。日本人が皆、そうではないし、インドネシア人が皆、そうではない。その当たり前のことを忘れてはならない。

もう一つ。これは以前、ブログにも書いたが、インドネシアが親日かどうかを気にする日本の人々は、親インドネシアだろうか。日本は相手からの親日を求める一方で、相手に対する親近感を深めているだろうか。多くは、インドネシアに親日であってほしいけれども、自分は親インドネシアなどということを考えてもみていないのではないか。それで、本当に真の信頼関係が築けるのか。

自分にとって都合のいいときには相手に信頼関係を求める一方、自分からは相手との信頼関係を築く努力をしているとはいえない。これが今の日本なのではないか。

前に、国家ではなく地域、と書いた。国家間で軋轢が起こったら、国民はそれに引きずられるのか。個人と個人、地域と地域、そうした関係のなかでこそ、相手からの信頼と相手への信頼を醸成し、国家間の利害対立を超えた関係づくりをしていく必要があるのではないか。それがなければ、我々の生活を国家が脅かす事態を招く恐れがあり得る。

インドネシアが親日かどうかより、一人でも多くの日本人がインドネシア人と知り合い、普通の人間どうしで友だちになり、仲よくなっていく、そういう話を進められたらと思う。国家とは関係なく、日本人が好きなインドネシア人とインドネシア人が好きな日本人が増えていくことのほうが大事だと思う。

私の主宰する「よりどりインドネシア」は、そんな関係性を増やしていく流れを作ることを目的としている。

ともかく、75年目のインドネシア独立宣言記念日をお祝いしたい。インドネシアの数え切れない友人・知人たちの具体的な顔を思い浮かべながら。

12年前、南スラウェシ州トラジャで出会った子どもたち(2008年8月7日撮影)


←よりどりインドネシア第76号の発行と舞台裏

→35年前の8月12日を思い出す


2020年8月3日月曜日

マナドお粥は日本でもきっと受け入れられる



前回のブログで、マナド料理の代表として、ナシ・クニン(イエローライス)を紹介しましたが、日本で受け入れられそうなのは、ナシ・クニンだけではありません。今日、ご紹介するのは、お粥と焼魚です。

まずは、お粥から。マナドお粥(Bubur Manado)、あるいはティヌトゥアン(Tinutuan)と呼ばれるものです。マナドの代表的な朝食です。

具に入るのはカボチャ、空心菜、トウモロコシなどの野菜とお粥。肉は入りません。近年、麺を加えることもできるようになりました。


マナドお粥の発祥はよく分かっていませんが、オランダ時代の食糧難のときにありあわせの物でお粥にしたという説があります。ただ、日本でも、戦時中の食糧難の時代にカボチャや芋をお粥で一緒にしてよく食べたことを考えると、もしかすると、戦時中、マナドへ進駐したの日本軍由来の可能性もあるかも、と思ったりします。

マナドお粥を専門に食べさせる店は、1970年代にはあったという話があります。その元祖は、マナド市内のワケケ通り(Jl. Wakeke)にありました。ワケケ通りにあるHotel Queen(現在のQuint Hotel)を出て右へ曲がり、数分歩いた右側の店が元祖です。

昔、1996~2001年に在マカッサルJICA専門家を務めていたとき、マナドへ出張すると、Hotel Queenを定宿にしていました。もちろん、お目当ては、マナドお粥の元祖の店で朝食をとること。Hotel Queenは朝食込みが標準だったのですが、あえてホテルでは朝食をとらず、マナドお粥を目指すのです。

マナドお粥と一緒に食べる付け合わせは、私の場合は、次の二つ。


まずは、カツオの燻製(Cakalang Fufu)。チャカラン・フーフーと呼ばれるもので、市場に行くと、こんなふうに売られています。


新鮮なカツオで作った燻製は、マナドお粥とベストマッチです。

もう一つは、これ。


ニケ(Ikan Nike)という小魚をかき揚げにしたもの。一般にニケ・ゴレン(Nike Goreng)と呼ばれています。

チャカラン・フーフーとニケ・ゴレンをかじりながら、適宜、マナドお粥にサンバル(チリソース)を加えて、ゆっくり食べる。マナドに行ったら、必ず食べる朝食です。

インドネシアには、ナシ・ゴレンやミー・ゴレンなど、脂っこい料理しかないと思っている方がいるなら、このマナドお粥はおすすめです。ヘルシーであっさり。お腹にもやさしい食べ物です。

このマナドお粥、戦時中の食糧難のときに食べた粗末な食べ物、という年配の方々の記憶も呼び起こしてしまうかもしれませんが、ヘルシーで栄養のある美味しい食べ物として、日本でも受け入れられるのではないかという気がします。

マカッサルにも美味しいマナドお粥屋さんがありました。基本的には同じなのですが、カツオの燻製とニケ・ゴレンはなかなか揃わない点で、本場マナドに軍配が上がります。

簡単に作れて、体にもやさしいマナドお粥。日本でも市民権を得るといいな!

日本で受け入れられそうなマナド料理、まだあります。それはまた別の記事で。


2020年7月30日木曜日

マナド料理はもっと知られてもよいはず



前回のソトベタウィ宮本の記事がけっこう読まれていて、ちょっとびっくりしています。私もそうですが、あのインドネシアの味を懐かしく思い出して、食べに行こうと思った方もけっこういたようです。

そのブログのなかで、ちらっとほのめかしたのが、ソトベタウィ宮本の料理の味の秘密。もともと、東京のインドネシア料理屋さんは、スラウェシ島の北にあるマナド出身の方が始めて、その系統がずっと続いてきたのでした。

年配の方なら、新橋にあった「インドネシアラヤ」や六本木にあった「ブンガワンソロ」の名前を思い出すのではないでしょうか。その後、1990年代に有名になった「ジュンバタンメラ」も、目黒の有名店「チャベ」(いつもお世話になっております!)も、流れとしては、マナド出身の方からの流れに連なっています。

以前から不思議だったのは、マナド出身者なのに、インドネシア料理でほとんどマナド料理が出てこないことでした。出てくるのは、ナシゴレンやミーゴレン、ジャカルタやジャワ島でお馴染みの料理で、これらが日本では「インドネシア料理」と認知されてきました。

ところで、そのマナド料理ですが、マナド自体が美食の街。バラエティに富み、なかなか美味しいのです。今、ジャカルタやスラバヤでは、新たにマナド料理を出す店が増えていますし、マナド市内にも新しいスタイルでマナド料理を出す店が出てきています。

マナド料理はおそらく、日本でも十分に受け入れられると確信します。

その理由の一つは、かつおだしで味をとる料理が色々あるからです。たとえば、ナシ・クニン(nasi kuning)という名のイエローライス。ジャワでのナシ・クニンは主に、お祝い事のときに、三角柱のような形に盛り、その下に肉や野菜を盛ったナシ・トゥンペンで有名ですが、マナドやスラウェシ(マカッサルでも)では、テイクアウトの朝ごはんとして普通に食べられています。


これがかつおだしのスープで炊かれるのです。その上に、甘辛く味付けされた牛肉やカツオのフレークなどが載り、ゆで卵が添えられます。ナシ・クニン用のサンバル(チリソース)をナシ・クニンにかけていただきます。

マナドのナシ・クニンは、テイクアウトも一般的です。ウォカ(woka)というロンタラ椰子の一種の葉で次のように包んで売られています。


中を開けると、こんな感じです。


これは、2016年5月21日にマナドのサムラトゥランギ空港で買ったものです。

それよりもずっと前の1999年6月、北スラウェシ州開発企画局の長官ご一行と一緒に、マナドから夜行便の船でタラウド諸島へ向かうとき、出発前に長官がナシ・クニンを買ってきて、私たちみんなに配ったことがありました。

夕方、マナドから出港する船の甲板でみんなでほおばったのですが、そのナシ・クニンの美味しかったこと! それまでに何度もナシ・クニンはインドネシアで食べていたはずなのですが、そのどれよりも、あの時食べたナシ・クニンは群を抜いて美味しかったのです。

マナドが立地するミナハサ半島は、カツオ漁が盛んなところで、日本のかつおだし調味料やめんつゆなどに使われるカツオは、実はここから出ているものがけっこうあります。一説には、日本の枕崎や糸満の漁師たちが戦前、この地までカツオ漁に来ていて、一本釣りの技術を伝えたとも言われています。

