2018年9月30日日曜日

スラウェシ中部地震の被災者支援に船で向かう海洋学士会への支援呼びかけ

スラウェシ中部地震の被災者支援に
船で向かうインドネシア海洋学士会への支援(呼びかけ)

9月25日頃から群発していたスラウェシ中部の地震は、28日午後、マグニチュード7.4の大地震を引き起こし、沿岸部は最大6メートルの津波に襲われました。

9月29日現在、中スラウェシ州パル市だけで死者384名、行方不明者29名、負傷者540名と報じられていますが、通信手段が途絶したため、隣のドンガラ県や西スラウェシ州北マムジュ県の被害状況は不明のままです。30日午後4時時点で死者832名と発表されましたが、2004年12月のスマトラ沖大地震・津波の時のように、今後、被害状況はますます大きくなることが予想されます。

パル市のムティアラ空港もパントロアン港も施設が崩壊し、機能不全に陥っているほか、ドンガラ県やパル市へ向かう陸路も、東方のポソからも南方のマムジュからも、土砂崩れ等により、車が通行できない状況が続いており、救援物資や人員の派遣を大きく妨げています。

こうしたなかで、私の真に信頼できる友人たちが関わっている、海洋学を学んだ大卒者の団体であるインドネシア海洋学士会(ISKINDO)とマカッサルの地元NGOであるYayasan Makassar Skalia(YMS)より、マカッサルから救援物資とボランティアを乗せた船でドンガラ県・パル市へ向かう準備を始めた、との連絡がありました。彼らの計画の詳細は、以下のサイトで公表されています。


彼らは次の4つのチーム活動を予定しています。
(1)ドローンにより被害状況を地理的情報として把握し、他団体の救援・復興活動に提供できる情報を収集するチーム。
(2)医療チーム、及び食料、医薬品、飲料水、テント、毛布、生理用品、発電機など、緊急に必要とされる物資を届けるボランティアチーム。
(3)食べ物や食料品を提供する炊き出しチーム。
(4)今後の支援活動に資する的確なデータや情報を提供するチーム。

彼らは10月5日早朝、マカッサルを出発して現地へ向かう予定です。彼らの活動はあくまでも初期段階のものであり、今後、支援活動が長期化するなかで、次の段階に沿った新たな支援活動が行われていくことが予想されます。

インドネシアではすでに、国軍やインドネシア赤十字が迅速な救援業務を進めているほか、クラウドファンディングを通じて多額の寄付が集まっています。また、様々な社会団体が募金活動を進めており、私自身もどのように協力すべきか、色々と考えてきました。

また、被災地であるパル市やドンガラ県にも信頼できるNGOや団体があります。しかし、通信手段が遮断され、彼ら自身も被災者である現状を鑑み、まずは、信頼できる外部者が被災地を支援する活動に協力すべきではないかとの結論に至りました。すなわち、今後、被災地の信頼できるNGOや団体が動ける状態になれば、今度はそこを支援していきたいということです。

以上の趣旨にご賛同いただける方に、募金のお願いをしたいと思います。彼らの指定した振込先口座(インドネシア国内)は以下のとおりです。

 銀行名:BRI
 口座番号:2136-01-000098-56-7
 口座名義:Ikatan Sarjana Kelautan Indonesia

上記に直接振り込んでいただいて構いませんが、日本国内での振込をご希望の方は、私を信用していただけるのであれば、私の銀行口座へ振り込んでいただければ幸いです。なお、「振り込みました」との連絡を matsui@matsui-glocal.com 宛にご一報いただければ幸いです。

 銀行名:みずほ銀行大塚支店(支店番号193)
 口座番号:2268635
 口座名義:マツイカズヒサ

また、クレジットカード決済をご希望の方向けに、Polcaでも募金を募ります。以下のサイトにアクセスされてください。


以上、皆様のご理解をいただき、腰を据えた支援活動を始めていきたいと思います。ご協力のほど、よろしくお願い致します。

2009年8月26日、当時のパル市長と一緒に、断食明け前の賑やかな特設市場を訪問した時の写真を掲載します。当時の市長には本当によくしていただきました。パルでの恩人の一人でした。


今朝、彼、ルスディ氏が現市長とともに亡くなられたとの知らせがありました。故人の善意を改めて思いつつ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

(訂正)その後、パル市の現市長の生存が確認され、先の情報は間違いであったことがわかりました。ルスディ氏の消息についても、確認情報はまだありません。誤った情報を載せてしまい、大変失礼いたしました。
(訂正2)ルスディ氏については、本日(10/1)、やはり亡くなられたとの情報を受け取りました。見た目はどこにでもいるおっさん風で、庶民的などんな階層の人々とも交わる方でした。改めてご冥福をお祈り申し上げたいと思います。

