2020年12月30日水曜日

年末年始に東京から帰省しないということは・・・

2020年12月30日、例年と同じく、この日は正月関連の食材を妻と一緒に買いまわる日である。

いつもだいたい、買い物に行くところは決まっていて、伊達巻と蒲鉾はあそこ、年越しそばと天ぷらはここ、正月3が日におせち以外で食べるための食材はあれとこれをあそこで、といくつかのスーパー、店、デパ地下などをめぐる。

今年はちょっと様子が違っていた。

いつも行くスーパーでいつものように買い物をし、レジに並ぼうと思ったら、一番奥の精肉売り場まで行列が続いているのである。なにこれ、どうして今年はこんなに行列が長いの?

その長さは、インドネシアの大きなスーパーで、手際が悪く、値段や品物を確認するためにレジを離れ、持ち場から何分間もいなくなってしまうレジ係のおかげで、延々と並び続けていなければならない、あの状況に匹敵するものだった。

とはいっても、東京のスーパーのレジ係は職人芸で手際が良く、行列に並んでも、確実に前へ進んでいく。このスーパーでは、レジ係が二人いて、一人がレジを打ち、もう一人は持参したマイバッグに品物を入れてくれる。魚などの生鮮品だと、ドライアイスを持ってきてくれて入れてくれる。

ともかく、年末年始に東京から帰省しないということは、こういう状況が起こるということなのだ。

新型コロナ感染者数が増え続ける東京で、その様子は、傍から見ればまさに「密」である。でも、買い物用カートンのおかげで、前後の客とのソーシャルディスタンスが確保できている。不気味なぐらいだが、行列に並んでいる人々は全員マスクをしており、かつ、誰も話をしない。飛沫はほぼ飛んでいないと思われる。

スーパーからの帰り、妻と一緒に、赤く染まる空を大通りの交差点から眺めていた。昔、冬になると、ここから富士山が見えたのだという。

ここから下っていく坂は、富士見坂という。今や、ビル群が建ってしまい、富士山の稜線の一部しか見ることができない。

2020年12月26日土曜日

大好きな洋食屋さんでささやかな夕食 [2020/12/25]

自宅から歩いていける距離に大好きな洋食屋さん「フランス亭」がある。

コック帽をかぶったおじさんと話好きのおばさんで切り盛りしている、町の小さな洋食屋さん。時々、無性に行きたくなる洋食屋さんなのだ。

昨日(12/25)は、妻と池袋で用事を済ませた後、一緒にお邪魔した。常連さんたちで混み始める時間より早めに、午後6時半前に行ったら、誰も来ていなかった。

私はビーフシチュー入りの洋食弁当Cを、妻はマカロニグラタンを注文した。洋食弁当Cには、大ぶりのエビフライも2本入っている。でも、絶品なのは、ニンジンのグラッセなのだ。


妻には、エビフライ1本、ビーフシチューのビーフの塊1個、ニンジンのグラッセ1個を提供し、マカロニグラタン少々と物々交換した。


まだ子どもの頃、グラタンという名前は知っていたが、東京へ出てくるまでに食べたことはなかったと記憶している。ここのグラタン、本当に愛すべき美味しさなのだ。

町の洋食屋さんでのささやかな夕食。これから、この店へ来る1回1回が大切な思い出になっていくような気がする。次回は、チキンピカタを食べに来る予定だ。

2020年12月21日月曜日

門松が立った [2020/12/19]

2020年12月19日、我が家の門の前に早々と門松が立った。まだクリスマス前なのだが・・・。


毎年、今頃になると、昔から知り合いの鳶のHさんが「門松を立てるからね」と言ってやってきて、立ててくれていた。昨年は、ちょうど、新しい自宅が建設中で、外構と門ができていなかったので、簡易的な門のところに小さな門松を立てた(下写真)。

今年は、外構や門をつくるときに、門の前に、門松を立てるための穴を2つあけてもらった。そこに今回、門松を立ててもらったのである(下写真)。

妻によると、今年は、Hさんの息子さんが来て、門松を立ててくれたそうだ。昨年のに比べたら、段違いに立派な門松になった。

我が家の周辺では、こんな門松を立てている家は見かけない。我が家を除いて、ほとんどがアパートやマンションになっている。我が家は山手線の北側だが、南側へ行くと、商店街では、昔からの店が門松を立てている。

家は新しくなったが、門松は、これまで通り、まだ残っている。そんな我が家である。

新しい家はできたのだが、我々はまだ古い家に居て、同じ敷地内に立っていることをいいことに、のんびりとそのうち引っ越しすることになるのだろう。

2020年12月18日金曜日

ときどき昔ばなし(1):ジャカルタ初赴任前

インドネシアと付き合って35年が経つ。最初に赴任したのは、首都ジャカルタ2年間だった。研究所の海外派遣員として、国立インドネシア大学大学院に入った。

入学試験は日本では受けられなかった。入学試験を受けるために有休をとってジャカルタへ飛び、インドネシア人の皆さんと机を並べて、2日間、6科目の記述式試験を受けた。

なぜ、インドネシアで大学院生になったのか。当時は1990年、スハルト政権の絶頂期である。研究者用の調査ビザを取るのはとても難しかった。今でこそ、数ヵ月でとれる(という話の)調査ビザだが、当時は半年かかるか1年かかるか、出ないか、全く予想がつかなかった。とくに、政治社会関係の調査を行うための調査ビザはほとんど出ないと言われていた。

それで、学生ビザにしたのである。学部卒で研究所に入ったので、インドネシア大学大学院で修士課程に入った。

**********

当初は、国連が資金を出して開設する人口・労働特設コースに入るつもりだった。インドネシアの学卒労働市場を研究テーマにしていたからである。そして、同コースを所管するインドネシア大学人口問題研究所に入り浸る、という計画だった。

しかし、待てど暮らせど、人口・労働コースが開設されるという話が聞こえてこない。当時、ジャカルタ駐在の海外調査員の大先輩が情報を集めてくださっていた。そしてとうとう、人口・労働特設コースを諦めて通常の経済学研究科に入るように勧められた。

人口・労働特設コースならば試験がなさそうだったのだが、経済学研究科だと試験を受けなければならない、という。科目は、もう、うろ覚えだが、小論文、英語、経済数学、統計学、ミクロ経済学、マクロ経済学だったと思う。そして、試験はジャカルタへ出向いて受けなければならなかった。

研究所に「試験を受けるためのジャカルタ行きを出張扱いにできないか」と懇願したが、「落ちたらどうする?」と言われて拒否された。やむなく、有給休暇をとり、自腹でジャカルタへ飛んだ。

**********

経済学研究科の試験問題はもちろん、すべてインドネシア語だった。受験会場の教室には、おそらく40~50人ぐらいの受験生がいたと思う。私は、インドネシア語を学び始めて5年ぐらいだったが、無謀にも、インドネシア語で答案を書いた。正しいインドネシア語かどうか分からないが、とにかく書いて書いて書きまくった。今にして思うと、よくもまあ、そんなことをしたものだとあきれてしまう。

すべての科目で、他の受験生は皆、試験時間が終わる前にどんどん出ていってしまう。いつも最後まで残っているのは自分だけだった。ミクロ経済学もマクロ経済学も、2時間の試験時間なのに、皆んな1時間ぐらいで出ていってしまう。すごく優秀なのだ、と思った。2時間ギリギリまで居残って試験問題と格闘している自分を、試験監督の女性が「早く終わってくんないかな」という目つきで見ていたのを思い出す。

経済学理論だって分かっているわけではない。インドネシア語だってできるわけではない。試験問題をちゃんと理解して解答したのかどうかも、実は定かではなかった。でも、とにかく参加はした。研究所の上司が「落ちたらどうする?」といった言葉が急に現実的なものに感じたものだった。

もう、後は野となれ山となれ。元々、経済学研究科ではなくて人口・労働特設コースへ行きたかったのだ。しかたなくて経済学研究科を受けなければならなかっただけだ。落ちたら、そのときまた考えるしかない。研究所をクビになるわけでもなかろうし・・・。

帰国前に、シンガポールに寄って、シンガポール駐在の別の大先輩に1日お付き合いしていただいて、美味しいものを食べさせていただいて、シンガポールを堪能して、すっきりして、帰国した。

しばらくして、合格、という知らせを聞いた。実力で試験結果がよかったからではないだろう。ジャカルタ駐在の大先輩が、特別にお願いし、日本人だからということで合格にしてくれたのだろう、と自分は冷めていた。おそらく、研究所とインドネシア大学との良好な関係に資するためだったのだろう。

ともかく、というわけで、ジャカルタでの滞在が決まった。

(ときどき思い出して書きたくなったらいつか書く昔ばなし、つづく)

2020年12月16日水曜日

恋しいが嬉しいに変わっていく、FACEBOOKのおかげ [2020/12/16]

今日(12/16)の朝、自分のFACEBOOKページに、以前、インドネシアに住んでいたときの場所の名前と「恋しい」という言葉をずらずらとインドネシア語で書いて投稿した。

こんなふうに・・・。

Rindu Rawamangun. Rindu Jalan Lombok. Rindu Daeng Tompo. Rindu Perintis Kemerdekaan. Rindu Gunung Batu Putih. Rindu Duku Kupang Barat. Rindu semua.

Apple Musicが勝手に集めてくれる「オール・タイム・インドネシアン・ヒッツ」というのをエンドレスで聴いていた。知らない曲もある。昔、よく聴いた曲もある。聴いているうちに、無性に、昔住んでいたインドネシアの場所が恋しくて恋しくてしかたなくなった。

それをFACEBOOKに投稿したら、思いもかけず、たくさんのインドネシア人の友人がコメントを寄せてくれた。そのコメントの一つ一つが、嬉しかった。愛おしかった。コメントを寄せてくれた友人との個々の思い出がよみがえってきた。

2007年10月3日、マカッサルの我が家前に仲間が建てた東屋にて。
この日は中スラウェシ州ドンガラ県在住の環境活動家ヘダール氏(故人)を招いての
意見交換会だった。ヘダール氏からは、焼畑と山の人々の暮らしについて多くのことを学んだ。

FACEBOOKを始めたのは、マカッサルに住んでいた2007年頃だったと思う。マカッサルの友人・知人・仲間たちとやり取りするために始めた。その頃、日本ではまだFACEBOOKはあまり流行っていなくて、ほとんどすべての投稿はインドネシア語だった。

10年も20年も音信のなかったインドネシア人の友人たちとつながることができ、今でも彼らと好きなときにやり取りできている。また、講演会やイベントで顔を合わせただけの大学生たちもたくさん友達申請してきて、私が彼らのことを覚えていなくても、彼らは私のことを覚えていてくれた。

インドネシアには何度か長期滞在した。30年前、研究所の海外派遣員だったときは、2年の任期が終わったら帰るので、お世話になった東ジャカルタ・ラワマングンの下宿を除いて、インドネシアは調査研究の単なる対象という認識だった。帰国した後は、ほとんどのインドネシア人の知り合いとの関係は切れた。インドネシア滞在中の今からすれば恥ずかしい行為も、誰にも知られないから、記憶から消し去ることができた。

それが変わったのは、25年前に家族3人でマカッサルに住んでからだ。JICA専門家のときだった。付き合いがずっと濃密になった。毎日毎日、たくさんの方々と議論・情報交換した。マカッサルでの反華人暴動のときも、通貨危機でモノが市中になくなったときも、たくさんの方々に助けてもらい、私たちもできる限り、お世話になっているお手伝いや運転手や様々な人を必死で助けた。