その立役者の一人である大岩勇氏については、脇田さんの「スラウェシ情報マガジン」に長崎節夫氏の書かれたメモがありますので、ご一読ください。


そう、マナド料理のカツオ味は、日本と密接につながっているのです。暑い夏にいただくそうめんや冷麦の麺つゆに、マナド周辺からのカツオが使われているかもしれません。

ナシ・クニンの話へ戻ると、マナド市内で美味しいナシ・クニンを出す場所は、セロジャ(Seroja)という店と、カンプン・コドック(Kampung Kodok)という集落にある数軒の店です。マナドはクリスチャン(プロテスタント)の人口比率が高いところですが、セロジャもカンプン・コドックも、ナシ・クニンを出しているのはムスリムの方々なのです。

カツオ味の料理といえば、ほかにも、カツオそば(mie cakalang)があります。かつおだしのスープに入った麺で、びっくりするぐらいのあっさり味。油ギタギタ、お腹にもたれると思われているインドネシアの料理のなかでも、特筆できるほどです。飲んだ後の〆の一杯に、まさにぴったりのカツオそばです。

私としては、マナド風のナシ・クニン、カツオそばを東京で食べたいなあと思うのです。ナシ・クニンはテイクアウト中心に。ソトベタウィ宮本のマナド出身の一族で、出してみてほしいと思いませんか。

東京できっと受け入れられ、市民権を得られると思うのですが。

ところで、マナド料理のなかには、これらのほかにも、日本で受け入れられそうな料理がいくつかあります。その話はまた別の回に・・・。

マナド料理は、もっと知られてよいはず、なのです。


2020年7月28日火曜日

ソトベタウィ宮本のソトベタウィは本格派だった



前々から行こう行こうと思って行けてなかった「ソトベタウィ宮本」へ、7月25日、ようやく行ってきました。

ソトベタウィというのは、ソト(Soto)というインドネシア(主にジャワ)の実だくさんスープの一種で、もともとのジャカルタ地域の地元民であるベタウィ(Betawi)族が編み出したスープです。その特徴は、ココナッツミルクを使い、具には牛肉やトマトが入ります。

おそらく、ジャカルタ在住の日本の方々でも、ソトベタウィ(個人的にはソト・ブタウィかな?)のことを知っていて、夜な夜な食べに行く、という方は多数派ではないかもしれません。もちろん、私はジャカルタにいるときはよく食べてましたけど。

そんな、もしかすると、ジャカルタの邦人社会でもあまりなじみがないかもしれない、マイナー気味のジャカルタ地元料理が、なぜかニッポンの東京のど真ん中で食べられる、というのもなかなか面白いではありませんか。

でも、地理的距離が離れれば離れるほど、本場の味とは違う味へ離れていってしまう、というのが私なりの今までの経験則です。たとえば、スラバヤで食べるソトベタウィは、ジャカルタで食べるそれとは明らかに味が違うわけです。

ともかく、まずは、先入観なしに食べてみることにしました。どうせなら、牛肉のスパイスグリルも入ったソトベタウィ・スペシャルを注文。


次のは、ソトベタウィを拡大した写真です。


白っぽくてよく分からないかもしれませんが、ジャカルタで食べるよりも、はるかにたくさんの牛肉がゴロゴロと入っておりました。本当はココナッツミルクを使うのですが、この店では敢えて牛乳で作ってみたとのこと。ということは、やっぱりジャカルタの本物のとは違うのだろうな、と思って、一口食べてみると・・・。

なにこれ、美味しいじゃないの!

ココナッツミルクの絡んでくるような感触はなく、でも、ちゃんとソトベタウィの味がしているとは・・・。具の牛肉は柔らかく上手に煮込んであって、口の中でホロホロと砕けていきます。

牛肉のスパイスグリルも、適度な辛さの柔らかい牛肉で、白いご飯にぴったりの料理でした。

このスペシャルでなくとも、ソトベタウィ+ライスのソトベタウィ定食でも十分かと。ライスの上にスープ+具をかけてもいいし、ソトベタウィのなかにライスを入れて食べても美味しいです。個人的には後者がおすすめです。

そうそう、特筆すべきは、一緒に出てくるサンバルの美味しさ!サンバルと呼ばれるインドネシアの辛味チリソースは、料理ごとに全部違う作り方なのですが、このサンバルを適量、ソトベタウィに入れて食べると、スープのまろやかさとミックスされて、何とも言えない美味しさを引き出します。もちろん、サンバルだけをご飯に少しのせて食べても美味しいです。

きっと、日本人の口に合うようにアレンジされた味だろう、とあまり期待しないで行ったのですが、ソトベタウィ宮本のソトベタウィは、ジャカルタの本家と比べても遜色ない本格派でした。皆さんも是非、食べに行ってその味を確認してみてください。

ソトベタウィ宮本は、都営地下鉄「小川町」駅・東京メトロ丸の内線「淡路町駅」・東京メトロ千代田線「新御茶ノ水」駅から歩いてすぐ、神保町から歩いても遠くないところにあります。


ソトベタウィ宮本
〒101-0054 東京都千代田区神田錦町1丁目14−7 神田錦町ビル
TEL: 03-6811-7888
Instagram: @sotobetawimiyamoto
Facebook: @sotobetawimiyamoto
現在の営業時間:月~土 11~15時、17~22時。日曜定休
(8月からの営業時間:水~月 11~15時、17~22時。火曜定休)
(新型コロナ対応で営業時間が変更になっている可能性があります)

実は、この料理を提供しているインドネシアの方の一族は、今はなき、かつてあった東京のあの有名なインドネシア料理店をされていた方々なのです。ジャカルタのご出身ではないにもかかわらず、この味のソトベタウィを出せるとはなかなかの腕です。

そして、ひそかに、新たなメニューを考えていらっしゃるようです。それは、ご自分の出身地のご当地料理で、得意中の得意の料理。日本の方々にも満足できる、新たなインドネシア料理として認知されるかもしれません。

その新メニューが出たら、もちろん、皆さんにもお知らせします。お楽しみに。


2020年7月27日月曜日

7月のオフ会終了、今回取り上げたのはこの本!



2020年7月25日(土)日本時間午後3時から、情報ウェブマガジン『よりどりインドネシア』の購読者の皆さんを対象にしたオフ会をオンラインで行いました。今回は、私を含めて12名が参加しました。

今回のテーマは「私のおすすめの本」。当初、何人かに本の紹介をしてもらう予定だったのですが、結局、最初に紹介していただいた一冊の本をめぐる話に終始し、オフ会を終了しました。その本とは、倉沢愛子著『インドネシア大虐殺』です。


話題提供者としての参加者のお一人から、内容をおおまかに紹介していただき、その方自身の感想を述べてもらいました。参加者のなかで、すでにこの本を読んでいたのは、私も含めて3~4人でした。

話題提供の後は、参加者がゆるりと自由に対話する形に。

対話の中では、インドネシアで9・30事件と呼ばれるスカルノの時代からスハルトの時代へ移っていく重要なきっかけとなった事件(インドネシア政府の公式見解では、インドネシア共産党によるクーデター未遂事件。諸説あり)の真実をめぐる話よりも、その後の共産党シンパ狩りに伴う普通の人々による虐殺から派生して、インドネシアの治安当局による思想スクリーニングをめぐる話で盛り上がりました。

私も含めて、インドネシアで外国人が滞在許可手続を行う際の、警察やイミグレとのやり取りに関するいくつもの経験談が交わされました。これがなかなか面白かったのです。

たとえば、私が1990年に、イミグレ以外に、ジャカルタの警察で滞在許可手続きをした際、渡された許可申請書には、9・30事件が起こった1965年9月30日にどこで何をしていたかを書く項目がありました。それだけでなく、私の父親、母親、兄弟についても、そのときどこで何をしていたかを書く項目がありました。

さすがに今は、外国人に対して、イミグレや警察でそのようなことを滞在許可手続の際に書くことはないようです。それでも、ある参加者の方は、警察で手続をした際に、自分が過去に申請したときから滞在中の行動等に関する個人データが細かくコンピュータ内に記録されてあったことに驚いたといいます。

私たちの知らない間に、インドネシアのイミグレや警察は我々の行動を監視していて、何かあれば記録に残している、私たちが意識することはないにせよ、外国人はやはり監視されている、ということを改めて実感しました。

スハルトの時代が終わり、民主化の時代になったとはいえ、かつての共産党関係者の家族や子孫に関する記録は今も残っていて、いつでも監視できる状況にあるのではないか、ということが十分に予想できます。同様に、イスラム過激主義者やその家族もまた、テロ対策の観点からしっかりと監視されているのは確実です。

このように、『インドネシア大虐殺』に描かれた赤狩りが起こりうるベースは、今もあり、それは、昨今のパンチャシラ法案をめぐる議論のなかで、再び、一部で現れている、共産主義の脅威への警戒を呼び掛ける言説のなかにもうかがえます。