2018年9月23日日曜日

佐伯で再びMALTA

9月22日、さいきミュージック・アートクラブ主催のMALTAコンサートのため、大分県佐伯市に来ました。

同クラブは昨年11月にMALTAコンサートを開催しましたが、今回は、MALTA氏の2度目の佐伯でのコンサートです。

筆者は、なぜか同クラブの会員にされてしまっており、今回のコンサートでも、会場でのポスター貼りやコンサート終了後の跡片付けなどに関わりました。

今回のMALTAコンサートですが、1回目よりも演奏する姿が元気で、ずいぶんノッていたように見えました。この1年で、佐伯がだいぶ気に入った様子で、演奏自体も、なかなか熱いものを感じる、とても充実したものでした。MALTA氏のほかの6人の演奏のレベルの高さも、改めて感じられたひとときでした。


観客の反応も昨年よりもずっとよく、楽しめたコンサートでしたが、観客数自体は昨年より少なかったのが残念でした。

今回の目玉は、コンサート終了後の「晩餐会」。会場を移し、MALTA氏とメンバー6人を招いて、彼らに対する慰労会のような催しです。

佐伯在住・出身、あるいは佐伯にゆかりのある声楽家、サックス奏者、ビオラ奏者、女性ダンサー・グループ、大分の有名な変面パフォーマーなどが次々に演じていき、それをMALTA氏やその他この会に出席した方々が一緒に楽しむ、という趣向でした。

下の写真は、会の終了時に、挨拶をするMALTA氏です。最後は、MALTA氏による三本締めでした。


おんせん県の大分県で温泉のない佐伯市は、市民有志が音楽で街を元気にする「音泉」都市を標榜して、昨年、任意団体である「さいきミュージック・アートクラブ」を立ち上げました。

佐伯は大分県の一番南端に位置して交通も不便なので、コンサートをしたアーティストは必ず1泊せざるを得ません。このため、それを逆手に取り、コンサートが終わった後に、地元のファンとの懇親の機会を作り、アーティストにとって思い出に残る場所として記憶に残したいという狙いがあります。

前回の佐伯での寺田尚子さんのコンサートの後も、懇親会があり、寺田さんが懇親会の場でいきなりバイオリンを弾き始め、ちょうど誕生日だった友人の前でハッピーバースデーを奏でる、といったハプニングも起こりました。アーティストにとっても、地元の方々にとっても、単に音楽を楽しむだけでない、一緒に触れ合える機会が作れるのは、地理的に悪条件だからこそなのかもしれません。

MALTA氏は本当に佐伯が気に入った様子で、コンサートのアンコール終了後、ステージから「佐伯に来年も来るよ!」と叫んでいました。

商業的な興行に留まらない、心と心のふれあいが生まれ、アーティストに愛着を持ってもらえるような街になることも、これもまた、一つの地域づくりの在り方だろう、と思い、支持していきたいです。何よりも、それは楽しいから。アーティストも地元の人々も楽しくなって愛し合えるような、佐伯がそんな街へ育っていく可能性を見つめています。

明日(9/23)は午前4時半の高速バスで大分空港へ発ち、羽田経由でスラバヤまで飛びます。今月3回目のインドネシア出張です。

2018年9月18日火曜日

イスラム新年の行進とブギスの甘~いお菓子たち

9月9~14日は、石川県職員の方々と一緒に、インドネシア・南スラウェシ州のワジョ県とピンラン県をまわっていました。この辺は、ブギス族のホームグランドでもあります。

今回の出張は、9月の2回目のインドネシア出張です。

9月11日はイスラム新年の祝日。でも、この日も朝から、ワジョ県タッカララ郡の田んぼを見に出かけました。一緒に行った農業省の研究員が「休みなのに~」とぶつくさ言っていましたが・・・。

ワジョ県の県都センカンの中心にある広場では、たくさんの人々が集まって、イスラム新年を祝っていました。


センカンからタッカララ郡へ向かう道中では、子どもたちの行進が続きました。マドゥラッサやプサントレンなどのイスラム系宗教学校のほかに、普通の公立学校の子どもたちも、皆で行進していました。



なんだか、昔、小学校の頃に、福島市制何周年かを祝う行事のとき、鼓笛隊の行進をしたのを思い出しました。鼓笛隊の行進には、福島市内のすべての小学校が動員されました。

こうした行進は、南スラウェシだけのものなのか、全国的に行なわれているのか。昔から行われているのか、そうでなければいつごろから始まったのか。もし、お分かりの方がいたら、教えてほしいです。

ガタガタ道を通って、ようやくタッカララ郡に到着。すてきな美人郡長さんのお宅に招かれ、まずは、ブギスのお菓子の洗礼を受けました。





一般に、クエ・バサ(kue basah: 湿り菓子)と呼ばれる、日持ちのしない生菓子です。いずれも、生地がしっとり、そこに椰子砂糖やら卵やらココナツミルクやらがしっかりと浸み込んで、甘さ炸裂! 一緒に行った農業省の研究員はジャワ人ですが、その彼女も「こんな甘いお菓子は食べたことがない!」と言っていました。