JICA専門家の任期が終わるとき、知り合った方々と一生付き合っていく、と決心した。それをスラウェシと一生付き合っていく、という言葉で表現した。

帰国後も、インターネットの電子メールでやり取りできた。でも、送ってもなかなか返信が来なかった。また、離れていってしまうのか、と思った。

2006年にふたたびマカッサルに単身赴任。縁あって、友人の一族の本家である2階建ての大きな家をまるごと借りた。はてどうしようか、と思ったときに、ひらめいた。マカッサルの地元の若者たちの活動スペースとして提供しよう、と。私は1階の後ろ半分に住み、残りは彼らに使ってもらう。

そうして、彼らのNGOのオフィス、自分たちで運営する図書館、映画上映などのイベントやセミナーを行うスペース、そしてカフェのある東屋までできた。マカッサルでは有名なパブリックスペースになった。

そのときなのだ、FACEBOOKを彼らと始めたのは・・・。

今はもう、そのスペースはマカッサルにはない。彼らが自分でもう少し小さいスペースを作って、それぞれに活動している。そして、それに加えて、インドネシアの有名な映画監督であるリリ・レザやメルボルン在住の小説家のリリ・ユリアンティと知り合い、リリ・レザの実家をリノベして、ルマタ(Ruma'ta、「あなたの家」という意味)というパブリックスペースができた。私もささやかながら協力した。

あのときから始めたFACEBOOK、今も時空を超えて、インドネシアで知り合った大切な友人たちとつながっている。住所や電話番号を探す必要はない。常にやり取りする必要もない。好きなときに「元気~?」と声をかければ、「元気だよ~」と返ってくる。

そんな束縛もストレスもない、ただつながっているという関係がFACEBOOKで作られた。そして今も、「恋しい」という私の発信に対して、返信してくれる友人たちがメッセージを送ってきてくれている。

そう、インドネシアはもう、自分とは不可分。でも、彼らの恩にまだ何も返していないに等しい。誠意をもって一つ一つ丁寧に対応していければなあ、と思う。

恋しい、が、嬉しい、に変わっていく。


Googleが突然動かなくなった夜

2020年12月15日火曜日

Googleが突然動かなくなった夜 [2020/12/14]

12月14日夜9時過ぎ、突然Googleが動かなくなって、慌てた。そして改めて、インターネットを使う日常がいかにGoogleに依存していたかを感じ入った。

最初は、自分のGmailアドレスがハックされたのかと思った。例の「アカウント1つですべての google サービスを」という表記が現れて、Gmailアドレスを入れるように求めてくる。そこでアドレスを入れると、「そのアドレスはGoogleには存在しない」と出てくる。なんどやっても同じ。「アカウント1つですべての google サービスを」という表記がなくならない。

一度パソコンの電源を切って、再度立ち上げても同じ。これは、パソコンがウィルスにやられたか、と思った。そのうち、iPadのNewsPicksで、Googleが障害を起こしているという情報が流れてきた。

Googleといえば、このブログも、GoogleのBloggerを使って書いている。今日は書けないか、せっかく昨日から書き始めたのに、と思って、午後11時半すぎに立ち上げてみたら、幸いなことに、Googleは復旧していた。よって、こうして今、ブログを書けている。

ツイッターを見ていたら、野口悠紀雄氏が、Googleが何億人という人々に無料でサービスを提供し、これまでほとんどずっと何百億ものやり取りを事故なく実現してきたことへの驚嘆をつぶやいていた。それをGoogleという民間企業が世界大で実現していることを考えると、まさに驚嘆に値するではないか。

そうであっても、一つのものに依存するリスクはやはりあるものだ、ということを思い知った。Googleに依存するインターネット生活も、再考していくことが必要だ。さしあたって、このブログを独自ドメインのサイトに移すほうが良いのでは、とも思った。どうするか、少し考えてみることにする。

12月12日には小石川植物園で紅葉狩りを楽しんだが、12月14日の朝、我が家の紅葉も美しく光っていた。


恋しいが嬉しいに変わっていく、FACEBOOKのおかげ

小石川植物園で紅葉狩りの後、如水会館へ

2020年12月13日日曜日

小石川植物園で紅葉狩りの後、如水会館へ [2020/12/12]

1カ月近くブログを書かないでいたが、これからまた、少しずつでも日記として書いてみたい。途中でしばし途切れるかもしれないが、ご容赦のほどを。

12月12日(土)、今年はこれまで、なかなか紅葉を見に行けなかったので、妻と一緒に、小石川植物園へ出かけた。入場料は500円に値上がっていたが、来場者もさほど多くなく、ゆっくりと紅葉狩りを楽しむことができた。

午後4時半の閉園ギリギリまで楽しんで、小石川植物園を出て、白山を上って降りて、都営地下鉄三田線の白山駅まで歩く。ここで、帰宅する妻と別れて、私は神保町へ。

半年に一度、如水会館で開かれる、一橋大学竹内記念フォーラムに出席。このフォーラムは、かつて日本地理学会会長やイタリア日本文化会館館長を務めた、故・竹内啓一教授の教えを受けた一橋大学ゼミ(社会地理学研究室)卒業生が自主的に集まって行う一種の勉強会である。

新型コロナ感染防止対策ということで、マスク着用のまま如水会館に入館して手指消毒、体温測定後、会場に入室。毎回、ビール付きで夕食のお弁当が出るのだが、今回は、マスクを外してお弁当を食べる間は無言で、という約束。ビールはなし。美味しいお弁当を味わう暇もなく、無言で黙々と食べて、食べ終わったら再開、という形だった。

今回は、帝京大学経済学部の山本健兒教授がミュンヘンの事例を取り上げ、「ドイツの大都市における『問題街区』のリノベーションはジェントリフィケーションか」という題で発表された。山本氏のミュンヘンでの滞在経験を踏まえて、「問題街区」の住宅修繕は、住民の階層が全面的に入れ替わらなかったという意味において、ジェントリフィケーションとは言えない、というお話だった。

昨今、このジェントリフィケーションという言葉が、階層間の入れ替えがない場合でも使われる場合があり、定義を厳密にして議論する必要がある、と力説しておられた。

山本氏の話を拝聴しながら、ジャカルタとスラバヤの都市開発の違いを思い起こしていた。ジャカルタでは、旧住民を立ち退かせて再開発し、高所得者向けのアパート群やショッピングセンターが次々と建設され、街区の様相が一変した場所が多数存在する。一方、スラバヤでは、1970年代頃からカンプン改善プロジェクトの名の下に、都市中心部のコミュニティを残したままま、そのコミュニティの住環境を改善していく手法を採ってきた。

ジャカルタでは、旧住民の居住空間が周縁に追いやられたものの、面としての開発が可能になったため、近代都市としての機能がより発揮できるようになった。

一方、スラバヤでは、都市中心部の再開発が難しいまま都市化が進むと同時に、都市中心部のコミュニティの所得が向上してくると、次世代を中心にスラバヤ郊外へ移る傾向が強まり、彼らが移った後の旧コニュニティにはよそ者が入り込み、空間価値が高まらないままになる、という、ある意味でカンプン改善プロジェクトの弊害ともいえる現象が起こっている。

入れ替わった階層による居住者階層の高度化を伴うジェントリフィケーションは、都市計画者から見れば、都市としての機能や空間価値・不動産価値を高めるという意味でプラスの評価になるのだろう。他方、旧居住者の立場からすれば、不当に居住空間を奪われてしまうのであれば、人権上の観点から、ジェントリフィケーションは避けるべきものと考えられるだろう。

ジェントリフィケーションをどのようなタイムスパンで見るかも重要になってくるだろう。インドネシアを含む、新興国と言われる国々の都市問題を考えていくうえで、現在進行中ともいえるジェントリフィケーションは、旧市街リノベーションなどとともに、注意深く見ていく必要のある現象だと思った。


Googleが突然動かなくなった夜

中スラウェシ州のある親友の訃報

2020年11月17日火曜日

中スラウェシ州のある親友の訃報


今年の酉の市はいつもと全然違った


昨日(11/16)、友人のフェイスブック・ページに昨年、インドネシアの中スラウェシ州パルで久々に再会した仲間たちとの写真が掲載されていました。

フェイスブックには1年前の写真などがよく掲載されるので、きっとそれかと思ったのですが、たしか彼らと会ったのは、中スラウェシでの震災(地震、津波、液状化)から1年経った10月2日だったはず。日にちが合わないなあ、と思って、ポスティングを読んでいたら、お悔やみの言葉がたくさん並んでいます。

誰が亡くなったのだろう。ポスティングからは誰なのかが分からず、その時に会った何人かのフェイスブック・ページをたどっていきました。そして・・・

あの時の再会の宴を作ってくれた、25年来の親友S氏が亡くなったことを知りました。

しかも、亡くなったのは、10月末。2週間以上も知らずにいたのです。

すぐに、別の友人I氏に尋ねたところ、様子を知らせてくれました。S氏はサイクリングが趣味のスポーツマンでしたが、体調不良のため、病院に行ったところ、胃炎と診断されました。しかしその後、新型コロナウィルス検査で陽性であることが判明、亡くなってしまったということでした。

家族に見送られることもなく、たった一人で旅立ってしまったのであろう彼。

彼との最初の出会いは、たしか、JICA専門家でマカッサルにいたとき、地域開発政策アドバイザーとして定期的にスラウェシ各州を回っていたときでした。

S氏は中スラウェシ州開発企画局の職員で、中スラウェシ州の開発計画・戦略に関していろいろ議論する重要なパートナーでした。そして、仕事が終わると、よく一緒に食事をしながら、様々な話をしました。

しばらくコンタクトは遠のいていましたが、フェイスブックでいつでもコンタクトできるという安心感がありました。

そんな中、2018年9月末に中スラウェシ州を襲った大震災。すぐにWAでS氏に連絡を入れました。彼以外の友人たちにも安否を尋ねるWAを送り、数日内にほとんどから無事を知らせる返信が届いたのに、S氏からは何の返事もありません。

しばらく経って、ようやく彼から返信があり、家が壊れるなどの被害はあったものの、無事であることが確認できました。

それから1年後、たまたま縁があり、震災1周年を現地・パル市で迎えました。そして、思い切ってS氏に連絡し、仲間を集めて「同窓会」をしようという話になりました。

いつものことですが、約束の時間に決められた場所に出向いたのですが、誰一人来ていません。30分ぐらい遅れて、ようやく一人二人と現れ、結局、店の閉店間際まで一緒に再会を喜び合いました。


彼らと会ったのは、もう10年ぶり以上ではなかったかと思います。でも、すぐに以前と同じ雰囲気になりました。中には、中スラウェシ州社会局長まで出世した友人もいます。S氏も、州開発企画局経済部長(局長のすぐ下)まで出世していました。

1年前、パルでみんなと会えてよかった、S氏と会えていて本当によかった、と思いました。

温厚で誰にでも優しく、ユーモアに富んだ、ゆる〜いキャラだったS氏。

まだまだ一緒に、中スラウェシ州の未来を語り合い、次の世代の活躍を見守りたかった・・・

中スラウェシの大事な親友の一人の突然の旅立ちに、言いようのない悲しさと彼との出会いへの感謝の気持ちが入り混じっています。深く深く故人の冥福をお祈りいたします。

今度パルへ行ったら、墓前でしばしゆるりと語り合いたい・・・


今年の酉の市はいつもと全然違った


2020年11月2日月曜日

今年の酉の市はいつもと全然違った

中スラウェシ州のある親友の訃報

東京の都心の庭のある我が家でご一緒しませんか


2020年11月2日、天気のよかった土日にこもって作業していた資料作成が終わったので、妻と一緒に巣鴨の大鳥神社へ行きました。今日は酉の市の一の酉。毎年、妻と一緒に出かけるのですが、今年の酉の市は、いつもとは全然違うものでした。