まあ、こんな感じで、ちょっとセンシティブな話も交えながら、参加者全員が自由にゆるりと対話できた2時間でした。

オフ会を購読者限定で行うのは、ちょっとセンシティブな話も安心して話せる環境を作りたい、という面もあります。

さて、次回ですが、今のところ、8月29日(土)日本時間午後3時から、『よりどりインドネシア』購読者に限定したオフ会を開催する予定です。取り上げるテーマは、「今、社会変革を目指すインドネシアの若者たち」(仮称)です。

このテーマは、メディア報道など表面になかなか出てこないものですが、今後のインドネシアを見ていくうえでは、とても大事なテーマだろうと思います。学会報告のような論理的でカチッとした議論というよりも、参加者の皆さんと一緒に、若者の動きについて情報交換しながら、その行方と現代社会における意味、そしてそれが2024年以降のポスト・ジョコウィの時代がどうなるか、などについて自由な雰囲気でいろいろ考え、対話できればなあと思っています。


2020年7月22日水曜日

カカオ酵母のパンを試食



今週月曜日(7/20)、事前に注文していたカカオ酵母のパン「呵々」(かか)が届きました。

このパンは、神戸のパン屋さん「ありのパン・まるじゅん」の高橋さんが作ったのを送ってもらったものです。カカオ酵母を使って焼き上げたパンは、少なくとも日本では初めてではないでしょうか。

高橋さんは、京都のチョコレート製造販売会社・ダリケー主催の2017年カカオ農家訪問ツアーの参加者で、ダリケーのアドバイザーを務める私がツアーのコーディネーターとして、インドネシア・スラウェシ島(西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県)へ引率しました。

このパンに使っているカカオ酵母は、そのときに入手したカカオの実から抽出したものだそうです。長い時間をかけて試行錯誤しながら、カカオ酵母を自家製発酵種として開発しました。そしてようやく製品化の目途が立ち、一般販売に先駆けて、2017年カカオ農家訪問ツアー参加者に限定して、先行試験販売したものを購入しました。

食パン(パンドミ)を1枚、食べてみました。半分に切り、片方をそのまま、もう片方をトーストにしてみました。どちらも、カカオの香りがけっこう匂います。やや甘めの生地で、噛むとしっとり・もっちりした味わいでした。個人的には、ちょっとカリッと焼いたトーストのほうが好みでした。


小麦粉は北海道産100%で、あとはカカオ酵母と蜂蜜と塩のみ、余計なものは使っていないそうです。

今回は、パンドミ1斤のほか、プチパン2個、くるみ&レーズン、いちじく、チョコチップ各1個がセットで送られてきました。

到着してすぐでも、十分にカカオの香りがするのですが、高橋さんによると、2~3日ぐらい経つと、より香りが強くなるといいます。パンのカカオ酵母が生きているのでしょう。カカオ自体の健康に良い成分も含まれているのでしょうか。

まだ半分ぐらいのこっています。もう少し楽しめそうです。

高橋さんのこのパンを味わいながら、カカオ農家訪問ツアーでお世話になった、スラウェシのカカオ農家の方々を思い出しています。ツアーの後も、こうしてカカオを通じた様々なつながりが続いて、発展していることを実感します。

このカカオ酵母パン「呵々」(かか)は、8月から一般向けに製造販売する予定とのことです。パンと一緒に様々な物語が届けられ、それが新たな物語を作って、様々な人々に伝えられていくことを願っています。

  ありのパン・まるじゅん
  〒651-1321 兵庫県神戸市北区有野台2丁目1−4−12
  TEL: 078-595-7477


2020年7月20日月曜日

よりどりインドネシア特別講座(第1回)は高島雄太氏が報告



2020年7月18日日本時間午後3時から、よりどりインドネシア特別講座(第1回)を開催しました。

この特別講座は、ウェブ情報マガジン「よりどりインドネシア」の購読者だけでなく、一般の方々も含めて、多くの方にご参加いただける機会としました。当面は、無料での開催を想定しています。

いくつもの様々なインドネシアをできるだけ多くの方々に知ってもらいたい、という気持ちと同時に、内容に応じて日本語とインドネシア語のバイリンガルとし、日本の方々とインドネシアの方々とが同じ場所で同じ話題で対話する機会を作りたい、という気持ちも込めました。

記念すべき第1回の今回は、インドネシアでハンセン病恢復者を支援する財団Yayasan Satu Jalan Bersamaを設立し、活動している高島雄太さんをお招きし、「インドネシアのハンセン病問題から考える~感染症が引き起こす差別について」という題で報告していただきました。高島さんのリクエストで、今回はバイリンガルによる開催としました。


なお、高島さんは、インドネシアの人気TV番組Kick and Andyにも出演したことがあります。そのときの様子は、以下のYouTubeで視ることができます。

申込者は43人(日本人26人、インドネシア人17人)でしたが、実際に参加したのは22人でした。私のインドネシア語での通訳・説明が拙かったせいでしょうか、講座の最後まで残っていたインドネシア人の参加者は1名だけだったのは、ちょっと残念でした。

高島さんの発表では、自己紹介の後、インドネシアのハンセン病と恢復者をめぐる現状を説明した後、恢復者が実際に被った様々な差別の実例を挙げました。続いて、Yayasan Satu Jalan Bersamaの活動(ワークキャンプ)を紹介しました。

ワークキャンプでは、日本とインドネシアの大学生が一緒にハンセン病恢復者の暮らす村を訪問し、2週間、村に滞在しながら、村人と一緒に道路舗装工事など様々な活動を行ないます。最初は、ハンセン病恢復者の外見に戦々恐々だった大学生たちも、村の人々から実の親子のように歓待され、時間が経つにつれて、インドネシアのどこでも会える良いおじさん・おばさんと全く変わりがないことを実感します。

大学生たちは当初、可哀そうなハンセン病恢復者のために何かをしてあげたいという気持ちでやってきます。ところが、村で一緒に活動していくと、ハンセン病恢復者のために何もしてあげることができない、という気持ちになっていきます。逆に、助けたいと思った相手であるハンセン病恢復者の方々からいろんなことを教えてもらい、学ぶことになっていきます。セメントをこねるのも、何もかも、大学生よりもハンセン病恢復者のほうがずっと上手なのでした。

ハンセン病恢復者からすると、家族すら来ない、誰も会いに来ない、世の中から見捨てられたような気分でいるところへ、大学生の若者たちがやって来てくれて、2週間も滞在し、一緒に活動してくれるのは、とてもびっくりすることだったし、何物にも代えられない嬉しい出来事だったのです。

ワークキャンプの2週間で、外部者である大学生とハンセン病恢復者との関係は、大学生とハンセン病恢復者ではなく、個人と個人との関係へと変わっていくのでした。

高島さんは、このワークキャンプでの経験から、ハンセン病恢復者への差別をなくしていくには、感染力が極めて弱くて完治する病というハンセン病に関する正確な知識を持つとともに、それでもなかなか消えない差別感情を超えるために、実際にハンセン病恢復者と交わり、一緒に活動をすることで、個人と個人との信頼関係をつくっていくことが有用ではないか、と問いかけました。

今回、高島さんは日本におけるハンセン病政策の歴史についても発表し、現在のコロナ禍の日本における差別問題にも議論を広げたいと考えていましたが、時間の関係で、割愛せざるを得ませんでした。

今回の講座を終えて、ハンセン病に限らず、差別意識を克服していくための基本は同じなのではないかと実感しました。すなわち、相手のことをよく知ること、相手と何か一緒に活動し、共感し、信頼し合う経験をすること、ではないでしょうか。

相手のことを知らないから怖く感じ、何の根拠もない妄想や思い込みが膨らみ、相手に対するヘイトがひどくなり、やられる前にやってしまおうという気持ちがとんでもない行動をおこしかねません。

もっとも、相手のことを知識として知ったからといって、相手を信じることは容易ではないはずです。好奇心と性善説はその突破口になり得ますが、誰もがその突破口を開けるわけではありません。

重要なのは、高島さんのように、こちらとあちらとをつなぐ人の存在ではないでしょうか。そのつなぐ人は、こちらからもあちらからも信頼されている人であることが肝要です。このつなぐ人を介して、こちらとあちらとが信頼できる関係をつくり、個人と個人との関係で互いを尊重し合えるようになれば、いつの間にか差別意識・被差別意識を克服できていくのではないか。そんな風に思います。

インターネットで個と個がつながっても、必ずしも信頼関係が築けるとは限りません。でも、いずれの個からの信頼される第三者を通じてつながれば、信頼関係をより築きやすくなると思います。

正しく相手を知り、その相手と一緒に何かをする。そのお手伝いをする信頼できる仲介者こそが、今の時代にとくに必要とされているのではないかと思います。そういう仲介者をコミュニケーターといってもよいかもしれません。良質のコミュニケーターを増やしていくこと。私が今後、目指していきたいことの一つでもあります。

