そのきっかけは、先生の著書「水俣病」のインドネシア語訳の出版だった。2005年5月3~5日、先生とジャカルタ、マカッサルをご一緒した。5月3日にジャカルタの空港でお会いして、5月4日にマカッサルで出版記念講演をしていただいた。
2003年以降、北スラウェシ州で工場の排水による環境汚染、住民の健康被害が問題となっていた。その症状から「水俣病でないか」との噂が高まっていた。しかし、インドネシア側には当時、水俣病に関する正確な知識が欠けていた。正確な知識を欠いたまま、水俣病という話だけが大きくなっていた。
そうした話をマカッサルの友人たちとしていたときに、彼らから水俣病についての本をインドネシア語に訳して出版したいという話が出てきた。そこで、原田先生の岩波新書での著書を紹介し、著作権その他の話を日本側で調整するという話のうえで、マカッサルの友人たちが英語版からインドネシア語へ翻訳して出版する、ということになった。マカッサルの友人たちのなかに小さな出版社を営む者がいたのである。
原田先生と実際に翻訳に関わったマカッサルの仲間たち
そうして、翻訳された"Tragedi Minamata"は出版された。その出版記念イベントに、著者である原田先生をお招きしたのである。
出版記念講演の後、"Tragedi Minamata"は、インドネシア国内の書店で一斉に販売された。書店によっては、平積みで売られたほど注目された。ところが、環境問題の発端となった北スラウェシ州では、販売開始直後、市中の書店からこの本が一斉に姿を消した。問題の発生元の企業が販売された分をすべて買い占めたと噂された。
原田先生のインドネシアへの招聘に当たっては、友人の島上宗子さん(現・愛媛大学准教授)とマカッサルにある国立ハサヌディン大学のアグネス教授らと一緒に実現させた。
あのとき、原田先生の魂のこもった講演を、私は懸命に通訳した。必ず伝えなければ、と力が入ったことを覚えている。
インドネシアでは、この出版の話のずっと前に、ジャカルタ湾で水銀などの重金属汚染の疑いが出て、水俣病ではないかと騒がれたことがあった。原田先生は、そのときにインドネシアへ来訪し、調査をされていた。今回の話もそうだが、水俣病と断定するにはまだ至らないとの慎重な立場に立っておられた。
6月12日が先生の命日だということを思い出させてくれたのが、永野三智さんのフェイスブックでの投稿だった。彼女が晩年の先生にインタビューした記事の再掲だった。それがきっかけで、2005年のインドネシアでの原田先生とのささやかな時間を思い出したのだ。
永野さんの記事は、とても心に沁みるインタビューの内容だった。多くの方々に読んでいただきたく、ちょっと長いが、私にとっての備忘録としても、謹んで、以下に再掲させていただきたい。
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■水俣病患者とは誰か
永野: 今日は原田さんの言葉を、しっかりと残させてもらいたいと思ってやってきました。まず、水俣病患者と一言で言っても、その言葉を使う人の立場や場合によって多様な水俣病が存在していますよね。原田さんが考える水俣病患者とは?