酉の市には、前年に購入した、縁起物の熊手を持って大鳥神社へお詣りし、古い熊手を放して、向こう一年の商売繁盛と家内安全を願って、新しい熊手を購入します。今回も、自宅用と会社用の熊手を一つずつ購入しました。下の写真は、会社用に購入した、おかめ付きの小さな熊手です。


巣鴨駅から大鳥神社へ。いつもならば、神社前の通りにずらっと並ぶ露店が全く出ていません。

大鳥神社の入口。いつもなら、訪問客でいっぱいですが、今日は数人のみ。入口で消毒液を手にかけてもらった後、並ばずに、直接、お社の前まで進みました。足元には、間隔をあけるための線が引かれていました。


お社から門のほうを振り返っても、人はいません。


考えてみれば、熊手を毎年購入するのはいつものなじみ客で、なじみ客には熊手を直接送っているのでしょうね。なじみ客でなく、ふらっと訪れて熊手を求める人は少ないはずです。ただ、たくさんの熊手の前で、熊手を購入したなじみ客に拍手や掛け声がかかる、いつもの光景が見られないのは、なんだか不思議な感じがします。

お詣りした後、甘酒などを出す休憩所はもちろん設けられておらず、トイレも使用禁止でした。お詣りしたら、すぐに帰るほかはありません。


露店は出ません、との掲示もありました。

我々の酉の市のお楽しみの一つは、大鳥神社前の通りの小さなパン屋さんが出すケーキ・ドーナッツ。揚げたてを買って、大鳥神社近くの公園でアツアツのを食べてから自宅へ帰る、というのが定番でした。今年は、14日の二の酉に予約客に対してセサミ・ドーナッツは出すようですが、ケーキ・ドーナッツを出す予定はないようです。残念。

もう一つのお楽しみは、そのパン屋の斜め前にある肉屋のメンチカツとコロッケ。手持ち無沙汰な店のご夫婦にお願いして、買って帰りました。

2020年10月26日月曜日

東京の都心の庭のある我が家でご一緒しませんか

今年の酉の市はいつもと全然違った

インドネシア風ミーゴレン、ハラルにして欲しい


色々と怒りや諦めや悲しみを感じ続ける今日この頃で、それをブログに殴り書きしたい気持ちにもなるのですが、敢えて、それを抑えて、現実逃避???

東京の我が家の庭もすっかり秋めいてきました。庭に植えてある柿の木やザクロの木も実をつけて、まさに実りの秋。

私の知らないうちに、妻がザクロの実を獲ってきていて、リビングテーブルに飾っていました。


ザクロの実を一つとって、割って二人で味見。いくつか粒をほおばって、しばらくするとさわやかな甘みが口の中に広がります。

ザクロは1年おきぐらいに豊作となり、以前、食べ切れないほどなったこともありました。

ザクロ以外に、庭には2本の柿の木があります。1本は甘柿、1本は渋柿。次の写真は渋柿です。


そして、こちらは、甘柿。


食べ頃までにはまだもう少しありそうな感じです。

庭の花々もすっかり秋の装いです。次の写真はホトトギス。まだ咲き始めですね。


ツバキの木は、種がパチパチはじけて、土の上に落ちていきます。



今住んでいる家の隣に、新しい家を建てました。もう少ししたら、その新しい家へ引っ越す予定ですが、隣なので、何だかんだとのんびり構えてしまっています。

新しい家へ移った後、今住んでいる家は、ちょっと修繕した後(築50年ぐらいなので)、一軒家としてどなたかにお貸ししようと思っています。我が家は万事のんびりペースなので、来年の春頃に入居できるように準備できればと思っています。

同じ敷地内で、私たちと一緒に暮らしてみたい方はいらっしゃいませんか。

春は桜が咲き、夏にかけては緑が濃く茂り、秋には実がなり、冬には福寿草が咲いてきます。ツバキ、くちなし、アジサイ、ツツジ、ユキノシタなどなど・・・。季節が感じられる庭です。

家の間取りは、1階がダイニング+台所+バストイレで、2階にふすまで隔てられた畳の部屋(寝室)が2つ。昔の家なので、畳も1畳が少し大きめで、2階には日当たりのよい縁側がついています。

不動産屋さんを通す予定はありません。この方なら、と、直接、信頼できる方にお貸ししたいです。場所は、JR山手線・大塚駅から徒歩8分です。池袋までも歩いていける距離です。

もしご興味のある方がいれば、メールで私までご連絡ください。


今年の酉の市はいつもと全然違った

インドネシア風ミーゴレン、ハラルにして欲しい


2020年10月20日火曜日

インドネシア風ミーゴレン、ハラルにして欲しい

東京の都心の庭のある我が家でご一緒しませんか

インドネシア政府が情報サイト『JAIPONG』を開設


色々日々思うことは多く、ときには絶望感に苛まれることもあって、ブログを書けそうで書けない毎日を送っています。日本学術会議の問題やら菅首相のインドネシア訪問やら、自分の気持ちをうまくまとめられず、たわいのないことを書いて、お茶を濁すような感じになってしまうのが、自分でも残念なのですが・・・。

今回は、インドネシア風ミーゴレンの話。もちろん、これは、最近、某コンビニで新発売された食品です。このところ、シンガポール風福建麺、西安風うま辛香油麺ビャンビャン麺など、アジアづいているこのコンビニが出したものです。


1日に必要な野菜の量の半分を摂取できる、というのがうたい文句。インドネシアのミーゴレンで野菜たっぷりなのは、あんかけのミーゴレン。イーフーミー(伊府麺)や揚げ焼きそば(ミー・クリン)あたりでしょうか。海老がのっているのはご愛敬ですね。

具の下には、黒めの色の中太麺。一般的な上海焼きそばの麺よりちょっと太いぐらい。

お、この赤いのはサンバル(チリソース)!! やった、辛いのだろうな。期待してしまう。

それで、食べてみての感想は・・・。

割りと美味しい野菜焼きそば・・・という感じ。

サンバルにみえたものは、トマトペーストでした。それ自体はまずくないけど、辛くない。うーん、日本の野菜焼きそばだなあ。


原材料名をみても、どこにも「トウガラシ」と書かれていませんでした。

そして・・・。

なんと、ゼラチンと豚肉を使っているのですよ。

日本にいるインドネシア人のイスラム教徒の友人たちは、インドネシア風ミーゴレンを食べられないのかあ・・・。

日本でのハラルについての考え方ですが、イスラム教徒だけが食べるもの、と思っていないでしょうか。

ハラル食品は、イスラム教徒でなくても食べられます。食べていいのです。私たちが普通に食べていいのです。もちろん、中身によっては、牛を神聖なものとするヒンドゥー教徒の方々や菜食主義者で食べられない方もいらっしゃるかもしれませんが。

ハラル食品のマーケットは、おそらく、豚由来のもののマーケットよりも広いかもしれません。インスタントラーメンのマーケットで、なぜ日本のラーメンがなかなか入り込めない一方で、インドネシアのインドミーが世界中で受け入れられているのか。それはハラルだからです。

もちろん、日本のラーメンは美味しいですが、豚にこだわることで、逆に世界中で広くは受け入れられにくいのです。

今回のインドネシア風ミーゴレン、せめてゼラチンと豚肉を使わないで欲しかったです。使わなくても美味しくできます。もし、ハラルだったら、必ずや、日本国内のイスラム教徒だけでなく、海外でもこの商品は受け入れられることでしょう。

懐かしい故郷の味に出会えた、と思ったのに、食べられなくて残念、という友人たちの顔が思い浮かんでなりません。

是非、次回、インドネシア風ミーゴレンを販売するときは、ハラルにして欲しい、です。そして、辛い本物のサンバルも!


東京の都心の庭のある我が家でご一緒しませんか

インドネシア政府が情報サイト『JAIPONG』を開設


2020年10月14日水曜日

インドネシア政府が情報サイト『JAIPONG』を開設

インドネシア風ミーゴレン、ハラルにして欲しい

東京でルルド、以前に東ジャワで遭遇


インドネシア政府は、日本からインドネシアへの投資促進を目的として、日本語とインドネシア語でインドネシアのビジネス情報を提供する情報サイト『JAIPONG』を開設しました。リンクは以下の通りです。

JAIPONG

ジャイポンというのは、西ジャワのスンダ族の踊りである「ジャイポンガン」からとったもので、躍動感を示したものらしいです。近年のジャイポンガンは、健康ブームに乗って、スポーツ民謡的な要素もみられるようになりました。

このサイトには、投資、輸出入、人材開発協力、政策データ、観光地などの項目ごとに情報が入っています。中身については、実際にご覧になってみてください。

JAIPONGのサイトのスクリーンショット

このJAIPONのリリースと合わせて、10月14日にはバーチャルでのインドネシア=日本ビジネスフォーラムも開催されました。以下のYouTubeサイトから録画を見ることができます。

Indonesia-Japan Virtual Business Forum

この動画の最後に、動画で披露された様々な資料のダウンロード・サイトが出ていますので、ご利用ください。資料のなかには、日本からの投資を期待する案件の説明などが含まれています。

インドネシアは、雇用機会拡大のための外国投資誘致を目指して、雇用創出法(オムニバス法)を10月5日に国会成立させましたが、それだけでは、日本からの投資を呼び込むのは難しいのではないか、という主旨を、インドネシア語での個人ブログに書きました。興味のある方は、以下のサイトから入ってご笑覧ください。

Selamat Peluncuran JAIPONG, Tapi Belum Cukup untuk Menarik Investasi dari Jepang

雇用創出法(オムニバス法)については、今月中の何らかの機会に、その内容と問題点、政治社会的な影響も含め、まとめてお話する機会を作りたいと考えております。日時が決まりましたらお知らせします。なお、個別にお話することも可能ですので、ご入用の方は、メールにて matsui@matsui-glocal.com にコンタクトされてください。


インドネシア風ミーゴレン、ハラルにして欲しい

東京でルルド、以前に東ジャワで遭遇


2020年10月12日月曜日

東京でルルド、以前に東ジャワで遭遇

インドネシア政府が情報サイト『JAIPONG』を開設


妻と一緒に、新居の庭に植える日本水仙の球根を買いに、椿山荘近くの園芸店へ行ったついでに、東京カテドラル聖マリア大聖堂へ行ってみました。

丹下健三氏が建築した建物は、荘厳かつ鋭敏で、天へ向かう曲線に見入ってしまったのですが、妻が「ルルドの奇跡、見に行こう」と言って、大聖堂を右に見ながら左へ曲がり、言われるままに進んでいくと・・・。ありました、ルルドの奇跡。



ルルドとは、フランスの西南、ピレネー山脈の奥地にある町で、1858年、キリストの聖母堂マリアが町外れの洞窟でベルナデツタという名の少女の姿になって現れ、平和のために祈るように勧め、そしてそこに湧いた霊水を飲むことで不治の病が完全に治った、という話がもとになっています。

説明板によると、教会の厳正な科学的調査によって、1862年にそれが事実であると認めたとのことです。ここにある洞窟は、1911年に実物と全く同じ大きさで建てられたものだそうです。

東京のど真ん中に、こんな場所があるんだー、と思いながら、ふと、「これって、たしかどこかで見たことあるなあ」と思いました。

それは、東ジャワ州クディリ近くでみたものでした。日本と同じレベルのケーキを出すクディリの友人の菓子店を他の友人たちと訪問した後、訪れた場所でした。


2015年4月4日でした。クディリの中心市街から18キロ離れたプサラン(Puhsarang)村にあるこのマリア像も、話は全く同じ、ルルドの奇跡でした。

きっと、世界中にこうしたルルドの洞窟があるのだろうな、と思いました。教会の厳正な科学的調査によって奇跡を証明、というところを理解するまでには到底至らないにしても。