石川県職員の方々も「1年分の糖分を取ったような気分」とおっしゃっていました。

筆者は、時間がなくて朝食を抜いていたせいもあり、いきなりこのブギスの甘~いお菓子たちを4連発で食べてしまいました。

甘ければ甘いほど、それはお客をもてなすことを意味する、ということをかつてインドネシアに関わり始めた頃に学びましたが、美人郡長は「食べて、食べて」ともてなし上手でもあり、お菓子の甘さにすっかりとろけてしまいそうな気分になりました。

ブギスの甘~いお菓子たちの洗礼を受けた後、さっそく、天水に頼っているという田んぼをしっかり見に出かけました。

2018年9月5日水曜日

ジャカルタの「父」を見舞う

9月3日、ジャカルタに到着後、そのまま、ジャカルタの「父」を見舞いに行きました。

筆者には、インドネシアに複数の「父」「母」がいるのですが、そのなかでも、最も高齢で、最も世話になった「父」を見舞いに行きました。

見舞い、というのは、一週間ほど前、それまで家族と散歩するなど元気だった「父」の容態が突然変化して入院、集中治療室に入ったという連絡があったためです。意識も衰え、大量出血したそうです。「父」は87歳、家族もいったんは覚悟しました。

その後、病院側の献身もあって、奇跡的に「父」の容態は回復し、出血も止まり、意識も回復して、集中治療室から通常の病室へ移り、「なぜこんなところにいるのだ」「カプチーノが飲みたい」などと言うようになり、ほどなく、退院することになったのでした。

「父」は娘夫婦の家で受け入れ、静かに療養中でした。姪によれば、「ガドガド(茹で野菜をピリ辛のピーナッツソースであえたもの)が食べたい」などと繰り返していたそうです。

空港から「父」のいる娘夫婦の家に到着、休んでいた「父」が現れて、会うことができました。退院したばかりで、ちょっと疲れが出ている様子でしたが、娘夫婦や、さらにかけつけた姪夫婦らと一緒に、夕飯の食卓を囲みました。

「父」はまだ普通の食事は制限されていて、やわらかいご飯に辛くない薄味の柔らかくした野菜などをまぜた別メニューを「母」が食べさせてあげました。

一週間前に聞いた情報からすると、こうして一緒に食卓を囲んでいることがなんだか本当に奇跡のように思えました。「父」と「母」と記念の写真を撮ってもらいました。


思い返せば、「父」と初めて出会ったのは、最初の勤務先である研究所に入所した33年前でした。その頃、「父」はインドネシア中央政府の某官庁で次官を務める高級官僚。歴代の研究所の先輩研究者たちが世話になった大事な方でした。先輩研究者たちがまだペーペーの筆者に「父」を紹介してくださったのです。

その後、折に触れて、「父」に支えられました。研究所の海外調査員として2年間ジャカルタに滞在し、インドネシア大学大学院で学んだときには、「父」が身元保証人になってくれました。もっとも、そのとき「父」は研究所の客員研究員として日本に滞在しており、ビザ更新のレターなどは、前もってフォーマットをお送りして署名していただき、ジャカルタへ送り返してもらっていました(インターネットなどというものがなかった時代の話です)。

詳細は省きますが、あるとき、筆者が心折れて、絶望したくなるようなことがありました。そんなときに、なぜか「父」がたまたま現れ、一緒に食事をし、筆者の話を微笑みながら聴いてくれました。「父」と会ったことで、筆者は救われたのでした。

インドネシアにいるたくさんの恩人のなかでも、「父」はとくに大事な恩人でした。

そんな「父」だから、何としてでも会いに行きたかったのです。そして、会うことができて、あまり言葉は発しませんでしたが、「父」は、疲れ気味ながら、うれしそうでした。

4日朝、姪から「父」の様子を伝えるメッセージが来ました。筆者があったときとは打って変って、「父」は元気になり、よくしゃべり、筆者のことを「どこへ行った、どうしてる?」と尋ね続けたそうです。筆者の来訪がきっと「父」を元気にしたんだね、と姪は綴っていました。

よかった。よかった。本当によかった。

まだまだ容態はアップダウンあることでしょうが、元気でいてほしい。もうすぐ、以前の通り、「父」はガドガドを楽しく食べられることでしょう。

今週、「父」は、米寿をむかえます。

2018年9月1日土曜日

マカッサルの作家たちを福島へ

ちょうど1週間前の8月25日、インドネシア・マカッサルから来日した作家や詩人ら6名を福島へお連れしました。彼らは、マカッサル国際作家フェスティバルの主宰者やキュレーターです。

