2020年12月18日金曜日

ときどき昔ばなし(1):ジャカルタ初赴任前

インドネシアと付き合って35年が経つ。最初に赴任したのは、首都ジャカルタ2年間だった。研究所の海外派遣員として、国立インドネシア大学大学院に入った。

入学試験は日本では受けられなかった。入学試験を受けるために有休をとってジャカルタへ飛び、インドネシア人の皆さんと机を並べて、2日間、6科目の記述式試験を受けた。

なぜ、インドネシアで大学院生になったのか。当時は1990年、スハルト政権の絶頂期である。研究者用の調査ビザを取るのはとても難しかった。今でこそ、数ヵ月でとれる(という話の)調査ビザだが、当時は半年かかるか1年かかるか、出ないか、全く予想がつかなかった。とくに、政治社会関係の調査を行うための調査ビザはほとんど出ないと言われていた。

それで、学生ビザにしたのである。学部卒で研究所に入ったので、インドネシア大学大学院で修士課程に入った。

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当初は、国連が資金を出して開設する人口・労働特設コースに入るつもりだった。インドネシアの学卒労働市場を研究テーマにしていたからである。そして、同コースを所管するインドネシア大学人口問題研究所に入り浸る、という計画だった。

しかし、待てど暮らせど、人口・労働コースが開設されるという話が聞こえてこない。当時、ジャカルタ駐在の海外調査員の大先輩が情報を集めてくださっていた。そしてとうとう、人口・労働特設コースを諦めて通常の経済学研究科に入るように勧められた。

人口・労働特設コースならば試験がなさそうだったのだが、経済学研究科だと試験を受けなければならない、という。科目は、もう、うろ覚えだが、小論文、英語、経済数学、統計学、ミクロ経済学、マクロ経済学だったと思う。そして、試験はジャカルタへ出向いて受けなければならなかった。

研究所に「試験を受けるためのジャカルタ行きを出張扱いにできないか」と懇願したが、「落ちたらどうする?」と言われて拒否された。やむなく、有給休暇をとり、自腹でジャカルタへ飛んだ。

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経済学研究科の試験問題はもちろん、すべてインドネシア語だった。受験会場の教室には、おそらく40~50人ぐらいの受験生がいたと思う。私は、インドネシア語を学び始めて5年ぐらいだったが、無謀にも、インドネシア語で答案を書いた。正しいインドネシア語かどうか分からないが、とにかく書いて書いて書きまくった。今にして思うと、よくもまあ、そんなことをしたものだとあきれてしまう。

すべての科目で、他の受験生は皆、試験時間が終わる前にどんどん出ていってしまう。いつも最後まで残っているのは自分だけだった。ミクロ経済学もマクロ経済学も、2時間の試験時間なのに、皆んな1時間ぐらいで出ていってしまう。すごく優秀なのだ、と思った。2時間ギリギリまで居残って試験問題と格闘している自分を、試験監督の女性が「早く終わってくんないかな」という目つきで見ていたのを思い出す。

経済学理論だって分かっているわけではない。インドネシア語だってできるわけではない。試験問題をちゃんと理解して解答したのかどうかも、実は定かではなかった。でも、とにかく参加はした。研究所の上司が「落ちたらどうする?」といった言葉が急に現実的なものに感じたものだった。

もう、後は野となれ山となれ。元々、経済学研究科ではなくて人口・労働特設コースへ行きたかったのだ。しかたなくて経済学研究科を受けなければならなかっただけだ。落ちたら、そのときまた考えるしかない。研究所をクビになるわけでもなかろうし・・・。

帰国前に、シンガポールに寄って、シンガポール駐在の別の大先輩に1日お付き合いしていただいて、美味しいものを食べさせていただいて、シンガポールを堪能して、すっきりして、帰国した。

しばらくして、合格、という知らせを聞いた。実力で試験結果がよかったからではないだろう。ジャカルタ駐在の大先輩が、特別にお願いし、日本人だからということで合格にしてくれたのだろう、と自分は冷めていた。おそらく、研究所とインドネシア大学との良好な関係に資するためだったのだろう。

ともかく、というわけで、ジャカルタでの滞在が決まった。

(ときどき思い出して書きたくなったらいつか書く昔ばなし、つづく)

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