2020年10月5日月曜日

ムハマド・ユヌス博士の言葉

東京でルルド、以前に東ジャワで遭遇

よりどりインドネシア第78号発行+舞台裏


色々書きたいことはあるけれど、何となく書く気にならず、しばし、ブログをお休みしてしまいましたが、今日(10/5)、短時間でしたが、オンラインでムハマド・ユヌス博士のお話を聞く機会に恵まれました。

これは、昨年5月に参加した、バングラデシュへの事業研修ツアーを主宰したサンパワー株式会社様の計らいで実現したもので、同ツアーの参加者も多数、一緒に聴講しました。


ユヌス博士からは、新型コロナウィルス感染拡大のなかで、今後、どのような意識でビジネスを進めていく必要があるのか、とくにソーシャルビジネスはどうあるべきか、といったことについて、30分程度、話を聴きました。

現状については、まず、新型コロナによるショックを吸収し、ダメージを最小化する努力をする。ビジネスに何が起こっているかをよく見渡す。ビジネスだけでなく、人々に何が起こっているかをよく見る。そしてこれが世界にとって巨大な問題であることを理解し、自分の存在が小さいものであることを自覚する。自分の内面に問いかける。自分自身を発見し、自分の創造力を最大化させようと努める。最大で最深の危機であることを理解する。

過去へ戻ることは意味がない。今や、完全なトランスフォーメーションが求められている。過去の世界は危険な世界であり、過去へ戻ることは自殺行為である。富める国々が様々な問題を引き起こしてきた。地球環境問題も、貧困も、格差も。私たちの思考を変え、3ゼロ(二酸化炭素ゼロ、貧困ゼロ、失業ゼロ)の新たな世界を目指す方向づけをするときが今である。

多くのとてつもない困難がある。しかし、最大の危機は最大のチャンスである。

ユヌス博士の言葉からは、今のような時期だからこそ、世界を変えていく機会になるという力強い言葉がありました。利益最大化ではなく人々の幸せのために働け、というメッセージをしっかりと受け止めて、まずは、自分を深く見つめ直して、同志を増やし、新しい世界へ向けて一歩ずつ歩みを進めていきたい、と思った夜でした。


東京でルルド、以前に東ジャワで遭遇

よりどりインドネシア第78号発行+舞台裏


2020年9月28日月曜日

よりどりインドネシア第78号発行+舞台裏

ムハマド・ユヌス博士の言葉

インドネシアのクラフトワークをめぐる新しい動き


しばらく、ブログが更新できないでいました。忙しかったというよりは、更新する気持ちがなかなか起こってこなかった、という感じです。ネタがなかったわけでもないのに、何となく書く気がしなかった、というだけです。

いつもコンスタントに書ける人はすごいなあ、と思ってみたり。

まあ、先の4連休中に、毎日、昼前から午後10時過ぎまでずっと仕事場にこもって、9月21日締め切りの原稿、22日締め切りの『よりどり』、23日締め切りの発表資料2本(25日発表のと29日発表のもの)、と格闘していた、ということもあったのですが・・・。

そんなこんなで、気持ちがちょっともやもやしていて、すっきりと色々できないのですが、『よりどりインドネシア』第78号を発行したので、ブログを書くきっかけになりました。

今回の『よりどりインドネシア』第78号では、何といっても、横山裕一さんの力作を読んでいただきたいと思いました。今回の彼の作品はA4で20ページほどあり、長いので前編・後編に分けることも考えたのですが、著者の強い希望で、分けずに掲載しました。読んでいただければわかりますが、それが正解でした。

私は、だいぶ前に宮本常一「忘れられた日本人」という著作を読み、日本が高度成長を押下していた時代に、その陰で様々な地域社会やそこに生きる人々が、あたかも世の中から忘れられたかのように、でもしっかりと生きていた、あたりまえの事実に目を見張りました。

歴史というものは、為政者や偉人と呼ばれる人々、あるいは勝者によって描かれたものが残り、勝者の今を正当化する土台ともなり得るものです。そして、勝者は今の彼にとって脅威となるもの、どうでもいいものを消し去っていきます。勝者の歴史を覆そうにも、覆すための反証の痕跡がなくなれば、代替的な歴史は描けないからです。敗者、あるいは名もなき者たちの歴史は、そうやって消えていったのでしょう。

横山さんが取り上げたのは、1965年9月30日に起きた、インドネシア現体制の正史としてはインドネシア共産党によるクーデター未遂事件とされる9・30事件のときに、社会主義の旧ソ連圏へ留学していた者たちのその後の人生についてでした。社会主義圏にいたことで、彼らは共産主義者という疑いでみられ、人によっては国籍も剥奪されるほどでした。

祖国に拒絶された留学生。そして、その家族や子孫までもが、世間というものから特別な目で見られ続けていく…。

あとは、是非、横山さんの力作をお読みいただければと思います。そして、併せて、神道有子さんの書かれたS・パルマンの話も読んでいただきたいです。S・パルマンは「共産主義者」に殺害された軍人です。出身地ウォノソボで家族と暮らした時代の話を含め、運命というものの危うさと過酷さを改めて感じることができるような気がします。

そして、プロの翻訳家である太田りべかさんの翻訳業に関するエッセイも、日本の小説のインドネシア語翻訳の裏側を知ることができて、とても興味深いです。

さらに、よろしければ、インドネシアのちぐはぐな新型コロナウィルス対策について書いた私の作品も読んでみてくださいね。

昔、マカッサルで出会った廃品回収業者の家族。今はこの場所に建物が建って、彼らはもういません。どこへ行ってしまったのか。『よりどり』78号のカバー写真に使いました。

以下は、『よりどりインドネシア』第78号の紹介文です。

▼新型コロナウィルス感染対策に打つ手はないのか ~政府・保健省の不作為?~ (松井和久)⇒新型コロナウィルス感染拡大の続くインドネシアですが、保健省や保健大臣が前面に出てこない印象があります。もはやワクチンを待つしかない状況なのでしょうか。松井が分析しました。https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/22905/

▼翻訳セミナー雑感(太田りべか)⇒太田さんはプロの翻訳者として、出席した翻訳セミナーについてだけでなく、 最近の日本の小説のインドネシア語翻訳の現状についても書いています。こんな本がインドネシア語版に、といったインドネシア語翻訳の裏話的面白さがあります。https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/22897/

▼ウォノソボライフ(33):だからシスウォンド・パルマンは英雄になった(神道有子)⇒神道さんは、地元ウォノソボ出身で、9・30事件で殺害された軍人であるS・パルマンの話を地元目線で書きました。彼のウォノソボ時代の話や、家族や兄弟の話が興味深いです。https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/22896/

▼いんどねしあ風土記(21):「国籍剥奪」ー 祖国を失った元留学生たち 〜中ジャワ州ソロ(スラカルタ)~(横山裕一)⇒横山さんは、9・30事件発生時に旧ソ連圏にいたことで、国籍を剥奪された元留学生、現在に至るまで共産主義者の疑いをもたれて厳しい監視を受け続けている元留学生など、9・30事件を契機に人生を翻弄された元留学生の話を丹念に拾いました。https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/22898/ 


2020年10月末の『よりどりインドネシア』オフ会は、横山さんから今回の「国籍剥奪」の内容を紹介していただいたうえで、参加者の皆さんと色々と対話してみたいと思っています。

なお、このオフ会は、参加者が自由に発言できる場として『よりどりインドネシア』の購読者を対象としています。まずは、ご購読者として登録していただき、オフ会にご参加いただければと思います。よろしくお願いいたします。


ムハマド・ユヌス博士の言葉

インドネシアのクラフトワークをめぐる新しい動き


2020年9月14日月曜日

インドネシアのクラフトワークをめぐる新しい動き

よりどりインドネシア第78号発行+舞台裏

よりどりインドネシア第77号発行、久々に2本投稿


Linkedinで知り合いになった友人(まだ実際の面識はない)が出しているウェブマガジンがあります。GARLANDという名前のこのマガジンは、クラフトやアートとそれを生み出す社会とのかかわりに関する話題が多く、いつも読みごたえのある記事が満載なのですが・・・。

最新号として送られてきた特集は、インドネシアのバティックなどクラフトワークを中心とするアートと社会の動向でした。特集の名前はPembaharu、インドネシア語で「刷新者」、何かを新しくしていく者、というような意味でしょうか。

以下のサイトで、それらの記事(英文)が読めます。

 ⇒ https://garlandmag.com/issue-20/

実際に記事を読んでいただければわかるのですが、インドネシアのとくに若い世代が、地域文化資源とAIを含む現代技術を融合させて、新しい時代のなかで、地域固有の文化資源に対してどのように新しい価値を付与させていくか、挑戦している姿がうかがえます。

たとえば、上の写真は、DiTenunという、地域の伝統的な織物にAIを活用させる試みについて書かれた次の記事から借りたものです。

DiTenun: Artificial intelligence technology for Indonesian traditional Weaving

DiTenunではAIを活用し、地域別に独特の様々なモチーフをAIに記憶させながら、織手、AIやITの技術者のほか、数学者、歴史家、繊維デザイナー、コミュニティ開発専門家、起業家、中小企業者、ソーシャルメディア、ブランディング専門家など様々な分野の人々が関わり、地域固有の伝統的な文化に対して、新しい現代のなかでどのような価値を付与し、固有価値を守っていくか、というアプローチを試みています。

換言すると、伝統的な文化価値を新しくして守る、ということでしょうか。そこにAIを活用する、という発想がとても斬新に思えました。

日本でAIと言えば、担い手が少なくなり、いなくなるなかで、人間の果たしてきた役割をどのように代替させるか、といった視点が多いような気がします。たしかに、インドネシアの地域でも、伝統文化は古い人たちのものという認識が強く、時代を超えた継承をどのように進めるかという点で、日本と同様の難題に直面しています。

日本では多くの場合、伝統文化を昔のまま継承する、ということが重視され、新しい試みは異端として排除される様子があります。伝統を変えるということは、それまで伝統継承を担ってきた人々の役目を軽視し、場合によっては否定する、といった感情的な世代対立にも至りかねません。そうして、世代間の対話が成り立たず、伝統文化が消えていってしまう、ということが起こってきたのではないかと思います。

DiTenunの記事を読みながら、そこでは、AIという最先端技術を使って伝統を否定するのではなく、伝統を尊重し、それをどのように新時代に生かして新たな価値を創り出すか、というところにAIを使うという発想なのです。何のためにAIを使うか、という発想が、日本で一般にみられるものとは相当に異なるところに、ある意味、衝撃を受けました。

DiTenun以外の記事でも、微生物やバクテリアによる作用を通じて、二度と再現できないようなバティックの色を生み出しすことで新たな価値を付与しようとする試みや、零細企業者とデザイナーが組んで、昔の人しか見向きもしないような古ぼけた製品に新たなデザインを組み合わせて、時代に合った新しいものづくりを志向する試みなど、読みながらハッとするような、新しい動きが紹介されています。

そこに共通するのは、伝統文化や伝統工芸に対する、若い世代の敬意です。ともすると、若者たちは、時代に乗り遅れた感のある伝統を蔑み、否定し、それらを新しいものに置き換えることを進歩だと認識しがちです。しかし、ここで紹介されるのは、新しい技術で伝統文化や伝統工芸に取って代わるのではなく、それらをどのように新しい時代のなかで守っていくか、そのために新しい技術をどのように活用できるか、という発想がもとになっています。

実際、先端技術と伝統文化の融合をテーマに、若者たちが欧米で学び、自分たちの地域の現場でそれを試行錯誤している様子があります。

私たちは、発展とか進歩とかいう概念を、もう一度作り直す時期に来ているのではないでしょうか。インドネシアの地域の片隅で、何のアドバルーンも挙げずに、政府の公的支援とも無関係に起こっている、彼らPembaharuたちの活動には、これからの世界の新しい時代のなかのたしかな希望が見えるような気がしています。


