岩手日報が、3月11日を「大切な人を想う日」に、という取り組みを始めています。賛同する人に署名をしてもらう、というささやかな運動です。以下のページを覗いてみてください。そして、賛同されるなら、署名をしてみてください。
岩手日報:3月11日を「大切な人を想う日」に
このページには、「最後だとわかっていたなら」という動画が3本掲載されています。大槌町の「風の電話」の話も含まれています。心に響きます。
突然何かが起きて、明日が来なくなるかもしれない。
同じ明日が来ることを当たり前に思っていた私たち。
震災という現実を前に、それまでの人生と大切な人たちとの関係を考えると、たとえ自分だけが生き延びたとしても、強い後悔と深い自省に苛まれ続けることになります。
それが自分にはどうすることもできない不可抗力だったとしても。自分はただ真面目に生きてきて、何の罪もないとしても。
明日は来ないかもしれない。だから、今の一瞬一瞬を大事に生きていく。いつこの世が終わろうとも、悔いのない人生を歩んでいく。あのとき、多くの人がそう思い、生き方を変えようとしたのだと思います。
そして、大切な人のことをもっともっと愛そう、いとおしく思おう、やさしく接しよう、そう誓ったのだと思います。
でも、実際には、私も含めて、その誓いを意識し続けられたのか、と振り返って思います。私自身、ともするとそれを忘れ、世の中の忘却の流れのなかの一部になっていたような気がします。
この世に生まれたこと、今生きていること、大切な人のことを想えること。それらが当たり前に見える奇跡なのだ、ということを忘れてしまうのです。
岩手日報のささやかな運動は、そんな自分を戒めてくれたような気がします。
でも、3月11日だけ大切な人を想うのではなく、この3月11日から「大切な人を想う日」を毎日にしていくことを自分に決めました。
昨日、寺田尚子さんの「カッチーニのアヴェ・マリア」の生演奏を聴きながら、そう決めました。
もし、私が不機嫌な顔をしていたらごめんなさい。不躾な態度だったらごめんなさい。もし私がそうだったら、遠慮なく指摘してください。
今日出会った人、明日出会う人、来週出会う人、そして毎日のように会う家族。
真剣に生きているのか、と自分に問いながら、当たり前の奇跡を意識した毎日をすごしていく。
そんな決意を自分なりにした今年の3・11。
2018年3月13日火曜日
2018年3月12日月曜日
7年目の3月11日、佐伯で寺井尚子コンサート
3月7~9日は、神戸の震災復興を支援してきたNPO法人の友人らとともに、福島から浪江、小高、相馬、山元、閖上、荒浜、仙台とまわりました。3月10日に福島でのシンポジウムに出席した後、11日は大分県佐伯市へ飛びました。
友人らとまわった話は、別途、このブログに書きたいと思います。
そう、今年の3月11日は、東北で過ごしませんでした。大分県佐伯市へ行った目的は、さいきミュージック・アートクラブが主催する「寺井尚子コンサート」に出席するためでした。
高速バスで佐伯に着いたのが午後2時。ホテルへチェックインし、午後2時46分、ホテルの部屋で黙とうしました。これまで毎年、インドネシアにいるときは時差を考慮しながら、この時間に必ず黙とうしてきました。
部屋で黙とうしようとすると、突然、サイレンが鳴り始め、それは1分間続きました。東北から遠く離れた佐伯市でも、サイレンが1分間の黙とうを市民へ促しているのでした。
街中を歩くと、地元の高校に掲げられた国旗は半旗でした。
東日本大震災を忘れまい、という気持ちは、まだそれなりに強くあるのかもしれない、と信じたくなりました。
寺井尚子コンサートですが、さいきミュージック・アートクラブが昨年、招聘を計画してから、このジャズ・バイオリニストの名前を知りました。そして、何曲か聴いて、はまってしまいました。
とくに、「トワイライト」というアルバムの1曲目の「ブエノスアイレスの冬」を聴いて衝撃を覚え、そのメロディーが頭の中から離れなくなってしまいました。
その後、しんしんと雪の降るとある日に、さいきミュージック・アートクラブの友人が薦める「カッチーニのアヴェ・マリア」を聴いて、鳥肌が立ってしまいました。
そんな寺井尚子を生で聴く機会なのでした。自分では、彼女の音楽のなかに、震災で亡くなられた方々への鎮魂や残された方々への励ましを勝手に感じていたのです。
実際のコンサートは、すごくパワフルなものでした。佐伯という地方都市だから手加減するということはなく、彼女の超絶技巧のバイオリンが、ピアノやベースやドラムと掛け合いながら、アドリブが際限なく続く、まさに真剣勝負のセッションでした。
録音された同じ曲でも、実際に生で聴くと、そのセッションの激しさがガンガンに響いてくるのでした。
後半になって、それまでのアップテンポな激しいセッションが続いた後、突然、静かに、そしてしんみりと、「カッチーニのアヴェ・マリア」が始まりました。
最初のバイオリンの入りの絶妙さ。単なる悲しさや寂しさや苦しさとは違う、いや、むしろそれらが複雑に被さり合い、混ざり合い、折り込み合っているような、何とも言葉に表せないような音色。
聴きながら、頬を涙が伝って落ちていきました。びっくりしました。初めての経験でした。
いろんなものやことを思い出していました。それは映像で観たものもあれば、かつて2012年に自分の目で見たもの、つい数日前に現場でお会いした方々と彼らが話してくれたお話、そして震災の前年に亡くなった父のことも。そしてそれらが混じっていきました。
コンサートでこんな気分になるなんて・・・。自分でも信じられない経験でした。
コンサートが終わった後、寺井尚子さんを囲んでの懇親会・ご苦労さん会が小さな洋食店でありました。ちょうど、今日11日が誕生日の出席者がいたのですが、寺井尚子さんはいきなりバイオリンを取り出し、ハッピーバースデーを弾き始め、弾きながら席の合間を歩き始めました。本人にとっては、超感激な誕生祝となりました。
私はどうしても寺井尚子さんに訊ねたいことがありました。3月11日に行うコンサートのどこかに、3・11への思いが込められていたのか、と。
幸運にも、彼女から直接答えがありました。3・11とあえて口には出さなかったけれども、震災の日だということに思いを込めて演奏していた、と。
彼女の音楽のなかに、震災で亡くなられた方々への鎮魂や残された方々への励ましを勝手に感じていた自分でしたが、それは寺井尚子さんに通じていたのでした。