実はこの8月25日ですが、この日の朝、スラウェシ島でのカカオ農園ツアーを終えて帰国しました。参加者と解散して別れて、羽田空港でスーツケースを自宅へ送った後、マカッサルから来日中の彼らを迎えに行き、新幹線に乗って福島へ向かい、用務を終えた後は、最終1本前の新幹線で彼らと一緒に東京へ戻る、という、なかなか怒涛の一日でした。

今回の彼らの訪問は、国際交流基金の支援によるもので、今年5月、福島の詩人・和合亮一さんをマカッサル国際作家フェスティバルに招聘したプログラムの続きの意味がありました。彼らは今回、8月25日に、和合さんが主宰して、福島稲荷神社で毎年行われている「未来の祀りふくしま」の本祭を観に来たのでした。

福島に到着後、まだ時間があったので、彼らのリクエストに従って、筆者のオフィスを訪ねてもらいました。筆者のオフィスは、明治6年に建てられた古民家「佐藤家住宅」と同じ敷地内にあるプレハブ小屋です。彼らは古民家をとても興味深く感じたようでした。

私のオフィス内で記念のセルフィ―。


10年ほど前、筆者がマカッサルに滞在していたとき、家の敷地内に彼らの活動スペースを提供し、NGOのオフィスやら、映画上映会やら、セミナーやら、アート発表会やら、民間図書館やら、様々な形で使ってもらいました。彼らのなかには毎日寝泊まりしている者もいて、いつもマカッサルの地元の若者が活動している空間でした。その頃の仲間が今、こうして福島の我がオフィスに来てくれたというのは、なかなか感慨深いものがあります。

その頃からの付き合いで、筆者も、マカッサル国際作家フェスティバルには第1回からほとんど参加してきています。

震災後、マカッサル国際作家フェスティバルに集ったインドネシア国内外の作家たちがどんなに日本のことを思ってくれていたか。フェスティバルの現場で驚くほどの彼らの思いを目の当たりにし、何としてでもこのフェスティバルに東北から作家や詩人を連れて来なければと思い続け、ようやく、今年5月、高校の後輩でもある和合亮一さんを招くことができたのでした。

そして、今度は、彼らが和合さん主宰の「未来の祀りふくしま」へ。

福島稲荷神社に着き、前方のブルーシートのかかった席に彼らを通し、座ってすぐ、山木屋太鼓が始まりました。


震災後、川俣町で唯一避難を余儀なくされた山木屋地区。そこに代々伝わる山木屋太鼓を絶やさず、守ってきた(とくに若い)人々の真剣な演奏が心に沁みました。この太鼓がどんなに人々を元気づけてきたか。評判は聞いていましたが、やはりナマはすばらしい!

続いて、島根県益田市から来られた石見神楽。エンターテイメント精神にあふれた演目で、神楽って、こういうものもありなのか、と思うほど、圧巻でした。素晴らしくて言葉が出ません。


最初は、恵比寿天のコミカルな舞。観客を楽しく笑わせた後は・・・。


いかつい顔のスサノオノミコトが現れ、最後には・・・。



ヤマタノオロチの登場。口から煙を出し、火を噴き、グルグル巻きで暴れまわります。もちろん、最後は、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治して終わります。

日が落ちて、時雨れた通り雨が一通り上がった頃、6時45分から、いよいよ「未来の祀りふくしま」の本祭、新作神楽の奉納となりました。和合亮一さんの詩をもとに、福島の様々な人々が関わって、音楽や踊りを取り入れた、新作神楽を毎年8月、福島稲荷神社へ奉納してきました。今回で7作目になります。

新作神楽の目的は、死者への鎮魂と未来への祈りです。8月は旧盆もあり、死者がこの世にしばし戻ってきて家族と一緒に過ごし、再び向こうの世界へ戻っていく、そんなことを思うときです。新作神楽は、震災で犠牲になった方々の鎮魂とともに、犠牲になった方々に対して、よりよい未来を築いていくことを誓い、約束するものでもあります。

今回の演目は「呆然漠然巨人」。福島市にある信夫山にまつわる伝説をモチーフにしていましたが、和合さんの詩は、やはり鎮魂と未来への祈りに満ちた力強いものでした。


「万、千、百、十、一
 万人の命 みな同じ命
 一人の命 万人の命と同じ」

「夢を持ちなさい
 夢を叶えなさい
 明日が来るという保証はないのだから」

「風を待つのではない
 風を作るのだ」

原文とは違っているかもしれませんが、新作神楽のなかで、何度も何度も、繰り返し、繰り返し、読まれた言葉でした。

新作神楽を演じた子どもたちも大人たちも、音楽を奏でた子どもたちも大人たちも、そして、真剣な面持ちで、きっと様々な人を想いながらこの舞台を見守っていた観客の皆さんも、一緒になって作っていたあの福島稲荷神社の空間が、とても神々しく、かつ素敵に感じました。

これまで、カカオ農園ツアーと日程が重なって観に来れなかった「未来の祀りふくしま」。今回初めて体験し、和合さんはじめ皆さんがどんな思いでこのイベントを続けているのか、改めて感じ入ることができたような気がします。