よりどりインドネシア第78号発行+舞台裏

よりどりインドネシア第77号発行、久々に2本投稿


2020年9月8日火曜日

よりどりインドネシア第77号発行、久々に2本投稿

インドネシアのクラフトワークをめぐる新しい動き

いくつかのウェビナーに参加してみての感想


昨日(9/7)夜遅く、日本時間午後11時半すぎに、情報マガジン「よりどりインドネシア」第77号を発行しました。昨日は、昼頃から籠って、ずっと自分の原稿執筆、編集、アップロード、発行の作業を休憩なしで続けていたので、さすがに今日は疲れが出ました。やっぱり、歳はとっているのかな。

今回は、久々に2本書きました。1本目の「モフタル事件」の原稿は、9月6日中に8割書き、7日は最後の結論部分の書き直しと内容補充、写真挿入を行いました。それが終わった後、2本目の「オイルパーム農園と慣習法社会」の素材メモをもとに、一気に書き上げました。

この「オイルパーム農園と慣習法社会」の素材メモは、9月4~5日にかけて集めたものですが、調べているうちに次々と興味深い話が出てきて、なかなか前に進まないのはいつもの通りです。実はもう一本、慣習法社会絡みで別の内容に関する素材メモを作っていたのですが、「オイルパーム農園と慣習法社会」の素材メモだけで量的に十分だったので、今回は使いませんでした。そのうち、この別の素材メモを使って別原稿を書いてみるかもしれません。それにしても、この問題はなかなか奥が深く、しかも各地で頻発していて、目が離せなくなりそうです。

1本目の「モフタル事件」は、前にブログにも書きましたが、実は前回、書こうと思って書かなかったものです。モフタル事件の真相について書かれた英文書のインドネシア語訳が9月に出版されること、しかもインドネシアの歴史愛好者の若者たちがその内容にかなり興味を持っていることを知って、日本でも何が書かれているかについて情報を提供する必要があると思いました。なぜなら、日本側ではこの事件に関する資料は残っておらず、真相は闇に葬られたままだからです。今回書いた内容ですべてが明らかになった訳ではありませんが、少なくとも、真相に迫る第一歩を示すぐらいの情報は出せたのではないかと思います。

この事件に関して、731部隊との関連が示唆されていますが、関連を結論づけるところまでは全くいっていません。ただ、原稿を用意している間に興味深いことがありました。

それは、抗日戦争勝利記念日を祝う中国で、関東軍防疫給水部本部(731部隊)とそのシンガポール支部である南方軍防疫給水部の所属者名簿が公開されたという情報でした。調べると、南方軍防疫給水部の名簿はこの9月に不二出版という会社から出版・販売される予定でした。上述の英文書へのインフォーマントには収容所の現場に居合わせた証人が一人おり、これらの名簿と当時関わった関係軍人の名前とを照合することで、本当に731部隊と関係があったかどうかが見えてくるかもしれません。

私は歴史の専門ではありませんが、インドネシア側がこの事件を知ろうとしている一方で、日本側では全く知らないという状況は好ましくない、せめてこの事件の存在を知り、インドネシア側がその書物から何を知るのか、といったことは知っておいたほうが良いと考えました。

そんなこんなで、今日は少しゆっくり過ごしました。今号の内容は以下の通りです。

オイルパーム農園開発と闘う慣習法社会~中カリマンタン州キニパンの土地紛争~(松井和久)⇒農園開発が進むなかで慣習法社会の存立は益々厳しくなっています。中カリマンタン州で起きたある事件を通して両者の対立の背景と解決の難しさについて松 井が考察しました。

ラサ・サヤン(9)~もし〇〇ならば、あなたはインドネシア人かも~(石川礼子)⇒石川さんは今回、インドネシア人の特徴を色々な人がどんなふうに取り上げているかを豊富な例で示しました。石川さん個人の思うインドネシア人の特徴もあるあるの世界で納得です。

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第4信:地方舞台の映画の意義(横山裕一)⇒インドネシア映画往復書簡の4回目は、横山さんが地方を舞台とした映画の魅力について語ります。撮る側と撮られる側の関係を考えることでより深く楽しむことができるような気がします。

モフタル事件再考~900人余のロームシャはなぜ死んだのか~(松井和久)⇒日本軍政期に起こったロームシャの大量死とモフタル事件。新説を提示した英文書のインドネシア語版が9月に発刊されます。限られた情報から何が起こっていたのか、松井が推理しました。

今号のカバー写真は、今から18年前、2002年に東カリマンタン州の州都サマリンダを訪れた際、ショッピングモール内で立ち寄った電気店の店員さんです。当時、日本製品の商品名を模倣した中国製の廉価な電化製品がたくさん売られていました。今を時めくハイセンスや長虹なども、この頃はこうした廉価品の「ブランド」名でした。懐かしく思い出されます。



2020年9月4日金曜日

いくつかのウェビナーに参加してみての感想

よりどりインドネシア第77号発行、久々に2本投稿

8月の月例オフ会、テーマは若者とコレクティブ


今週は、9月1日、2日、3日とウェビナーに参加してみました。1日は、インドネシアの英字紙 Jakarta Post 主催の "Land without Farmers" と題するインドネシア農業に関するウェビナー(英語)、2日は、毎月連載しているSBCSインドネシア月報の解説ミニセミナー(日本語)、3日は、ERIAとASEAN事務局主催の食糧と農業に関するウェビナー(英語)、でした。


1日のウェビナーは、英字紙ということでインドネシア人のスピーカーもみな英語で話していましたが、人によっては厳しい様子もあり、インドネシア語でプレゼンしたスピーカーもいました。コメント欄やQ&A欄も眺めていましたが、こちらはほとんどがインドネシア語になっていました。

2日はわずか15分の日本語でのミニセミナーで、私は、自分の連載部分を含めて、過去1ヵ月間のインドネシア経済の概要を5分にまとめて話をしました。ポイントは、感染拡大の継続、2020年第2四半期のマイナス成長は近隣国に比べれば健闘、2021年予算案はやや楽観的、ジャワ島の都市部の貧困人口増大などジャワの経済回復がカギ、といった内容でした。

3日のウェビナーは、シンガポール、マレーシア、タイのスピーカーで、オール英語で進められました。

私自身は、コロナ禍でのインドネシアを含む東南アジアの農業について興味があったのですが、残念ながら、1日のウェビナーも3日のそれも、私の期待に沿う内容ではありませんでした。

第1に、コロナ禍での農業の現状についての言及が2020年第2四半期の農業部門のGDP成長率の話のみで、コロナ禍で何がより厳しくなっているのか、あるいは影響が意外に少ないのかなど、農業生産や農家の現場での話が聞けませんでした。コロナ禍以前の農業の一般的な話は出てくるのですが、コロナ禍で何が変わったのかについての言及はなかったのです。

第2に、現場から遠い話に終始していました。その中心は、フィンテックとデジタル化でした。農家から消費者に至るまでの取引費用の高さなど物流の問題への言及はありましたが、それはコロナ禍以前にも指摘された基本問題でした。農業に対する制度金融をどうするかは重要な課題ですが、それにフィンテックやデジタル化を入れることで何がどうh具体的に改善されるのかが明らかにされたとは言い難い内容でした。

第3に、農家の実態に基づいた話はなく、消費者の視点から農産品をどのように効率的に流通させるかという点に終始していました。すなわち、生産者と消費者をいまだに分けて議論しているという印象を持ちました。おそらく、今後は、生産者と消費者をどうつなげて顔の見える関係をつくっていくか、消費者が生産者をどのように支えていくか、ということが重要になってくると思うのですが、そうした点への言及はありませんでした。

このように、私としては、期待していた内容が聞けず、現場から遊離した、コロナ禍以前からの基本問題の話ばかりで、解決策はフィンテックやデジタル化だ、というような話だったので、正直言って、残念でした。

もし自分がウェビナーを主宰して開催するとしたら、トピックに合わせてスピーカーを選ぶだけでなく、そのなかで話し合うべきポイントを3~4点ぐらい明確にしたうえで、そのポイントを論点とした議論がスピーカー間であらかじめ共有したうえで、ウェビナーで議論できるような形にしなければならないな、と思いました。

さて、これからどんなふうに、私なりのウェビナーを作ってみるか、もう少しほかのウェビナーに参加しながら、じっくりと考えてみたいと思います。そして、時宜を見て、皆さんに私なりのウェビナーをご披露したいと考えています。


よりどりインドネシア第77号発行、久々に2本投稿

8月の月例オフ会、テーマは若者とコレクティブ


2020年9月1日火曜日

8月の月例オフ会、テーマは若者とコレクティブ

いくつかのウェビナーに参加してみての感想

インドネシアの若者とナショナリズム


いくつものインドネシアを伝え、学び、楽しむことを目的とした月2回発行の「よりどりインドネシア」では、購読登録者が参加できるオフ会をオンラインで毎月開催しています。

今回は2020年8月29日(土)、12名が参加して行われました。今回のトピックは、「音楽やアートを通じて社会変革を目指す若者たち」というもので、話題提供者は伏木香織さんでした。

伏木さんはバリの事例を中心に、若者たちが担うコミュニティ・アートのこれまでの変遷と具体的な活動スタイル、地域的な問題への取り組みなどについて、1時間半にわたって詳しく紹介してくださいました。

彼らの活動を特徴づけるキーワードとして挙げられたのは、インディーズ(パンク、ロック、グランジなど)、コレクティブ、DIY、協働、草の根ネットワークといった言葉でした。

なかでも、アート・コレクティブあるいはコレクティブ(その前はコムニタスなど)という、制作や生活を共有する集団の活動が、バリだけでなくバンドゥンやジョグジャなどインドネシアの地方都市でのコレクティブとつながり、それが日本を含む海外のコレクティブともつながっている側面のあることが明らかにされました。

彼らの活動は地域密着型で、地元との関係を捨ててジャカルタへ行ってしまう、というようなことがないのも特徴です。興行や収益を目的ともしておらず、ドキュメンタリーフィルムを作ったり、手作り感満載の自費出版の雑誌を配ったりして、社会を変えようと動いている自分たちの活動を世の中へ知らしめることを目的に動いています。

たとえば、バリでは、アートや音楽を通じて、埋め立てへの反対・抗議活動を盛んに行うなど、社会運動を中心と位置づけています。そのため、彼らを政治家が利用するような傾向もありとくに闘争民主党が圧倒的に強いバリでは、政治的な影響から逃れることはなかなか難しい面があるようでした。

とにかく、様々な具体例が示され、情報もきわめて豊富で、あっという間に1時間半が過ぎてしまったというのが実感でした。

伏木さんの発表に触発されて、アート・コレクティブについて少し自分なりに調べてみたいと思いました。

伏木さんの発表を聴きながら、私が2006~2010年にマカッサルで自宅を地元の若者たちに開放していたときのことを思い出していました。彼らは「コムニタス・イニンナワ」と名乗る、いくつものグループの緩やかな連合体でした。同一人物がそのなかのいくつかのグループに属している、という感じでした。

彼らの多くは、コネやカネがなくて就職できなかった者や、正義感ばかりが強くてうまく世の中の風潮に自分を合わせられなかった者や、かつて一族が1950年代の反政府勢力に関わっていたためにその後厳しい生活を強いられたものなどでした。だからこそ、社会の不条理や体制の欺瞞に対する不満が強く、よりよい公正な社会を作りたいという気持ちがこもっていました。でもその一方で、具体的にどのような公正な社会を作りたいのか、オルターナティブな未来を描けず、批判や不満にとどまって、メジャーを目指せない面もありました。