魂を揺さぶる音楽。自分が最も大事にしている奥底に触れてくるのでした。それは、彼女の超絶技巧のバイオリンだからなのでしょうか。
生で聴いた彼女の「カッチーニのアヴェ・マリア」の衝撃を、当分、忘れることはないでしょう。5月の新アルバムのリリースが待ち遠しくなりました。
友人らとまわった話は、別途、このブログに書きたいと思います。
そう、今年の3月11日は、東北で過ごしませんでした。大分県佐伯市へ行った目的は、さいきミュージック・アートクラブが主催する「寺井尚子コンサート」に出席するためでした。
高速バスで佐伯に着いたのが午後2時。ホテルへチェックインし、午後2時46分、ホテルの部屋で黙とうしました。これまで毎年、インドネシアにいるときは時差を考慮しながら、この時間に必ず黙とうしてきました。
部屋で黙とうしようとすると、突然、サイレンが鳴り始め、それは1分間続きました。東北から遠く離れた佐伯市でも、サイレンが1分間の黙とうを市民へ促しているのでした。
街中を歩くと、地元の高校に掲げられた国旗は半旗でした。
東日本大震災を忘れまい、という気持ちは、まだそれなりに強くあるのかもしれない、と信じたくなりました。
寺井尚子コンサートですが、さいきミュージック・アートクラブが昨年、招聘を計画してから、このジャズ・バイオリニストの名前を知りました。そして、何曲か聴いて、はまってしまいました。
とくに、「トワイライト」というアルバムの1曲目の「ブエノスアイレスの冬」を聴いて衝撃を覚え、そのメロディーが頭の中から離れなくなってしまいました。
その後、しんしんと雪の降るとある日に、さいきミュージック・アートクラブの友人が薦める「カッチーニのアヴェ・マリア」を聴いて、鳥肌が立ってしまいました。
そんな寺井尚子を生で聴く機会なのでした。自分では、彼女の音楽のなかに、震災で亡くなられた方々への鎮魂や残された方々への励ましを勝手に感じていたのです。
実際のコンサートは、すごくパワフルなものでした。佐伯という地方都市だから手加減するということはなく、彼女の超絶技巧のバイオリンが、ピアノやベースやドラムと掛け合いながら、アドリブが際限なく続く、まさに真剣勝負のセッションでした。
録音された同じ曲でも、実際に生で聴くと、そのセッションの激しさがガンガンに響いてくるのでした。
後半になって、それまでのアップテンポな激しいセッションが続いた後、突然、静かに、そしてしんみりと、「カッチーニのアヴェ・マリア」が始まりました。
最初のバイオリンの入りの絶妙さ。単なる悲しさや寂しさや苦しさとは違う、いや、むしろそれらが複雑に被さり合い、混ざり合い、折り込み合っているような、何とも言葉に表せないような音色。
聴きながら、頬を涙が伝って落ちていきました。びっくりしました。初めての経験でした。
いろんなものやことを思い出していました。それは映像で観たものもあれば、かつて2012年に自分の目で見たもの、つい数日前に現場でお会いした方々と彼らが話してくれたお話、そして震災の前年に亡くなった父のことも。そしてそれらが混じっていきました。
コンサートでこんな気分になるなんて・・・。自分でも信じられない経験でした。
コンサートが終わった後、寺井尚子さんを囲んでの懇親会・ご苦労さん会が小さな洋食店でありました。ちょうど、今日11日が誕生日の出席者がいたのですが、寺井尚子さんはいきなりバイオリンを取り出し、ハッピーバースデーを弾き始め、弾きながら席の合間を歩き始めました。本人にとっては、超感激な誕生祝となりました。
私はどうしても寺井尚子さんに訊ねたいことがありました。3月11日に行うコンサートのどこかに、3・11への思いが込められていたのか、と。
幸運にも、彼女から直接答えがありました。3・11とあえて口には出さなかったけれども、震災の日だということに思いを込めて演奏していた、と。
彼女の音楽のなかに、震災で亡くなられた方々への鎮魂や残された方々への励ましを勝手に感じていた自分でしたが、それは寺井尚子さんに通じていたのでした。
魂を揺さぶる音楽。自分が最も大事にしている奥底に触れてくるのでした。それは、彼女の超絶技巧のバイオリンだからなのでしょうか。
生で聴いた彼女の「カッチーニのアヴェ・マリア」の衝撃を、当分、忘れることはないでしょう。5月の新アルバムのリリースが待ち遠しくなりました。
2018年3月5日月曜日
東北家族会でインドネシア人技能実習生と交わる
3月4日、宮城県塩釜市で行われた「東北家族会」に参加してきました。
「東北家族会」というのは、東北地方に居住するインドネシア人技能実習生の親睦団体。インドネシア語ではKeluarga Tohokuと呼ばれています。
「東北家族会」は当初、わずか8人でスタートしたのが、現在の会員数は約500人。4日のイベントに参加したのは170人ほどでした。女性の姿も目立ちましたが、彼女らは、気仙沼や塩釜などの水産加工場の研修生でした。
イベントの中身ですが、まず、神への祈りから始まり、塩釜にいる女性会員たちの踊りのアトラクションが続きます。
その後は、3年間の研修期間を終えて帰国する研修生への記念品の贈呈など。
記念品の贈呈が一通り終わると、昼食。インドネシア人技能実習生OGが日本人の旦那さんと経営するケータリング屋さんの弁当でした。
昼食と礼拝の休憩の後は、新しい「東北家族会」の代表を選ぶ選挙が行われました。候補者は2人で、顔写真と公約の書かれた投票用紙が配られ、インドネシアの選挙と同じように、そのどちらかを添付された爪楊枝で刺す、という形で投票が行われます。
そして、開票。インドネシアの選挙と同じように、2陣営と選挙委員会からの計3人の証人が爪楊枝で刺された穴の位置を確認し、それを他の人にも見えるようにします。
新代表が選ばれ、新代表による決意表明が行われた後は、閉会あいさつの後、お楽しみタイム。壇上でダンドゥットが始まり、会場内の至る所で出席者が勝手に踊り始めます。
ひとしきり楽しんだら、全員で会場内の清掃を始めました。
会場をきれいにして、散会。皆さん、とても楽しそうでした。
今回、このイベントが行われたのは、塩釜市杉村惇美術館という場所です。イベントの合間に、館内を少し探検してみました。
静物画を得意とする塩釜ゆかりの画家・杉村惇氏の作品が展示されているほか、彼のアトリエが再現されたコーナーもありました。
