先日、筆者の尊敬する大先輩の方からお話を聞く機会がありました。その席で、その大先輩の言った言葉が耳から離れなくなりました。衝撃的な言葉でした。
大先輩は、言いました。「最近、霞が関で会議に出ると、官僚からよく訊ねられるんだよね。日本に地域は必要なのですか、って」
一瞬、耳を疑いました。それが、霞が関の官僚の本音なのか・・・。
人口が減少する時代、人々が買い物や医療や様々なサービスを受けやすくするためには、散在する地域から、そうしたサービスを供給する場所へ人々に移ってもらうのが効率的だ、行政コストの面からもそのほうが効率的だ、という議論。
コンパクトシティや中核都市の議論は、まさに、行政側から見た効率性の観点から進められています。その究極は、地域など要らない、という話になるのでしょうか。
行政にとっては、地域は面倒で邪魔でカネのかかる存在でしかないのかもしれません。
地域を国に従わせ、あげくには、面倒だという理由で地域を捨てる、という思想。
長い歴史を見れば、国よりも先に地域が、コミュニティがあったことは誰の目にも明らかです。国家体制が資本主義でも社会主義でも軍国主義でも、地域は住民の暮らしの場として存在し続けました。国家による収奪を受けても、地域は日々の暮らしの場であり続けました。
その土地や自然との交感の記憶によって、それぞれの人生のかけがえのない場としての地域を、効率性の観点だけで、国家が奪い取ることがあってはなりません。
地域が消滅するのではなくて、霞が関は、実は、地域を消滅させたかったのか。「日本に地域は必要なのですか」という言葉からは、そんな印象を受けます。
原発事故や災害で故郷を離れざるを得なくなった人々の地域に対する思いに、霞が関はどれほどの気持ちを寄せられたのでしょうか。いや、何も感じていないのかもしれません。
地域がなくなった日本を想像します。そこには、国家しか存在しない。国家に都合の良いように、人々の生活から地域が取り上げられ、国家のためのみに生きることを求められるのか。
「日本に地域は必要なのですか」という問いの存在を前提にすると、地方創生も地域活性化も、地域に寄り添うふりをするための上っ面の政策に過ぎないことが見えてきます。
地域が自覚をもってしっかりしていかなければ、自分たちの暮らしを守っていくことはできません。霞が関から「地域は必要ない」と言われて、「はい、そうですか」と言うわけにはいかないのです。それは暮らしの場を捨てることになるからです。
誰が総理大臣になろうとも、どの政党が政権与党になろうとも、明日戦争が起ころうとも、たとえ補助金がなくなろうとも、我々は日々暮らしていかなければならない。その場所である地域を決して無くすわけにはいかないのです。
我々は大いに憤慨すべきです。「日本に地域は必要なのですか」と問う霞が関の浅薄さと自己中心主義、ご都合主義に対して。
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