原田: 医学的には水俣病というのは一つしかないですよ。それを勝手に、認定や司法上、救済法上とつけている。これがまずおかしい。確かに重症、軽症の差はある。しかし、身の回りができる人が軽症で寝たきりが重症かって、単純に言えばそうかもしれないけど、患者の持っている苦痛からいけばどっちがひどいかは本当はわからないですよ。通説、通常、症状の重さによって患者を分けるというのは、世間一般常識的に受け入れられている。それだっておかしい。医学的には水俣病というのは一つしかないですよ。そこがまず矛盾ですよね。
永野: 矛盾というと、認定患者かどうかを判断するのはお医者さんではなくて、最終的には県知事ですよね。
原田: そういうことは他の病気ではありえないですよ。そしてまた、水俣病でもあり得ない。医師団というか審査会が棄却を決めている。医者の立場ならば有機水銀の影響があるかどうか判断すればいい。
ところが補償金を受ける資格を審査してる。だからおかしくなっちゃう。医学的な判断がベースにあっても、救済するかは社会的判断でしょう。越権行為ですよ。どっちかはっきりしないといけない。医学的な立場で貫くんだったら、認定は関係ないですよ。影響があるかないかを判断すればいい。そして医学的な立場だったら水俣病が三種類も四種類もあっちゃ困る。救済の判断だとするならば、医学の判断だけじゃなくてプラスアルファですよ。
だから当然、医者だけで審査会を作って救済するかどうか判断するのは違法ですよ。むしろ行政や弁護士や被害者が参加しながら決めていくべきです。
■言葉を残す
原田: この頃やたら取材の多かっですよ。
永野: 残しておかなければとは思っているんですね。
原田: 確かにそうだと思うよ。石牟礼道子さんと僕と話しておかないといけないこと一杯ある。宇井純さんも死んじゃって、あの頃のことをしゃべれるのは、桑原史成さん。道子さんは僕が診察に行くと取材みたいにしてついて来よった。この人は誰だろうと思っていたら、後で苦海浄土を書く時に医学用語を聞きに来たんですよ。それで「この人作家だったんだ」と初めて分かった。患者の診察に関心があるというのは保健婦さんかなと思ってたんですけどね。
その頃もう一人、人物がいて。大学で「東大の研究者が資料を集めて回ってる、謎の男だから用心するように」と言われてた。それが宇井純さん。だけど、面識があるようになったのは、第一次訴訟がおこってから。それから、桑原史成さんと僕は、当時接点がなかった。僕が現地にごそごそ入って行った時に、「学生さんが写真を撮りに来ているよ」という噂はあっちこっちで聞いたけどね。出会ったのは、ずっと後で、なんとなんとベトナム。僕がベトナムの調査に行ってる時に、桑原さんも来てて、ばったり。「あ、あなたが桑原さん」って感じでね。向こうもびっくりして。
永野: そこでの接点はあるんですね。そしたら桑原さんとぜひ話をしてほしいですね。
原田: あの頃、桑原さんの見た水俣をね。あの人まじめだから、「なんで水俣に関心持ったの」って言ったら、あの頃「飯が食えんかった。これで有名になろうと思った」。だけど僕に言わせると「これは大変な事件だから、ちゃんと記録しておけば飯が食えるようになる」と思ったこと自体がね。
永野: すごい嗅覚。
原田: すごい嗅覚ですよ。その頃の写真家なんて誰も関心持たなかったんだから。そこに目をつけたというのはたいしたもんですよ。宇井さんはまた別の意味で関心を持ったんだけどね。だから僕らが関心持ったのは、普通の当たり前。医者が病人に関心を持つのは当たり前でね。
僕はたまたま熊大の神経精神科に入った。その頃は熊大全部あげて水俣病に取り組んでいて、神経精神科の私たちの科が専門なの。イギリスからマッカルパインて言う人が神経精神科に来てて、本当は彼が最初に有機水銀説を言い出した。その時、通訳でついて来てたのが、その後神経内科の教授になる荒木淑郎ですよ。神経精神科の宮川太平教授が、マッカルパインを信用しとったら、ちょっとどうにかなっていた。マッカルパインの話を聞きに行くって言ったら、「あんな馬鹿な話聞くな」って言われてね。 昭和三三年、一九五八年。だからもう、熊大の大部分は有機水銀説に傾いていた。彼はイギリス出身だから、ハンター・ラッセルの論文を読んでいた。いろんな疑いの中の一つとして有機水銀があるというような話。一番早く言い出したんじゃないかと思うけど、もう分からない。ただ、我々の世界は誰が最初に論文を書いたかで、そこからいくと、武内忠夫先生ですね。
永野: 原田さんは、何故水俣病のことをやり続けられたんですか?