マカッサルから来た彼らとも感想を語り合いましたが、死者への鎮魂と未来への祈りというところから、彼らなりに深く理解していたことをありがたく思いました。

和合さんの計らいで、彼らを連れて、公演後の打ち上げの場にもお邪魔しました。この日のうちに東京へ戻らなければならないので、宴のはじめに、しばし時間を頂戴して、彼らから福島の皆さんに挨拶してもらいました。そして、和合さん自身が、どんなにマカッサル国際作家フェスティバルで感じることが多かったかを、改めて話してくださいました。

福島とマカッサルで、これからこのような交流を続けていけたら・・・。マカッサルから来た彼らも、和合さんも、互いにそう語りました。

新幹線の時間を気にしながら、打ち上げ会場を出た私たちに向けて、和合さんは、店の入っているビルの前で、いつまでもいつまでもずっと手を振っていました。マカッサルから来た友人たちは、その和合さんの姿をずっと心に焼き付けて、インドネシアへ戻っていきました。

福島とマカッサルをつなげる第1章を終え、次は、まだ中身は分からないものの、第2章へ移っていきます。

2018年8月30日木曜日

9月4日のジャカルタでの講演のお知らせ

2018年9月4日午後6時から、「2019年大統領選挙の行方と今後のインドネシア経済」と題して久々にジャカルタで講演します。

場所は Hotel Atlet Century Park で、来年の大統領選挙についての私なりの見方などを披露いたします。

講演会終了後の懇親会(立食式)は、当初有料(4000円程度)ということでしたが、結局、無料となりました!!

お手数ですが、参加ご希望の方は、gec-teamekansai@gec.jp 宛に、9/4ネットワーキングカフェ参加希望という題目で、会社・団体名、電話番号、参加者氏名、Eメールアドレスを明記したメールをお送りください。

多くの方々にご参集いただき、久々にお会いできることをとても楽しみにしております。よろしくお願いいたします。


2018年8月29日水曜日

カカオ農園ツアーに行ってきました

今年も、8月18〜25日、ダリケー社のカカオ農園ツアーに行ってきました。

同社アドバイザー及び引率スタッフとしてこのツアーに参加するのは毎年恒例行事で、今回で5回目になります。今回も、30人近い参加者と一緒に過ごしました。

8月18日にマカッサルに到着し、19日に、目的地の西スラウェシ州ポレワリへ向かいます。所要時間は約5時間、途中のパレパレで昼食をとりました。

ポレワリに到着後、自己紹介セッションの後、夜は、地元のポレワリ・マンダール県主催の夕食会。あいにく、主催の観光局と懇意にされていた県職員が急逝されたため、夕食会へ出席した県政府関係者はごく一部となりました。

20日は、午前中、ポレワリでのダリケー社の取り組みについて詳しく説明があり、いかにカカオ農家と信頼関係を作り、発酵カカオを生産する仕組みを築いてきたかを参加者に理解してもらいました。

午後、参加者は、実際にカカオ農園を訪問し、カカオについての説明を受け、カカオの実を収穫したり、カカオの苗を記念植樹したりしました。毎度のことですが、参加者の後を子供たちがたくさんついていきます。


農園で働く若者がカカオ農園内のヤシの木にスルスルと登って、上から落とされたヤシからココナッツジュースが参加者に振る舞われ、ココナッツジュースを飲み干すと、そのヤシガラを割り、おばさんが煮詰めていたヤシ砂糖を中の果肉と一緒に食べてもらいました。参加者は、ココナッツジュースのヤシとヤシ砂糖のヤシが別の種類であることなどを知りました。

記念写真の後、村の集落の中を歩いていきます。人々が集落できれいに住まわれていることが印象的な様子でした。その後、ダリケー社のワークショップで、カカオが発酵する様子や、天日乾燥や選別を行う様子を見学しました。発酵カカオの中に手を入れて、高熱を発生している様子も体験しました。


21日は、朝早く、ホテルの近くの市場を散策した後、小学校で、小学6年生とともに、カカオ豆からチョコレートを作るワークショップでした。ツアー参加者と小学生混合の5つのグループに分かれ、カカオ豆の皮むき競争や石臼でのカカオのすりつぶし競争などを行いました。


小学生の中にはカカオ農家の子供もいましたが、カカオ豆からチョコレートができるという体験はみんな初めてでした。このワークショップは昨年に引き続いてのものでしたが、大いに盛り上がりました。砂糖を入れる前のチョコレートの苦さとともに、自分たちで作ったことの嬉しさが伝わってきました。

21日の午後は、地元でビーン・トゥー・バーのチョコレートを作っている若者や自分の農園で栽培・処理したコーヒーを栽培する若者と出会いました。

22日は、イスラム教の犠牲祭「イドゥル・アドハ」で祝日でした。21日の夜は、松明を持った子供たちが道を練り歩いたり、キラキラした装飾をつけた車が行き交うタクビランを目の当たりにしました。

