8月4日の朝日新聞オピニオン欄で、「被爆建築、軍都の証人」という記事を読んだ。被爆された切明千枝子さんのインタビュー記事で、その一言一言に重みがあった。
8月6日は、75年前、世界で初めての本番での原爆投下が広島に対して行われてしまった日。その悲惨な経験を踏まえ、広島は平和と核兵器廃絶を訴える使命を果たし続けてきた。残念ながら、その広島の思いはまだ現実化されてはいない。
原爆ドームを臨む(2011年12月14日撮影)
原爆投下がなければ第二次世界大戦は終わらなかったのか、本当のところは結論づけられない。広島は、原爆の被害を世界へ向けて懸命に訴え続けてきた。
一方で、広島は軍都だった。日本軍の勝利のために、貢献しようとする都市だった。インタビューにあるように、被服支廠、兵器廠、糧秣支廠という3つの軍需工場が存在した。日清戦争のときには、広島に大本営があったという。
切明さんは語る。広島は戦争のおかげで大きくなった街。太平洋戦争に至るまでの日本の軍国主義のシンボル。広島が軍都だったこと、原爆被害を受ける前は加害の地であった、と。語り部である彼女は、だからあえて、戦前からの広島を語るのだ。
軍都だった広島は、戦争の重要な加害者だった。それが原爆投下で、一転して、悲惨な戦争の被害者となった。そして、その両者はつながっていたのである。戦争のもっとも重要な加害者だったから悲惨な戦争の被害者となったのだ。
その被害者の部分だけを切り取って平和を訴えても、原爆投下を正当化する側には響かない。広島は、過去の加害者としての自らの罪を深く省みて、二度と戦争の加害者にはならないという決意を持って、平和を訴えるに至ったのだと思う。
翻って、程度の差こそあれ、同じ戦争の(被害者であり)加害者であるはずの他の日本の者たちは、過去の加害者としての自らの罪を深く省みているだろうか。原爆を落とされた広島や長崎をことさらに特別視していないだろうか。
私は戦争を知らない。しかし、戦争に反対することができず、程度の差こそあれ、戦争に加担した者たちの子孫であり、その歴史の一端を踏まえた存在でもある。自分の親や祖父母の世代が戦争に加担した事実を否定することはできない。
原爆や核兵器の悲惨さは世界へ訴え続けなくてはならない。核兵器の必要のない世界を作らなければならない。しかし、それを日本が被害者として訴え続ける限りは不十分ではないか。被害者である以前に加害者であったことを忘れることなく、(戦争の)勝者・強者が敗者・弱者を支配するような世界を変えなければ、平和は訪れない、核兵器が不要にはならない、と訴えていかなければならないのではないか。
広島は、被害者である前に加害者であった。その事実を踏まえてこそ、核兵器廃絶や世界平和を訴え続ける意味があるのだと思う。そして、広島を広島だけにするのではなく、我々もまた「広島」であるということを自覚して行動していくことが求められるのだと思う。
過ちは繰り返しませんから・・・。その過ちとは、戦争に積極的に加担した軍都・広島の過ちであり、それに加担した我々の過ちである。自分たちの過ちなのである。真の平和運動はそこから始まるのである。
平和公園から原爆ドームを臨む(2011年12月14日撮影)
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