杉村惇美術館の建物は、もともとは塩釜市公民館で、丘の上に立つ、ユニークな形の古い建築物です。
2011年3月11日、この丘のすぐ下まで津波が押し寄せた、ということでした。
こんな素敵な建物で、「東北家族会」のイベントが開かれていたのが、何とも言えず、印象的でした。
東北地方に居住するインドネシア人技能実習生が、「東北家族会」のような形でまとまっていることに感激すると同時に、彼らにとってその存在がいかに心強いかを感じました。
そして、彼らを支える日本人や地元の方々の存在も知りました。宮城県国際交流協会の方ともお会いしましたが、同協会は、彼らと地元の方々との交流と共生、地域づくりへの協働を本気で促進しようとしている様子で、個人的にとても嬉しく思いました。
イベント終了後、参加者と一緒に、塩釜から仙台へ移動し、仙台駅で、「東北家族会」の中心メンバーであるW氏やY氏らと2時間ほど色々な話をしました。
筆者も、東北地方に居住するインドネシア人技能実習生に寄り添う活動を、彼らと一緒に行なっていける確信を持てました。筆者が考えていたことは、まさに彼らが必要と感じていたことでした。
今後、「東北家族会」と関係を密にしながら、技能実習制度を本物にしていくための取り組みを、一歩一歩進めていきたいと思います。その具体的な内容については、別途、説明していきたいと思います。
「東北家族会」というのは、東北地方に居住するインドネシア人技能実習生の親睦団体。インドネシア語ではKeluarga Tohokuと呼ばれています。
「東北家族会」は当初、わずか8人でスタートしたのが、現在の会員数は約500人。4日のイベントに参加したのは170人ほどでした。女性の姿も目立ちましたが、彼女らは、気仙沼や塩釜などの水産加工場の研修生でした。
イベントの中身ですが、まず、神への祈りから始まり、塩釜にいる女性会員たちの踊りのアトラクションが続きます。
その後は、3年間の研修期間を終えて帰国する研修生への記念品の贈呈など。
記念品の贈呈が一通り終わると、昼食。インドネシア人技能実習生OGが日本人の旦那さんと経営するケータリング屋さんの弁当でした。
昼食と礼拝の休憩の後は、新しい「東北家族会」の代表を選ぶ選挙が行われました。候補者は2人で、顔写真と公約の書かれた投票用紙が配られ、インドネシアの選挙と同じように、そのどちらかを添付された爪楊枝で刺す、という形で投票が行われます。
そして、開票。インドネシアの選挙と同じように、2陣営と選挙委員会からの計3人の証人が爪楊枝で刺された穴の位置を確認し、それを他の人にも見えるようにします。
新代表が選ばれ、新代表による決意表明が行われた後は、閉会あいさつの後、お楽しみタイム。壇上でダンドゥットが始まり、会場内の至る所で出席者が勝手に踊り始めます。
ひとしきり楽しんだら、全員で会場内の清掃を始めました。
会場をきれいにして、散会。皆さん、とても楽しそうでした。
* * * * *
今回、このイベントが行われたのは、塩釜市杉村惇美術館という場所です。イベントの合間に、館内を少し探検してみました。
静物画を得意とする塩釜ゆかりの画家・杉村惇氏の作品が展示されているほか、彼のアトリエが再現されたコーナーもありました。
杉村惇美術館の建物は、もともとは塩釜市公民館で、丘の上に立つ、ユニークな形の古い建築物です。
2011年3月11日、この丘のすぐ下まで津波が押し寄せた、ということでした。
こんな素敵な建物で、「東北家族会」のイベントが開かれていたのが、何とも言えず、印象的でした。
* * * * *
東北地方に居住するインドネシア人技能実習生が、「東北家族会」のような形でまとまっていることに感激すると同時に、彼らにとってその存在がいかに心強いかを感じました。
そして、彼らを支える日本人や地元の方々の存在も知りました。宮城県国際交流協会の方ともお会いしましたが、同協会は、彼らと地元の方々との交流と共生、地域づくりへの協働を本気で促進しようとしている様子で、個人的にとても嬉しく思いました。
イベント終了後、参加者と一緒に、塩釜から仙台へ移動し、仙台駅で、「東北家族会」の中心メンバーであるW氏やY氏らと2時間ほど色々な話をしました。
筆者も、東北地方に居住するインドネシア人技能実習生に寄り添う活動を、彼らと一緒に行なっていける確信を持てました。筆者が考えていたことは、まさに彼らが必要と感じていたことでした。
今後、「東北家族会」と関係を密にしながら、技能実習制度を本物にしていくための取り組みを、一歩一歩進めていきたいと思います。その具体的な内容については、別途、説明していきたいと思います。
2018年2月27日火曜日
福島市のホッとするブックカフェ・コトー
先週、インドネシア人作家のリリ・ユリアンティさんを連れて福島を案内したのですが、前々から気になっていたブックカフェ・コトーへ行ってきました。
コトーの場所は、新浜公園のすぐ近く。筆者が小4~高1まで住んでいた場所(今や当時の家の面影も何も全くない)から歩いて5分もかからないところにありました。そう、子どもの頃の私にとっては庭みたいな場所です。
ちょっと古ぼけた二階建ての建物の2階に、コトーはひっそりとありました。
階段を上がって中へ入ると、子ども向けの本から美術書まで、面白そうな本が並んでいます。選者のセンスの良さを感じさせるラインアップでした。
寒い外からストーブで温かな空間、とても居心地のよい空間でした。リリさんとコーヒーを飲みながら、しばし読書談義をしているうちに、いつしか、店主の小島さんも話に加わり、誰も他にお客さんがいないのをいいことに、色々な話をしました。
ここの本はみんな買取で、すべて販売している本です。言ってみれば、古本屋さん。小島さんに言われて気づいたのですが、福島市内には古本屋が見当たりません。人口30万人の街にある唯一の古本屋なのかもしれません。
もっとも、今や、古本はブックオフやアマゾンで売買すればよいから、古本屋は必要ないと割り切る向きが多いのかもしれません。それもまた、全国の地方都市で地元の本屋がどんどんなくなっている現象と軌を一にするものでしょう。
本屋はただ単に本が置いてあるのではなく、そこに様々な本がある偶然、自分には思いもしなかった本と出会う偶然、そんな偶然が起こる場所であり、そんな偶然が自分では思いもしなかった新しい自分や何かを生み出していたのかもしれません。
地方都市にとっての文化って、いったい何なのだろうか?