今回の初めての試みとして、ツアー参加者は、ダリケー社が用意した、地元ポレワリのカカオ豆などで作られた様々なチョコレートの味見比べ、テイスティングを楽しみました。そして、思いがけず、ポレワリ・マンダール県知事公邸での犠牲祭のオープンハウスに参加者全員が招かれ、県知事との歓談のひとときと食事を楽しみました。

午後は、ダリケー社のカカオマスとサゴ椰子デンプンを組み合わせたお菓子などを作っている地元のNGO「P4S」を訪問し、そのお菓子の実演を体験しました。

その後、参加者の中から若手女子4名、男子2名が、地元芸能の「踊る馬」に挑戦しました。地元マンダール風の化粧や髪型、衣装をまとい、楽団の音楽によって「踊る」馬の上にまたがって歩きます。彼らにとって、二度とない経験となりました。


23日は、朝、ポレワリを出発して一路マカッサルへ。マカッサルでは、幸運にも、世界3大夕陽の一つを堪能できました。


24日は、午前中、参加者によるツアーへの振り返りを行ってもらいました。様々な感想が述べられましたが、少なからぬ参加者が印象に残ったのは、ツアー中にいただいた、カカオ農家での食事の美味しさでした。

マカッサル市内のトアルコ・トラジャ・カフェで、自慢のコーヒーと日本風の洋食ランチを楽しみ、ショッピングセンターで土産物を購入した後、空港へ向かい、帰国の途につきました。

日本のダリケー社製品を含むチョコレート愛好者・消費者と、その原料であるカカオを生産するインドネシア・ポレワリのカカオ農家とが直接出会うこのツアーは、チョコレートを通じた消費者と生産者とをつなぐ旅でもありました。

ツアー参加者はカカオのことを知ると同時に、カカオ農家に対して感謝の気持ちを示しました。カカオ農家は、彼らからの感謝の気持ちを、より品質の良い、発酵カカオを生産する意欲につなげていました。

カカオ農家からは、気候変動で2050年にはカカオが生産できなくなるのではないかとの不安が示されました。すると、ツアー参加者からは、そうならないように、私たちが支える、カカオ農家がカカオを作れなくなったら本当に困る、という声が上がりました。

カカオ農家の幸せなしに美味しいチョコレートはありえない。そんな純粋な気持ちを共有できたなら嬉しいことです。生産者と消費者とをつなげるこのツアー、地道に続けていきたいと改めて思いました。

今回参加できなかった皆さま、このブログを読んで興味を持たれた皆さま、来年はぜひ参加をご検討ください!

2018年8月16日木曜日

今年もカカオツアーのお手伝いをします

筆者の毎年の恒例行事の一つが、8月のカカオツアーです。京都の(チョコレート屋というよりも)カカオ屋のダリケー株式会社が企画する、カカオ農園訪問ツアーのお手伝いをしているのです。

2014年から始まり、今年で5回目になりますが、筆者は、ダリケー株式会社のアドバイザーとして、毎年、日本からのチョコレート愛好者や学生さんなどを、西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県へお連れしています。


このツアーの最大の売りは、カカオ農家とチョコレート消費者との出会い、です。

私たちはチョコレートを食べますが、その原材料のカカオがどういうもので、どのような工程を経てチョコレートになるかをよく知っているわけではありません。いわんや、カカオを作っている農家さんの様子を具体的に想像できる人は、決して多くないと思います。

一方、カカオ農家さんは、カカオを栽培して収穫し、商人に売るところまではわかりますが、それがどのような商品になり、どのように消費しているか、想像できない方がほとんどです。自分のカカオがチョコレートになると言っても、ピンとこないのが現状です。

そこで、両者をつなげて、カカオからチョコレートになるまで、どんな風になっているのかを、オープンにわかってもらうのがいいだろう、と考えたわけです。

日本のチョコレート愛好者や学生が、ポレワリのカカオ農家の農園を直接訪れ、カカオの木はどんなものなのか、どのように実がなるのか、実の中はどうなっているか、カカオの木の生えている土はどんな状態か、などなど、現場で実際に観察します。

自分が大好きなチョコレートが、こうしたカカオから始まっていることが実感できます。

そして、ツアー参加者には、カカオを作ってくださっている農家の方々への尊敬と感謝の念が湧いてきます。

一方、カカオ農家の側はどうでしょうか。

カカオ農家にとって、自分の作ったカカオがチョコレートというものになって、それが大好きな人々が日本から来てくれている、しかも「ありがとう」と言ってくれる。それが、とても嬉しいのだそうです。

そして、カカオ農家は、土づくりや発酵プロセスに十分配慮した、より良いカカオを作ろうとするモティベーションが上がる、ということです。

昨年からは、ツアー参加者が地元の小学生と一緒に、素朴な方法で、カカオ豆からチョコレートを作るワークショップも始めました。グループに分かれて競争することもあり、このワークショップがとにかく盛り上がります。