マカッサルの彼らは、伏木さんの挙げたバリのコレクティブに関わる若者とは違って、注意深く政治家らの影響力を避けていました。どのような政治勢力からも独立でいようと努めていました。その反面、マカッサルでは、コムニタス・イニンナワは変な人間が集まっている排他的な存在と見なされる傾向があり、共感や支援を広げるという面が乏しかった印象があります。それでも、ジョグジャやバンドゥンの若者集団とはつながりを持っていたのでした。

ともかく、あの2000年代の後半、コムニタス・イニンナワもどこかを経由して間接的にでもこうしたコレクティブとつながっていたのだ、という実感を感じたのでした。

こうしたコレクティブのような、地域密着でアートや音楽を通じて社会変革を目指すという若者の動きは、このひとつ前のブログで取り上げた、若者のナショナリズム意識が主観的にローカルへ向かっている、という話ともかなり通じる面があるように思えるのです。

12人のクローズドなオフ会という機会だからこそ、学会のような厳密さや論理性を求められることもなく、また、大っぴらにしにくいオフレコ的なことも自由に話せる面がある、ということを今回、改めて思いました。

もしかしたら、このようなオフ会自体もまた、コレクティブ的な要素を持っているのかもしれないと感じた次第です。


いくつかのウェビナーに参加してみての感想

インドネシアの若者とナショナリズム


2020年8月27日木曜日

インドネシアの若者とナショナリズム

8月の月例オフ会、テーマは若者とコレクティブ

よりどりインドネシア第76号の発行と舞台裏


2020年8月25日付のインドネシアの日刊紙 KOMPAS を読んでいたら、小さいが、興味深い記事が載っていた。「インドネシアの若者におけるナショナリズムの意味合いはより主観的である」(Pemaknaan Nasionalisme di Kalangan Anak Muda Lebih Subyektif)という記事である。

https://www.kompas.id/baca/muda/2020/08/24/pemaknaan-nasionalisme-di-kalangan-anak-muda-lebih-subyektif/

この記事は次のような文章で始まる。

(1998年以降の)改革の時代以降、若者はナショナリズムの意味合いをそれぞれの経験に基づいたより主観的なものと捉えている。若者のナショナリズム意識の実践は、地域資源を使ってコミュニティを開発する方法といった形で現れる。

この出だしだけで興味をそそられる。なぜなら、これまで、インドネシアにおける民族主義の象徴と言えば、独立闘争であったり、国家の豊かな自然であったりしたからである。

従来のナショナリズムで強調されていたのは、インドネシアという独立を勝ち取った国家であり、ときには国家を第一とする国家主義とも受け止められるような捉えられ方もよく見られた。なぜなら、ジャワ族とかミナンカバウ族とかいう「民族」(あるいは種族という言葉で区別する)をもとにした「民族主義」を強調することは、統一国家インドネシアの分裂の危機を招きかねないからである。インドネシアをまとまらせるためにも、ナショナリズムは国家を意識したものにならざるを得なかった。

ところが、この記事によると、民主化以降のインドネシアの若者のナショナリズム意識は、国家よりもローカルへ向かっているというのである。そして、ナショナリズムを環境保全、地域文化の振興、インドネシア語使用への誇り、コロナ禍の保健衛生プロトコルなどに関連付けている。その結果として、多くの地域に様々なコミュニティが生まれ、連帯のイメージが変わってきており、この傾向は、他国の若者のナショナリズム意識とも異なる、という。

記事によると、インドネシアの若者は、インターネットや携帯などの利用などで個人主義的になったというよりも、地域の価値を前面に出すような集合的(kolektif)になってきている。ナショナリズム意識が変わってきたのは、以前と今とで脅威の中身が変化したからである。かつては侵略や異なるイデオロギーがナショナリズムに対する脅威だったのが、今では、地域資源や環境の絶滅を脅威と感じている。

このため、若者は地域で起業し、天然資源、人的資源、地域文化を活用して付加価値のある商品を作り出そうとしており、このような起業こそが、若者のアイデンティティとして認識されているのだという。

若者どうしの連帯を促している最大の要因は環境問題であり、気候変動や水不足は直接地域に影響を与える現実のイシューである、とする。

でも、これは本当にそうなのだろうか。

この記事を読みながら、私は、スハルト長期政権が崩壊した1998年以後の民主化されたインドネシアの歩みを振り返ってみた。この期間は民主化の時代であるとともに、地方分権化の時代でもあった。

私がJICA長期専門家(地域開発政策アドバイザー)として赴任していた1995~2001年の間に、インドネシアは中央集権から地方分権へ大きく舵を切った。ドイツのGTZや世銀が法規など地方分権化の制度設計を支援しているなかで、私は、日本の一村一品運動のエッセンスを地方政府に伝え、自分たちの地域をどう開発するか、地域が主体的に考える必要性とその方策を助言し続けた。それまでの地方政府の開発政策は、中央政府からの指示待ちだったからだ。そして、地域開発政策が中央=地方の垂直的関係から、地方どうしが学び合い、健全な地域間競争と協力を行う水平的な関係へと変化することを願い続けた。

そして現在、地方分権化で汚職が地方へ広まったという負の側面は否定しがたいものの、地方政府による他地方視察が盛んに行われ、ある地方でのグッドプラクティスは中央を経由することなく地方が勝手に学び合うようになり、地方どうしが様々な産品開発や住民サービスなどで競争するようになった。私が20年以上前から望み続けてきたことが、インドネシアの地方アクターによって、ある程度は実現されてきたのだと思う。

そしてそれは、地方政府レベルだけではなかった。たしかに、地方へ行く先々で、様々な若者グループに出会い、その構成員はゆるく重なり合っている。彼らの活動は歯を食いしばるような悲壮感溢れるものでは全くなく、仲間どうしでやれる範囲のことを無理なくやるような形で進められている。かといって、自分の地域だけに留まっているわけではなく、インターネットやSNSを通じて、他の地域、時には外国の若者ともゆるくつながっている。

若者のナショナリズム意識が主観的になっていることで、トップダウン型の開発パラダイムはボトムアップ型に変えられていくべきではないか。技術を活用して同じ仲間を助ける、環境を守る、といった今の若者のナショナリズム意識に基づく行動は、ローカルからグローバルへと展開していくのではないか。そんなふうに記事は指摘している。

ああ、そうなんだ。私は、そう思った。

私が描いているグローカル、すなわち、生活の場であるローカルから深く発想して行動し、ローカルとローカルがつながって新しい価値を創り出す、ということが、インドネシアの地域の若者によって現実化しているではないか。そこには、彼らがナショナリズムを自身のコンテクストで考え(それを主観的といってもよい)、起業のような形で自立的に動き、地域資源や地域文化を絶滅から守り、育てる、という動きがある。

もし、この記事が本当で、インドネシアの地域で、そんなことが起こっているなら、そうなるとは20年前には思いもしなかった。そうなったらいいなあという希望はかすかにあったが。でも、現実に、そのような方向で動いているということなのか。

この KOMPAS の小さな記事は、私が思い描いてきた、空想とも思えた新しい世界が本当に生まれてきているのだという小さな確信を抱かせてくれた。

よし、前へ進む!

2006~2010年、マカッサルに長期滞在していたとき、我が家の大半のスペースを敢えて地元の若者のコミュニティに開放し、活用してもらった。この写真は、彼らが敷地内に建てたスペースにゲストを招いて、ディスカッションミーティングを行なっている様子。その後、彼らの多くが様々なコミュニティを作り、今もゆるくつながって活動している。
(2007年10月7日撮影)

8月の月例オフ会、テーマは若者とコレクティブ

2020年8月24日月曜日

よりどりインドネシア第76号の発行と舞台裏

インドネシアの若者とナショナリズム

インドネシアの独立宣言記念日にあたって


8月23日、よりどりインドネシア第76号を発行しました。今回の発行にあたっての私の舞台裏のお話をします。

当初、戦後75周年に合わせて、日本占領期のインドネシアのある出来事について書こうかと思っていました。それは、900人ものロームシャが死亡したモクタル事件(モクター事件)と呼ばれるある事件です。

それは1944年8月以後、東ジャカルタのクレンデルにある収容所で起こった事件でした。破傷風ワクチンの接種をした後にロームシャが次々に亡くなった事件ですが、その中に破傷風毒素が入っていたことが分かりました。果たして、破傷風毒素が誤って混入されたのか、それを故意に混入したのか、日本軍による人体実験だったのか、真相は闇のままです。

日本軍は当時、現地人医師モクタル(モクター)が混入を認めたとして、モクタルを処刑しました。ところが、その後、当時の目撃談などから、自分以外の現地人医師を救出するためにモクタルが罪を被ったという証言が現れました。当時の日本軍のなかに、731部隊に関係していた人物が当時現地に居て、破傷風毒素が混入されたバンドゥンの防疫研究所に所属していたことが明らかになっており、日本軍による関与と証拠隠滅の疑いが示唆されています。

ただ、当時、他の感染症ワクチン開発において、その緊急性から、日本で動物実験を行わずにいきなり人体実験を行ったケースがいくつもあったことや、日本軍のロームシャに対する非人道的な態度、スマトラやスラバヤで感染症の日本人専門家が現地人を何百人も殺したと言っていたという話などを総合すると、日本軍の関与が疑われることも十分あり得るのではないかと思ってしまいます。

そうした話をまとめてみようと思ったのですが、何せ、色々と関係の資料を読み込む必要があるのと、とても優秀な疫学者のモクタルの名誉回復を果たしたいという意識が事実以上の物語を作ってしまっている可能性も考えられたため、まだ不確かなままに書くのは好ましくないと考え、書くのを止めにしました。

その代わりに取り上げたのは、経済政策の話です。インドネシアの2020年第2四半期のGDP成長率マイナス5.32%は、インドネシア史上2番目の落ち込みでしたが、周辺他国と比べればかなり健闘したと言える数字でした。そして、8月14日の大統領演説で発表された2021年度予算案についても概略を説明してみました。

最後に、轟さんの「往復書簡-インドネシア映画縦横無尽」の読み応えのある原稿が送られてくるのを待って、8月23日に発行しました。

というわけで、今回は、以下の5本になります。

▼2021年度予算案と今後の経済の展望(松井和久)⇒ 第2四半期のマイナス成長の後、新型コロナ対策と経済回復を目指す2021年度予算案が発表されました。今後の経済を松井が展望しました。https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/22739/

▼ウォノソボライフ(32):良妻賢母2020(神道有子)⇒ 神道さんの好評連載、今回は、地元のPKKの活動に着目しながら、ウォノソボにおける女性の社会活動と社会的地位向上を考えます。そこにはフェミニズムとは異なる面があるようです。https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/22737/

▼プニン沼伝説(太田りべか)⇒ 太田さんは、プニン沼伝説の基本型とそこからの派生型を紹介し、ジャワの民話がどう伝承されていくかを示しています。同時に、物語の最期に教訓が常に最後に書かれることに疑問も呈します。https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/22738/

▼ジャカルタ寸景:踏切の番人たち(横山裕一)⇒ 横山さんは今回は短編ですが、ジャカルタのありふれた風景の一つ、鉄道踏切の番人たちの様子をやさしい眼差しで描いています。ボランティアである彼らの思いに迫ります。https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/22736/

▼往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第3信:「辺境」スンバ島からのスハルト体制批判映画『天使への手紙』をめぐる評価軸(轟英明)⇒ インドネシア映画往復書簡の第3信は、轟さんがスンバ島を舞台とするガリン・ヌグロホ監督の初期作『天使への手紙』を取り上げ、2つの観点から新たな解釈を試みました。映画ファンは必読の内容です。https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/22743/