効率や損得が第一のような風潮のなかで、敢えて、古本屋という媒体を通じて急く時間を止め、様々な偶然が生まれて浸み込んでいく時間と空間を提供している場所。そんな場所を求めている人々がこの福島にもいるということに、自分勝手ではありますが、ものすごく救われた気分になりました。
そして、こんな場所が福島市内のあちこちに生まれたら、もっと素敵な町になっていくなあ、と思いました。
小島さん、またお邪魔します。自分も、そんな場所を作ってみようかな?
文化をつくるって、きっと、こういうことから、じわじわ、ゆるゆると始まっていくのかもしれません。
コトーの場所は、新浜公園のすぐ近く。筆者が小4~高1まで住んでいた場所(今や当時の家の面影も何も全くない)から歩いて5分もかからないところにありました。そう、子どもの頃の私にとっては庭みたいな場所です。
ちょっと古ぼけた二階建ての建物の2階に、コトーはひっそりとありました。
階段を上がって中へ入ると、子ども向けの本から美術書まで、面白そうな本が並んでいます。選者のセンスの良さを感じさせるラインアップでした。
寒い外からストーブで温かな空間、とても居心地のよい空間でした。リリさんとコーヒーを飲みながら、しばし読書談義をしているうちに、いつしか、店主の小島さんも話に加わり、誰も他にお客さんがいないのをいいことに、色々な話をしました。
ここの本はみんな買取で、すべて販売している本です。言ってみれば、古本屋さん。小島さんに言われて気づいたのですが、福島市内には古本屋が見当たりません。人口30万人の街にある唯一の古本屋なのかもしれません。
もっとも、今や、古本はブックオフやアマゾンで売買すればよいから、古本屋は必要ないと割り切る向きが多いのかもしれません。それもまた、全国の地方都市で地元の本屋がどんどんなくなっている現象と軌を一にするものでしょう。
本屋はただ単に本が置いてあるのではなく、そこに様々な本がある偶然、自分には思いもしなかった本と出会う偶然、そんな偶然が起こる場所であり、そんな偶然が自分では思いもしなかった新しい自分や何かを生み出していたのかもしれません。
地方都市にとっての文化って、いったい何なのだろうか?
効率や損得が第一のような風潮のなかで、敢えて、古本屋という媒体を通じて急く時間を止め、様々な偶然が生まれて浸み込んでいく時間と空間を提供している場所。そんな場所を求めている人々がこの福島にもいるということに、自分勝手ではありますが、ものすごく救われた気分になりました。
そして、こんな場所が福島市内のあちこちに生まれたら、もっと素敵な町になっていくなあ、と思いました。
小島さん、またお邪魔します。自分も、そんな場所を作ってみようかな?
文化をつくるって、きっと、こういうことから、じわじわ、ゆるゆると始まっていくのかもしれません。
2018年2月22日木曜日
川俣と飯野のおひなさま
2月18日は、弟に車を出してもらい、リリさんを連れて、福島から川俣と飯野(いいの)へ出かけました。前日の雪が心配でしたが、幹線道路の雪はきれいに除雪してありました。
まず、道の駅川俣に着いて、2階にある蕎麦屋で鶏南蛮そばをいただきました。そばは手打ち、おつゆの中に小切りの川俣シャモが数切れ入っていました。
川俣の名物といえば、川俣シャモ、シルク、コスキン・エン・ハポネス。
最後のコスキン・エン・ハポネスは、日本国内最大のフォルクローレ・フェスティバルで、毎年10月に開催されています。
というわけで、道の駅でそばを食べ、桑粉入りのソフトクリームを堪能した後、お隣のおりもの展示館を見学。
世界一薄い絹織物「フェアリー・フェザー」は、本当になめらかで薄くて軽いシルクでした。マレーシアのジミー・チュウが、震災後、川俣シルクを素材に作った靴ももちろん展示してありました。
でも、この日の展示のメインは、おひなさまでした。
道の駅では、川俣町の公民館の主事をしているインドネシア人のイェティさんとお友達のエカさんと初めてお会いし、生活のことや技能実習生のことなど、色々なお話を聞きました。イェティさんとは、フェイスブックで友達になっていたのですが、実際に会うのは初めてでした。ただ、なぜかそんな気がしない出会いでした。
イェティさんの案内で、川俣から飯野へ移動。川俣は町として存続しましたが、飯野は合併を選び、福島市に吸収されました。
飯野では、ちょうど、名物の吊るしびな祭りが行われていました。飯野のメインストリートの焦点が、思い思いに、小さな雛人形や色々な飾りを上から吊るし、それをお客さんが見て回る、というお祭りです。
ポイントは、店に入らないとじっくり見られないこと。そして、朝10時から夕方4時までしかやっていないこと。我々が着いたのは午後3時半で、結局、30分しか見て回ることができませんでした。
筆者が幼い頃、国鉄・東北線の松川駅から川俣線という国鉄ローカル線が出ていました。松川、岩代飯野、岩代川俣のわずか3駅で、全国有数の赤字路線となり、1972年に廃止されました。
福島市に住んでいたとはいえ、飯野に行ったのは今回が初めてでした。この吊るしびな祭りは3月4日まで、飯野の30以上の店で行われています。行って実際に見ると、なかなか圧巻です。
