2020年2月3日月曜日

地方に自らの足元を学ぶ場を広げる

大学入試の季節になってきた。大学の数や種類は、圧倒的に東京などの大都市に多い。このため、たくさんの若者が大学受験のために大都市へやってくる。

学びの機会は大学に限らないが、それでも、学びの機会の数は圧倒的に東京などの大都市のほうが多い。就業機会が大都市に多いことは明らかだが、就業に続く学びの機会が大都市に多いことが就業機会の大都市集中の理由でもあり、結果でもあるように思える。

彼らは何を学びに大都市へ向かうのだろうか。それは、普遍的な学問、すなわち、日本中、いや、世界中どこでも通用するユニバーサルな学問を学びに来るのだろう。学問の真理とは、理論や論理の普遍性にあるからである。

地方にも大学はあるが、そこで若者が学ぶものは、大都市で学ぶものと基本的に同じである。すなわち、世界中どこでも通用するユニバーサルな学問である。大都市へ行かずとも、地方の大学でそれを学べるはずである。しかし、若者は大都市へ向かい、地方の大学で学べるのと同じ学問を学ぶ。でも、それは本当だろうか。

地方の大学のプロの研究者ならば、より学問的にレベルの高い場所へ移って、自分の学問に磨きをかけたいと願う。その結果、地方の大学から大都市の大学へ移る。地方の無名大学から大都市の有名大学へ移り、研究者としての他者からの評価を上げていくことになる。

こうした大学を例にした状況をみれば、学ぶということがユニバーサルな学問だけである限りにおいて、学ぶ機会は大都市へ集中し、そこでの様々な相互作用によって、ユニバーサルな学問が進化していく、ということになる。

このことを否定することはできない。新しい理論や学説は、様々な研究者どうしの関わりのなかから生まれ、真理の追求が進められるからである。

では、地方には、学ぶ機会がないのだろうか。地方における知とは、おそらく、世界中のどこでも通用するものではないかもしれないが、その地方では必ずや通用する、というようなものである。たとえば、農耕儀礼などは、その地方の気候や風土と密接に結びついており、違う地方や大都市には当てはまらないものであろう。

そのような、ユニバーサルでない知は、学ぶ価値のないものなのだろうか。

私は、インドネシアという、日本とは大きく異なり、一国のなかに様々な多様性を持つ空間を対象とした、地域研究に携わってきた。ところ変われば品変わる。地域研究は「理論がない」という批判を常に受けてきているが、それは、気候や風土や様々な異なる背景と密接に結びついた地域をユニバーサルな学問として取り扱えないことによるものであった。

どんなところにも、そこに固有な独自のものがある。それは、先祖代々、その地方の暮らしの継続のなかで守られ、ときには時代に応じて変化し、現代まで続いてきているものである。その継続してきたという事実のなかに、その地方をその地方たらしめている深い意味が存在し、それがその地方の固有性や独自性を形作っている。

新しく外からやってきたユニバーサルな学問に晒されたとき、そうしたその地方の固有性や独自性は、ともすると、遅れた、恥ずかしい、前近代的なものとして虐げられ、捨象されてしまったりする。その地方の暮らしを成り立たせてきたものがなくなる。アイデンティティが消えていくのである。

そうした地方の固有性や独自性のなかには、電気もガスもなかった時代に、その地方の人々はどのようにして暮らしていたのか、どのような保存食を食べていたのか、それを作るための技術や技能はどう継承されてきたのか、といった、長年にわたって積み上げられてきた、その地方に生きる人々の暮らしの知恵が詰まっている。

災害や天災に直面したとき、電気もガスも来ない状態に陥ったとき、私たちは自分の暮らしをどのように維持していくのか。前近代的なものとして捨象された固有性や独自性のなかに、有用なヒントが詰められてはいないだろうか。

ユニバーサルな学問は、必ずしも、様々な自然環境の異なる地方の暮らしを支えてはくれない。そこに生きる人びとの長い歴史の営みから得られた知恵や教えこそが、自分たちの暮らしを支えてくれるのである。

そして、そうした様々な地方の固有性や独自性に基づく知恵や教えを学ぶことで、様々な地方の根底に流れる共通する何かが浮かび上がってきたときには、それがユニバーサルな学問として立ち上がるかもしれない。

現代は、外来のユニバーサルな学問やグローバリゼーションという名の世界的潮流の浸透によって、地方が長年にわたって培ってきた様々な知恵や教えが消滅していく時代である。その地方の住む人々が、ときには率先して、それらの消滅に加担し、スマホでなんでも分かると錯覚するような状況をもたらしてはいないだろうか。

我々もまた、グローバリゼーションの推進役になっているのである。

そんな時代に、地方に暮らす人々が、その地方で先人たちの長年にわたって培ってきた様々な知恵や教えから、もう一度、暮らしというものを学び直すことが必要なのではないだろうか。自分たちの足元を学ぶことが必要なのではないだろうか。

そんな、自分たちの足元を学ぶ場が、全世界の至るところに生まれ、その多種多様な知恵や教えを面白がりつつ、それらのなかから普遍性を紡ぎ出せるならば、それこそが人類が生きていくうえでのユニバーサルな知恵や教えとなっていくのかもしれない。

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