日本の昨今のヘイトスピーチの横行や、インドネシアでの多数派イスラムの名の下での強制、といった現象を見ていると、それを行なっている人間が常にマジョリティのなかにいる、という当たり前の事実がある。
しかし、それを行っている人間は、マジョリティのなかでのごく一部の人間に過ぎない。マジョリティのなかのごく一部の人間が、結果的にマジョリティの枠に守られながら、ヘイトスピーチを行っている。
マジョリティのなかの多数派は、マジョリティの同じアイデンティティを持つがゆえに、その方法に賛意は示さずとも、ヘイトスピーチを行う人間をマジョリティのなかから追放することができない。
結局は、マジョリティという繭に守られているから、ヘイトスピーチが可能になるのである。殺人やテロなどのように一線を超えない限り、マジョリティのなかから彼らは排除されない。
だから、彼らは、マジョリティのなかで本当は賛同者が少ないマイノリティだけれども、マジョリティのような顔をしてヘイトスピーチを行える。
たとえ、ヘイトスピーチが深い洞察に基づいたものではなく、もしかすると単なるうっぷん晴らしやストレス解消のネタに過ぎないとしても、それをやれると思っている。
では、彼らがひとりぼっちになったら、ヘイトスピーチをするだろうか。韓国や中国で、彼らはヘイトスピーチをするだろうか。
そんな人をまだみたことはない。
海を隔てた外国から見れば、日本国内でのヘイトスピーチは、犬の遠吠えにすぎない。ただのうっぷん晴らしにしかみえない。しかし、それがマジョリティを動かしてマスで動き始めたとき、外国の反応は急転する。
マジョリティのなかでしか生きてこなかった人たちよ、一人になってごらん。一人になって、誰も知り合いのいない、全く知らない土地へ行ってごらん。
こわい?不安?
自分がマイノリティになって、初めて分かることがたくさんある。騙される。いじめられる。言葉が通じない。ときには、「ここは俺の国だ。日本へ帰れ」と言われるかもしれない。
この日本で、そう言われている外国から来ている人々に思いを馳せられるだろうか。
他者への想像力を高めよ。そのためには、自分がマイノリティになる経験をすることが大事なのだ。
そこで初めて、もし、誰かが自分に憎しみの言葉をぶつけてきたら、自分はどんな気持ちになるのか、が理解できるはずだ。
きっと、そんな目に遭ったら、その人はその国や場所を嫌いになってしまうだろう。二度と来るものか、と思うだろう。
そう、そうなのだよ。
自分がされて嫌なことを相手にすることはどうして正しいのか。相手よりも強ければ、頭が良ければ、それを正当化できるというのだろうか。
それは、ただの傲慢。でも、現実の世界ではよく見られることだ。
一度、マイノリティになってみよ。一人だけになってみよ。マイノリティになる経験をした人間が多くなれば、他者への想像力がもう少し高まったマジョリティの社会をつくることができるはずだ、と思う。
桜の背景にはやはり青空が似合う。
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