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高島さんから、以下のようなメッセージを受け取っております。よろしければ、高島さんらの活動への皆さんからのご支援をよろしくお願いいたします。

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YAYASAN SATU JALAN BERSAMAの髙島雄太です。
本日は講演会に参加いただき大変ありがとうございました。
みなさんにハンセン病について知って頂くことができ、とても貴重な機会となりました。
本日の内容に不明な点や質問などありましたら、お気軽にご連絡ください。

■メールアドレス

■SNSで活動内容の発信も行っています。
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4. 2,000 円/月(24,000 円/年)
5. 3,000 円/月(36,000 円/年)

寄付金は以下の口座でお受けしています。
クレジットカード決済は未導入のため、毎月手動でお振込みをお願いします。
ご支援いただける方は髙島までご連絡下さい。

【ゆうちょ銀行から振込の場合】
銀行名:ゆうちょ銀行
記号:17440
番号:95979041
名前:サトゥ ジャラン ベルサマ ジャパン

【他の金融機関からの振込の場合】
銀行名:ゆうちょ銀行
店名:七四八(ナナヨンハチ)
店番:748
種目:普通預金
番号:9597904
名前:サトゥ ジャラン ベルサマ ジャパン

※インドネシア口座への寄付を希望される方は、髙島まで連絡ください。Bank Mandiriの口座情報をお送り致します。

頂いた寄付金は快復者やその家族の支援のためのプロジェクトに使用させて頂きます。
皆様からのご支援をどうぞ宜しくお願い致します。

改めまして、本日はお忙しいところご参加いただきまして大変ありがとうございました。
今後も、ハンセン病差別をなくすため活動に邁進していきますので、引き続きご支援頂ければ幸いです。
どうぞ宜しくお願い致します。

髙島雄太


2020年6月23日火曜日

インドネシアで自転車に乗っていた



新型コロナウィルス感染拡大のなかで、混雑する電車やバスを避けて、自転車で通学・通勤する人が増えている、というような話を聞きます。世界中で、ちょっとした自転車ブームが起こっているとか、いないとか。

日本で自転車というと、すぐに思いつくのはママチャリでしょうか。電動のママチャリもよく見かけるようになりました。近所へお買い物に出かけるときなど、気軽に乗れる乗り物としてのママチャリが、一般的な日本で想定される自転車だと思います。

私も、福島での移動ではママチャリを愛用しています。東京では、27インチのややスポーツ系の自転車に乗っています。

スポーツ系といえば、昔、子供の頃は、方向指示器やフォグランプの付いたスポーツ系の自転車がよく売られていて、ああいうの欲しいなあと思ったものでした。

実は、インドネシアでも、マカッサルにいるときには自転車に乗っていました。日本の感覚で、買ったのはママチャリを少し進化させたややスポーツ系の軽快車。ギヤチェンジが3段階ぐらいのものでした(下写真)。


しばらく軽快車に乗った後、友人から「交換してほしい」といわれて、後輪に泥除けの付いていない白いスポーツ系の自転車に変わりました。

自転車に乗ってあちこち散歩するのが大好きなので、当時住んでいた、マカッサル市の東部(ハサヌディン大学そば)から街の中心部(海岸沿い)へ、約8キロぐらいの道を走ろうと向かったものでした。

ところが・・・。途中にペッテラーニ通りという、片側4車線の大きな道路を横断しなければなりません。インドネシアの大通りには、当時、横断歩道がほとんどなく、自動車は途中にある方向転換路でUターンする作りになっています。ここをどうやって横断するのか。

そう、決死の覚悟で横断しなければなりません。横断歩道も、自転車が通れる歩道橋もないので、交差点で自動車の流れが少なくなったのを見計らって、一気に横断するのです。

インドネシアでは当時、交差点で左折車は一旦停止せずに、信号が赤でも左折して良い決まりになっていたので、左折車の流れが止まらないと横断できないのです(止まってくれる左折車はまずありません)。場合によっては、一時、中央分離帯に沿って逆走せざるを得ないこともあります。

そうした決死の覚悟でペッテラーニ通りを横断し、海岸へ向かって進みますが、途中でも、4車線に5列にも6列にもなった車に追い立てられ、ペテペテと呼ばれる乗合には幅寄せされ、死ぬかと思ったことは数知れません。

こうしたことを繰り返しながら、改めて実感したのは、当時のマカッサルの街は、自転車で移動することを全く想定していない、ということでした。実際、私以外で、自転車で移動している人を見かけることはありませんでした。

あまりに危ないので、自転車に乗るのは、ペッテラーニ通りよりも東側、当時住んでいた家の周辺に限ることにしました。

ところが、毎週日曜日になると、歩行者天国になった海岸通りをたくさんの自転車が走るのです。健康志向が高まり、健康のために自転車に乗りましょう、と南スラウェシ州政府やマカッサル市政府の高官や軍・警察の幹部たちが集って、海岸通りをみんなで自転車で走ります。

そして、もう一つ分かったことがありました。それは、彼らの乗っている自転車です。いずれも高級なスポーツ系で、私の乗っていた自転車の値段の3~10倍ぐらいする自転車でした。そう、自転車に乗るというのは、庶民が健康増進のために乗るのではなく、一部エリートの道楽なのだ、ということでした。

普通の人は、自転車には乗らず、バイクか乗合に乗って移動するのです。ある友人によると、バイクを購入するには、50万ルピア程度の頭金さえ払えば、あとはローン払いにして、すぐ手に入ります。他方、自転車を購入するには、ローンはなくとも、100万ルピア払わなければなりません。庶民感覚的には、バイクを購入するほうが簡単な気がするのだといいます。

インドネシアでも、自転車専用レーンが設けられたり、自転車で移動できる歩道橋などが整備されて、私がペッテラーニ通りを決死の覚悟で横断した頃に比べれば、自転車に乗れる環境は格段に整備されてきました。

それでも、インドネシアの普通の人々からみれば、自転車は一部の金持ちの楽しみであり、日曜日のカーフリーデーで乗るもの、と眺めているような気がします。自転車を買うぐらいならばバイクを買えるわけですし・・・。

ちょっと前までの自転車は、中古のボロボロの自転車にヨレヨレの格好のおじいさんが乗っている、みすぼらしく、貧しい人々の乗り物、というイメージでした。そのイメージは、バイクが普及することで払拭され、バイクに乗ることが貧しさからの脱出のシンボルとイメージされました。

なお、ジャワ島の田舎では、日本と同じようなママチャリ型の自転車がけっこう普及していて、自転車自体は中国製のようなのですが、日本自転車(Speda Jepang)とよばれています(下写真)。


以上、インドネシアでの自転車は、日本や欧米での自転車とはちょっと違ったイメージで捉えられている可能性がある、というお話でした。


2020年6月16日火曜日

原田正純先生の思い出



6月12日が原田正純先生の命日だった。原田先生とお会いしたのは一度だけ。それも、インドネシアでお会いしたのだった。

そのきっかけは、先生の著書「水俣病」のインドネシア語訳の出版だった。2005年5月3~5日、先生とジャカルタ、マカッサルをご一緒した。5月3日にジャカルタの空港でお会いして、5月4日にマカッサルで出版記念講演をしていただいた。


2003年以降、北スラウェシ州で工場の排水による環境汚染、住民の健康被害が問題となっていた。その症状から「水俣病でないか」との噂が高まっていた。しかし、インドネシア側には当時、水俣病に関する正確な知識が欠けていた。正確な知識を欠いたまま、水俣病という話だけが大きくなっていた。

そうした話をマカッサルの友人たちとしていたときに、彼らから水俣病についての本をインドネシア語に訳して出版したいという話が出てきた。そこで、原田先生の岩波新書での著書を紹介し、著作権その他の話を日本側で調整するという話のうえで、マカッサルの友人たちが英語版からインドネシア語へ翻訳して出版する、ということになった。マカッサルの友人たちのなかに小さな出版社を営む者がいたのである。

原田先生と実際に翻訳に関わったマカッサルの仲間たち

そうして、翻訳された"Tragedi Minamata"は出版された。その出版記念イベントに、著者である原田先生をお招きしたのである。


出版記念講演の後、"Tragedi Minamata"は、インドネシア国内の書店で一斉に販売された。書店によっては、平積みで売られたほど注目された。ところが、環境問題の発端となった北スラウェシ州では、販売開始直後、市中の書店からこの本が一斉に姿を消した。問題の発生元の企業が販売された分をすべて買い占めたと噂された。

原田先生のインドネシアへの招聘に当たっては、友人の島上宗子さん(現・愛媛大学准教授)とマカッサルにある国立ハサヌディン大学のアグネス教授らと一緒に実現させた。

あのとき、原田先生の魂のこもった講演を、私は懸命に通訳した。必ず伝えなければ、と力が入ったことを覚えている。

インドネシアでは、この出版の話のずっと前に、ジャカルタ湾で水銀などの重金属汚染の疑いが出て、水俣病ではないかと騒がれたことがあった。原田先生は、そのときにインドネシアへ来訪し、調査をされていた。今回の話もそうだが、水俣病と断定するにはまだ至らないとの慎重な立場に立っておられた。

6月12日が先生の命日だということを思い出させてくれたのが、永野三智さんのフェイスブックでの投稿だった。彼女が晩年の先生にインタビューした記事の再掲だった。それがきっかけで、2005年のインドネシアでの原田先生とのささやかな時間を思い出したのだ。

永野さんの記事は、とても心に沁みるインタビューの内容だった。多くの方々に読んでいただきたく、ちょっと長いが、私にとっての備忘録としても、謹んで、以下に再掲させていただきたい。

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■水俣病患者とは誰か

永野: 今日は原田さんの言葉を、しっかりと残させてもらいたいと思ってやってきました。まず、水俣病患者と一言で言っても、その言葉を使う人の立場や場合によって多様な水俣病が存在していますよね。原田さんが考える水俣病患者とは?