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2020年8月17日月曜日

インドネシアの独立宣言記念日にあたって

よりどりインドネシア第76号の発行と舞台裏

35年前の8月12日を思い出す


今日8月17日は、私がお付き合いしてきたインドネシアの独立が75年前に宣言された日である。インドネシアでは、この日をもって、インドネシア共和国として独立したとしている。

ただ、実際には、この後、旧宗主国オランダとの独立戦争が続き、実際上の意味で国際社会から独立したと見なされるのは、1949年12月のハーグ円卓会議において、インドネシア共和国以外の国・自治国を含めたインドネシア連邦共和国が承認され、オランダから主権移譲されたことによる。その後、1950年8月、国・自治国がインドネシア共和国に合流して、単一国家としてのインドネシア共和国が名実ともに成立した。

というわけなので、1945年8月17日に独立は宣言したが、その後の幾重もの困難を乗り越え、5年の年月を経て、独立国家としての体裁が整えられたのである。

巷では、「日本軍によってインドネシアは独立できた」という言説が聞こえてくる。これは正確ではない。たしかに、日本軍がオランダ領東インド領内へ侵攻したことで、最終的にオランダの植民地支配に終止符が打たれた。だが、日本軍が侵攻する前から、オランダ領東インド内では独立を志向する動きがすでにあった。

日本軍の侵攻の目的は資源の確保であり、そのための手段として、オランダ領東インドをオランダから独立させて大東亜共栄圏の一部に組み込もうとしたのである。日本軍の侵攻がオランダ領東インドに独立の機運を高めた面はあったが、主体性を持った真の自立的な国家としてオランダ領東インドを独立させる意図は日本軍にはなかった。

日本軍はマレー語を広めたが、それが、結果的に、後のインドネシア語につながった面はある。しかし、それは一直線ではない。ジャワ島などで日本軍に対する住民蜂起が起こると、日本軍はマレー語の使用を禁止し、日本語を強制する方針へ転換した。このこと一つとっても、日本軍が本当にマレー語を広めて独立後の国語にしようとしていたとは到底考えられない。

大東亜共栄圏で、日本と旧オランダ領東インドは「兄弟」ではなかったのか。兄が弟に日本語を強制する、ロームシャなどとして強制労働を強いる、というのは、当時の言葉でいえば教育なのかもしれないが、今の言葉でいえば、虐待ではないか。

もちろん、個々人ベースでみれば様々な日本人がいたはずである。現地の人々に農業技術を教えた人、常に親切丁寧に接した人、現地の人々から慕われた日本人も少なくなかったはずである。その一方で、日本人に殴られた、罵声を浴びせられた、強制労働させられた、日本人が本当に怖かった、という現地の人々もいたはずである。現地の人々に対して、乱暴で差別的な態度をとった日本人も少なくなかったはずである。

どんな人でも、自分の過去を振り返ったとき、他者から責められたくはない。自分の過去を傷つけられたくない。自分の過去の行為を正当化したい。そう思うのは、人間の常である。

だから、様々な日本人がいたにもかかわらず、自分にとって好ましい日本人の事例をとりあげて、それで「日本は」と一般化しようとする。たとえば、かつて現地に赴いていた人物の思い出話を真に受けて、「日本人は皆いい人たちだった」という言説を作ってしまう。もちろん、本当にその人物がいい人だったかもしれない。でも、だから日本人全員がいい人だったと結論づけることはできない。その人はいい人だった、というのがせいぜいである。

もっとも、その人物は本当のことを言っていないかもしれない。自分の過去を傷つけたくはないからだ。その人物が戦後要職に就いていたりすれば、なおさらである。しかし、えらい人が言うのだから間違いない、という根拠のない思い込みも現れてくる。

インドネシアの人々は我々に会うと、多くの場合、日本が好きだと言う。あたりまえである。我々が見知らぬ外国人に会ったとき、いきなり「お前の国は嫌いだ」と面と向かって言うだろうか。嫌韓・嫌中の人が、韓国人や中国人に会ったときに直接そう言えるだろうか。

逆に、我々が外国へ行ったときに、初対面の人から「日本人は嫌いだ」と言われたらどうだろうか。たとえ嫌いだとしても、面と向かって「嫌い」とは言わないのではないか。

面白い経験がある。あるとき、ジャカルタで、韓国人のふりをしてタクシーに乗ったときのこと。タクシーの運転手に日本人について訊いたら、「俺は韓国人のほうが好きだ。日本人はケチで物事をはっきり言わない」と答えるのだ。日本人から韓国人について訊かれれば「日本人のほうがいい。韓国人は乱暴で粗野だ」と答えるのだ。彼らは、お客に合わせて言っているだけなのである。それを真に受けて、インドネシアでは日本人のほうが韓国人よりも好かれている、という言説が日本人社会でなんと多かったことか。

何を言いたいかと言えば、誰かが言うことをきちんと吟味せずに、「日本軍は礼儀正しく、現地民に愛された」とか「インドネシア人は日本が好きだ」とか、簡単に一般化すべきではない、ということである。そういう人もいた、という程度に抑えておくべきではないか。日本人が皆、そうではないし、インドネシア人が皆、そうではない。その当たり前のことを忘れてはならない。

もう一つ。これは以前、ブログにも書いたが、インドネシアが親日かどうかを気にする日本の人々は、親インドネシアだろうか。日本は相手からの親日を求める一方で、相手に対する親近感を深めているだろうか。多くは、インドネシアに親日であってほしいけれども、自分は親インドネシアなどということを考えてもみていないのではないか。それで、本当に真の信頼関係が築けるのか。

自分にとって都合のいいときには相手に信頼関係を求める一方、自分からは相手との信頼関係を築く努力をしているとはいえない。これが今の日本なのではないか。

前に、国家ではなく地域、と書いた。国家間で軋轢が起こったら、国民はそれに引きずられるのか。個人と個人、地域と地域、そうした関係のなかでこそ、相手からの信頼と相手への信頼を醸成し、国家間の利害対立を超えた関係づくりをしていく必要があるのではないか。それがなければ、我々の生活を国家が脅かす事態を招く恐れがあり得る。

インドネシアが親日かどうかより、一人でも多くの日本人がインドネシア人と知り合い、普通の人間どうしで友だちになり、仲よくなっていく、そういう話を進められたらと思う。国家とは関係なく、日本人が好きなインドネシア人とインドネシア人が好きな日本人が増えていくことのほうが大事だと思う。

私の主宰する「よりどりインドネシア」は、そんな関係性を増やしていく流れを作ることを目的としている。

ともかく、75年目のインドネシア独立宣言記念日をお祝いしたい。インドネシアの数え切れない友人・知人たちの具体的な顔を思い浮かべながら。

12年前、南スラウェシ州トラジャで出会った子どもたち(2008年8月7日撮影)


よりどりインドネシア第76号の発行と舞台裏

35年前の8月12日を思い出す


2020年8月12日水曜日

35年前の8月12日を思い出す

インドネシアの独立宣言記念日にあたって

なぜ国家ではなく地域なのか


35年前の8月12日、東京発大阪行きの日航JL123機が御巣鷹山山麓に墜落し、520人もの人々が亡くなった。日本の航空機事故で最悪の惨事となった。35年経った今も、遺族の方々が慰霊登山をしたり、あるいはしずかに、あの日、命を奪われた大切な人々のことを深く思い続けている。

あの日、私は、インドネシアにいた。西ジャワ州チマヒにいた。

35年前、大学を卒業して就職した研究所で、インドネシアとの今に至る付き合いが始まった。研究所では原則、入所1年目は現地語をイロハから学び、対象地域の基礎的な知識を身につけることに専念し、海外への出張はなかった。2年目からは出張のチャンスがあった。

入所して初めて学び始めたインドネシア。新米でも世間からはインドネシア研究者とみられてしまう引け目もあり、現地語を学び始めたばかりにもかかわらず、少しでも早くインドネシアの現地へ行きたいと思っていた。そこで、6月に始めてもらったボーナスを全部使い、有給休暇を取って、とにかく、8月にインドネシアへ行くことにした。

入所直後の4月半ば、母校の大学院に入学したインドネシア人留学生のJさんを恩師から紹介してもらい、インドネシア語の先生になってもらった。ちょうど夏休みでインドネシアへ帰国しているJさんを訪ねて、インドネシアへ行くことにしたのである。Jさんの自宅があるのがチマヒだった。

初めてのインドネシア入国。1985年4月1日からビザなしで入国できるようになったという情報を聞いていたが、その情報が正しいかどうか心配だった。パスポートを手に持ちながらおどおどしていると、入国管理官から「こっちへ来い」と別室に呼ばれる。「米ドルを持っているか?」「財布を見せろ」といわれて財布を出した。

管理官は、前日に1泊したシンガポールで替えてきたルピア札の入った財布をしげしげと見た後、当時の最高額紙幣だった1000ルピア札を財布から一枚抜き取り、パスポートにポンと入国スタンプを押した。「行け」と指示されて、イミグレを通過した。これが私の最初のインドネシアの通過儀礼だった。

空港まで迎えに来てくれていたJさんに何があったかを話したら、Jさんは私がびっくりするぐらい平謝りに謝ってきた。「インドネシアを嫌いにならないでほしい」と繰り返した。

そんなJさんに連れられて、空港からチリリタンのバスターミナルへ向かい、そこからバンドゥン行きのバスに乗り込んだ。インドネシアでの初めての食事は、バスの休憩で立ち寄ったプンチャックを越えたところのスンダ料理の店。生まれて初めて、手でご飯を食べた。

バンドゥンの手前でバスを降り、Jさんの家に泊まった。約1週間、お世話になった。Jさんの家族と一緒にチマヒからバンドゥン、バンドゥンから夜行バスで夜明け前にジョグジャカルタに着いて、ボロブドゥールを訪れた後、「もう金がない」と言われ、ジョグジャカルタに泊まることなく、昼過ぎのバスでジョグジャカルタからチマヒへとんぼ返り。当時のバスにはまだエアコンがなく、椅子のクッションもほとんどなかった。本当にあの時は、本当に疲労困憊で、Jさん宅へ戻った次の日はひたすら寝た。

たぶん、ジョグジャカルタから戻った日かその翌日が1985年8月12日だったと思う。

チマヒの街中へ買い物に行ったJさんが日刊紙『コンパス』を買って帰ってきた。「日本で大変なことが起きた」と言いながら。私は無謀にも、『コンパス』に書かれているインドネシア語の記事を読もうとした。小さな辞書を携帯していたが、なぜかコリンズの「マレー語辞典」だったので、単語がうまく分からない。当時はまだ、接頭語や接尾語が分かっていなかった。それでも、日本で何が起こったのか、分かりたいと思った。

記事のインドネシア語の単語の意味はよく分からなかったが、どうもおそらく飛行機が墜落したという内容のようだった。何人か亡くなった方の名前が載っており、坂本九さんの名前を見つけた。しかも、墜落した飛行機は日本航空のようだった。

記事を読んだ後、急に飛行機に乗るのが怖くなってきた。日本から海外へ行ったのは、大学4年のゼミ旅行で行った韓国以来の2回目だが、一人だけで飛行機に乗ってきたのはこの時が初めてだった。日本へ帰れるんだろうか。墜ちたらどうしよう。今にして思えば、ただの笑い話だが、初めて一人で飛行機に乗ってインドネシアへやってきた23歳の自分は、本当に怖く感じていた。

そのとき利用したのは、シンガポール航空機だった。帰りはシンガポールで1泊し、翌日の便でシンガポールから成田に着いた。成田に着陸したときには、本当に安堵した。日航機墜落事故が甚大な飛行機事故だったと実感するのは、帰国後、繰り返し繰り返し流れるメディア報道によってだった。

