先日、インドネシアに興味を持っているある大学生と会いました。そして、2時間ほどいろんな話をしました。
その方は、卒業論文の準備として、私が昔書いた書きものを読んでくださっていたようで、どこでどう知ったのか、ツイッターを通じてコンタクトをしてきました。私も、これまで関わってきた仕事の原稿をほぼ書き終えたし、ヘルペスからも順調に回復してきたので、お会いすることにしました。
その方はインドネシアにも滞在したことがある様子で、住んだ人でないと知らないようなマニアックな地名や食べ物の名前の連発で、けっこう盛り上がりました。
だんだんと打ち解けてきたと見えて、その方は大学の話をし始めました。その中心は、自分の思っていることや考えていることを友だちや先生と自由に話すことができない、というものでした。そして、本当はそういうことができるのが大学だと思っていた、とも言いました。
もしかしたら、その方は、周りを見回しながら、「したいけれども、そういうことができない」と自分で思い込んでいるだけなのかもしれません。でも、先生や友だちから言われると、それに反論することなく、黙ってしまうようなのです。
また、先輩からは、「就職したらすべては損得で動くのだから、そうではない大学時代を満喫しろよ」とも言われたそうです。
その方は、自分の思ったことを話せない大学、損得ですべて動く将来、が正しいこととは思っていない様子ですが、それを受け入れずに社会人になることはできないと思い込んでいました。
この方のような大学生は多いことでしょう。自分の周りから色々指を指されないように、周りに合わせて過ごしている、あるいは過ごさざるをえないと思っている彼ら。そんな彼らを否定的にみる大人も少なくないことでしょう。
でも、話しながら思ったのですが、彼らをそうさせているのは、我々大人なのです。大人が彼らの話を聞かない、彼らを従わせようとする、のではないか。彼らに自由に意見を述べさせ、それを幼稚だとか稚拙だとかいって否定せずに、一人の人間の言動として聞いてあげる、そんなことが大人にはできていないのではないか、と思いました。
きっと、大学や職場だけでなく、家庭や自分の家族とも、そんな状況になっていて、彼らが自分を取り戻せる場所を失ってしまっているのかもしれません。
「もしも、自分の意見を自由に言えるような場所や機会があったら、参加してみたい?」とその方に聞いてみました。「ぜひ参加したい」とその方は言いました。自分をさらけ出せる場所、自分が自分のままでいていい場所、そんな場所が必要なのでしょう。
鯖江市のJK課を思い出しました。おそらく日本で唯一の、女子高校生が行政に意見を言えるJK課。そこで一番大切にされているのは、女子高校生が本音で安心して話のできる空間を用意することでした。
そうした場所を見つけられない若者たちは、ネットの中のバーチャル空間に居場所を求め、そこで出会う見ず知らずの人たちに引き寄せられてしまうのではないか。そこには、そうした彼らを引き寄せる悪意を持った人物やカルトなどが跋扈して、無防備な彼らを待ち受けているのかもしれません。
昔から、素の自分を受け入れてくれる人に出会えたと思ったら、カルトの勧誘だった、もう抜けられない、といった話はよくありました。一歩間違えると、実は私もまた、そんな不審者と思われるかもしれない、と思いました。
損得で動いていると、そんな若者たちの相手をする時間の対価さえも求めがちになりそうです。でも、自分を自分として認めてくれる、安心できる場所と機会を求めている若者たちは多いはずです。大人がそうした若者たちに向き合い、大人自身の生き方や関わり方を変えていく必要があるのではないかと思います。
でも、どんなふうにして?
今回お会いした方は、自分と同じように思っている友だちが5人ぐらいいると言っていました。もし、彼らが私を信用してくれるなら、とりあえず、その5人と自由にむだ話のできる時間を作ることから始めるのかなあと思います。そのうち、テーマを決めて、自由に議論ができる「私ゼミ」をやってみようかなとも夢想します。
それにしても、自我を形成するはずの大学が、他人に合わせることを第一にするような考え方や態度を学生たちに直接・間接に促しているとするならば、とても残念です。
0 件のコメント:
コメントを投稿