2020年12月16日水曜日

恋しいが嬉しいに変わっていく、FACEBOOKのおかげ [2020/12/16]

今日(12/16)の朝、自分のFACEBOOKページに、以前、インドネシアに住んでいたときの場所の名前と「恋しい」という言葉をずらずらとインドネシア語で書いて投稿した。

こんなふうに・・・。

Rindu Rawamangun. Rindu Jalan Lombok. Rindu Daeng Tompo. Rindu Perintis Kemerdekaan. Rindu Gunung Batu Putih. Rindu Duku Kupang Barat. Rindu semua.

Apple Musicが勝手に集めてくれる「オール・タイム・インドネシアン・ヒッツ」というのをエンドレスで聴いていた。知らない曲もある。昔、よく聴いた曲もある。聴いているうちに、無性に、昔住んでいたインドネシアの場所が恋しくて恋しくてしかたなくなった。

それをFACEBOOKに投稿したら、思いもかけず、たくさんのインドネシア人の友人がコメントを寄せてくれた。そのコメントの一つ一つが、嬉しかった。愛おしかった。コメントを寄せてくれた友人との個々の思い出がよみがえってきた。

2007年10月3日、マカッサルの我が家前に仲間が建てた東屋にて。
この日は中スラウェシ州ドンガラ県在住の環境活動家ヘダール氏(故人)を招いての
意見交換会だった。ヘダール氏からは、焼畑と山の人々の暮らしについて多くのことを学んだ。

FACEBOOKを始めたのは、マカッサルに住んでいた2007年頃だったと思う。マカッサルの友人・知人・仲間たちとやり取りするために始めた。その頃、日本ではまだFACEBOOKはあまり流行っていなくて、ほとんどすべての投稿はインドネシア語だった。

10年も20年も音信のなかったインドネシア人の友人たちとつながることができ、今でも彼らと好きなときにやり取りできている。また、講演会やイベントで顔を合わせただけの大学生たちもたくさん友達申請してきて、私が彼らのことを覚えていなくても、彼らは私のことを覚えていてくれた。

インドネシアには何度か長期滞在した。30年前、研究所の海外派遣員だったときは、2年の任期が終わったら帰るので、お世話になった東ジャカルタ・ラワマングンの下宿を除いて、インドネシアは調査研究の単なる対象という認識だった。帰国した後は、ほとんどのインドネシア人の知り合いとの関係は切れた。インドネシア滞在中の今からすれば恥ずかしい行為も、誰にも知られないから、記憶から消し去ることができた。

それが変わったのは、25年前に家族3人でマカッサルに住んでからだ。JICA専門家のときだった。付き合いがずっと濃密になった。毎日毎日、たくさんの方々と議論・情報交換した。マカッサルでの反華人暴動のときも、通貨危機でモノが市中になくなったときも、たくさんの方々に助けてもらい、私たちもできる限り、お世話になっているお手伝いや運転手や様々な人を必死で助けた。

JICA専門家の任期が終わるとき、知り合った方々と一生付き合っていく、と決心した。それをスラウェシと一生付き合っていく、という言葉で表現した。

帰国後も、インターネットの電子メールでやり取りできた。でも、送ってもなかなか返信が来なかった。また、離れていってしまうのか、と思った。

2006年にふたたびマカッサルに単身赴任。縁あって、友人の一族の本家である2階建ての大きな家をまるごと借りた。はてどうしようか、と思ったときに、ひらめいた。マカッサルの地元の若者たちの活動スペースとして提供しよう、と。私は1階の後ろ半分に住み、残りは彼らに使ってもらう。

そうして、彼らのNGOのオフィス、自分たちで運営する図書館、映画上映などのイベントやセミナーを行うスペース、そしてカフェのある東屋までできた。マカッサルでは有名なパブリックスペースになった。

そのときなのだ、FACEBOOKを彼らと始めたのは・・・。

今はもう、そのスペースはマカッサルにはない。彼らが自分でもう少し小さいスペースを作って、それぞれに活動している。そして、それに加えて、インドネシアの有名な映画監督であるリリ・レザやメルボルン在住の小説家のリリ・ユリアンティと知り合い、リリ・レザの実家をリノベして、ルマタ(Ruma'ta、「あなたの家」という意味)というパブリックスペースができた。私もささやかながら協力した。