以来、8月12日なると、毎年、Jさんがチマヒの街中で買ってきた新聞を食い入るように眺め、よく分かりもしないのに、何が書いてあるのか、一語一語、「マレー語辞典」をひきながら、坂本九さんの名前を見つけた自分、帰国便に乗るのをとても怖がった自分を思い出すのである。

35年経った今も御巣鷹山に眠る方々の冥福と航空安全を心から祈る。

2019年、久々にチマヒを訪れた。1985年、1993年以来3回目。チマヒ駅。

(2019年3月9日撮影)


インドネシアの独立宣言記念日にあたって

なぜ国家ではなく地域なのか


2020年8月10日月曜日

なぜ国家ではなく地域なのか

35年前の8月12日を思い出す

軍都だった広島、被害者は加害者だったことを改めて想う


これまで私自身、地域研究としてインドネシアに関わってきた。地域研究が一国研究として捉えられていた時代だった。インドネシアという一国に関する政治・経済・社会を総合的に研究し、「インドネシアとは」という形で語り、分析することが求められてきた。

そのスタンスは、基本的に、今でも維持している。「インドネシアとは」という語りや分析が求められているときには、それを前提として対応するようにしている。

ただ、インドネシアと関わり年月が長くなり、全34州のうちの28州を訪れ、様々な場所へ行くことで、「インドネシアとは」と一般的に括ることに満足できなくなってきた。州ごとだけでなく、州の中の県・市ごと、さらには県・市のなかの村落、集落ごとに、様々で個性を持っていることに気づかされた。こういう事例もある、ああいう事例もある、それを総合して「インドネシアとは」といえるのか、といつも悩んできた。

そうしているうちに、インドネシアという国家を論じる一国研究とは別に、様々な地域を対象に考察するための地域研究が必要だと考えるようになった。それは、必ずしも、一国研究の一部としてではなく、それぞれの地域を地域としてみるという形になっていった。

なぜなら、地域というのは、そこに住む人々の生活の場であるからだ。人々の生活と地域とは分かちがたく結びついている。人々にとって、国家とは雲の上のような存在であり、何かがあると、自分たちの生活の場にどかどかと外からやって来るものだからである。

国家がいかなるものであろうと、資本主義であろうと社会主義であろうと、権威主義であろうと独裁国家であろうと、地域は存在する。人々が生活する限り、地域は存在する。

考えてみると、国家で論じるから、国家間の優劣や国家としての威信といった話が出てくるのではないか。逆に考えると、国家がなければ、人々は本当に暮らしていけないのだろうか。死んでしまうのか。

いや、人々は生きていく。国家のあるなしにかかわらず、人々は生きていく。しかし、人は一人では生きていけない。生活の基盤となる地域はのこる。地域こそが、人々が生きていくために必要な単位である。

国家は、それ自体の存続のために、場合によっては、地域を破壊する。地域の人々の暮らしを破壊する。破壊されても、人々は新しい地域をつくる。苦しみながらも、新しい生活の場所で新しい地域をつくる。

戦争はその最たるものだ。戦争は国家と国家が戦う。これまでの戦争では、そのために国家は地域の資源や人々を強引に動員した。その動員を正当化するために、「お国のために」と地域の人々を洗脳した。地域の人々は洗脳されたかもしれないが、あるいは洗脳されたふりをして、国家からの強制動員や物資不足のなかで、毎日の生活を必死で守ろうとした。

人々が生活する場が地域である。地域がある範囲でまとめられたものが国家であるが、地域側からまとめてほしいと願ってまとめられたものではない。国家がまとめたのである。地域での人々の生活の現場から国家は遠いものになる。国家には個々の人々の生活実感が反映されにくいからだ。

でも、国家が亡くなればいいという話ではない。地域間の様々な問題を解決し、生活に必要な資源を適切に分配するために、国家は必要だと思う。地域では整備できない、多くの地域に共通に裨益するインフラなどは、国家が整備しなければならない。でも、国家目標のために、地域資源が収奪され、地域の人々の生活が破壊されることがあってはならない。

そして我々は、日本以外の世界各国もまた、同様であることを想像できるかどうか。どんな国家にも、そこで生きる人々がいる。人々の生活の場である地域がある。我々と同じように、毎日生活している人々がいる地域がある。

もっといい明日になってほしい。幸せになってほしい。元気で楽しく過ごしてほしい。平和であってほしい。そうした願いや希望は、根本的に、世界中の誰もが同じなのではないか。自分たちの生活やその基盤となっている地域を大事にしたいのではないか。たとえ、その国家が独裁国家であったとしても。

同じなのだ。人々の願いや希望は。皮膚の色や言語や生活習慣や風俗や思考方法や生活水準や地域性は違えども、地域での暮らしの中から生まれる人々の願いや希望は、世界中どこでも同じ。あたりまえといえばあたりまえのことだ。

それがいったん国家という範疇で物事を捉えると、あたかもその国家のすべての人々が国家に従順なモノトーンな人々になってしまいはしないか。そして、○○国の○○人はこういう奴らだ、危険だ、と(何らかの意図をもって)モノトーンな色が付けられ、好き、嫌い、といった感情で捉えるようになってしまう。その実、その国家の国民全員がそうだという証明などできるはずがない。

これだけ世界中がネットワークでつながれる時代に、まだ国家のみで世界を見ているのか、と思う。国家を通して世界を見る場合もあるし、国家をいう枠を外して、地域や集落を見るという場合もあっていいはずだし、後者がより多くなっていくことで、我々の他者への想像力がより高まっていけるだろうと思う。

○○国の○○人の△△さんと知り合うのではなく、△△さんと知り合う、でいいのだ。△△さんを知るには、必ずしも○○国を知る必要もない。△△さんのくらしや△△さんの生活する地域について知ることのほうが大事ではないか。すると、そこで、我々のくらしや生活する地域での願いや希望との共通点が見いだせるのではないか。そうした出会いを重ねていくことで、我々は、国家を語るときとそこの地域に生きる人々を語るときとの間に、大きな違いがあることに気づかされるはずである。

日本国と日本人を一致させる必要はない。そもそも日本人とは誰なのか。日本国籍を持っている者を日本国人というのが正しい。しかし、日本国籍を持っている者はすべてが日本国由来とは限らない。外国籍を持っていた方が日本国籍を取得する場合もある。逆に、日本国籍を持っていたものが外国籍になる場合もある。

日本人とは誰か。いま日本で生活している人は、国籍がどうであれ、日本人なのではないか。日本国へ税金を払って法に則って生活している人は、日本人なのではないか。

日本を愛する日本人もいれば、日本が嫌いな日本人もいる。それはあたりまえのことだ。国家に地域を収奪され、生活を破壊されるような経験をした人々に対して、国家を愛せといってもそれは無理な話だ。しかし、その人々にも暮らしがある。くらし続ける地域がある。地域は、その人々がその地域の他の人々の生活を脅かさない限りにおいては、国家を愛せない人々をも排除しない。

国家は変わる。社会主義から資本主義へ、軍国主義から民主主義へ、国家は変わり得る。しかし、人々の生活は変われない。暮らしていかなければならない。その基盤としての地域がある。国家に翻弄される人々を地域は受容する。それは日本だけではない。世界中がそうなのだと思う。

国家が人々に忠誠を強制するとき、生きていくために、人々は国家に忠誠を誓う。それは本心からではない。忠誠を誓わなければ、国家から強制的に排除され、場合によっては思想教育や洗脳を受けるからだ。それでも、人々が毎日くらす基盤としての地域は存在し続ける。

地域、とひとことで言っても、様々な領域がある。これまで述べてきた地域とは、必ずしも行政単位を意味しない。人々が暮らす領域には、複数の「地域」がある。人々の生活の基盤である地域をベースにして、世界中の無数の地域に生きる人々をみるとき、様々な違いの向こうに、くらしの中の共通の素朴な願いや希望を見い出せる。

私の思うグローカルは、グローバルに考えてローカルに行動する、ということ以外に、ローカルから考えてグローバルに行動する、ということをも含む。

地域単位で考えれば、国家間のような優劣を考える必要はない。○○人というようなレッテルを貼る必要もない。そこに生きる人々のくらしを想像し、そのくらしの根本の願いや希望が共通であることを意識して、必ずしも国家を通すことなく、地域と地域がつながりあうことが可能で、それが新しい世界をつくっていく一助になると思っている。

8月10日は山の日。福島市内・実家近くの二ツ山公園から見た吾妻連峰。

(2018年10月21日撮影。本文とは関係ありません)


35年前の8月12日を思い出す

軍都だった広島、被害者は加害者だったことを改めて想う


2020年8月5日水曜日

軍都だった広島、被害者は加害者だったことを改めて想う



8月4日の朝日新聞オピニオン欄で、「被爆建築、軍都の証人」という記事を読んだ。被爆された切明千枝子さんのインタビュー記事で、その一言一言に重みがあった。


8月6日は、75年前、世界で初めての本番での原爆投下が広島に対して行われてしまった日。その悲惨な経験を踏まえ、広島は平和と核兵器廃絶を訴える使命を果たし続けてきた。残念ながら、その広島の思いはまだ現実化されてはいない。

原爆ドームを臨む(2011年12月14日撮影)

原爆投下がなければ第二次世界大戦は終わらなかったのか、本当のところは結論づけられない。広島は、原爆の被害を世界へ向けて懸命に訴え続けてきた。

一方で、広島は軍都だった。日本軍の勝利のために、貢献しようとする都市だった。インタビューにあるように、被服支廠、兵器廠、糧秣支廠という3つの軍需工場が存在した。日清戦争のときには、広島に大本営があったという。

切明さんは語る。広島は戦争のおかげで大きくなった街。太平洋戦争に至るまでの日本の軍国主義のシンボル。広島が軍都だったこと、原爆被害を受ける前は加害の地であった、と。語り部である彼女は、だからあえて、戦前からの広島を語るのだ。

軍都だった広島は、戦争の重要な加害者だった。それが原爆投下で、一転して、悲惨な戦争の被害者となった。そして、その両者はつながっていたのである。戦争のもっとも重要な加害者だったから悲惨な戦争の被害者となったのだ。

その被害者の部分だけを切り取って平和を訴えても、原爆投下を正当化する側には響かない。広島は、過去の加害者としての自らの罪を深く省みて、二度と戦争の加害者にはならないという決意を持って、平和を訴えるに至ったのだと思う。

翻って、程度の差こそあれ、同じ戦争の(被害者であり)加害者であるはずの他の日本の者たちは、過去の加害者としての自らの罪を深く省みているだろうか。原爆を落とされた広島や長崎をことさらに特別視していないだろうか。

私は戦争を知らない。しかし、戦争に反対することができず、程度の差こそあれ、戦争に加担した者たちの子孫であり、その歴史の一端を踏まえた存在でもある。自分の親や祖父母の世代が戦争に加担した事実を否定することはできない。

原爆や核兵器の悲惨さは世界へ訴え続けなくてはならない。核兵器の必要のない世界を作らなければならない。しかし、それを日本が被害者として訴え続ける限りは不十分ではないか。被害者である以前に加害者であったことを忘れることなく、(戦争の)勝者・強者が敗者・弱者を支配するような世界を変えなければ、平和は訪れない、核兵器が不要にはならない、と訴えていかなければならないのではないか。

広島は、被害者である前に加害者であった。その事実を踏まえてこそ、核兵器廃絶や世界平和を訴え続ける意味があるのだと思う。そして、広島を広島だけにするのではなく、我々もまた「広島」であるということを自覚して行動していくことが求められるのだと思う。

過ちは繰り返しませんから・・・。その過ちとは、戦争に積極的に加担した軍都・広島の過ちであり、それに加担した我々の過ちである。自分たちの過ちなのである。真の平和運動はそこから始まるのである。

平和公園から原爆ドームを臨む(2011年12月14日撮影)