2020年8月10日月曜日

なぜ国家ではなく地域なのか

35年前の8月12日を思い出す

軍都だった広島、被害者は加害者だったことを改めて想う


これまで私自身、地域研究としてインドネシアに関わってきた。地域研究が一国研究として捉えられていた時代だった。インドネシアという一国に関する政治・経済・社会を総合的に研究し、「インドネシアとは」という形で語り、分析することが求められてきた。

そのスタンスは、基本的に、今でも維持している。「インドネシアとは」という語りや分析が求められているときには、それを前提として対応するようにしている。

ただ、インドネシアと関わり年月が長くなり、全34州のうちの28州を訪れ、様々な場所へ行くことで、「インドネシアとは」と一般的に括ることに満足できなくなってきた。州ごとだけでなく、州の中の県・市ごと、さらには県・市のなかの村落、集落ごとに、様々で個性を持っていることに気づかされた。こういう事例もある、ああいう事例もある、それを総合して「インドネシアとは」といえるのか、といつも悩んできた。

そうしているうちに、インドネシアという国家を論じる一国研究とは別に、様々な地域を対象に考察するための地域研究が必要だと考えるようになった。それは、必ずしも、一国研究の一部としてではなく、それぞれの地域を地域としてみるという形になっていった。

なぜなら、地域というのは、そこに住む人々の生活の場であるからだ。人々の生活と地域とは分かちがたく結びついている。人々にとって、国家とは雲の上のような存在であり、何かがあると、自分たちの生活の場にどかどかと外からやって来るものだからである。

国家がいかなるものであろうと、資本主義であろうと社会主義であろうと、権威主義であろうと独裁国家であろうと、地域は存在する。人々が生活する限り、地域は存在する。

考えてみると、国家で論じるから、国家間の優劣や国家としての威信といった話が出てくるのではないか。逆に考えると、国家がなければ、人々は本当に暮らしていけないのだろうか。死んでしまうのか。

いや、人々は生きていく。国家のあるなしにかかわらず、人々は生きていく。しかし、人は一人では生きていけない。生活の基盤となる地域はのこる。地域こそが、人々が生きていくために必要な単位である。

国家は、それ自体の存続のために、場合によっては、地域を破壊する。地域の人々の暮らしを破壊する。破壊されても、人々は新しい地域をつくる。苦しみながらも、新しい生活の場所で新しい地域をつくる。

戦争はその最たるものだ。戦争は国家と国家が戦う。これまでの戦争では、そのために国家は地域の資源や人々を強引に動員した。その動員を正当化するために、「お国のために」と地域の人々を洗脳した。地域の人々は洗脳されたかもしれないが、あるいは洗脳されたふりをして、国家からの強制動員や物資不足のなかで、毎日の生活を必死で守ろうとした。

人々が生活する場が地域である。地域がある範囲でまとめられたものが国家であるが、地域側からまとめてほしいと願ってまとめられたものではない。国家がまとめたのである。地域での人々の生活の現場から国家は遠いものになる。国家には個々の人々の生活実感が反映されにくいからだ。

でも、国家が亡くなればいいという話ではない。地域間の様々な問題を解決し、生活に必要な資源を適切に分配するために、国家は必要だと思う。地域では整備できない、多くの地域に共通に裨益するインフラなどは、国家が整備しなければならない。でも、国家目標のために、地域資源が収奪され、地域の人々の生活が破壊されることがあってはならない。

そして我々は、日本以外の世界各国もまた、同様であることを想像できるかどうか。どんな国家にも、そこで生きる人々がいる。人々の生活の場である地域がある。我々と同じように、毎日生活している人々がいる地域がある。

もっといい明日になってほしい。幸せになってほしい。元気で楽しく過ごしてほしい。平和であってほしい。そうした願いや希望は、根本的に、世界中の誰もが同じなのではないか。自分たちの生活やその基盤となっている地域を大事にしたいのではないか。たとえ、その国家が独裁国家であったとしても。