原田: 医学的には水俣病というのは一つしかないですよ。それを勝手に、認定や司法上、救済法上とつけている。これがまずおかしい。確かに重症、軽症の差はある。しかし、身の回りができる人が軽症で寝たきりが重症かって、単純に言えばそうかもしれないけど、患者の持っている苦痛からいけばどっちがひどいかは本当はわからないですよ。通説、通常、症状の重さによって患者を分けるというのは、世間一般常識的に受け入れられている。それだっておかしい。医学的には水俣病というのは一つしかないですよ。そこがまず矛盾ですよね。

永野: 矛盾というと、認定患者かどうかを判断するのはお医者さんではなくて、最終的には県知事ですよね。

原田: そういうことは他の病気ではありえないですよ。そしてまた、水俣病でもあり得ない。医師団というか審査会が棄却を決めている。医者の立場ならば有機水銀の影響があるかどうか判断すればいい。
ところが補償金を受ける資格を審査してる。だからおかしくなっちゃう。医学的な判断がベースにあっても、救済するかは社会的判断でしょう。越権行為ですよ。どっちかはっきりしないといけない。医学的な立場で貫くんだったら、認定は関係ないですよ。影響があるかないかを判断すればいい。そして医学的な立場だったら水俣病が三種類も四種類もあっちゃ困る。救済の判断だとするならば、医学の判断だけじゃなくてプラスアルファですよ。
だから当然、医者だけで審査会を作って救済するかどうか判断するのは違法ですよ。むしろ行政や弁護士や被害者が参加しながら決めていくべきです。

■言葉を残す

原田: この頃やたら取材の多かっですよ。

永野: 残しておかなければとは思っているんですね。

原田: 確かにそうだと思うよ。石牟礼道子さんと僕と話しておかないといけないこと一杯ある。宇井純さんも死んじゃって、あの頃のことをしゃべれるのは、桑原史成さん。道子さんは僕が診察に行くと取材みたいにしてついて来よった。この人は誰だろうと思っていたら、後で苦海浄土を書く時に医学用語を聞きに来たんですよ。それで「この人作家だったんだ」と初めて分かった。患者の診察に関心があるというのは保健婦さんかなと思ってたんですけどね。

その頃もう一人、人物がいて。大学で「東大の研究者が資料を集めて回ってる、謎の男だから用心するように」と言われてた。それが宇井純さん。だけど、面識があるようになったのは、第一次訴訟がおこってから。それから、桑原史成さんと僕は、当時接点がなかった。僕が現地にごそごそ入って行った時に、「学生さんが写真を撮りに来ているよ」という噂はあっちこっちで聞いたけどね。出会ったのは、ずっと後で、なんとなんとベトナム。僕がベトナムの調査に行ってる時に、桑原さんも来てて、ばったり。「あ、あなたが桑原さん」って感じでね。向こうもびっくりして。

永野: そこでの接点はあるんですね。そしたら桑原さんとぜひ話をしてほしいですね。

原田: あの頃、桑原さんの見た水俣をね。あの人まじめだから、「なんで水俣に関心持ったの」って言ったら、あの頃「飯が食えんかった。これで有名になろうと思った」。だけど僕に言わせると「これは大変な事件だから、ちゃんと記録しておけば飯が食えるようになる」と思ったこと自体がね。

永野: すごい嗅覚。

原田: すごい嗅覚ですよ。その頃の写真家なんて誰も関心持たなかったんだから。そこに目をつけたというのはたいしたもんですよ。宇井さんはまた別の意味で関心を持ったんだけどね。だから僕らが関心持ったのは、普通の当たり前。医者が病人に関心を持つのは当たり前でね。

僕はたまたま熊大の神経精神科に入った。その頃は熊大全部あげて水俣病に取り組んでいて、神経精神科の私たちの科が専門なの。イギリスからマッカルパインて言う人が神経精神科に来てて、本当は彼が最初に有機水銀説を言い出した。その時、通訳でついて来てたのが、その後神経内科の教授になる荒木淑郎ですよ。神経精神科の宮川太平教授が、マッカルパインを信用しとったら、ちょっとどうにかなっていた。マッカルパインの話を聞きに行くって言ったら、「あんな馬鹿な話聞くな」って言われてね。 昭和三三年、一九五八年。だからもう、熊大の大部分は有機水銀説に傾いていた。彼はイギリス出身だから、ハンター・ラッセルの論文を読んでいた。いろんな疑いの中の一つとして有機水銀があるというような話。一番早く言い出したんじゃないかと思うけど、もう分からない。ただ、我々の世界は誰が最初に論文を書いたかで、そこからいくと、武内忠夫先生ですね。

永野: 原田さんは、何故水俣病のことをやり続けられたんですか?

原田: 逆に僕は、なんでみんな続けんのだろうと思う。というのは、医者ですからいろんな病気にぶつかります。だけど、有機水銀中毒で、しかも環境汚染によって食物連鎖を通しておこした中毒なんていうのは人類史上初めてですよ。医学を選んで、世界で初めて経験したようなものにぶつかる確率はものすごく少ない。だから、なんでみんなもう少し関心持たんのだろう、あるいはもっと積極的に関係してこないんだろうって思う。関心持って来たら、政治的な目的だったり、それか全くその逆で、あれは政治的だとかね。大体医学界がおかしい。

今頃世界中では、何を議論にしているかというと、微量長期汚染の胎児に及ぼす影響でしょ? 日本で調べれば一番ちゃんと分かったわけでしょ。今となっては、だけどね。だから五〇代、六〇代が今どういう影響を受けているかというのが問題。そういう意味で僕は二世代訴訟に関心持ってるわけですよ。今までずっと関心持ってたけど、若い時代はみんな逃げちゃってましたよね。

■第二世代の障害

原田: やっぱりある時期が来ないと調査がちゃんとできなかった。差別とか、いろんな問題があって第二世代というのはみんな逃げていた。理論的には第二世代、胎児性世代というのは調べたかったんです。水俣病はハンター・ラッセル症候群を頂点にして、裾野の方が分かってきたでしょ。一つ、そこには「病像がはっきりしていないから救済できない」という行政の嘘がある。病像がはっきりしていないから、救済できない。感覚障害だけの水俣病があるかどうかとか。

でも実際は調べてみると、しびれだけなんていう人は少なくて。自覚症状を無視するから感覚障害だけになるけど、頭が痛い、からすまがりがある、力がなくなって途中で歩けなくなる、いっぱいある。ところがマスコミも含めて帳面上、感覚障害だけの水俣病があるかないかの議論になって。しかも、学問的にはまだそこがはっきりしてないみたいな風に。しかし今分かってることだけで、十分救済はできる。救済に支障ができるほどじゃない、「分からない」を理由に救済ができないなんて馬鹿なことないわけです。

今度は胎児性世代に関して言うと、これは全然手がつけられてない。見たら分かるような脳性小児麻痺タイプしか今のところ救済されてない、その裾野がね。じゃぁ、なにで救済されているかというと、大人の基準、つまり感覚障害で引っかかってる。それは当たり前ですよ。おなかの中でも汚染をうけて、たまたま生まれてからも魚を食べてるから、大人の基準でも当てはまる。しかし、そのこととおなかの中で影響を受けたことは別問題ですよ。そしてむしろ、それに当てはまらん人の方が深刻なんです。環境庁が作った判断条件の中に、胎児性の世代は感覚障害がない場合があることははっきりと明記している。それなのに大人の基準を当てはめる。そこの矛盾をちゃんと指摘しなきゃいかん。

