2017年7月29日土曜日

尊厳ということ

近年ずっと思っていることの一つが、尊厳ということです。

人間が生きていくうえで、自分の人生を振り返ったとき、「生きていてよかった」「生きてきてよかった」と思えるのは、自分の人生が自分にとっての意味を持ち、それを自分以外の他人や場合によっては世間が認め、尊重するからではないかと思います。

人生の最期を、モノとしてではなく、その人自身として終える。誰もがそのような尊厳を持った形で最期を迎えたいと思うものだと思います。

立派な人生って何だろうな、とも思います。誰が何をもって「立派だ」と評価するのか。なかには、他人や世間から「立派な人だ」と言われたいと思って生きる人もいることでしょう。でも、それは常に自分の人生の評価の尺度を他人に委ね続けるということでもあります。本当の自分とは違う自分を演じ続けなければならなくなります。

どんな人でも、自分が自分らしく生きた、そのそのものをそのまま尊重してもらいたい、という希望を持っているのではないか。他人の評判や世間体に合わせるのではなく、自分ではないような演技をすることなく、自分の存在そのものを一人の人間として尊重されたいのではないか。そんな気が自分でもします。

でも、それは、果たして人間のことだけなのでしょうか。
例えば、地域もまた然りではないでしょうか。外部の人間がその地域のことを勝手に「限界集落」と呼び、人口が減少してもうおしまいだ、と決めつけるかのような言論があります。たしかに、物理的に、人口減少を食い止めることはもう無理かもしれません。でも、現在に至るまで、その地域が存在してきたという歴史やそのために人々が様々な努力を重ね、生活を営み続けてきたという重みを無視することはできません。

外部者に、そうしたものに対する敬意や尊敬はどれほどあるでしょうか。少なくとも、地域の方々に敬意や尊敬を感じさせるような接し方を、果たして外部者はしているでしょうか。

企業も産業もまた然りではないでしょうか。どんな企業でも、未来永劫、成長し続けられるとは限りません。自分たちが長年にわたって開発し、工夫し、磨き上げてきた技術やノウハウがもはや今の場所では使われないものになってしまい、あるいは後継者に恵まれず、廃業せざるをえない状況も出てくることでしょう。そのとき、その企業がこれまでに培ってきた様々な成果や地域経済に対する貢献、地域の人々の生活を支えてきたという事実に対して、敬意や尊敬をもって我々は接しているでしょうか。

人は誰でも、自分という存在をありのままに認めて欲しい存在ではないでしょうか。自分のことを他人に正当化されたい存在ではないでしょうか。そして、認められている、敬われている、という気持ちが持てることによって、その人の人生にはちゃんと意味があったんだ、生きてきたということに意味があったんだ、と思えるのではないでしょうか。

余裕のない現代日本社会では、いつしか、長所よりも短所、優れている点よりも欠点を目を皿のようにして探して、自分のほうが相手よりも上だと思いたいという病が蔓延しているかのようです。なんでも競争に仕立て、勝ちか負けかを常に意識し、他者への敬意や尊敬をせず、むしろ相手を罵倒しないと自分が罵倒される(だから先んじて罵倒する)といった、恐怖心さえ持っているかのように見えます。

企業や産業における技術やノウハウについては、日本ではもはやニーズがなくなってしまっていたとしても、世界のどこかではまだまだ必要としているかもしれません。日本でこのままなくなってしまうかもしれない技術やノウハウを欲しいと言ってくれる場所があり、そこへ移転されるならば、これまで培ってきた技術やノウハウが世界のどこかで誰かのために生かされ、さらに改良されて次の世代へ伝えられていくかもしれません。

そのときに、そうした技術やノウハウを培ってきた日本の方々の存在や積み重ねられてきた経験に対して、新しくそれらを受け止めた人々が敬意や尊敬を示すような、そんな伝え方を考えたいのです。

地域についても、その地域が衰退する、消えてしまうという経験は、決して日本だけのことではありません。でも、その最期の迎え方が重要だと思うのです。後世にその地域が存在し、人々がそこで生活し、生業を営んできたという記憶・記録をどのように残していくか、そこに生きた人々に対する敬意と尊敬をどのように示すことができるのか。

そのときに、企業や産業のように、日本だけでなく、日本以外の海外の地域に対して経験やノウハウを伝え、その一部が世界のどこかで生きながらえていく、ということもありうるのではないか。そんなことを思います。これからの地域づくりにおいては、そうしたことも含めた実践を考えていかなければならないような気がするのです。

人間にとっても、企業にとっても、産業にとっても、地域にとっても、尊厳というものはとても重要なことではないか、生きていくための種火なのではないか、という気がします。そして、その種火を大事に大事にしていくような、コンサルティングやファシリテーションを丁寧に行なっていきたいと思っています。

こうした姿勢や接近法で、きちんと生計を立ててビジネスとしてやっていけるのかどうか、何を青臭いことを言っているんだ、という声もあるだろうと思います。他人から上から目線で馬鹿扱いされるかもしれません。でも、こうした今の世の中に必要なことを、カネのために犠牲にするほど、自分はまだ狂えていないという自覚があるうちに、やっていかなければと思うのです。

久々の独り言で、失礼いたしました。

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