飯野は、UFOでの町おこしも試みており、UFOの里という施設もあります。また、近いうちに飯野へ行き、おばさんの話の続きを聞きたい、面白いことやものを探したいと思います。
まず、道の駅川俣に着いて、2階にある蕎麦屋で鶏南蛮そばをいただきました。そばは手打ち、おつゆの中に小切りの川俣シャモが数切れ入っていました。
川俣の名物といえば、川俣シャモ、シルク、コスキン・エン・ハポネス。
最後のコスキン・エン・ハポネスは、日本国内最大のフォルクローレ・フェスティバルで、毎年10月に開催されています。
というわけで、道の駅でそばを食べ、桑粉入りのソフトクリームを堪能した後、お隣のおりもの展示館を見学。
世界一薄い絹織物「フェアリー・フェザー」は、本当になめらかで薄くて軽いシルクでした。マレーシアのジミー・チュウが、震災後、川俣シルクを素材に作った靴ももちろん展示してありました。
でも、この日の展示のメインは、おひなさまでした。
道の駅では、川俣町の公民館の主事をしているインドネシア人のイェティさんとお友達のエカさんと初めてお会いし、生活のことや技能実習生のことなど、色々なお話を聞きました。イェティさんとは、フェイスブックで友達になっていたのですが、実際に会うのは初めてでした。ただ、なぜかそんな気がしない出会いでした。
イェティさんの案内で、川俣から飯野へ移動。川俣は町として存続しましたが、飯野は合併を選び、福島市に吸収されました。
飯野では、ちょうど、名物の吊るしびな祭りが行われていました。飯野のメインストリートの焦点が、思い思いに、小さな雛人形や色々な飾りを上から吊るし、それをお客さんが見て回る、というお祭りです。
ポイントは、店に入らないとじっくり見られないこと。そして、朝10時から夕方4時までしかやっていないこと。我々が着いたのは午後3時半で、結局、30分しか見て回ることができませんでした。
しかも、途中で入った洋品店で、お店のおばさんと話し込んでしまいました。
飯野も前日の晩は雪がたくさん降ったこと、それを商工会の役員の方々が朝懸命に雪かきをしてくれたこと、でも寒いからか訪問客がほとんどいないこと。
日曜だけどお祭りだから夕方まで開けてくれと言われて店を開けていること、飯野はどう頑張ったって皆んなよそへ出て行って寂しくなっていくこと。
おばさんの話は止まず、でも、飯野の今の状況を察することができるような話で、こうした話の延長線上で、お祭りをやっても意味があるのだろうか、というおばさんの気持ちが溢れているのでした。きっと、あと1時間2時間、お話を聞いているのがよかったかもしれません。
少しでも、飯野によその人が関心を持ってくれたら、という気持ちで、吊るしびな祭りが行われているのでしょう。でも、きっと、このお祭りはもっと面白くなるような気がしました。きっと面白く楽しくなります。
リリさんやイェティさんに置いていかれそうになったので、おばさんとの話は終わらせ、時計を見ると、午後4時まであと5分。
筆者が幼い頃、国鉄・東北線の松川駅から川俣線という国鉄ローカル線が出ていました。松川、岩代飯野、岩代川俣のわずか3駅で、全国有数の赤字路線となり、1972年に廃止されました。
福島市に住んでいたとはいえ、飯野に行ったのは今回が初めてでした。この吊るしびな祭りは3月4日まで、飯野の30以上の店で行われています。行って実際に見ると、なかなか圧巻です。
飯野は、UFOでの町おこしも試みており、UFOの里という施設もあります。また、近いうちに飯野へ行き、おばさんの話の続きを聞きたい、面白いことやものを探したいと思います。
2018年2月19日月曜日
未来の祀りカフェで熊本と福島を結ぶ
先週は体調がすぐれず、昼間でも寝たり起きたりの毎日でしたが、何とかしのぎ、2月17日、フォーラム福島で開催された、第4回未来の祀りカフェ「めぐる春の祈り 〜熊本のいま、ふくしまのいま〜」に参加しました。
一連の「未来の祀りふくしま」の活動については、以下のページをご覧ください。
未来の祀り ふくしま 2017
2016年4月14日に熊本で起こった連続地震。福島や東北からもたくさんのボランティアが駆けつけました。そして1年経った現地を、未来の祀りカフェを主宰する福島の詩人・和合亮一さんが訪れ、イベントで連帯を示したことが、今回の第4回カフェのきっかけとなったようです。
以下に、新聞記事が出ています。
福島民報:福島と熊本復興へ前進誓う 未来の祀りカフェ
福島民友:福島と熊本の復興願う 和合亮一さんら「未来の祈りカフェ」
熊本日日新聞:被災復興の「今」語る 南阿蘇村の観光業者ら福島でイベント出演
カフェには、映像などで熊本の復興を支援する西村元晴さん、南阿蘇観光復興プロジェクト交流協議会やつなぐ・つながる南阿蘇未来会議の皆さんが駆けつけたほか、地元・福島の土湯温泉の旅館若手経営者でつくる「ふくしま若旦那プロジェクト」の渡邉利生さんも出席、そして、シンガーソングライターの小室等さん・こむろゆいさんもいらっしゃいました。大御所の小室等さんを生で初めて見ることができました!