原田: 逆に僕は、なんでみんな続けんのだろうと思う。というのは、医者ですからいろんな病気にぶつかります。だけど、有機水銀中毒で、しかも環境汚染によって食物連鎖を通しておこした中毒なんていうのは人類史上初めてですよ。医学を選んで、世界で初めて経験したようなものにぶつかる確率はものすごく少ない。だから、なんでみんなもう少し関心持たんのだろう、あるいはもっと積極的に関係してこないんだろうって思う。関心持って来たら、政治的な目的だったり、それか全くその逆で、あれは政治的だとかね。大体医学界がおかしい。
今頃世界中では、何を議論にしているかというと、微量長期汚染の胎児に及ぼす影響でしょ? 日本で調べれば一番ちゃんと分かったわけでしょ。今となっては、だけどね。だから五〇代、六〇代が今どういう影響を受けているかというのが問題。そういう意味で僕は二世代訴訟に関心持ってるわけですよ。今までずっと関心持ってたけど、若い時代はみんな逃げちゃってましたよね。
■第二世代の障害
原田: やっぱりある時期が来ないと調査がちゃんとできなかった。差別とか、いろんな問題があって第二世代というのはみんな逃げていた。理論的には第二世代、胎児性世代というのは調べたかったんです。水俣病はハンター・ラッセル症候群を頂点にして、裾野の方が分かってきたでしょ。一つ、そこには「病像がはっきりしていないから救済できない」という行政の嘘がある。病像がはっきりしていないから、救済できない。感覚障害だけの水俣病があるかどうかとか。
でも実際は調べてみると、しびれだけなんていう人は少なくて。自覚症状を無視するから感覚障害だけになるけど、頭が痛い、からすまがりがある、力がなくなって途中で歩けなくなる、いっぱいある。ところがマスコミも含めて帳面上、感覚障害だけの水俣病があるかないかの議論になって。しかも、学問的にはまだそこがはっきりしてないみたいな風に。しかし今分かってることだけで、十分救済はできる。救済に支障ができるほどじゃない、「分からない」を理由に救済ができないなんて馬鹿なことないわけです。
今度は胎児性世代に関して言うと、これは全然手がつけられてない。見たら分かるような脳性小児麻痺タイプしか今のところ救済されてない、その裾野がね。じゃぁ、なにで救済されているかというと、大人の基準、つまり感覚障害で引っかかってる。それは当たり前ですよ。おなかの中でも汚染をうけて、たまたま生まれてからも魚を食べてるから、大人の基準でも当てはまる。しかし、そのこととおなかの中で影響を受けたことは別問題ですよ。そしてむしろ、それに当てはまらん人の方が深刻なんです。環境庁が作った判断条件の中に、胎児性の世代は感覚障害がない場合があることははっきりと明記している。それなのに大人の基準を当てはめる。そこの矛盾をちゃんと指摘しなきゃいかん。
被害者の会が大和解した時、僕は一所懸命反対した。今から一〇年も二〇年も裁判するというのは、年を取った人はわかる。だけど、若い世代を大人の基準で判断すると軽く切られてしまう。僕はそこにちょっと異議が、異論があったわけです。あなたが知ってる患者で言うなら、和解したAさんなんて感覚障害証明できなかった。一応高校まで行ってるってことになってるでしょう。あの人の持っている重大な障害というのは見えていない。おそらくその世代にはAさんだけじゃなく、たくさんいるはずですよ。
永野: そうだと思います。生伊佐男先生という方が、第一次訴訟の時に袋小学校にいらして原告の聞き取りをしておられた。私も小学校の時に、二年間担任をして頂いて。当時、ボールを投げても取れなかったり朝礼で倒れる子どもが多くて、教員たちは、「なまけてる」「気合いがたりない」と叱っていた。今になって考えたら、あそこは患者家族だし、魚も沢山食べている。症状があっておかしくない、そこに気がつくべきだった、っていうのを反省していらっしゃって。
原田: 反省はね、僕もしないと。一九六二-三年頃、僕は一所懸命、湯堂、茂道で胎児性の調査をしてる。知能テストをやったら成績がものすごく悪い。それで、あの地区には知的障害がものすごく多いという結論で終わってる。データを見てみると、Bさんなんて成績がものすごく悪かった。つまり従来の知的障害とは違う。Cさんだって、あのするどいセンスは、漢字が書けないのにね。症状がものすごいちぐはぐ、でこぼこがあるわけです。
永野: 脳の中に一個抜け落ちているところがある、そういう意味ですか?