あのときから始めたFACEBOOK、今も時空を超えて、インドネシアで知り合った大切な友人たちとつながっている。住所や電話番号を探す必要はない。常にやり取りする必要もない。好きなときに「元気~?」と声をかければ、「元気だよ~」と返ってくる。

そんな束縛もストレスもない、ただつながっているという関係がFACEBOOKで作られた。そして今も、「恋しい」という私の発信に対して、返信してくれる友人たちがメッセージを送ってきてくれている。

そう、インドネシアはもう、自分とは不可分。でも、彼らの恩にまだ何も返していないに等しい。誠意をもって一つ一つ丁寧に対応していければなあ、と思う。

恋しい、が、嬉しい、に変わっていく。


Googleが突然動かなくなった夜

2020年12月15日火曜日

Googleが突然動かなくなった夜 [2020/12/14]

12月14日夜9時過ぎ、突然Googleが動かなくなって、慌てた。そして改めて、インターネットを使う日常がいかにGoogleに依存していたかを感じ入った。

最初は、自分のGmailアドレスがハックされたのかと思った。例の「アカウント1つですべての google サービスを」という表記が現れて、Gmailアドレスを入れるように求めてくる。そこでアドレスを入れると、「そのアドレスはGoogleには存在しない」と出てくる。なんどやっても同じ。「アカウント1つですべての google サービスを」という表記がなくならない。

一度パソコンの電源を切って、再度立ち上げても同じ。これは、パソコンがウィルスにやられたか、と思った。そのうち、iPadのNewsPicksで、Googleが障害を起こしているという情報が流れてきた。

Googleといえば、このブログも、GoogleのBloggerを使って書いている。今日は書けないか、せっかく昨日から書き始めたのに、と思って、午後11時半すぎに立ち上げてみたら、幸いなことに、Googleは復旧していた。よって、こうして今、ブログを書けている。

ツイッターを見ていたら、野口悠紀雄氏が、Googleが何億人という人々に無料でサービスを提供し、これまでほとんどずっと何百億ものやり取りを事故なく実現してきたことへの驚嘆をつぶやいていた。それをGoogleという民間企業が世界大で実現していることを考えると、まさに驚嘆に値するではないか。

そうであっても、一つのものに依存するリスクはやはりあるものだ、ということを思い知った。Googleに依存するインターネット生活も、再考していくことが必要だ。さしあたって、このブログを独自ドメインのサイトに移すほうが良いのでは、とも思った。どうするか、少し考えてみることにする。

12月12日には小石川植物園で紅葉狩りを楽しんだが、12月14日の朝、我が家の紅葉も美しく光っていた。


恋しいが嬉しいに変わっていく、FACEBOOKのおかげ

小石川植物園で紅葉狩りの後、如水会館へ

2020年12月13日日曜日

小石川植物園で紅葉狩りの後、如水会館へ [2020/12/12]

1カ月近くブログを書かないでいたが、これからまた、少しずつでも日記として書いてみたい。途中でしばし途切れるかもしれないが、ご容赦のほどを。

12月12日(土)、今年はこれまで、なかなか紅葉を見に行けなかったので、妻と一緒に、小石川植物園へ出かけた。入場料は500円に値上がっていたが、来場者もさほど多くなく、ゆっくりと紅葉狩りを楽しむことができた。

午後4時半の閉園ギリギリまで楽しんで、小石川植物園を出て、白山を上って降りて、都営地下鉄三田線の白山駅まで歩く。ここで、帰宅する妻と別れて、私は神保町へ。

半年に一度、如水会館で開かれる、一橋大学竹内記念フォーラムに出席。このフォーラムは、かつて日本地理学会会長やイタリア日本文化会館館長を務めた、故・竹内啓一教授の教えを受けた一橋大学ゼミ(社会地理学研究室)卒業生が自主的に集まって行う一種の勉強会である。

新型コロナ感染防止対策ということで、マスク着用のまま如水会館に入館して手指消毒、体温測定後、会場に入室。毎回、ビール付きで夕食のお弁当が出るのだが、今回は、マスクを外してお弁当を食べる間は無言で、という約束。ビールはなし。美味しいお弁当を味わう暇もなく、無言で黙々と食べて、食べ終わったら再開、という形だった。