被害者の会が大和解した時、僕は一所懸命反対した。今から一〇年も二〇年も裁判するというのは、年を取った人はわかる。だけど、若い世代を大人の基準で判断すると軽く切られてしまう。僕はそこにちょっと異議が、異論があったわけです。あなたが知ってる患者で言うなら、和解したAさんなんて感覚障害証明できなかった。一応高校まで行ってるってことになってるでしょう。あの人の持っている重大な障害というのは見えていない。おそらくその世代にはAさんだけじゃなく、たくさんいるはずですよ。

永野: そうだと思います。生伊佐男先生という方が、第一次訴訟の時に袋小学校にいらして原告の聞き取りをしておられた。私も小学校の時に、二年間担任をして頂いて。当時、ボールを投げても取れなかったり朝礼で倒れる子どもが多くて、教員たちは、「なまけてる」「気合いがたりない」と叱っていた。今になって考えたら、あそこは患者家族だし、魚も沢山食べている。症状があっておかしくない、そこに気がつくべきだった、っていうのを反省していらっしゃって。

原田: 反省はね、僕もしないと。一九六二-三年頃、僕は一所懸命、湯堂、茂道で胎児性の調査をしてる。知能テストをやったら成績がものすごく悪い。それで、あの地区には知的障害がものすごく多いという結論で終わってる。データを見てみると、Bさんなんて成績がものすごく悪かった。つまり従来の知的障害とは違う。Cさんだって、あのするどいセンスは、漢字が書けないのにね。症状がものすごいちぐはぐ、でこぼこがあるわけです。

永野: 脳の中に一個抜け落ちているところがある、そういう意味ですか?

原田: そうそう。だから障害が見えにくいんですよ。実はものすごくまだらになってる。それを一所懸命、若い世代はみんな隠してきたわけですよ。Bさんが一般的な知的障害者かというとそんなことないわけでしょう。ただどっかにちぐはぐな障害があって、それをやっぱり隠しているわけですよ。

永野: 本人にとってはものすごい努力ですよね。

原田: そうなんですよ。だから、Aさんは高校まで行ってる。どこがおかしいってことになるんだけど、おかしいんですよ。

■水俣病を続けるメリット

永野: 何をするにも自分自身にメリットがないとなかなか続けていけないと思うんですが、原田さんが水俣病に関わり続けるメリットというのは。

原田: メリットもいろいろあって。物質的なメリットや精神的なメリット。僕の場合はやっぱり好奇心ですよ。どうなってるんだろうと。これは別に、水俣病だけじゃないんです。三池だって、カネミ油症だって同じ。三池炭じん爆発の場合も、すごいトラブルがある。患者たちが医師団に対してすごい不信感を持ってつるし上げる。すると大部分の医者が怒っちゃって、「俺たちは患者のために来たのに、なんでつるし上げられるんか、もう知ったこっちゃない」みたいなね。「うそばっかり言うし」と、解釈しちゃう。

ところが、僕は好奇心があった。「なんでこの人たちはこんなにひねくれてんだろう」って。だって「向こうに注射二本してこっちに一本した、差別だ」って言うわけですよ。「あっちは第二組合で、こっち第一組合」って。こっちは、誰がどっちかわからないでしょう。そうすると、普通の、大部分の医者はそこで怒っちゃった。「何だこいつら、一所懸命やってるのに」って。だけど僕は、逆に興味があった。

永野: 医者として、というより、人としての興味って感じですか。

原田: 医者としてよりも、そうかもしれんね。むしろ知りたいと思う。一所懸命聞いてみたら、三池の炭鉱労働者たちの、二分されて、差別されての惨憺たる歴史があった。その差別される先頭に誰が立っていたか。

実は医者ですよ。天領病院って大病院があって、調べてみたら病院の組織はなんとなんと人事課の一部分だった。つまり、医療が人事管理に使われていた。そんなことは、調べてみなきゃ分かんない。医者対患者が、当然対立する。その対立がガス爆発の後まで引っ張ってきた。こっちは何も知らんで行ったことが、医者は体制側と、簡単に決めつけられてひとくくりですよ。しかし、歴史を遡ってみると本当に差別されている。例えば、風邪ひいたからと普通の病院に行くと「三日休みなさい」って診断書をくれて、会社に出すと「三日もいらん、この診断書は通用せん。天領病院の、会社病院の診断書もらってこい」っていう。会社病院に行くと、「三日も休まんでよか、一日でいい」ってね。全てそういうこと。労災もみんなそう。それで、医者と患者の中にものすごい不信感があった。そこに爆発が起こる。そこまで遡って調べてみれば、彼らがなんでこんなにひがんでいるのかがわかる。

僕がそれを話せば、知らずに反発してた医者仲間だってそれはよく分かる。それで、熊大は四〇何年もずっと追跡したわけですよ。水俣病だってそうなんですよ。チョロチョロっと調査に来て、しかも、第三水俣病の時なんか、九大の黒岩義五郎教授なんかが講習をやるわけでしょ。あの人は水俣病を見たことない。講習受けた人からちょっと聞いたけど、いかに嘘を見破るかという講習をやってるんですよね。「感覚障害は本人が言ってるだけだから信用できない」とかね。僕はいつも、裁判なんかでも言うんだけど、本来、医者が感覚障害があると言う場合は自覚障害じゃない。検査圧を強くしたり弱くしたり、何回もやってみて、これが診断なんだ。ところが、「感覚障害というのは本人が言うだけだから信用できん」ちゅうことは、自分の専門性をもう放棄してる、専門家じゃないと言ってるのと同じですよ。患者の言ったことを鵜呑みにするのではなくて、その中からどうあるのかということを確認するのが専門家でしょ。だから、馬鹿げた話ですよ。

そんなことも含めて、なんでみんな、もっと水俣のことに関心を持たないのかと。変な話だけど、世界で一人者になろうとしたらオンリーワンかナンバーワンですよ。医学の世界でナンバーワンになるのはなかなか難しい。だけどオンリーワンっていうのは、人がせんことをすりゃなるわけですよ。水俣病なんて、あんまりみんなせんからね。だから水俣病を一生懸命やったら、これはすぐ世界的にオンリーワンですよ、有名だから。売名行為でも何でもいいんですよ、とにかくやってくれれば。そこの違いがね。

永野: 最後に水俣病患者は誰か、の結論を。

原田: 少なくとも私の考える水俣病というのは、汚染の時期に不知火海沿岸に住んでいて、魚介類を食べた人は全部被害者ですよ。理屈からいけば、本当は認定審査なんていうのはおかしな話ですよ。ある一定期間、一定時期に住んでた人たちは全部水俣病として処遇すべきですよ。その中で重症者とか軽症者とか、それに応じたランクをつけることはある程度は合理性があると思うんですね。ただ、こっからここはだめよとか、年代に線を引くことは不可能と思うんですね。

感覚障害での線も本当は引けないはずですよ。特に胎児性世代というのは、感覚障害がはっきりしない人がいるはずだから。それは環境庁自身が認めてるんだもん。じゃあ何を入れるか。それはやっぱり、いつどこに住んでたか、家族がどんな状況か、そういう状況証拠しかないでしょ。本来なら、例えば体の中から水銀を高濃度に検出すればそれが証拠ですよ。ところがそれをさぼったわけでしょ。おそらく今度の裁判なんかで、被告は「住所を調べたり、近所に患者が出てるかどうかは、それは間接的証拠じゃないか」と言うに決まってる。しかし間接的な証拠しかないようにしたのは誰かと。本当はそういうことせんでいいのよ。生まれた時に、ちゃんと調査したり計ったりしとけば、もめなかったんだけどね。それがないというのは患者の責任じゃないでしょ。

永野: こないだ相思社に来られた方が、「みんなあそこのスーパーの卵が安いわよ、お得よという感じで、救済措置の申請をする。それが嫌なのよね」っておっしゃった。でもよく考えたら、誰がどんな被害を受けたかなんて、今や誰にも分からなくなって、ここまできてしまった。だったら、その「お得よ」って感じでも、それで被害を受けた人たちが本当に助かるんだったら、それでいいじゃないかと思ったんですね。それは今まで行政が何もしてこなかったことの結果であって。

原田: 原爆手帳と同じでね、曝露受けていることは間違いないんだから、それが症状が出てるか出てないか、ひどいかどうかという差だから、かまわないんですよね。ただね、そうはいっても、構造が非常に複雑なの。