原田: そうそう。だから障害が見えにくいんですよ。実はものすごくまだらになってる。それを一所懸命、若い世代はみんな隠してきたわけですよ。Bさんが一般的な知的障害者かというとそんなことないわけでしょう。ただどっかにちぐはぐな障害があって、それをやっぱり隠しているわけですよ。
永野: 本人にとってはものすごい努力ですよね。
原田: そうなんですよ。だから、Aさんは高校まで行ってる。どこがおかしいってことになるんだけど、おかしいんですよ。
■水俣病を続けるメリット
永野: 何をするにも自分自身にメリットがないとなかなか続けていけないと思うんですが、原田さんが水俣病に関わり続けるメリットというのは。
原田: メリットもいろいろあって。物質的なメリットや精神的なメリット。僕の場合はやっぱり好奇心ですよ。どうなってるんだろうと。これは別に、水俣病だけじゃないんです。三池だって、カネミ油症だって同じ。三池炭じん爆発の場合も、すごいトラブルがある。患者たちが医師団に対してすごい不信感を持ってつるし上げる。すると大部分の医者が怒っちゃって、「俺たちは患者のために来たのに、なんでつるし上げられるんか、もう知ったこっちゃない」みたいなね。「うそばっかり言うし」と、解釈しちゃう。
ところが、僕は好奇心があった。「なんでこの人たちはこんなにひねくれてんだろう」って。だって「向こうに注射二本してこっちに一本した、差別だ」って言うわけですよ。「あっちは第二組合で、こっち第一組合」って。こっちは、誰がどっちかわからないでしょう。そうすると、普通の、大部分の医者はそこで怒っちゃった。「何だこいつら、一所懸命やってるのに」って。だけど僕は、逆に興味があった。
永野: 医者として、というより、人としての興味って感じですか。
原田: 医者としてよりも、そうかもしれんね。むしろ知りたいと思う。一所懸命聞いてみたら、三池の炭鉱労働者たちの、二分されて、差別されての惨憺たる歴史があった。その差別される先頭に誰が立っていたか。
実は医者ですよ。天領病院って大病院があって、調べてみたら病院の組織はなんとなんと人事課の一部分だった。つまり、医療が人事管理に使われていた。そんなことは、調べてみなきゃ分かんない。医者対患者が、当然対立する。その対立がガス爆発の後まで引っ張ってきた。こっちは何も知らんで行ったことが、医者は体制側と、簡単に決めつけられてひとくくりですよ。しかし、歴史を遡ってみると本当に差別されている。例えば、風邪ひいたからと普通の病院に行くと「三日休みなさい」って診断書をくれて、会社に出すと「三日もいらん、この診断書は通用せん。天領病院の、会社病院の診断書もらってこい」っていう。会社病院に行くと、「三日も休まんでよか、一日でいい」ってね。全てそういうこと。労災もみんなそう。それで、医者と患者の中にものすごい不信感があった。そこに爆発が起こる。そこまで遡って調べてみれば、彼らがなんでこんなにひがんでいるのかがわかる。
僕がそれを話せば、知らずに反発してた医者仲間だってそれはよく分かる。それで、熊大は四〇何年もずっと追跡したわけですよ。水俣病だってそうなんですよ。チョロチョロっと調査に来て、しかも、第三水俣病の時なんか、九大の黒岩義五郎教授なんかが講習をやるわけでしょ。あの人は水俣病を見たことない。講習受けた人からちょっと聞いたけど、いかに嘘を見破るかという講習をやってるんですよね。「感覚障害は本人が言ってるだけだから信用できない」とかね。僕はいつも、裁判なんかでも言うんだけど、本来、医者が感覚障害があると言う場合は自覚障害じゃない。検査圧を強くしたり弱くしたり、何回もやってみて、これが診断なんだ。ところが、「感覚障害というのは本人が言うだけだから信用できん」ちゅうことは、自分の専門性をもう放棄してる、専門家じゃないと言ってるのと同じですよ。患者の言ったことを鵜呑みにするのではなくて、その中からどうあるのかということを確認するのが専門家でしょ。だから、馬鹿げた話ですよ。