地元の小学生の親の多くは、カカオ農家です。でも、カカオがどうやってチョコレートになるかを知ることはありませんでした。

多くのカカオ買い付け業者やチョコレート製造者は、カカオ農家にはカカオさえ供給して貰えばよく、チョコレートになるまでの過程を知ってもらおうとする理由はありませんでした。

このツアー参加者が地元の小学生とチョコレート作りを体験することで、カカオ生産地の子どもたちが最終製品を知るという、とても大事な変化を起こし始めることができたと思います。

こうした体験をする小学生が増えていった暁には、カカオ農家の子どもから世界的なショコラティエが生まれる、そんなことを実現させてみたい、と本気で思っています。

今年は、どんな相互化学反応を起こすカカオツアーになるでしょうか。

今年のツアーに参加できなかったあなた、ぜひ、来年の8月にはこのツアーに参加してみてください。

なお、毎年連続で参加されても、必ず新しい何かがありますので、マンネリにはなりませんよ。

そして、このツアーを通じて、カカオ農家の家ごはんがこんなに美味しいのか、という驚きも必ず生まれます。

今年のツアーの様子、できるだけお知らせするようにしたいと思っています。乞うご期待。

ツアーではこんな状況にもなります。
何が起こっているのやら。お楽しみに。


2018年8月11日土曜日

インドネシアの正副大統領候補ペア決定、その人物像は?

2018年8月10日、来年のインドネシア大統領選挙に立候補する正副大統領候補ペア2組は、正式に選挙委員会(KPU)へ届出をしました。今回は、とくに、副大統領候補の人物像について書いてみたいと思います。

インドネシアでは、2014年から有権者による直接投票で大統領を選ぶ直接選挙が5年ごとに行われています。また、立候補は、大統領候補と副大統領候補のペアとしての立候補になります。

さらに、実際の次の大統領選挙は来年、2019年4月17日に投票が行われます。今回からは、国会(DPR)、地方代議会(DPD)、州議会(DPRD Provinsi)、県議会(DPRD Kabupaten)/市議会(DPRD Kota)の議会議員選挙も同じ投票日の統一選挙になりました。

前回(2014年)までは、議会議員選挙が終わってから大統領選挙となるため、議会議員選挙の結果を見ながら立候補者を選べたのですが、今回からは、一年近く前に決めることになりました。

今回、立候補を届け出たのは、ジョコ・ウィドド大統領候補(現職)=マルフ・アミン副大統領候補のペアと、プラボウォ・スビアント大統領候補=サンディアガ・ウノ副大統領候補のペア、の2ペアです。この両者の一騎打ちとなる見込みです。

大統領候補は、ジョコウィとプラボウォという、前回2014年選挙と同じ対決となりましたが、副大統領候補は新顔です。どんな人物なのでしょうか。

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現職のジョコウィと組むマルフ・アミンは、いわば、最高位のイスラム指導者という立場の人物です。イスラム知識人の集合体であり、イスラムの教義に基づいたファトワ(布告)を出し、ハラルか否かを決定する機関である、インドネシア・ウラマー評議会(MUI)の最高指導者であるとともに、イスラム社会団体として国内最多の会員数を持つナフダトゥール・ウラマ(NU)評議会議長(Rais Aam)を務めています。

一方、グリンドラ党のプラボウォ党首と組むサンディアガ・ウノは、現在、ジャカルタ首都特別州副知事を務めていますが、かねてから有望視されてきた若手実業家で、サラトガ・グループなどの総帥でした。ジャカルタの州副知事に就任してから、わずか7カ月で辞職し、副大統領候補となりました。プラボウォと同じグリンドラ党の幹部でもあります。

すでに報じられているように、近年、インドネシアではイスラムの政治利用と過激なイスラム思想の浸透が大きな問題となってきました。

これまで、ジョコウィ政権は、多数派であるイスラムの利益を軽視しているとして、たびたび非難されてきました。先のジャカルタ首都特別州知事選挙では、キリスト教徒のアホック前知事がイスラム教を冒涜したとの容疑をかけられ、数万人のイスラム教徒を動員したデモ等で圧力をかけられ、アホックは落選し、しかも有罪判決を受けて刑務所に収監されました。

アホックは、ジョコウィが大統領就任前にジャカルタ首都特別州知事だった時の副知事であり、アホックへの批判はジョコウィへの批判でもありました。

ジョコウィにとって、こうしたイスラムの政治利用を軽く見ることはできないという判断になり、次期副大統領候補は、イスラム教徒票をまとめられる人物でなければならないという判断になったようです。そして、おそらくそのためには、今、最も安心できる候補として、マルフ・アミンを選んだのでした。