今回は、帝京大学経済学部の山本健兒教授がミュンヘンの事例を取り上げ、「ドイツの大都市における『問題街区』のリノベーションはジェントリフィケーションか」という題で発表された。山本氏のミュンヘンでの滞在経験を踏まえて、「問題街区」の住宅修繕は、住民の階層が全面的に入れ替わらなかったという意味において、ジェントリフィケーションとは言えない、というお話だった。

昨今、このジェントリフィケーションという言葉が、階層間の入れ替えがない場合でも使われる場合があり、定義を厳密にして議論する必要がある、と力説しておられた。

山本氏の話を拝聴しながら、ジャカルタとスラバヤの都市開発の違いを思い起こしていた。ジャカルタでは、旧住民を立ち退かせて再開発し、高所得者向けのアパート群やショッピングセンターが次々と建設され、街区の様相が一変した場所が多数存在する。一方、スラバヤでは、1970年代頃からカンプン改善プロジェクトの名の下に、都市中心部のコミュニティを残したままま、そのコミュニティの住環境を改善していく手法を採ってきた。

ジャカルタでは、旧住民の居住空間が周縁に追いやられたものの、面としての開発が可能になったため、近代都市としての機能がより発揮できるようになった。

一方、スラバヤでは、都市中心部の再開発が難しいまま都市化が進むと同時に、都市中心部のコミュニティの所得が向上してくると、次世代を中心にスラバヤ郊外へ移る傾向が強まり、彼らが移った後の旧コニュニティにはよそ者が入り込み、空間価値が高まらないままになる、という、ある意味でカンプン改善プロジェクトの弊害ともいえる現象が起こっている。

入れ替わった階層による居住者階層の高度化を伴うジェントリフィケーションは、都市計画者から見れば、都市としての機能や空間価値・不動産価値を高めるという意味でプラスの評価になるのだろう。他方、旧居住者の立場からすれば、不当に居住空間を奪われてしまうのであれば、人権上の観点から、ジェントリフィケーションは避けるべきものと考えられるだろう。

ジェントリフィケーションをどのようなタイムスパンで見るかも重要になってくるだろう。インドネシアを含む、新興国と言われる国々の都市問題を考えていくうえで、現在進行中ともいえるジェントリフィケーションは、旧市街リノベーションなどとともに、注意深く見ていく必要のある現象だと思った。


Googleが突然動かなくなった夜

中スラウェシ州のある親友の訃報

2020年11月17日火曜日

中スラウェシ州のある親友の訃報


今年の酉の市はいつもと全然違った


昨日(11/16)、友人のフェイスブック・ページに昨年、インドネシアの中スラウェシ州パルで久々に再会した仲間たちとの写真が掲載されていました。

フェイスブックには1年前の写真などがよく掲載されるので、きっとそれかと思ったのですが、たしか彼らと会ったのは、中スラウェシでの震災(地震、津波、液状化)から1年経った10月2日だったはず。日にちが合わないなあ、と思って、ポスティングを読んでいたら、お悔やみの言葉がたくさん並んでいます。

誰が亡くなったのだろう。ポスティングからは誰なのかが分からず、その時に会った何人かのフェイスブック・ページをたどっていきました。そして・・・

あの時の再会の宴を作ってくれた、25年来の親友S氏が亡くなったことを知りました。

しかも、亡くなったのは、10月末。2週間以上も知らずにいたのです。

すぐに、別の友人I氏に尋ねたところ、様子を知らせてくれました。S氏はサイクリングが趣味のスポーツマンでしたが、体調不良のため、病院に行ったところ、胃炎と診断されました。しかしその後、新型コロナウィルス検査で陽性であることが判明、亡くなってしまったということでした。

家族に見送られることもなく、たった一人で旅立ってしまったのであろう彼。

彼との最初の出会いは、たしか、JICA専門家でマカッサルにいたとき、地域開発政策アドバイザーとして定期的にスラウェシ各州を回っていたときでした。

S氏は中スラウェシ州開発企画局の職員で、中スラウェシ州の開発計画・戦略に関していろいろ議論する重要なパートナーでした。そして、仕事が終わると、よく一緒に食事をしながら、様々な話をしました。

