昨晩、高知から東京の自宅へ戻ったのですが、今日は午前中に歯医者へ行った後、そのまま新幹線に乗って、再び福島へ舞い戻りました。
午後から訪ねたのは、「ふくしまダイバーシティシネマ&トーク」という催しです。22日に福島へ日帰り出張した際に知人から勧められ、急遽、参加を決めた催しでした。
まずは、「パレードへようこそ」というBBC制作の映画を鑑賞しました。1984年サッチャー政権下のイギリスを舞台に、性的マイノリティの若者たちがストライキを続ける炭坑労働者たちの支援へ動いた実際の話を描いた作品で、彼らに対する根強い社会の偏見とそれが少しずつ克服されていく可能性が映し出されている映画でした。
映画を観た後、アフタートークで性的マイノリティに関する基礎知識を確認し、感想を語り合う場が設けられました。
日本では、虹色で表現される「ダイバーシティ」は、一般に、性的マイノリティ(略して「セイマイ」というらしいことを知りました)を尊重することを指すようですが、性別だけでなく、宗教、種族、出自など様々な要素もダイバーシティの中に含まれてくると思われます。
セイマイは、本人がそうと打ち明けない限りは周囲が分からないので、それがしやすいような環境を作っていくことが求められるという特質があります。もっとも、それは、見た目ではなかなか分かり難い種族や出自や過去など、打ち明けた途端に差別や色眼鏡の対象となりうるようなものとも共通しているかもしれません。
たとえその人がどんな人であっても、性的マイノリティであっても、実は日本国籍を持っていなくとも、差別にさらされてきたコミュニティの出身だったとしても、忘れられないような屈辱や虐待を受けた過去を持っていたとしても、そうした方々が安心して暮らせる、安心して受け入れられる、そんな社会を作っていこうというのが、ダイバーシティの目指すところなのだと思います。
頭の中でダイバーシティを勉強し、「そのような社会にすべきだ」と言っても、上記のような方々を受け入れる社会にはなりません。一人一人が、この世の中には様々な人々が存在し、もしかしたら今、自分が接している人がそうなのかもしれない、という想像力をできる限り豊かにする努力を常に続けることが重要なのではないかと思います。そして、「なるほどね」「そういうのもアリだよね」と、多様な人々の存在を当たり前のこととしてフツーに受け入れられる能力や寛容性を自分で高めていくことなのだと思います。
そしてその能力は、マジョリティと思っている人だけでなく、マイノリティと思っている人にも必要なものです。でも、まずはマジョリティと思っている人から動く必要があることは言うまでもありません。
ふと、親を喜ばせたい一心で好きでもない勉強を無理やり頑張ってしまう子どもや、空気を読まなければならないと思い込んでいる会社人間や、何かのために過度な我慢を自分に強いている人たちのことが頭をよぎりました。彼らはマイノリティではないし、差別の対象にもならないだろうけれども、本当の自分を打ち明けられないという意味では、ある程度は同じなのかもしれません。彼らが本当の自分を安心して表現できる社会もまた、ダイバーシティの目指す方向に包含され得るのではないでしょうか。
だとするならば、ダイバーシティ社会というのは、様々な他者を尊重しながら、自分らしさを安心して表現できる社会ということになるのかもしれません。それは、特定の思想や考え方に染まり、それに合わない人々を排除していく社会(誰にも要求されないのに率先して自らをそれに合わせようとする人々さえ出現します!)とは正反対の、インクルーシブな社会、ということになるでしょう。
多様性の中の統一。人と違うということが力になる。そんなことを日常的に見聞きする、ごった煮の国「インドネシア」のことを思い出していました。そんなインドネシアでも、国家の名の下に、ある一定の方向へ人々を向けさせようとする動きはしっかりと存在しているのです。
今回の催しを主催したダイバーシティふくしまは、福島を多様性(ダイバーシティ)尊重の先進県にし、その重要性を全国へ発信していくことを目標に活動を行っています。東日本大震災や原発事故の後、福島は様々な入り組んだ差別や偏見の対象となり続けています。そんな福島だからこそ、ダイバーシティが大事だということを発信していかなければならないという気持ちが感じられます。
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