他方、プラボウォは、そうしたイスラムの政治利用を通じて、ジョコウィと対決しようと動いてきました。実際、アホックを蹴落とす大勢のデモは、プラボウォを支持する者たちによって主導されました。今回も、副大統領候補を決める前に、イスラム指導者たちを集めて、副大統領候補に誰がふさわしいか、推薦させるという手法を使いました。そして、2名のイスラム指導者が候補として上がりました。

ところが、プラボウォはその2名のイスラム指導者ではなく、同じグリンドラ党の幹部であるサンディアガ・ウノを副大統領候補に決めました。巷では、サンディアガ・ウノが選挙資金提供を申し出たという噂が流れており、前回同様、選挙資金確保に苦しむプラボウォにとっては、資金のないイスラム指導者よりもサンディアガ・ウノを選好した、というふうに見られています。

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ここに、非常に面白い対照、反転が見られます。

すなわち、イスラムからの批判を受けそうなジョコウィ側がマルフ・アミンを副大統領候補とし、むしろイスラムを政治利用して得票を確保しようとする一方、これまでイスラムを政治利用してジョコウィを貶めようとしてきたプラボウォ側が、推薦されたイスラム指導者ではなく自党の元実業家サンディアガ・ウノを副大統領候補にする、という展開だからです。

イスラムをシンボルとして使うのは、当初からそうしてきたプラボウォ側ではなく、ジョコウィ側、という反転です。

ここで、さらに興味深い疑問があります。二つ挙げておきます。

第1に、マルフ・アミンは、実は、アホックを貶めたイスラム教徒動員デモの首謀者の一人なのです。彼がトップのMUIは、「アホックがイスラム教を冒涜した」と見なしました。あのデモは、アホックの先にジョコウィを見据えていました。すなわち、本丸はジョコウィだったのです。その彼が、なぜ今、ジョコウィと組むのでしょうか。

第2に、サンディアガ・ウノはもともと、政治にはほとんど興味を示さない実業家でした。ところが、2015年に突如、グリンドラ党へ入党し、政治の世界へ入ります。そして、すぐにジャカルタ首都特別州知事選挙へ副知事候補(当初は知事候補でした)として立候補して当選します。なぜ彼は政治の世界へ入り、プラボウォとタグを組んだのでしょうか。

これらについては、今、色々と調べていて、いくつかの面白い事実がわかってきました。ここではまだまとめきれませんが、それも含めて、次の、8月22日以降に発行予定の情報マガジン「よりどりインドネシア」第28号(有料)のなかで、今回の正副大統領候補決定の背景について、詳しく述べてみたいと思います。

2018年8月4日土曜日

「さん」づけで呼び合った時代を懐かしむ

大学を卒業して就職したのは、政府系の研究機関でした。この職場で、筆者はインドネシア地域研究のいろはのいから手ほどきを受け、20年以上奉職しました。

この職場は、とても素晴らしい職場でした。何より、新人だった筆者を、20年選手、30年選手が「さん」づけで呼んでくださるのです。そして、新人の筆者にも、研究者として実績を積んだ著名な大ベテラン研究者を「さん」づけで呼ぶように促されたのでした。

また、そこでは、誰がどの大学の出身かは問われることはなく、学閥のようなものは見えませんでした。

さらに、男性でも女性でも、職場での役割の違いはほとんど見当たりませんでした。お茶くみなんて言うものは当然ないし、「男だから」「女だから」といったことを耳にすることはありませんでした。筆者自身も、仕事上の男女の違いを感じることはありませんでした。できる人はできる、という当たり前の感覚しかなかったのです。

年齢や性別の違いや出身大学などを意識することなく、誰もが「さん」づけで呼び合う職場でした。

「さん」づけで呼び合うということは、年齢や性別の違いを意識せず、互いを一人の人間として尊重し合うことの現れだと思います。若造だけど存在が認められている、という安心感がそこにはありました。

本当に、それだけで、素晴らしい職場だと思いました。

そして、2000年代に入って、職場の何かが大きく変わり始めました。

それは、人事評価・業績評価が導入されてからでした。上司と部下、という明示的な関係が職場に持ち込まれたのです。上司と部下なくして、人事評価・業績評価は成立しないのです。

人事評価・業績評価が導入されてから、誰もが「さん」づけで呼び合う、ということはなくなっていきました。「部長」「課長」「グループリーダー」といった役職名で呼ぶようになりました。皆が上と下を意識するようになりました。

筆者は、決して人事評価・業績評価を否定するわけではありません。何のために人事評価・業績評価を行うのかさえ忘れなければ、です。

筆者を「さん」づけで呼んでくださった数々の先輩方のことを一人一人思い出します。今でもお会いすると、同じように「さん」づけで呼んでくださいます。そのことを、とてもありがたいことだとつくづく思うのです。

今も、そしてこれからも、あの「さん」づけで呼び合ったかつての職場のことを懐かしみつつ、大切な人生の美しい思い出として大切にしていきます。