しばらくコンタクトは遠のいていましたが、フェイスブックでいつでもコンタクトできるという安心感がありました。

そんな中、2018年9月末に中スラウェシ州を襲った大震災。すぐにWAでS氏に連絡を入れました。彼以外の友人たちにも安否を尋ねるWAを送り、数日内にほとんどから無事を知らせる返信が届いたのに、S氏からは何の返事もありません。

しばらく経って、ようやく彼から返信があり、家が壊れるなどの被害はあったものの、無事であることが確認できました。

それから1年後、たまたま縁があり、震災1周年を現地・パル市で迎えました。そして、思い切ってS氏に連絡し、仲間を集めて「同窓会」をしようという話になりました。

いつものことですが、約束の時間に決められた場所に出向いたのですが、誰一人来ていません。30分ぐらい遅れて、ようやく一人二人と現れ、結局、店の閉店間際まで一緒に再会を喜び合いました。


彼らと会ったのは、もう10年ぶり以上ではなかったかと思います。でも、すぐに以前と同じ雰囲気になりました。中には、中スラウェシ州社会局長まで出世した友人もいます。S氏も、州開発企画局経済部長(局長のすぐ下)まで出世していました。

1年前、パルでみんなと会えてよかった、S氏と会えていて本当によかった、と思いました。

温厚で誰にでも優しく、ユーモアに富んだ、ゆる〜いキャラだったS氏。

まだまだ一緒に、中スラウェシ州の未来を語り合い、次の世代の活躍を見守りたかった・・・

中スラウェシの大事な親友の一人の突然の旅立ちに、言いようのない悲しさと彼との出会いへの感謝の気持ちが入り混じっています。深く深く故人の冥福をお祈りいたします。

今度パルへ行ったら、墓前でしばしゆるりと語り合いたい・・・


今年の酉の市はいつもと全然違った


2020年11月2日月曜日

今年の酉の市はいつもと全然違った

中スラウェシ州のある親友の訃報

東京の都心の庭のある我が家でご一緒しませんか


2020年11月2日、天気のよかった土日にこもって作業していた資料作成が終わったので、妻と一緒に巣鴨の大鳥神社へ行きました。今日は酉の市の一の酉。毎年、妻と一緒に出かけるのですが、今年の酉の市は、いつもとは全然違うものでした。

酉の市には、前年に購入した、縁起物の熊手を持って大鳥神社へお詣りし、古い熊手を放して、向こう一年の商売繁盛と家内安全を願って、新しい熊手を購入します。今回も、自宅用と会社用の熊手を一つずつ購入しました。下の写真は、会社用に購入した、おかめ付きの小さな熊手です。


巣鴨駅から大鳥神社へ。いつもならば、神社前の通りにずらっと並ぶ露店が全く出ていません。

大鳥神社の入口。いつもなら、訪問客でいっぱいですが、今日は数人のみ。入口で消毒液を手にかけてもらった後、並ばずに、直接、お社の前まで進みました。足元には、間隔をあけるための線が引かれていました。


お社から門のほうを振り返っても、人はいません。


考えてみれば、熊手を毎年購入するのはいつものなじみ客で、なじみ客には熊手を直接送っているのでしょうね。なじみ客でなく、ふらっと訪れて熊手を求める人は少ないはずです。ただ、たくさんの熊手の前で、熊手を購入したなじみ客に拍手や掛け声がかかる、いつもの光景が見られないのは、なんだか不思議な感じがします。

お詣りした後、甘酒などを出す休憩所はもちろん設けられておらず、トイレも使用禁止でした。お詣りしたら、すぐに帰るほかはありません。


露店は出ません、との掲示もありました。

我々の酉の市のお楽しみの一つは、大鳥神社前の通りの小さなパン屋さんが出すケーキ・ドーナッツ。揚げたてを買って、大鳥神社近くの公園でアツアツのを食べてから自宅へ帰る、というのが定番でした。今年は、14日の二の酉に予約客に対してセサミ・ドーナッツは出すようですが、ケーキ・ドーナッツを出す予定はないようです。残念。

もう一つのお楽しみは、そのパン屋の斜め前にある肉屋のメンチカツとコロッケ。手持ち無沙汰な店のご夫婦にお願いして、買って帰りました。

2020年10月26日月曜日

東京の都心の庭のある我が家でご一緒しませんか

今年の酉の市はいつもと全然違った

インドネシア風ミーゴレン、ハラルにして欲しい


色々と怒りや諦めや悲しみを感じ続ける今日この頃で、それをブログに殴り書きしたい気持ちにもなるのですが、敢えて、それを抑えて、現実逃避???