第1部では、南阿蘇での復興に関連したショートフィルムが3本上映され、それを基に、和合さんの司会で、出席者がトークを行いました。第2部では、熊本で和合さんが読んだ詩に小室さんが曲をつけた作品など、トークを交えながら3曲が歌われました。
会の趣旨としては、震災に見舞われた熊本と福島との間での連帯と交流をこれからも進めていくという面のほかに、両者が迎えているいろんな意味で同じような現状にある、という意識を持っていることの確認の意味がありました。
あの時のことを決して忘れないということ。それを基盤として、当事者意識を持ちながら、子供や孫により良い未来を残せるように、身近なところからできる範囲で活動していくこと。まだまだ苦しくとも、よろよろしながらも、一歩ずつ前へ進んでいくこと。
震災から時が経つにつれ、まだまだ日常を取り戻したとは言い切れないままではあっても、福島が福島のためだけでなく、熊本を含む他者へも思いを馳せ、つながっていこうとすること。もしかしたら、それは、福島がこれから積極的にやっていかなければならないことなのかもしれません。
イベントに参加しながら、私の熊本がらみの友人や知人の顔が思い浮かんできました。
そう、あの地震が起こる前、南阿蘇とインドネシアの東ロンボクとをつなげてみたいと、思っていました。阿蘇山に抱かれた南阿蘇、リンジャニ山に抱かれた東ロンボクの特にセンバルン地区。観光と農業に生きるこれら2つの地域を、いつかつなげて新しい動きを作ってみたい、と。今でもまだ、それを捨てずにいます。
今回のイベントには、マカッサル時代からの友人で、マカッサル国際作家フェスティバルを主宰しているリリ・ユリアンティさんも連れて行きました。彼女もまた、熊本と福島との連帯を深めるこのイベントをとても嬉しく感じていたようでした。
そして、今や、こうした連帯やつながりは、国家の枠を軽く越えて、どんどん進んでいくものなのだとも強く思うのでした。
リリさんは、今年5月2〜5日に開催するマカッサル国際作家フェスティバル(MIWF 2018)で福島に関する特別セッションを計画しており、もちろん、私もそれに関わります。様々な条件が叶えば、福島から和合亮一さんをマカッサルへ招聘することを計画しています。できれば、その後、マカッサルからも福島へ文学関係者を招聘したいと考えています。
次は、福島とマカッサルをつなげます。お楽しみに。
一連の「未来の祀りふくしま」の活動については、以下のページをご覧ください。
未来の祀り ふくしま 2017
2016年4月14日に熊本で起こった連続地震。福島や東北からもたくさんのボランティアが駆けつけました。そして1年経った現地を、未来の祀りカフェを主宰する福島の詩人・和合亮一さんが訪れ、イベントで連帯を示したことが、今回の第4回カフェのきっかけとなったようです。
以下に、新聞記事が出ています。
福島民報:福島と熊本復興へ前進誓う 未来の祀りカフェ
福島民友:福島と熊本の復興願う 和合亮一さんら「未来の祈りカフェ」
熊本日日新聞:被災復興の「今」語る 南阿蘇村の観光業者ら福島でイベント出演
カフェには、映像などで熊本の復興を支援する西村元晴さん、南阿蘇観光復興プロジェクト交流協議会やつなぐ・つながる南阿蘇未来会議の皆さんが駆けつけたほか、地元・福島の土湯温泉の旅館若手経営者でつくる「ふくしま若旦那プロジェクト」の渡邉利生さんも出席、そして、シンガーソングライターの小室等さん・こむろゆいさんもいらっしゃいました。大御所の小室等さんを生で初めて見ることができました!
第1部では、南阿蘇での復興に関連したショートフィルムが3本上映され、それを基に、和合さんの司会で、出席者がトークを行いました。第2部では、熊本で和合さんが読んだ詩に小室さんが曲をつけた作品など、トークを交えながら3曲が歌われました。
会の趣旨としては、震災に見舞われた熊本と福島との間での連帯と交流をこれからも進めていくという面のほかに、両者が迎えているいろんな意味で同じような現状にある、という意識を持っていることの確認の意味がありました。
あの時のことを決して忘れないということ。それを基盤として、当事者意識を持ちながら、子供や孫により良い未来を残せるように、身近なところからできる範囲で活動していくこと。まだまだ苦しくとも、よろよろしながらも、一歩ずつ前へ進んでいくこと。
震災から時が経つにつれ、まだまだ日常を取り戻したとは言い切れないままではあっても、福島が福島のためだけでなく、熊本を含む他者へも思いを馳せ、つながっていこうとすること。もしかしたら、それは、福島がこれから積極的にやっていかなければならないことなのかもしれません。
イベントに参加しながら、私の熊本がらみの友人や知人の顔が思い浮かんできました。
そう、あの地震が起こる前、南阿蘇とインドネシアの東ロンボクとをつなげてみたいと、思っていました。阿蘇山に抱かれた南阿蘇、リンジャニ山に抱かれた東ロンボクの特にセンバルン地区。観光と農業に生きるこれら2つの地域を、いつかつなげて新しい動きを作ってみたい、と。今でもまだ、それを捨てずにいます。
今回のイベントには、マカッサル時代からの友人で、マカッサル国際作家フェスティバルを主宰しているリリ・ユリアンティさんも連れて行きました。彼女もまた、熊本と福島との連帯を深めるこのイベントをとても嬉しく感じていたようでした。
そして、今や、こうした連帯やつながりは、国家の枠を軽く越えて、どんどん進んでいくものなのだとも強く思うのでした。
左から筆者、リリさん、和合さん、落合さん、森さん。
次は、福島とマカッサルをつなげます。お楽しみに。
2018年2月17日土曜日
バレンタインにスラウェシのカカオ農家が来日
1年で一番チョコレートが売れるのはバレンタイン・デー。都会の有名百貨店では、ここぞとばかり、他店にはないような世界中のチョコレート店の美味しそうなチョコレートが並びます。
筆者がアドバイザーをしている京都のダリケーも、今ではすっかりこうしたバレンタインのチョコレート店として常連になりました(ダリケーのアドバイザーになった経緯については、また別途、書くことにします)。
ダリケーは、インドネシア・スラウェシ産のカカオを使用した製品を作る、おそらく国内では唯一の店です。インドネシアは世界第2位・3位のカカオ生産国であるにもかかわらず、日本ではまだ知名度が低いのが現状です。
バレンタインをめがけて並ぶチョコレート店のほとんどは、製品としてのチョコレートやそれを作るショコラティエに注目が集まります。それはやむを得ないことですが、その原材料であるカカオには、どれだけの関心が寄せられているでしょうか。