今手を挙げてる人たちは、かつて差別した側にいた人たちなの。自分たちが被害者って分からなかったわけです。だから患者を差別してきた歴史がある。現に、僕らはそれを見てきたからね。だから感情的にはどうしても納得できんとこもあるんだけど。ひどかったですよ、さっきの学校の先生じゃないけど、湯堂や茂道の患者や家族に対する差別って。差別した人たちが今手を挙げる。間違いなく彼らも被害者なんだ、被害者なんだけども気持ちは非常に複雑なのよ。でも患者を差別したけども、その彼らはよそに出て行くと差別を受けたわけですよ。そういう意味ではまた複雑。もちろん今手を挙げてる人たちも被害者であることには間違いない。

今、あなたが言ったように、水俣病特措法では地域指定かなんかしちゃって、当時住んでいた人たちには最低でも医療費だけは出さんとね。そんなんいちいち診察の必要ないんですよ。その中で、プラスアルファの人たちもあるわけだから、ランク付けていろいろやっていけばいいわけでね。そうすっと解決するわけですよ。大体どれくらいの費用がいるのかも、見通しがきく。みんな審査をして、どんだけ費用使ってますか。その費用を分けた方がいい。というのが、一方にはあってね。しかし一方では、かつて患者を差別した人たちが今被害者だって言って、わぁってやってるわけだからね。最初の患者さんたちの気持ちを思うと非常に複雑ですよね。それを僕は見てきてるからね。どこを原点にするかというと、それは僕はもう一次訴訟の人たちですよ。

永野: それが例えば原田さんとか、袋小学校の生伊佐男先生みたいに、差別していたんだと自覚したり、苦しかったんだって反省したりすればまた全然違うんですけどね。

原田: だから、僕はもやいなおしに反対してるんじゃないんだけど、加害者と被害者といた時ね、殴った方が反省して「反省をしている」と。で、殴られた方が「あなたたちがそがん反省しとるならね、仲直りしましょう」って、手を出すならわかる。でも、殴った方が「もう時間が経ったけん、水に流そう」って言ったって、それは、もやい直しにならないんですよ。本当のもやい直しっていうのは、被害者が手を差し伸べるような条件を作ることでしょ。それは日本と朝鮮との関係を見てもそうですよ。日本がいくら「仲直りしよう」って言ったって、駄目ですよ。殴られた方が、「日本がそれだけ一生懸命やってくれるんだったら、もう仲直りしましょう」って、向こうから手を出してくるなら話はわかる。本当のもやい直しですよ。

永野: そのもやい直しも、その言葉ができた時は、違ったと思うんです。それが一人歩きしていったり、それを利用して水俣病を終わらせようという方向に持って行くことは嫌です。

原田: それはもう、今まで何遍も歴史の中であったわけですよ。これで終わりとかね。市民大会開いて、水俣の再建のためにって。よく読んでみると、もう水俣病のことはもうこれで終わらせようということでしょ。病気した人が終わるわけないわけたいね。いろんなことがあってね。

■歴史に残す

永野: 水俣病は一つしかない、でもやっぱり、地域の人たちはまどわされてますよね。「本当の水俣病とそうじゃない水俣病がある」なんて話、よく聞きます。「手帳だけの人は本当じゃない」とか。

原田: 手帳にも何種類かあるからね。

永野: とらわれている、信じてる。やっぱり行政がやることは大きい、その通りだというふうに思ってしまう。

原田: だから、我々のすることは、大したことはできないんだけど、そういう流れに少しでも抵抗すると言うか。今度だって、あの大和解をしたけど、たった何人かの大阪の反乱軍のためにひっくりかえったんだから。世の中を動かすのは、僕は多数派じゃないと思うんですよ。だからね、水俣のあの九人が問題をずっと明らかにしていくんです。だからって言って、彼らが救われるかどうか、思うような判決が出るかというのはまた別問題。厳しいですよ。だけど、異議申し立てた人たちが少なくともいたっていうことは、歴史に残っていくじゃないですか。

永野: その人たちのことを証言としてずっと残していく。

原田: だから、裁判のメリットというのは、そういうことでしょう。ほんと、裁判で救われはせんもん。ただね、きちんと歴史に残っていくというね。

永野: 何もしなければ捨てられていきますもんね。忘れられてなかったことにされてしまいます。

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原発事故後の福島や、今の新型コロナウィルスをめぐる状況においても、インタビューの言葉の一つ一つが投げかける内容が様々な示唆を与えてくれているような気がしてならない。改めて、原田先生の遺されたものに敬意を表し、自分のこれからの行動に魂を込めていきたい。合掌。


2020年6月13日土曜日

「よりどりインドネシア」オンライン月例オフ会について



いつも「よりどりインドネシア」をご愛顧いただき、ありがとうございます。おかげさまで、2017年7月の発刊以来、3年が経過しようとしております。この間、毎月2回、休みなく発行できたのは、皆様のご支援によるものと深く感謝申し上げます。

2020年7月から4年目に入るこのタイミングで、今後、購読者の皆様を対象とした定例オフ会をオンラインで毎月開催したいと考えております。

定例オフ会では、その時々のホットな話題や執筆した作品をめぐるディスカッション、執筆者による生出演、その他の様々なインドネシア情報を含め、購読者の皆様と一緒に内容を色々考えていきたいと思っております。

記念すべき第1回オフ会を6月中にZOOMにて開催したいと考えております。現在、購読者の皆様へ日程について照会中です。来週には日程を確定できるものと思います。

このオフ会は、「よりどりインドネシア」購読者を対象としております。ご興味のある方は、是非、この機会にご購読いただければと思います。購読者は、このオフ会への参加はもちろん、過去71本のバックナンバーをお読みになることができます。

ご購読は以下のサイトより、ご登録いただけます。

あるいは、PDF版での送付をご希望の方は、松井(matsiu@matsui-glocal.com)までメールにてご連絡ください。

購読者の皆様と一緒に、楽しく面白い「よりどりインドネシア」のコミュニティを作っていければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

ゴロンタロ市南部の漁村で出会った子どもたち(2007年1月20日撮影)


2020年6月8日月曜日

よりどりインドネシア第71号を発行しました



毎月2回、いくつものインドネシアを伝えたいと思って発行している「よりどりインドネシア」。おおよそ毎月7日と22日に発行していますが、6月7日、第71号を発行しました。


カバー写真(上)は、南スラウェシ州の農村でキャッサバを茹でているおばさんです。茹でたキャッサバを発酵させたタペという食品を作り、マカッサルへ売りに行きます。

「よりどりインドネシア」第71号の内容は、以下の通りです。

●スラバヤの東南アジア最大の売春街は今 ~中小企業センターへの変貌~(松井和久)
松井の原稿はコロナ関連を一休みし、閉鎖されたスラバヤの元売春街ドリーを変え始めた活動について紹介しました。東南アジア最大規模だったドリーはどうなるのでしょうか。

●ロンボクだより(32):ジン(精霊)と信仰(岡本みどり)
岡本さんの連載はジン(精霊)のお話です。果たして、ジンはイスラムの信仰とどのような関係でロンボクの人々に捉えられているのか。興味津々です。

●ラサ・サヤン(5)~姪たち~(石川礼子)
石川さんのラササヤンは今回も読み応えある内容になりました。石川さんの姪に対する眼差しに思わずホロリとしてしまいそうです。

●いんどねしあ風土記(17):あるイスラム教徒からみた新型コロナウィルス感染流行 〜ジャカルタ首都特別州~(横山裕一)
横山さんの連載は、イスラム教徒がイスラムの観点から新型コロナウィルス感染をどのように見ているのかを明らかにしています。納得できる面も感じられます。

上記のサイトから読者登録をしていただくことで、お読みいただけるようになります(有料購読となりますが、最初の1ヵ月は無料期間です)。

また、サイトからの読者登録以外に、同じ内容をPDF版にしたものを指定メールアドレスへ毎回送付する、という方法もあります。PDF版での送付をご希望の方は、お手数ですが、メールにて matsui@matsui-glocal.com までお知らせください。

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今回は、よりどりインドネシアの発行の裏話を少ししたいと思います。

いつものことなのですが、常連執筆者の皆さんから原稿をいただき、それを読みながら、体裁を整え、誤字・脱字等をチェックし、写真のサイズを調整するなどして原稿を編集。編集済みの原稿をいったん執筆者へお返しして再チェックしてもらい、必要であれば、加筆修正をしてもらい、最終稿を受け取ります。

最終稿を受け取った後、どこまでを無料部分にするかを判断したうえで、パブリッシャーズという雑誌掲載サイトにアップします。

この作業と並行して、私自身の原稿を書いていきます。毎月2本、何かを必ず書くという作業は、これまでにもありました。かつて、インドネシアに住んでいたときには、NNA(ニュースネットアジア)という媒体に「インドネシア政経ウォッチ」というコラムを月2回、全部で150本書きました。それでも、時によっては、題材を探すのが難しく、ギリギリまで何を書くかが決まらないこともたびたびでした。