東京の我が家の庭もすっかり秋めいてきました。庭に植えてある柿の木やザクロの木も実をつけて、まさに実りの秋。

私の知らないうちに、妻がザクロの実を獲ってきていて、リビングテーブルに飾っていました。


ザクロの実を一つとって、割って二人で味見。いくつか粒をほおばって、しばらくするとさわやかな甘みが口の中に広がります。

ザクロは1年おきぐらいに豊作となり、以前、食べ切れないほどなったこともありました。

ザクロ以外に、庭には2本の柿の木があります。1本は甘柿、1本は渋柿。次の写真は渋柿です。


そして、こちらは、甘柿。


食べ頃までにはまだもう少しありそうな感じです。

庭の花々もすっかり秋の装いです。次の写真はホトトギス。まだ咲き始めですね。


ツバキの木は、種がパチパチはじけて、土の上に落ちていきます。



今住んでいる家の隣に、新しい家を建てました。もう少ししたら、その新しい家へ引っ越す予定ですが、隣なので、何だかんだとのんびり構えてしまっています。

新しい家へ移った後、今住んでいる家は、ちょっと修繕した後(築50年ぐらいなので)、一軒家としてどなたかにお貸ししようと思っています。我が家は万事のんびりペースなので、来年の春頃に入居できるように準備できればと思っています。

同じ敷地内で、私たちと一緒に暮らしてみたい方はいらっしゃいませんか。

春は桜が咲き、夏にかけては緑が濃く茂り、秋には実がなり、冬には福寿草が咲いてきます。ツバキ、くちなし、アジサイ、ツツジ、ユキノシタなどなど・・・。季節が感じられる庭です。

家の間取りは、1階がダイニング+台所+バストイレで、2階にふすまで隔てられた畳の部屋(寝室)が2つ。昔の家なので、畳も1畳が少し大きめで、2階には日当たりのよい縁側がついています。

不動産屋さんを通す予定はありません。この方なら、と、直接、信頼できる方にお貸ししたいです。場所は、JR山手線・大塚駅から徒歩8分です。池袋までも歩いていける距離です。

もしご興味のある方がいれば、メールで私までご連絡ください。


今年の酉の市はいつもと全然違った

インドネシア風ミーゴレン、ハラルにして欲しい


2020年10月20日火曜日

インドネシア風ミーゴレン、ハラルにして欲しい

東京の都心の庭のある我が家でご一緒しませんか

インドネシア政府が情報サイト『JAIPONG』を開設


色々日々思うことは多く、ときには絶望感に苛まれることもあって、ブログを書けそうで書けない毎日を送っています。日本学術会議の問題やら菅首相のインドネシア訪問やら、自分の気持ちをうまくまとめられず、たわいのないことを書いて、お茶を濁すような感じになってしまうのが、自分でも残念なのですが・・・。

今回は、インドネシア風ミーゴレンの話。もちろん、これは、最近、某コンビニで新発売された食品です。このところ、シンガポール風福建麺、西安風うま辛香油麺ビャンビャン麺など、アジアづいているこのコンビニが出したものです。


1日に必要な野菜の量の半分を摂取できる、というのがうたい文句。インドネシアのミーゴレンで野菜たっぷりなのは、あんかけのミーゴレン。イーフーミー(伊府麺)や揚げ焼きそば(ミー・クリン)あたりでしょうか。海老がのっているのはご愛敬ですね。