ダリケーは今年、初めての企画として、ダリケーにカカオを供給してくれているカカオ農家の代表1名と現場でカカオ栽培指導を行うフィールドコンサルタント2名の計3名を、スラウェシから招聘しました。彼らの作ったカカオを原材料とするチョコレート製品が実際に売られている現場を見てもらうためです。
2014年以降、ダリケーは毎年8月、カカオ農家を訪ねる日本人向けツアーを実施し、参加者がカカオ農家と直に触れ合う機会を作ってきました。その参加者数は述べ150人程度います。単に、カカオ農家と会うだけでなく、実際に栽培方法を学んだり、カカオの苗を植えたりもします。
2017年のツアーでは、新しい試みとして、ツアー参加者が地元の小学6年生と一緒に、カカオ豆からチョコレートを作るワークショップを行いました。カカオ農家の子供たちにとっては、親が栽培するカカオがどのような製品になるのかを知る機会ともなりました。
こうした日本からスラウェシへのツアーのお返し、というわけではありませんが、今回のバレンタインには、スラウェシから3人を日本へ招いたのです。
このように、ダリケーでは、カカオ製品の愛好者とカカオ農家とが直接顔の見える関係を作ることを重要視しています。カカオ農家はより一層発酵の熟度を増したいいカカオを供給しようとし、消費者はそれをわかって、カカオ農家の顔を思い浮かべながらカカオ製品を消費する、そんな関係が既に生まれて動いているのです。
もちろん、彼ら3人の来日に合わせて、2014年からのツアー参加者が集まる「同窓会」が京都と東京で開催されました。3人はツアー参加者との再会を心底喜び、なお一層、良質のカカオを作っていきたいと強く宣言していました。
東京での「同窓会」では、ツアー参加者の一人の会社の場所を使わせてもらい、さらに、スラウェシからのカカオを使ったガトーショコラを密かに作っていただきました。このガトーショコラには、彼ら3人の似顔絵が。
このガトーショコラを彼ら3人と我々「同窓会」出席者で堪能したのですが、その美味しさに、全員が驚嘆しました。
ダリケーのチョコレートには、毎年、こうしたストーリーが重ねられていきます。
そして、生産者と消費者が顔の見える関係を作ってつながる、ということが、日本とインドネシアという外国であっても可能なのだ、ということを示してもいます。
ダリケーはチョコレート店と自称していません。カカオ店といった方が正しいかもしれません。また、農家をエンパワーメントするようなフェアトレードも謳っていません。いいカカオを作ってもらったら適切に高く買う、という当たり前の取引をしているだけです。
まだ日程は未定ですが、今年も、ダリケーのカカオ農園ツアーがあるはずです。もちろん、2014年以来毎年同行している筆者は、今年もお供する予定です。皆さんも、ぜひ参加されてみませんか。
参加予定の方は、今から8月後半の1週間程度を空けておいてもいいのではないでしょうか。
他のチョコレート店とはだいぶ違う、ダリケーの今後の展開にご注目ください。
筆者がアドバイザーをしている京都のダリケーも、今ではすっかりこうしたバレンタインのチョコレート店として常連になりました(ダリケーのアドバイザーになった経緯については、また別途、書くことにします)。
ダリケーは、インドネシア・スラウェシ産のカカオを使用した製品を作る、おそらく国内では唯一の店です。インドネシアは世界第2位・3位のカカオ生産国であるにもかかわらず、日本ではまだ知名度が低いのが現状です。
バレンタインをめがけて並ぶチョコレート店のほとんどは、製品としてのチョコレートやそれを作るショコラティエに注目が集まります。それはやむを得ないことですが、その原材料であるカカオには、どれだけの関心が寄せられているでしょうか。
ダリケーは今年、初めての企画として、ダリケーにカカオを供給してくれているカカオ農家の代表1名と現場でカカオ栽培指導を行うフィールドコンサルタント2名の計3名を、スラウェシから招聘しました。彼らの作ったカカオを原材料とするチョコレート製品が実際に売られている現場を見てもらうためです。
2014年以降、ダリケーは毎年8月、カカオ農家を訪ねる日本人向けツアーを実施し、参加者がカカオ農家と直に触れ合う機会を作ってきました。その参加者数は述べ150人程度います。単に、カカオ農家と会うだけでなく、実際に栽培方法を学んだり、カカオの苗を植えたりもします。
2017年のツアーでは、新しい試みとして、ツアー参加者が地元の小学6年生と一緒に、カカオ豆からチョコレートを作るワークショップを行いました。カカオ農家の子供たちにとっては、親が栽培するカカオがどのような製品になるのかを知る機会ともなりました。
こうした日本からスラウェシへのツアーのお返し、というわけではありませんが、今回のバレンタインには、スラウェシから3人を日本へ招いたのです。
このように、ダリケーでは、カカオ製品の愛好者とカカオ農家とが直接顔の見える関係を作ることを重要視しています。カカオ農家はより一層発酵の熟度を増したいいカカオを供給しようとし、消費者はそれをわかって、カカオ農家の顔を思い浮かべながらカカオ製品を消費する、そんな関係が既に生まれて動いているのです。
もちろん、彼ら3人の来日に合わせて、2014年からのツアー参加者が集まる「同窓会」が京都と東京で開催されました。3人はツアー参加者との再会を心底喜び、なお一層、良質のカカオを作っていきたいと強く宣言していました。
東京での「同窓会」では、ツアー参加者の一人の会社の場所を使わせてもらい、さらに、スラウェシからのカカオを使ったガトーショコラを密かに作っていただきました。このガトーショコラには、彼ら3人の似顔絵が。
このガトーショコラを彼ら3人と我々「同窓会」出席者で堪能したのですが、その美味しさに、全員が驚嘆しました。
ダリケーのチョコレートには、毎年、こうしたストーリーが重ねられていきます。
そして、生産者と消費者が顔の見える関係を作ってつながる、ということが、日本とインドネシアという外国であっても可能なのだ、ということを示してもいます。
ダリケーはチョコレート店と自称していません。カカオ店といった方が正しいかもしれません。また、農家をエンパワーメントするようなフェアトレードも謳っていません。いいカカオを作ってもらったら適切に高く買う、という当たり前の取引をしているだけです。
まだ日程は未定ですが、今年も、ダリケーのカカオ農園ツアーがあるはずです。もちろん、2014年以来毎年同行している筆者は、今年もお供する予定です。皆さんも、ぜひ参加されてみませんか。
参加予定の方は、今から8月後半の1週間程度を空けておいてもいいのではないでしょうか。
他のチョコレート店とはだいぶ違う、ダリケーの今後の展開にご注目ください。
2018年2月9日金曜日
ワールドシフト京都フォーラム2018へ行ってみた