そんなことも含めて、なんでみんな、もっと水俣のことに関心を持たないのかと。変な話だけど、世界で一人者になろうとしたらオンリーワンかナンバーワンですよ。医学の世界でナンバーワンになるのはなかなか難しい。だけどオンリーワンっていうのは、人がせんことをすりゃなるわけですよ。水俣病なんて、あんまりみんなせんからね。だから水俣病を一生懸命やったら、これはすぐ世界的にオンリーワンですよ、有名だから。売名行為でも何でもいいんですよ、とにかくやってくれれば。そこの違いがね。
永野: 最後に水俣病患者は誰か、の結論を。
原田: 少なくとも私の考える水俣病というのは、汚染の時期に不知火海沿岸に住んでいて、魚介類を食べた人は全部被害者ですよ。理屈からいけば、本当は認定審査なんていうのはおかしな話ですよ。ある一定期間、一定時期に住んでた人たちは全部水俣病として処遇すべきですよ。その中で重症者とか軽症者とか、それに応じたランクをつけることはある程度は合理性があると思うんですね。ただ、こっからここはだめよとか、年代に線を引くことは不可能と思うんですね。
感覚障害での線も本当は引けないはずですよ。特に胎児性世代というのは、感覚障害がはっきりしない人がいるはずだから。それは環境庁自身が認めてるんだもん。じゃあ何を入れるか。それはやっぱり、いつどこに住んでたか、家族がどんな状況か、そういう状況証拠しかないでしょ。本来なら、例えば体の中から水銀を高濃度に検出すればそれが証拠ですよ。ところがそれをさぼったわけでしょ。おそらく今度の裁判なんかで、被告は「住所を調べたり、近所に患者が出てるかどうかは、それは間接的証拠じゃないか」と言うに決まってる。しかし間接的な証拠しかないようにしたのは誰かと。本当はそういうことせんでいいのよ。生まれた時に、ちゃんと調査したり計ったりしとけば、もめなかったんだけどね。それがないというのは患者の責任じゃないでしょ。
永野: こないだ相思社に来られた方が、「みんなあそこのスーパーの卵が安いわよ、お得よという感じで、救済措置の申請をする。それが嫌なのよね」っておっしゃった。でもよく考えたら、誰がどんな被害を受けたかなんて、今や誰にも分からなくなって、ここまできてしまった。だったら、その「お得よ」って感じでも、それで被害を受けた人たちが本当に助かるんだったら、それでいいじゃないかと思ったんですね。それは今まで行政が何もしてこなかったことの結果であって。
原田: 原爆手帳と同じでね、曝露受けていることは間違いないんだから、それが症状が出てるか出てないか、ひどいかどうかという差だから、かまわないんですよね。ただね、そうはいっても、構造が非常に複雑なの。
今手を挙げてる人たちは、かつて差別した側にいた人たちなの。自分たちが被害者って分からなかったわけです。だから患者を差別してきた歴史がある。現に、僕らはそれを見てきたからね。だから感情的にはどうしても納得できんとこもあるんだけど。ひどかったですよ、さっきの学校の先生じゃないけど、湯堂や茂道の患者や家族に対する差別って。差別した人たちが今手を挙げる。間違いなく彼らも被害者なんだ、被害者なんだけども気持ちは非常に複雑なのよ。でも患者を差別したけども、その彼らはよそに出て行くと差別を受けたわけですよ。そういう意味ではまた複雑。もちろん今手を挙げてる人たちも被害者であることには間違いない。