具の下には、黒めの色の中太麺。一般的な上海焼きそばの麺よりちょっと太いぐらい。

お、この赤いのはサンバル(チリソース)!! やった、辛いのだろうな。期待してしまう。

それで、食べてみての感想は・・・。

割りと美味しい野菜焼きそば・・・という感じ。

サンバルにみえたものは、トマトペーストでした。それ自体はまずくないけど、辛くない。うーん、日本の野菜焼きそばだなあ。


原材料名をみても、どこにも「トウガラシ」と書かれていませんでした。

そして・・・。

なんと、ゼラチンと豚肉を使っているのですよ。

日本にいるインドネシア人のイスラム教徒の友人たちは、インドネシア風ミーゴレンを食べられないのかあ・・・。

日本でのハラルについての考え方ですが、イスラム教徒だけが食べるもの、と思っていないでしょうか。

ハラル食品は、イスラム教徒でなくても食べられます。食べていいのです。私たちが普通に食べていいのです。もちろん、中身によっては、牛を神聖なものとするヒンドゥー教徒の方々や菜食主義者で食べられない方もいらっしゃるかもしれませんが。

ハラル食品のマーケットは、おそらく、豚由来のもののマーケットよりも広いかもしれません。インスタントラーメンのマーケットで、なぜ日本のラーメンがなかなか入り込めない一方で、インドネシアのインドミーが世界中で受け入れられているのか。それはハラルだからです。

もちろん、日本のラーメンは美味しいですが、豚にこだわることで、逆に世界中で広くは受け入れられにくいのです。

今回のインドネシア風ミーゴレン、せめてゼラチンと豚肉を使わないで欲しかったです。使わなくても美味しくできます。もし、ハラルだったら、必ずや、日本国内のイスラム教徒だけでなく、海外でもこの商品は受け入れられることでしょう。

懐かしい故郷の味に出会えた、と思ったのに、食べられなくて残念、という友人たちの顔が思い浮かんでなりません。

是非、次回、インドネシア風ミーゴレンを販売するときは、ハラルにして欲しい、です。そして、辛い本物のサンバルも!


東京の都心の庭のある我が家でご一緒しませんか

インドネシア政府が情報サイト『JAIPONG』を開設


2020年10月14日水曜日

インドネシア政府が情報サイト『JAIPONG』を開設

インドネシア風ミーゴレン、ハラルにして欲しい

東京でルルド、以前に東ジャワで遭遇


インドネシア政府は、日本からインドネシアへの投資促進を目的として、日本語とインドネシア語でインドネシアのビジネス情報を提供する情報サイト『JAIPONG』を開設しました。リンクは以下の通りです。

JAIPONG

ジャイポンというのは、西ジャワのスンダ族の踊りである「ジャイポンガン」からとったもので、躍動感を示したものらしいです。近年のジャイポンガンは、健康ブームに乗って、スポーツ民謡的な要素もみられるようになりました。

このサイトには、投資、輸出入、人材開発協力、政策データ、観光地などの項目ごとに情報が入っています。中身については、実際にご覧になってみてください。

JAIPONGのサイトのスクリーンショット

このJAIPONのリリースと合わせて、10月14日にはバーチャルでのインドネシア=日本ビジネスフォーラムも開催されました。以下のYouTubeサイトから録画を見ることができます。

Indonesia-Japan Virtual Business Forum

この動画の最後に、動画で披露された様々な資料のダウンロード・サイトが出ていますので、ご利用ください。資料のなかには、日本からの投資を期待する案件の説明などが含まれています。

インドネシアは、雇用機会拡大のための外国投資誘致を目指して、雇用創出法(オムニバス法)を10月5日に国会成立させましたが、それだけでは、日本からの投資を呼び込むのは難しいのではないか、という主旨を、インドネシア語での個人ブログに書きました。興味のある方は、以下のサイトから入ってご笑覧ください。

Selamat Peluncuran JAIPONG, Tapi Belum Cukup untuk Menarik Investasi dari Jepang

雇用創出法(オムニバス法)については、今月中の何らかの機会に、その内容と問題点、政治社会的な影響も含め、まとめてお話する機会を作りたいと考えております。日時が決まりましたらお知らせします。なお、個別にお話することも可能ですので、ご入用の方は、メールにて matsui@matsui-glocal.com にコンタクトされてください。


