2020年6月2日火曜日

アメリカの人種差別反対デモを見て思ったこと



アメリカでは今、ミネアポリスでジョージ・フロイドという名の黒人男性が警察官による拘束で死亡する事件がきっかけとなり、全国で黒人などへの人種差別反対デモが続いている。

新型コロナウィルス感染による死者数で、黒人の死亡率が白人ほかのそれの2倍以上という現実は、新型コロナ感染の危険性が高いなかで、底辺で社会を支える仕事で働き続けるエッセンシャルワーカーなどに黒人が多く就業していることを反映していると見られており、アメリカ社会における人種問題の根深さが大きく露呈された格好になっている。

為政者はこうした状況を率先して解決する態度を示さず、今の状況が次の選挙での自分への攻撃材料になることを極度に恐れ、アメリカ第一と言いながら、自分第一の態度を採り続けている。自分の再選しか頭になく、アメリカ社会の危機に正面から向き合おうとはしていない。ひどいものだ。でも、多くのアメリカ市民は、そんな為政者の態度を諦めの目で放置はしないだろう。健全な市民社会とは何か、を目の前に見せてくれる、他者への思いやりと尊敬を示す名もなき人々の勇気ある行動がSNSにどんどん流れてくる。

そうしたアメリカの現状を見ながら、少し思い出したことがある。

一つは、異端者であるが故に、違法性のある者という疑いの目で見られるということ。

アメリカでの黒人差別は、黒人であるが故に罪人や悪人に見られているのではないかとの怖れを常に黒人に強いている様子がある。多くの黒人がそうやってアメリカ社会のなかで恐怖を常に持ちながら生活していることを想像する。

東京の私の自宅のあるところは、昔から外国人が多く居住しており、日頃から普通に外国人と接している場所である。でも、ほぼ常に警察官がパトロールしていて、白人以外の外国人に対して次々に職務質問をし、場合によっては数人で取り囲んで、あたかも犯罪者をみつけたかのような態度で接している。

白人以外の外国人であるが故に、不法滞在者と見なされて職務質問され、たまたま在留カードを所持携帯していないと、罪人扱いされ得る。

私もインドネシアで、外国人であるが故に、疑われたことが何度もある。一番よくあるのは、入国時のイミグレでのやりとり。インドネシアへに出入国が多いことから、何か変なことをしているのではないかという疑いをかけられる。

ふと思ったのだが、政府高官、エリートなど社会的ステータスが高いと認識されると、黒人だからとか外国人だからとかいう理由で、疑いの目で見られることはまずない。私も、公用旅券で出入国する際には、イミグレの係官の対応がとても丁寧になるという経験があった。たしかに、私のふだんの格好では外交官にもビジネスエリートにも見えないだろう。

黒人でも社会的に有名な人を警察は疑ったりはしないだろう。日本で白人は、逆に白人であるがゆえに、疑わないということがあるのではないか。

日本も相当に人種差別意識が高い。しかしそれを日本人は認識しないし、正そうともしない。

もう一つは、暴動である。

アメリカで今起こっている暴動は、平和的なデモの後に、他地域からのよそ者が組織的に入り込んで略奪行為をする、というパターンだと報じられている。すべてがそうだとはいえないだろうが、暴動が自然発生的なものだけでなく、意図的に起こされている面があることは想像がつく。

インドネシアでも、そうした形の暴動はこれまでにいくつもあった。昨年5月のジャカルタ暴動も同じような構図だった可能性が高い。

ただ、暴動発生の構図が似ているということを指摘することはそうなのだが、私が不思議に思うのは、これだけアメリカ全土にデモや暴動が広がっているのに、アメリカが危険だという話が聞こえてこないことだ。

インドネシアならば、ジャカルタで暴動が起これば、ジャカルタ以外が平穏でも、インドネシアは危険だという認識が広まる。場合によっては、在留邦人の強制避難帰国、自衛隊機を派遣しての救援、といった話さえ出てくる。

この違いは何なのだろうか。

そうか、これも差別問題なのだ。

アメリカは先進国、インドネシアは発展途上国。だから、アメリカで暴動が起こっても危険ではなく、インドネシアで起こると危険になるのではないか。

そして、先進国としてみているアメリカは白人のアメリカなのだ。アメリカ社会の中の黒人など白人以外の存在は無視されているのではないか。

インドネシアも、見ているのはジャカルタのインドネシア。しかも、官僚やビジネスエリートなど華人やジャワ人のインドネシア。華人やジャワ人以外のインドネシア人の存在は無視されているのではないか。

アメリカ社会の複雑な構造を現実としてそのまま捉える。インドネシア社会の複雑な構造を現実としてそのまま捉える。

差別意識を基礎としたステロタイプな見方を脱し、様々な人々や社会の存在を寛容に当たり前のものとして受け入れられなければ、分断と差別に蓋をしたまま、薄っぺらい民主主義ごっこを続けることになる。

酒は飲んでいないが、今日はちょっと荒っぽく書きすぎた。


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