このところ、色々とふさぎ込み、マイナス思考に陥る傾向が出てしまっていたが、何とか気持ちを切り替えて、今日は、オンライン講義用の動画を作成していた。
今回のも、5月に作成したのと同様、母校での講義用の動画である。さすがに、以前、1本作っていると、2本目はずいぶんと慣れた感じにはなるが、それでも、しゃべりの途中で言葉が出ずに止まってしまい、何度も録り直す場面も多々あった。
今回のオンライン講義は、当初、対面での簡単な2人1組の対話演習を入れたかったのだが、オンラインではそれも叶わず、その意味ではやや不本意な内容になってしまった感がある。まあ、それでも、対話演習のエッセンスは少し入れ込むことはできたので、講義としての体裁はとれたと思う。
それにしても、オンライン講義になることで、講義を作る側には今までよりも真剣さが求められているような気がする。手抜きができない、と思えるのである。言いよどんでお茶を濁したり、聴講する学生の様子を見ながら内容の難易度を下げたり、といったことができない。当然、学生からの反応も分からない。達成感や充実度が分からないまま、とにかく動画を作る、ということになっている。
図書館が利用できるならば、むしろ、課題を出して、1ヵ月間の期間を与え、学生に少し骨のある内容のレポートを書かせたりすることも可能だろう。そのほうが、学生の主体的な学びが大きいような気がする。でも、図書館が利用できないのであれば、それは無理だ。
私の学生時代、大学は自分が主体的に学ぶ場と意識していた。出席をとる授業も多くなく、半ば放任主義だったので、実際にしっかり学んだかどうかは別にして、自分が学びたいと思うものを集中的に学べる環境だった。何かを学びたいから、その特定の大学へ行く、という意識だった。
今はどうなのだろうか。就職活動があるから大学の授業を休む、というような話を聞くと、自分の学生時代とはずいぶん変わったものだと思わざるを得ない。大学の経営方針もまた、時代とともに変わり、今や、学問の追究よりも組織の存続が大事になっているのであろう。
大学のときに自ら学ぶことを身につけたならば、自ら主体的に学び続けることができる人生を得ることができるだろう。何も学ぶことは、教授や書物から学ぶだけでなく、世の中の様々なものや人から学ぶことも含まれる。
学ぶことは自分に対して問い続けることであり、それが社会に対して問い続けることであり、自分と社会とが問い続け合うことであろう。学ぶことを止めたとき、人間としての成長は止まる。
あーあ、こんな青臭いことを学生と語り合いたいものだと思ってしまう。相手にしてくれるかどうかは分からないけれど。
2週間前の東京の自宅の庭のくちなしの花。今はもう白くなくなってしまった。
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