インドネシア風ミーゴレン、ハラルにして欲しい

東京でルルド、以前に東ジャワで遭遇


2020年10月12日月曜日

東京でルルド、以前に東ジャワで遭遇

インドネシア政府が情報サイト『JAIPONG』を開設


妻と一緒に、新居の庭に植える日本水仙の球根を買いに、椿山荘近くの園芸店へ行ったついでに、東京カテドラル聖マリア大聖堂へ行ってみました。

丹下健三氏が建築した建物は、荘厳かつ鋭敏で、天へ向かう曲線に見入ってしまったのですが、妻が「ルルドの奇跡、見に行こう」と言って、大聖堂を右に見ながら左へ曲がり、言われるままに進んでいくと・・・。ありました、ルルドの奇跡。



ルルドとは、フランスの西南、ピレネー山脈の奥地にある町で、1858年、キリストの聖母堂マリアが町外れの洞窟でベルナデツタという名の少女の姿になって現れ、平和のために祈るように勧め、そしてそこに湧いた霊水を飲むことで不治の病が完全に治った、という話がもとになっています。

説明板によると、教会の厳正な科学的調査によって、1862年にそれが事実であると認めたとのことです。ここにある洞窟は、1911年に実物と全く同じ大きさで建てられたものだそうです。

東京のど真ん中に、こんな場所があるんだー、と思いながら、ふと、「これって、たしかどこかで見たことあるなあ」と思いました。

それは、東ジャワ州クディリ近くでみたものでした。日本と同じレベルのケーキを出すクディリの友人の菓子店を他の友人たちと訪問した後、訪れた場所でした。


2015年4月4日でした。クディリの中心市街から18キロ離れたプサラン(Puhsarang)村にあるこのマリア像も、話は全く同じ、ルルドの奇跡でした。

きっと、世界中にこうしたルルドの洞窟があるのだろうな、と思いました。教会の厳正な科学的調査によって奇跡を証明、というところを理解するまでには到底至らないにしても。


2020年10月5日月曜日

ムハマド・ユヌス博士の言葉

東京でルルド、以前に東ジャワで遭遇

よりどりインドネシア第78号発行+舞台裏


色々書きたいことはあるけれど、何となく書く気にならず、しばし、ブログをお休みしてしまいましたが、今日(10/5)、短時間でしたが、オンラインでムハマド・ユヌス博士のお話を聞く機会に恵まれました。

これは、昨年5月に参加した、バングラデシュへの事業研修ツアーを主宰したサンパワー株式会社様の計らいで実現したもので、同ツアーの参加者も多数、一緒に聴講しました。


ユヌス博士からは、新型コロナウィルス感染拡大のなかで、今後、どのような意識でビジネスを進めていく必要があるのか、とくにソーシャルビジネスはどうあるべきか、といったことについて、30分程度、話を聴きました。

現状については、まず、新型コロナによるショックを吸収し、ダメージを最小化する努力をする。ビジネスに何が起こっているかをよく見渡す。ビジネスだけでなく、人々に何が起こっているかをよく見る。そしてこれが世界にとって巨大な問題であることを理解し、自分の存在が小さいものであることを自覚する。自分の内面に問いかける。自分自身を発見し、自分の創造力を最大化させようと努める。最大で最深の危機であることを理解する。

過去へ戻ることは意味がない。今や、完全なトランスフォーメーションが求められている。過去の世界は危険な世界であり、過去へ戻ることは自殺行為である。富める国々が様々な問題を引き起こしてきた。地球環境問題も、貧困も、格差も。私たちの思考を変え、3ゼロ(二酸化炭素ゼロ、貧困ゼロ、失業ゼロ)の新たな世界を目指す方向づけをするときが今である。

多くのとてつもない困難がある。しかし、最大の危機は最大のチャンスである。

ユヌス博士の言葉からは、今のような時期だからこそ、世界を変えていく機会になるという力強い言葉がありました。利益最大化ではなく人々の幸せのために働け、というメッセージをしっかりと受け止めて、まずは、自分を深く見つめ直して、同志を増やし、新しい世界へ向けて一歩ずつ歩みを進めていきたい、と思った夜でした。


東京でルルド、以前に東ジャワで遭遇

よりどりインドネシア第78号発行+舞台裏