2月3日朝、ジャカルタから東京へ戻り、翌4日朝、東京から京都へ行って、「ワールドシフト京都フォーラム2018」というイベントへ行ってみました。
前から興味はあったのですが、何せ、知り合いがほとんどいないイベントです。とはいえ、30年ぶりに大学の後輩に会うなど、いい時間を過ごせました。
このイベントは、一般社団法人ワールドシフト・ネットワーク・ジャパンが主催するもので、持続可能で平和な未来の実現のため、これまでとは異なる、新しい世界や価値観へのシフトを起こし、行動していくことを目指す運動の一環です。
そのシフトはまず自分自身から始まる、という能動的な運動でもあります。世界がこう変わってくれたらいいなあ、という受け身ではなく、まず、自分は何から何へ変わるのか、という問いから始まり、自分から何らかの行動を起こしていく、そんなたくさんの個人が世界中で行動を起こしていくなかで、シフトが起こっていく、ということを目指している、と理解しました。
今回のフォーラムの「まなぶ、つながる、うごく」というサブタイトルにも惹かれました。まさに、自分が今、目指している行動だからです。
前から興味はあったのですが、何せ、知り合いがほとんどいないイベントです。とはいえ、30年ぶりに大学の後輩に会うなど、いい時間を過ごせました。
このイベントは、一般社団法人ワールドシフト・ネットワーク・ジャパンが主催するもので、持続可能で平和な未来の実現のため、これまでとは異なる、新しい世界や価値観へのシフトを起こし、行動していくことを目指す運動の一環です。
そのシフトはまず自分自身から始まる、という能動的な運動でもあります。世界がこう変わってくれたらいいなあ、という受け身ではなく、まず、自分は何から何へ変わるのか、という問いから始まり、自分から何らかの行動を起こしていく、そんなたくさんの個人が世界中で行動を起こしていくなかで、シフトが起こっていく、ということを目指している、と理解しました。
今回のフォーラムの「まなぶ、つながる、うごく」というサブタイトルにも惹かれました。まさに、自分が今、目指している行動だからです。
2018年2月4日日曜日
グローカルとハイローカル
1月半ば、会津坂下の話を書いて以来、2週間以上もブログをお留守にしてしまいました。「日記」と言いながら、これはこれまでで最長の空白期間になりました。
先週は、ジャカルタへ出張でした。その話は、また改めて。また、2月4〜5日は京都へ行ってきます。
この間、調子が悪かったわけでも、何か深刻な問題が起こっていたわけでもありません。ずっと元気に過ごしていましたが、ブログを書くのを単に怠っていただけです。
では何をしていたか、というと、けっこうバタバタしておりました。ローカルとローカルとを結びつけて新しいモノやコトを促す、ということに関わるいくつかの動きと出会っていました。そして、その方向性は誤っていないという確信をさらに得るに至りました。
1月23日には、JICA地域創生セミナーに出席しました。国家=国家を単位とする経済協力外交の一角を担うJICAのなかで、日本の地域振興の経験を世界へ発信し、そのインパクトを日本の地域へフィードバックする、という動きは、決してJICAのなかで主流ではありませんが、驚いたのは、そのような方向性に賛同して動き始めた人々がいる、ということでした。今はまだ、新たな案件形成の観点から日本の地域に目を向け始めたという面も強いでしょうが、いずれその殻を破る動きが現れてくる予感がします。
また、青年海外協力隊経験者が帰国後、地域おこし協力隊として日本の地域に入って活動する動きも見られます。青年海外協力隊OBの活動を支援する公益社団法人青年海外協力協会(JOCA)は、そうした海外経験者の地方での活動を積極的に促しています。
JICAはすでにグローカル協力隊というスキームを持っています。これは青年海外協力隊員が派遣の前または後に日本の地域で活動する、というスキームですが、まだあまり知られていないようです。
こうしたJICAの動きは注目されますし、私の活動ともどこかでつながってくるような気がします。私自身、地域おこし協力隊のツイッターをいくつもフォローしていますが、なかなか面白いものが多いです。こうした人材が今後、どのような展開をしていくかも、大いに興味があります。私の勝手に仲間候補者と言ってもいいかもしれません。
また、1月25日には、「ハイローカルを創ろう」プレイベントというのにも顔を出しました。出席していたのは若い世代がほとんどでしたが、なかなか面白いひとときでした。
これは、美意識を持った地域づくりとでもいうもので、美意識を媒介した新しい価値を地域で作り出す行動を促すものです。つまり、かっこいいローカルを創る、ということのようです。
ハイローカルという言葉はまだよそ者によって唱えられていますが、これが地元の人々の意思とどのようにつながり、溶け合っていくのか、まずは、コミュニケーションの問題が横たわっているような気がします。
それでも、よそ者による美意識の押し付けになるのではなく、その美意識を契機として新しい価値が生まれてくるのであれば、ハイローカルがその地域のものになっていくプロセスが現れてくるような、そんな可能性を感じました。
ローカルという言葉が様々なシチュエーションで以前よりもより頻繁により真剣に、それも東京で語られ始めている、そんなことを感じた1月後半でした。
1月23日、所用でみなかみ町にも行ってきました
先週は、ジャカルタへ出張でした。その話は、また改めて。また、2月4〜5日は京都へ行ってきます。
2018年1月16日火曜日
会津坂下の奇祭・大俵引きを見に行く
1月14日は、会津坂下町へ坂下初市と大俵引きを見にいきました。
会津坂下では、年の初めの4の付く日が初めて市の立つ日ということで、毎年、1月14日に「初市」が開催されます。この初市と合わせて行われるのが、大俵引きです。
会津坂下町が自ら「奇祭」と名付ける大俵引きですが、重さ5トンの大俵を真ん中に置き、東方と西方に分かれて、綱引きのように大俵を引き合うものです。
まずは、前座として、子どもが参加する俵引きが行われます。俵の大きさは1トン、男の子は上半身裸です。
子供の部が終わると、いよいよ大人の部です。
会津坂下では、年の初めの4の付く日が初めて市の立つ日ということで、毎年、1月14日に「初市」が開催されます。この初市と合わせて行われるのが、大俵引きです。
会津坂下町が自ら「奇祭」と名付ける大俵引きですが、重さ5トンの大俵を真ん中に置き、東方と西方に分かれて、綱引きのように大俵を引き合うものです。
まずは、前座として、子どもが参加する俵引きが行われます。俵の大きさは1トン、男の子は上半身裸です。
登録:
投稿 (Atom)
