2016年7月6日水曜日

「日本は安全だ」という根拠は何か

テロ事件について、もう少し書いてみたいことが2つあります。

第1に、今回の事件では日本人7人が犠牲となりましたが、もし日本人が犠牲にならなかったら、これほどテロ事件が日本で注目されたのだろうか、ということです。日本人が犠牲になったことで、「危ない」という話が急に広まっているように思います。

シリアやイエメンやイラクやガザなどでは、連日のように、犠牲者が出続けています。あまりに長く続いているので、感覚が麻痺しているような気さえします。アメリカやヨーロッパでも、テロの犠牲者が出ました。でも、我々は日本にいて、日本は安全で、テロの話はどこか遠くの他所の話のように思っていたのではないでしょうか。そこで犠牲になった方々のことをどれほど気にかけていたでしょうか。これは自分も含めての自戒です。

世界は、日本人が犠牲になったから、急に危なくなったわけではなく、ずっと危ない状態が続いているといってもよいのではないでしょうか。むしろ、国家と国家の戦争しかなかった時代よりも、統制の効かない複雑な状況になっているような気がします。

日本は安全だ、という根拠があるとすれば、それは何でしょうか。今までのところ、イスラム国を名乗るテロ事件は起こっていませんが、これから絶対に起こらないという論理的な理由はあるのでしょうか。

テロではなくとも、街中でいきなり自動車が歩道へ突っ込んできたり、誰かを殺そうと人混みで騒いだりする事件は、日本でも起こります。テロ事件とそれらを一緒に扱うことはできないかもしれませんが、一人の国民としての危険からすると、同じことのように思えます。

すなわち、日本も含めて、世界中、どこでも突然予期せぬ危険に巻き込まれる可能性がある、ということを前提に、自分自身で危機管理をしなければならない、というふうに考えを変える必要があるのではないかと思います。誰も誰かを安全に確実に守ることなどできない、という前提に立つ必要があると思うのです。

それならば、我々は何もできず、家に閉じこもるしかないのでしょうか。守ってもらうことだけを願うならば、そうするしかありません。でも、それで生活ができるとは思えません。自分自身で危機管理をしながら、外の世界との間を行き来しながら、生活することになると思います。

それでも、日頃から情報収集をし、自分自身の危機管理上のリスクを少しでも下げる努力は必要です。外国人の溜まり場として有名な高級バー・レストランなどを避けたり、欧米系のホテルを避けたり、不用意に一人で夜の街をふらふらしない、深酒して街中で泥酔しないなど、日常のスリや強盗などを避ける基本的態度を身につけておく必要があります。

もちろん、言うまでもなく、政府や警察は可能な限り国民や住民を守る活動を行わなければなりません。でも、必要なのは、政府や警察に守ってもらうことで満足するだけでなく、自分も自分自身を守る行動を起こす、ということだと思います。

第2に、発展途上国における我々の立ち位置についてです。これについては、次回ブログで書きたいと思います。

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