同じなのだ。人々の願いや希望は。皮膚の色や言語や生活習慣や風俗や思考方法や生活水準や地域性は違えども、地域での暮らしの中から生まれる人々の願いや希望は、世界中どこでも同じ。あたりまえといえばあたりまえのことだ。

それがいったん国家という範疇で物事を捉えると、あたかもその国家のすべての人々が国家に従順なモノトーンな人々になってしまいはしないか。そして、○○国の○○人はこういう奴らだ、危険だ、と(何らかの意図をもって)モノトーンな色が付けられ、好き、嫌い、といった感情で捉えるようになってしまう。その実、その国家の国民全員がそうだという証明などできるはずがない。

これだけ世界中がネットワークでつながれる時代に、まだ国家のみで世界を見ているのか、と思う。国家を通して世界を見る場合もあるし、国家をいう枠を外して、地域や集落を見るという場合もあっていいはずだし、後者がより多くなっていくことで、我々の他者への想像力がより高まっていけるだろうと思う。

○○国の○○人の△△さんと知り合うのではなく、△△さんと知り合う、でいいのだ。△△さんを知るには、必ずしも○○国を知る必要もない。△△さんのくらしや△△さんの生活する地域について知ることのほうが大事ではないか。すると、そこで、我々のくらしや生活する地域での願いや希望との共通点が見いだせるのではないか。そうした出会いを重ねていくことで、我々は、国家を語るときとそこの地域に生きる人々を語るときとの間に、大きな違いがあることに気づかされるはずである。

日本国と日本人を一致させる必要はない。そもそも日本人とは誰なのか。日本国籍を持っている者を日本国人というのが正しい。しかし、日本国籍を持っている者はすべてが日本国由来とは限らない。外国籍を持っていた方が日本国籍を取得する場合もある。逆に、日本国籍を持っていたものが外国籍になる場合もある。

日本人とは誰か。いま日本で生活している人は、国籍がどうであれ、日本人なのではないか。日本国へ税金を払って法に則って生活している人は、日本人なのではないか。

日本を愛する日本人もいれば、日本が嫌いな日本人もいる。それはあたりまえのことだ。国家に地域を収奪され、生活を破壊されるような経験をした人々に対して、国家を愛せといってもそれは無理な話だ。しかし、その人々にも暮らしがある。くらし続ける地域がある。地域は、その人々がその地域の他の人々の生活を脅かさない限りにおいては、国家を愛せない人々をも排除しない。

国家は変わる。社会主義から資本主義へ、軍国主義から民主主義へ、国家は変わり得る。しかし、人々の生活は変われない。暮らしていかなければならない。その基盤としての地域がある。国家に翻弄される人々を地域は受容する。それは日本だけではない。世界中がそうなのだと思う。

国家が人々に忠誠を強制するとき、生きていくために、人々は国家に忠誠を誓う。それは本心からではない。忠誠を誓わなければ、国家から強制的に排除され、場合によっては思想教育や洗脳を受けるからだ。それでも、人々が毎日くらす基盤としての地域は存在し続ける。

地域、とひとことで言っても、様々な領域がある。これまで述べてきた地域とは、必ずしも行政単位を意味しない。人々が暮らす領域には、複数の「地域」がある。人々の生活の基盤である地域をベースにして、世界中の無数の地域に生きる人々をみるとき、様々な違いの向こうに、くらしの中の共通の素朴な願いや希望を見い出せる。

私の思うグローカルは、グローバルに考えてローカルに行動する、ということ以外に、ローカルから考えてグローバルに行動する、ということをも含む。

地域単位で考えれば、国家間のような優劣を考える必要はない。○○人というようなレッテルを貼る必要もない。そこに生きる人々のくらしを想像し、そのくらしの根本の願いや希望が共通であることを意識して、必ずしも国家を通すことなく、地域と地域がつながりあうことが可能で、それが新しい世界をつくっていく一助になると思っている。

8月10日は山の日。福島市内・実家近くの二ツ山公園から見た吾妻連峰。

(2018年10月21日撮影。本文とは関係ありません)


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