2016年7月5日火曜日

日本人だから殺されるという不条理

7月1日にバングラデシュの首都ダッカで起きた大惨事。日本人7人のほか、イタリア人9人など20人が突然殺害されました。犠牲者の方々に心から哀悼の意を表します。

亡くなられた日本人の方々と同様、今JICAの仕事をしている自分にとって、とても他人事とは思えない事件でした。もしかしたら、ダッカのあそこにいたかもしれない。あるいは、ジャカルタで友人や知人と語らっている時に突然・・・。そんな場面を否が応でも想像せずにはいられなくなりました。

正直言って、このニュースをインドネシアのゴロンタロ州ボアレモ県で知ったとき、すぐに状況を理解することができませんでした。しかも、警察が突入する以前に、すでに殺害されていたとは・・・。犯人の目的はカネではなく、外国人を殺害すること、でした。

事件のだいぶ前から、テロリストから日本は「十字軍の一員」と見なされ、殺害対象になっているということが報じられていました。それでも、我々は「まさか」と思い、そのメッセージをこれまであまり本気で受け止めていなかったような気がします。

外国人であるがゆえに殺される、日本人であるがゆえに皆殺しされる、そんな馬鹿げた信じられないことが大真面目に起こってしまった・・・。本当に。ショックをまだ引きずったままです。

第2次世界大戦敗戦の苦い教訓と深い反省から、日本は、世界の人々から憎まれる国にならないように存在していこうとしてきました。それは、日本製品というモノを通じて、様々な経済協力を通じて、たとえ間接的にではあっても、世界中の人々がより良い生活を享受できるようになることを願ってきたのだと思います。

そして、我々のどこかに、これだけ色々してきたのだから、世界のすべての人々は日本に親しみや感謝の気持ちを持ってくれるはずだし、それが当然だ、という気持ちがあったのではないでしょうか。

それは、もしかしたら我々の思い込みだったのかもしれません。いや、思い込みだったと少し謙遜するぐらいがいいのかもしれません。おそらく、日本に好意を持っている方々の数は敵意を持っている方々の数をはるかに上回ることでしょう。でも、とても悲しいことですが、「日本人だから殺す」と考えている人がこの世界にいる、という想像力を持っていたほうが良いように思います。

テロリストの行為は非道であり、いかなる理由でもそれを認めることはできません。それがたとえ宗教や思想のベールをまとっていたとしても、です。

しかし、この世界には、特定の人種や民族を殺してきた過去があるし、今もヘイトスピーチで「〇〇人を殺せ!」といって恥じない人々も存在します。どうして、〇〇人が一つの人格や特徴で語れるのでしょうか。〇〇人にも、どの宗教にも、どの人種にも民族にも、良い人もいれば悪い人もいる、となぜ想像できないのでしょうか。

「〇〇人を殺せ!」などと叫ぶ人々は、本音ベースで付き合える、自分とは異なる宗教や人種や民族の友人や知人がいないのではないかと思います。

私は、たまたま何の因果か日本に生まれた日本人です。もしかしたら、アメリカに生まれたかもしれないし、たまたま親も日本人だった、という偶然を感じます。日本の外の世界で暮らすと、最初は日本人という目で見られますが、それがなくなっていき、私という個人として見てくれる友人や知人が増えていきました。私という個人があって、たまたま日本人だった、という感覚があり、私が日本人だから付き合う人よりも私が私だから付き合う人が増えていくのを感じてきました。

今回のテロリストの中には、英語で教育を受けた、恵まれた家庭のエリート予備軍が含まれていたとのことですが、外国を意識したからこそ、何らかの理由で外国人を嫌悪するようになったのだろうと思います。あるいは、自分が、腐ったエリートたちの予備軍であることに自己嫌悪を感じたのかもしれません。

そう、外国人だったら殺害する相手は誰でもよかった・・・。昨今、日本でも「殺す相手は誰でもよかった」といって殺人を犯す事件がたびたび起こっているのを思い出します。自分をこんな目に合わせた社会が悪い、誰かを殺すことで社会に天罰を、ということなのでしょうか。

海外であれ、日本であれ、いつ何時、そのような目に合わないとは言えない世の中になってしまいました。その意味では、残念ながら、あるとき突然自分が理由もなく殺される、ということを完全に防ぐことは難しいと言わざるをえない気がします。

そうであれば、開き直るしかないのではないでしょうか。今までと同じように活動を続けるしかないと思います。ただし、そのとき、いつそういう目にあっても後悔しないよう、瞬間瞬間を懸命に生きていく、という気持ちが今までよりも強くなるように思います。

日本は安全で海外は危ない、とも一概には言えないと思います。むしろ、日本の外へ出て行って欲しい。それは、自分が自分であることを取り戻すためです。日本人である前に自分であるということを。そうすると、世界は自分を日本人という色眼鏡で必ずしも見ていない、自分が何者であるかを見ているのだ、ということに気がつくはずです。

こんな状況にしたのは〇〇のせいだ、と誰かを批判したり、溜飲を下げたりして、何かを前へ進められるのでしょうか。我々自身が動くことによって、理不尽なテロや無差別殺人が起こらない世の中を作っていかなければならないのではないでしょうか。そして、そう思っているのは我々だけでなく、世界中の多くの人々が心からそう願っているということを知って、行動していくことではないでしょうか。

より良い世界を目指して活動したのに、今回のような不慮の死を遂げてしまった方々のことを胸に、日本人である私は、自分の中の「個人」をも大切にしながら、前へ進みます。

レバランを前に、トルコ、イラク、サウジアラビアで自爆テロが起こり、マレーシアでも爆弾事件があり、インドネシアでも7月5日、中ジャワ州ソロ市で警察を狙った自爆テロが起こりました。イスラム教徒にとって最も幸せで楽しいレバランまでわずか数日、それを味わうことなく、たくさんの方々が亡くなりました。こんなことをする者たちが、恥ずかしげもなくイスラムを名乗っていることに強い憤りを感じます。

インドネシアも明日はレバランです。神への祝福と平和を願う無数の祈りが世界中のモスクで捧げられることでしょう。私を含む非イスラム教徒も、一緒に平和の祈りを捧げられればと思います。

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