岩手日報が、3月11日を「大切な人を想う日」に、という取り組みを始めています。賛同する人に署名をしてもらう、というささやかな運動です。以下のページを覗いてみてください。そして、賛同されるなら、署名をしてみてください。
岩手日報:3月11日を「大切な人を想う日」に
このページには、「最後だとわかっていたなら」という動画が3本掲載されています。大槌町の「風の電話」の話も含まれています。心に響きます。
突然何かが起きて、明日が来なくなるかもしれない。
同じ明日が来ることを当たり前に思っていた私たち。
震災という現実を前に、それまでの人生と大切な人たちとの関係を考えると、たとえ自分だけが生き延びたとしても、強い後悔と深い自省に苛まれ続けることになります。
それが自分にはどうすることもできない不可抗力だったとしても。自分はただ真面目に生きてきて、何の罪もないとしても。
明日は来ないかもしれない。だから、今の一瞬一瞬を大事に生きていく。いつこの世が終わろうとも、悔いのない人生を歩んでいく。あのとき、多くの人がそう思い、生き方を変えようとしたのだと思います。
そして、大切な人のことをもっともっと愛そう、いとおしく思おう、やさしく接しよう、そう誓ったのだと思います。
でも、実際には、私も含めて、その誓いを意識し続けられたのか、と振り返って思います。私自身、ともするとそれを忘れ、世の中の忘却の流れのなかの一部になっていたような気がします。
この世に生まれたこと、今生きていること、大切な人のことを想えること。それらが当たり前に見える奇跡なのだ、ということを忘れてしまうのです。
岩手日報のささやかな運動は、そんな自分を戒めてくれたような気がします。
でも、3月11日だけ大切な人を想うのではなく、この3月11日から「大切な人を想う日」を毎日にしていくことを自分に決めました。
昨日、寺田尚子さんの「カッチーニのアヴェ・マリア」の生演奏を聴きながら、そう決めました。
もし、私が不機嫌な顔をしていたらごめんなさい。不躾な態度だったらごめんなさい。もし私がそうだったら、遠慮なく指摘してください。
今日出会った人、明日出会う人、来週出会う人、そして毎日のように会う家族。
真剣に生きているのか、と自分に問いながら、当たり前の奇跡を意識した毎日をすごしていく。
そんな決意を自分なりにした今年の3・11。
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