道の駅いいたては、木材をふんだんに使った新しい建物で、入口に掲げられた村の人々一人一人の大きな笑顔の写真が印象的でした。
道の駅いいたてを出発し、南相馬から常磐自動車道を経由して、浪江町へ。メディアからすれば、浪江町で避難指示解除があった今年は「浪江の年」になりそうです。
浪江町役場に到着。立派な建物です。役場の方によると、現時点での町民は約500人、300世帯程度ということです。
浪江町役場の脇には、いくつかの小さな仮設店舗が集まった「まち・なみ・まるしぇ」がありました。
ここでランチ。食べたのは、もちろん、なみえ焼きそば。特徴の太いうどんのような麺をこってりソースで炒め、麺の上に大ぶりの豚肉が3切れのっています。
浪江町役場からそう遠くないところに、災害復興公営住宅が建てられていました。
4月から再開される小中学校は、小学校8人、中学校2人で開校、ということでした。元々の中学校の場所に、小学校と中学校を(一貫ではなく)併設する形で開校するそうです。
浪江町の青田荘にも立ち寄りました。簡易宿泊施設である青田荘は、避難されている町民と帰還した町民、浪江町民と外部者、といったつながりを自然に生む一時滞在施設としての役割が期待されています。
浪江町の後は、南相馬市小高区へ。
以前、2012年8月、誰もいない小高へ行きました。誰もいない、野良猫しかいない場所に、なぜか商店街の音楽だけが流れていました。以下の2枚は当時、小高で撮った写真です。
今回行ったら、小高は、人の気配のある町になっていました。「なぜ、人のいない町で音楽が流れていたのか」と聞いたところ、音のない街は死んでしまうと思った小高の商工会長さんの意向で、あえて流していた、ということが今回の訪問で分かりました。
最初に訪問したのは、小高復興デザインセンター。南相馬市と東京大学が運営する復興のための協働拠点です。
小高復興デザインセンターで、最近の小高での取り組みについてうかがった後、近くにある小高ぷらっとほーむ(小高工房)を訪問しました。
ここは、誰でもふらっとやってきて、お茶を飲んだり歓談したりできる、どんな人にとってもの居場所という役目を果たしています。ガヤガヤと押し寄せた我々も、ゆるっとした雰囲気で受け入れてもらえました。
しばらくすると、代表の廣畑裕子さんが我々を別室へ招き、活動内容をお話ししてくださいました。別室へ招かれたのは、その時に訪れていた方々のなかには、いろいろな方がいらして、ふとした瞬間にトラウマや悲しみの感情が溢れてしまうこともある、という理由でした。誰にとっても、その存在を否定せずに受け入れる、どんな人にとっても居場所となることが大事なのでした。
廣畑さんは、10分ぐらいとおっしゃっていたのに、30分近く、7年目を迎えるにあたっての思いを真剣に話してくださいました。喜怒哀楽をもった普通の人間が生きている。でも、よそ者のメディアは、7年経っても悲しみにくれる映像を求めてくる。被災地の人間は笑ったり、楽しくしていたりしてはいけないのか。廣畑さんは、ときに怒りを込めながらも、自分たちの気持ちをなかなか分かってもらえない虚しさやもどかしさを訴えていました。
廣畑さんは、この7年間の思いを文字の形で映像にしています。でも、それは英語版のみです。日本語で書いて英訳したものなのですが、英語版のみをユーチューブにのせています。いかにそのサイトを上げておきますので、ご覧になってみてください。
I will live my life fully today. 311 minamisoma odaka
建物の壁面には、来訪した若者たちによる描画がありました。
小高には、小高ワーカーズベースや柳美里さんが準備中の本屋「フルハウス」(私もささやかながらクラウドファンディングに協力しました)など、訪れたい場所が他にもいろいろあります。小高にはそうした新しいよそ者がまちづくりにも関わっている雰囲気があり、まだまだ面白くなりそうな気配がありました。
小高を後にして、相馬へ向かいました。相馬では、早川医院の早川先生のお話をうかがいました。早川先生は、死体の検案を行う医師でもあり、7年前の震災の際には、たくさんの検案を行いました。
早川先生は、その時から全ての記録を克明にとってきました。死体の発見場所、時間、発見された時の状況、本当の死因、その他、彼の関わった震災に関連する記録を克明にとっていたのです。そのデータから、彼なりの幾つかの疑問が提示されました。
たとえば、個人情報という観点から、3・11の際、災害時要支援者情報を支援者団体へ提供した自治体は岩手県(県単位)と南相馬市の2つのみで、他は提供しなかったということです。個人よりも個人情報保護が重要なのか、という問いかけがありました。
そして、たくさんの他県の医療関係者による支援があり、それに対する深い感謝の気持ちが改めて示されていました。
そして、夜は、早川先生の主宰で、賑やかな夕食の宴が催されたのでした。
浜通りを1日駆け足でまわって、日常を取り戻そうとする様々な動きを知るとともに、それが、よそ者の考えるような単純な復興ではなく、まだまだ、ぐだぐだと、よそ者から見れば焦ったく見えるような、少しずつの歩みが続くのであり、同時に、誰もが存在を認められる環境・場づくりが大事であることを感じました。
浜通りの現場としっかり向き合ってじっくり付き合っていくことが、必要になってくると思いました。
(つづく)
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