それでも、何かを書かなければいけない、と自分に課して、何とか書いてきました。その時々によって、自分なりに出来栄えがよいときとあまりよくないときがありますが、自分で納得できるレベルはキープしたいと努めてきました。かつて、論文執筆を生業としてきたときのような厳密さや論理性を追求し、何度も数え切れないほど推敲するといったプロセスを経ておらず、限られた時間で、一般の方々向けに書くという作業なので、論文とは別物という意識で原稿を作成しているのが現状です。

このところ、ずっと新型コロナウィルス感染のことを書いてきていたので、今号についてはどうするか考えているうちに、今回は一回休みにして、前々から書こうと思っていた、スラバヤの元売春街の話を書くことにしました。

こうして、私の原稿を書き上げて、それをパブリッシャーズへアップした後、すべての原稿をまとめて、PDF版を作成します。その際、ページ送りなどの最終チェックをします。そして、PDF版での購読をしていただいている方々のメールアドレス宛にPDF版を送って、ようやく発行作業は終了です。

一連の作業をしながら、自分は編集の作業が好きなのだなあとつくづく思います。昔の職場でも、印刷所へ原稿を渡す前に、編集や校正の作業をするのが楽しかったことを思い出します。

そうはいっても、発行直前の数日は、何時間も集中して机に向かっているため、まあ年齢的な面もあるのかもしれませんが、けっこう疲労困憊になります。

そんな時間を毎月2回、経験するようになって、次回の第72号で3年目を終えます。7月からは4年目に入ります。

3周年を迎えるのを契機に、購読されている方々向けのオンラインでのオフ会や、特定のテーマを決めたウェビナーの開催を検討しています。詳細が固まりましたら、またこのブログ等を通じて、皆さんにお知らせしたいと思います。

引き続き、よろしくお願いいたします。


2020年6月6日土曜日

あるツイートについてインドネシア語で訊いてみた



先週末、ツイッターであるツイートが多くの人々に取り上げられてバズっていた。それは、ある大学での試験で、インドネシア=日本関係に関する文章が示され、それを要約させる問題だった。

ツイート主は、その問題を自分の子どもから見せられ、文章の内容が事実と異なると批判し、その問題を出した大学の先生を糾弾する内容だった。そして、ツイート主の見解を支持し、試験に出された問題の内容と大学の先生を批判するツイートが数え切れないほど連なっていった。

参考までに、そのツイートへのリンクを貼っておく。


一応、インドネシアについて長年研究してきた人間として、この事件を無視することはできないと考えた。ツイートの話の前に、試験問題について若干コメントしておく。

このような内容の試験問題を出した意図は理解できるし、学生に何を求めているかも理解できる。ただし、要約というのは個人的にあまり好ましくなかったという気がする。要約ということは、問題の文章の内容をそのまま受け止めさせることを意味する。先生の意見を押し付けられたかのような感覚を学生が持ってしまう可能性は否定できない。

私ならば、学生に自分の意見を書かせる。それを書かせるために、どんな本でもインターネットでも参考にしてかまわない「持込可」としつつ、意見を書くにあたって参考にした文献などの出所をすべて書かせる。学生がどのようなソースから自分の意見を形成しているのかという傾向を把握することを重視したいと思う。

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それはともかく、ツイートの流れを見ていきながら、日本でのインドネシアに対するある一定の見方のオンパレードで、その歴史観を正しいと信じている人々が確実に存在することを改めて確認できたと思う。

その見方というのは、(1) 日本のおかげでインドネシアは植民地から解放され独立できた。(2) 日本の3年半の統治はインドネシアにとって有益であり、オランダ植民地支配より過酷だったことはない。(3) インドネシアが日本に恩を感じており、だから親日なのだ、というようなものである。この見方に立てば、日本の占領統治がオランダ植民地時代より過酷だったとか、日本軍が残虐行為を行ったとかいうのは誤りで、そうした間違った言説を唱える者は反日思想で子供たちを洗脳しようとしている、という主張になる。

私自身は、この見方も含めて、インドネシア=日本関係の歴史については、様々な見方が存在することを了解している。それは日本人の間でもそうであるし、インドネシア人の間でも様々な見方がある。その多くは、個人的な経験や近しい人々から聞いた話が元になっており、どれが正しくてどれが間違っていると一様に結論付けられるものではない。インドネシアの学校で使われる歴史教科書の記述だって、本当に正しいかどうかは疑問である。もちろん、同様に、先に上げた「日本はすばらしい。だからインドネシアは親日なのだ」という見方が正しいかどうかも疑問である。

「日本はすばらしい。だからインドネシアは親日なのだ」という見方が日本社会で一定の支持を受けていることを、インドネシアの人々は知っているのだろうか、という疑問が湧き上がってきた。彼らの一部は、先の試験問題が偏向していて、「日本とインドネシアとの友好関係にマイナスだ」と日本にあるインドネシア大使館・総領事館へ問い合わせるとまで言っているのだから。まあ、それに対してどう回答がなされそうかは、何となく想像がつく。

というわけで、私の英語・インドネシア語ブログ「Glocal Diary for Local-to-Local」のなかで、インドネシア語でこの話を書き、彼らの反応を見ることにした。6月3日に投稿して、今日(6/6)までに110回のアクセスがあった。

ブログの原文については、以下のサイトを参照してほしい。


このブログのリンクは私のfacebookページにも貼ったので、インドネシア人の友人たちからのコメントは主にFacebook上に寄せられた。そのリンクも以下に貼っておく。


コメントには、様々な意見が寄せられた。その多くは、自分の親や家族から聞いた話だった。彼らは、インドネシアの教科書で、日本軍政の過酷さやインドネシア側から見た独立正史を学んでいる。そのうえで、日本軍政にプラスの面とマイナスの面があったという者、日本軍政でも陸軍と海軍は違うのではないかという者、昔と今の日本は違うという者、など、冷静でバランスのとれたコメントが並んでいた。

なかには日本語をよく理解できる友人もいて、彼はツイートを「すべて読んだ」と言ってきた。彼はそれについての直接のコメントは差し控えたが、私が英語・インドネシア語ブログに書いたことを日本語でも書いて日本人にも伝えるべきではないか、とコメントした。

まだこの後も、インドネシア人の友人たちからコメントが届くと思うが、彼らからは、先の「日本はすばらしい。だからインドネシアは親日なのだ」という見方への直接の反論・批判は今のところ出されていない。ただ、彼らがその見方と同じだとも断言できない。賛成とも反対とも言っていないのだから。大事なことは、そのような見方が日本にはけっこうあるということを彼らに分かってもらうことなのだと思う。

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先のツイートへの私なりのわだかまりについて、最後に述べておきたい。

第1に、自分たちの見方が正しくて、そうでないものは間違っている、とすることは賢明ではない。歴史で何が正しいかは、誰がどう関わったかによって異なる。教科書に書かれていることだって本当にすべて正しいかどうかは疑わしい。

第2に、彼らの依拠している情報ソースは、日本人が日本語で書いたものやインターネット情報が主であり、インドネシア語のものやインドネシア人の研究成果などにはほとんど触れられていない。インドネシア人がこう言っているというのは、すべて日本人が日本語で書いたもののなかにあり、書いた日本人の立場や意図を考えないわけにはいかない。

第3に、様々な見解が存在しうる歴史をただ一つの見解が正しいと決めつけ、その情報ソースもきちんと確認せずに、その見解と異なる見解を糾弾し、排除しようとする行為は、言いがかり以外の何物でもない。もし批判するならば、実名を名乗り、情報ソースを明示して、きちんと議論すべきである。

最初は、あのようなツイートを相手にする必要はないかと思っていた。しかし、そのツイートに1万を超える「いいね」がついている現実を見たときに、これはインドネシア人の友人たちにもこの状況を伝える必要があると感じたのである。

もしかすると、インドネシア側から見たら、「日本はすばらしい。だからインドネシアは親日なのだ」という見方に内心ではカチンと来るかもしれない、と想像できる。インドネシアは、自分たちで独立を勝ち取ったと信じているかもしれないし、そう思っているのが普通だからである。

私も、インドネシアで出会った様々な方々からそれぞれの日本との関わりや戦争のときの話を聞いてきた。インドネシアと言えども、場所によって、状況は様々だったはずである。おそらく、内心には色々な思いを持ちながらも、私に気持ちよく話してくれる人たちを大事にしたいと思う。そうしているうちに、彼らとの間で、インドネシアとか日本とかということが、いつの間にか溶けてなくなっていくのを感じるのである。

東京を訪れたインドネシアの高校生たちをサンシャインへ案内
(2019年3月19日)