7〜9日は志賀高原で過ごしました。
志賀高原というと、私にはとてもまぶしい雰囲気の場所でした。バブル全盛だった大学生時代、学生たちの多くは、夏はテニス、冬はスキー、と判で押したように男女伴って出かけ、大いに遊んでいました。その行き先として脚光を浴びていたのが志賀高原でした。
大勢と同じことをしたくない自分は、テニスもスキーもせず、しかも浮いた話にも興味がなく、男同士で歌う男声合唱のサークルに所属していました。そのため、志賀高原というのは、自分にとってはまぶしく、世界の違う場所と感じていたのでした。
それ以前、小学生の頃、群馬の親戚のおじさんに誘われて、草津から何度か志賀高原へドライブに連れて行ってもらったことはありました。その時の印象も、人気のある観光地だな、という程度のものでした。
今回も、そんな賑やかできらびやかな志賀高原を想像して行ったのですが・・・。
それは、昭和の志賀高原でした。平成の志賀高原は、違う印象の場所になっていました。
志賀高原行きのバスに乗るため、まず長野駅東口へ行きました。でも、一通り見渡しても、駅には、志賀高原に関するポスターやパンフが見当たりません。
東口の土産物店「科の木」なら何かあるだろうと思って、行ってみました。志賀高原に関するものは何もありませんでした。「科の木」はアルピコグループが経営していて、同グループのバスの行先である信濃大町や黒部アルペンルートの情報パンフは置いてありましたが・・・。
新幹線ができてからは、中央線・大糸線経由で松本や大町からアクセスするのではなく、新幹線で長野まで来て、バスで大町や黒部へ向かうようになったことを理解しました。
長野駅東口から志賀高原への急行バスを運行しているのは長野電鉄です。スキーシーズンの冬季は本数が多いのでしょうが、夏季の本数は1日数本。
私たちが乗った10時15分発の白根火山行き(通行止のため渋峠までしか行きませんでしたが)のバスの乗客は、我々2人以外は外国人客8人。しかも、我々以外の全員が途中のスノーモンキーパーク前で降りて行きました。そうか、彼らの目当てはニホンザルだったのか。
ニホンザル目当ての外国人が降りた後の乗客は、我々2人だけ。そのまま目的地の蓮池まで行きました。バスを降りた目の前、旧蓮池ホテルが解体されているところでした。
それにしても、人がいません。台風が来ているし、旧盆の少し前ということもあるのかもしれません。実際、今回の行程は、どこへ行っても我々2人の貸切状態でした。
蓮池周辺には、志賀高原総合館98など、長野冬季オリンピックが開催された1998年に建てられた幾つかの施設があります。
「志賀高原総合館98」というバス停のある山の駅が観光案内所の役割を果たしています。蓮池から琵琶池までハイキングをして、蓮池へ戻った後、そこにある「山の食堂1959」で素敵な冷やし山菜そばをいただきました。
この山の家、以前は蓮池から発哺温泉へ上がるロープウェイの駅でした。まだ当時のロープウェイが残っていました。
1960年に開業し、単なる観光向けだけでなく、道路アクセスの良くない高天ヶ原やより標高の高い発哺などへの重要な交通手段でもあったということです。長野県北部地震の後に点検したところ、老朽化が進んでいたことから、2011年6月に廃止されました。実際、道路事情も良くなって、利用者の数も大幅に落ち込んでいたのでした。
正面に発哺や東館山を臨む素晴らしい眺望に見とれていると、一群の雨雲が湧いてきて、激しいにわか雨が降り、その後に、それは見事な虹が現れました。
8日に訪れた志賀高原歴史記念館は、以前、国策で造られた高級ホテルの志賀高原ホテルでした。
旧志賀高原ホテルには、皇族をはじめ、要人も泊まったそうです。ドイツの職人が作った椅子などの調度品が重厚さを醸し出していました。志賀高原歴史記念館となった今は、1956年のコルティナダンペッツォ・オリンピックで、日本選手として初めて冬季オリンピックでメダル(銀メダル)を獲得した猪谷千春氏の記念館の役割も果たしています。
長野オリンピック後、志賀高原の開発に当初から長年にわたって深く関わってきた長野電鉄が撤退し、志賀高原は往年の輝きを失ってしまったようでした。多くの旅館やホテルが廃業し、廃墟となっていました。
それにしても、志賀高原にとって、あの長野冬季オリンピックとは一体、何だったのか。涼しくて気持ちの良い高原の道を歩きながら、そんな問いを何度も頭の中で繰り返していました。
そんな志賀高原の夏に、東京の某大手進学塾がのべ1万人以上の生徒を連れてきて、サマースクールを行なっています。その進学塾の横断幕が貼られた旅館やホテルをいくつも見かけました。
志賀高原のメイン道路沿いの旅館やホテルで、進学塾の垂れ幕を見かけました。交通の弁が良いこうしたところほど、進学塾のサマースクールに頼らざるをえないのかもしれません。
今回我々が泊まった石の湯は、メイン道路から外れていますが、日本で標高が最も高い地域に生息するゲンジボタルの群生地のすぐそばにあります。ホタルに配慮して、夜は灯りを暗くし、部屋もカーテンを閉めることを求められます。ホタル見物の際には、懐中電灯やカメラなどを使うことを禁じています。
ホタル見物にも行きました。台風による川の増水などの影響で、最盛期の10分の1しか飛んでいなかったそうですが、それでも、ゆらゆら〜っと飛ぶホタルを何匹も見ることができ、幻想的な世界に浸りました。
志賀高原のなかでは、進学塾のサマースクールのような大口需要に頼るところと、交通の便は悪くとも独自の良さを作り出して固定客を増やしているところと、大きく二手に分かれているように感じました。
山を削ってスキー場をどんどん造成し、団体客で賑わっていた志賀高原。長野オリンピックでウハウハだったのも束の間、観光客が大きく落ち込んでいった志賀高原。冬季はまだスキーで賑わうためか、まだまだ過去の栄光にすがりつく傾向が多く見られます。
大量消費時代の自然破壊型の観光開発が何をもたらしてきたか。時代とともに変われなかった志賀高原の観光が目指す方向は、もう一度、自分たちの足元を振り返り、地に足をつけた自然環境と共存できる地道な取り組みでしかないような気がします。
でも、これは志賀高原だけの問題なのでしょうか。2020年はもうすぐです。
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