2020年8月12日水曜日

35年前の8月12日を思い出す

インドネシアの独立宣言記念日にあたって

なぜ国家ではなく地域なのか


35年前の8月12日、東京発大阪行きの日航JL123機が御巣鷹山山麓に墜落し、520人もの人々が亡くなった。日本の航空機事故で最悪の惨事となった。35年経った今も、遺族の方々が慰霊登山をしたり、あるいはしずかに、あの日、命を奪われた大切な人々のことを深く思い続けている。

あの日、私は、インドネシアにいた。西ジャワ州チマヒにいた。

35年前、大学を卒業して就職した研究所で、インドネシアとの今に至る付き合いが始まった。研究所では原則、入所1年目は現地語をイロハから学び、対象地域の基礎的な知識を身につけることに専念し、海外への出張はなかった。2年目からは出張のチャンスがあった。

入所して初めて学び始めたインドネシア。新米でも世間からはインドネシア研究者とみられてしまう引け目もあり、現地語を学び始めたばかりにもかかわらず、少しでも早くインドネシアの現地へ行きたいと思っていた。そこで、6月に始めてもらったボーナスを全部使い、有給休暇を取って、とにかく、8月にインドネシアへ行くことにした。

入所直後の4月半ば、母校の大学院に入学したインドネシア人留学生のJさんを恩師から紹介してもらい、インドネシア語の先生になってもらった。ちょうど夏休みでインドネシアへ帰国しているJさんを訪ねて、インドネシアへ行くことにしたのである。Jさんの自宅があるのがチマヒだった。

初めてのインドネシア入国。1985年4月1日からビザなしで入国できるようになったという情報を聞いていたが、その情報が正しいかどうか心配だった。パスポートを手に持ちながらおどおどしていると、入国管理官から「こっちへ来い」と別室に呼ばれる。「米ドルを持っているか?」「財布を見せろ」といわれて財布を出した。

管理官は、前日に1泊したシンガポールで替えてきたルピア札の入った財布をしげしげと見た後、当時の最高額紙幣だった1000ルピア札を財布から一枚抜き取り、パスポートにポンと入国スタンプを押した。「行け」と指示されて、イミグレを通過した。これが私の最初のインドネシアの通過儀礼だった。

空港まで迎えに来てくれていたJさんに何があったかを話したら、Jさんは私がびっくりするぐらい平謝りに謝ってきた。「インドネシアを嫌いにならないでほしい」と繰り返した。

そんなJさんに連れられて、空港からチリリタンのバスターミナルへ向かい、そこからバンドゥン行きのバスに乗り込んだ。インドネシアでの初めての食事は、バスの休憩で立ち寄ったプンチャックを越えたところのスンダ料理の店。生まれて初めて、手でご飯を食べた。

バンドゥンの手前でバスを降り、Jさんの家に泊まった。約1週間、お世話になった。Jさんの家族と一緒にチマヒからバンドゥン、バンドゥンから夜行バスで夜明け前にジョグジャカルタに着いて、ボロブドゥールを訪れた後、「もう金がない」と言われ、ジョグジャカルタに泊まることなく、昼過ぎのバスでジョグジャカルタからチマヒへとんぼ返り。当時のバスにはまだエアコンがなく、椅子のクッションもほとんどなかった。本当にあの時は、本当に疲労困憊で、Jさん宅へ戻った次の日はひたすら寝た。

たぶん、ジョグジャカルタから戻った日かその翌日が1985年8月12日だったと思う。

チマヒの街中へ買い物に行ったJさんが日刊紙『コンパス』を買って帰ってきた。「日本で大変なことが起きた」と言いながら。私は無謀にも、『コンパス』に書かれているインドネシア語の記事を読もうとした。小さな辞書を携帯していたが、なぜかコリンズの「マレー語辞典」だったので、単語がうまく分からない。当時はまだ、接頭語や接尾語が分かっていなかった。それでも、日本で何が起こったのか、分かりたいと思った。

記事のインドネシア語の単語の意味はよく分からなかったが、どうもおそらく飛行機が墜落したという内容のようだった。何人か亡くなった方の名前が載っており、坂本九さんの名前を見つけた。しかも、墜落した飛行機は日本航空のようだった。

記事を読んだ後、急に飛行機に乗るのが怖くなってきた。日本から海外へ行ったのは、大学4年のゼミ旅行で行った韓国以来の2回目だが、一人だけで飛行機に乗ってきたのはこの時が初めてだった。日本へ帰れるんだろうか。墜ちたらどうしよう。今にして思えば、ただの笑い話だが、初めて一人で飛行機に乗ってインドネシアへやってきた23歳の自分は、本当に怖く感じていた。

そのとき利用したのは、シンガポール航空機だった。帰りはシンガポールで1泊し、翌日の便でシンガポールから成田に着いた。成田に着陸したときには、本当に安堵した。日航機墜落事故が甚大な飛行機事故だったと実感するのは、帰国後、繰り返し繰り返し流れるメディア報道によってだった。

以来、8月12日なると、毎年、Jさんがチマヒの街中で買ってきた新聞を食い入るように眺め、よく分かりもしないのに、何が書いてあるのか、一語一語、「マレー語辞典」をひきながら、坂本九さんの名前を見つけた自分、帰国便に乗るのをとても怖がった自分を思い出すのである。

35年経った今も御巣鷹山に眠る方々の冥福と航空安全を心から祈る。

2019年、久々にチマヒを訪れた。1985年、1993年以来3回目。チマヒ駅。

(2019年3月9日撮影)


インドネシアの独立宣言記念日にあたって

なぜ国家ではなく地域なのか


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