今、あなたが言ったように、水俣病特措法では地域指定かなんかしちゃって、当時住んでいた人たちには最低でも医療費だけは出さんとね。そんなんいちいち診察の必要ないんですよ。その中で、プラスアルファの人たちもあるわけだから、ランク付けていろいろやっていけばいいわけでね。そうすっと解決するわけですよ。大体どれくらいの費用がいるのかも、見通しがきく。みんな審査をして、どんだけ費用使ってますか。その費用を分けた方がいい。というのが、一方にはあってね。しかし一方では、かつて患者を差別した人たちが今被害者だって言って、わぁってやってるわけだからね。最初の患者さんたちの気持ちを思うと非常に複雑ですよね。それを僕は見てきてるからね。どこを原点にするかというと、それは僕はもう一次訴訟の人たちですよ。
永野: それが例えば原田さんとか、袋小学校の生伊佐男先生みたいに、差別していたんだと自覚したり、苦しかったんだって反省したりすればまた全然違うんですけどね。
原田: だから、僕はもやいなおしに反対してるんじゃないんだけど、加害者と被害者といた時ね、殴った方が反省して「反省をしている」と。で、殴られた方が「あなたたちがそがん反省しとるならね、仲直りしましょう」って、手を出すならわかる。でも、殴った方が「もう時間が経ったけん、水に流そう」って言ったって、それは、もやい直しにならないんですよ。本当のもやい直しっていうのは、被害者が手を差し伸べるような条件を作ることでしょ。それは日本と朝鮮との関係を見てもそうですよ。日本がいくら「仲直りしよう」って言ったって、駄目ですよ。殴られた方が、「日本がそれだけ一生懸命やってくれるんだったら、もう仲直りしましょう」って、向こうから手を出してくるなら話はわかる。本当のもやい直しですよ。
永野: そのもやい直しも、その言葉ができた時は、違ったと思うんです。それが一人歩きしていったり、それを利用して水俣病を終わらせようという方向に持って行くことは嫌です。
原田: それはもう、今まで何遍も歴史の中であったわけですよ。これで終わりとかね。市民大会開いて、水俣の再建のためにって。よく読んでみると、もう水俣病のことはもうこれで終わらせようということでしょ。病気した人が終わるわけないわけたいね。いろんなことがあってね。
■歴史に残す
永野: 水俣病は一つしかない、でもやっぱり、地域の人たちはまどわされてますよね。「本当の水俣病とそうじゃない水俣病がある」なんて話、よく聞きます。「手帳だけの人は本当じゃない」とか。
原田: 手帳にも何種類かあるからね。
永野: とらわれている、信じてる。やっぱり行政がやることは大きい、その通りだというふうに思ってしまう。
原田: だから、我々のすることは、大したことはできないんだけど、そういう流れに少しでも抵抗すると言うか。今度だって、あの大和解をしたけど、たった何人かの大阪の反乱軍のためにひっくりかえったんだから。世の中を動かすのは、僕は多数派じゃないと思うんですよ。だからね、水俣のあの九人が問題をずっと明らかにしていくんです。だからって言って、彼らが救われるかどうか、思うような判決が出るかというのはまた別問題。厳しいですよ。だけど、異議申し立てた人たちが少なくともいたっていうことは、歴史に残っていくじゃないですか。
永野: その人たちのことを証言としてずっと残していく。
原田: だから、裁判のメリットというのは、そういうことでしょう。ほんと、裁判で救われはせんもん。ただね、きちんと歴史に残っていくというね。
永野: 何もしなければ捨てられていきますもんね。忘れられてなかったことにされてしまいます。
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原発事故後の福島や、今の新型コロナウィルスをめぐる状況においても、インタビューの言葉の一つ一つが投げかける内容が様々な示唆を与えてくれているような気がしてならない。改めて、原田先生の遺されたものに敬意を表し、自分のこれからの行動に魂を込めていきたい。合掌。
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