民主主義を標榜する国家が国民を優劣で選別する。日本は、そんな国家だった。そして、もしかすると、今もそんな国家なのかもしれない。
戦後日本に、優生保護法という法律が存在した。優生保護法とは、優生学的断種手術、中絶、避妊を合法化した法律で、1948年から1996年まで存在した。制定の背景には、戦後の治安組織の喪失・混乱や復員による過剰人口問題、強姦による望まぬ妊娠の問題があったという。
そのなかには、不良な子孫の出生防止にかかわる条項というものがあり、1996年に優生保護法が廃止されるまで存在した。
今日(6/30)、かつて、不良ということで、本人の知らぬ間に断種手術を受けた男性らが国を相手に訴えた裁判の判決が東京地裁であった。東京地裁は、旧優生保護法下の強制的な手術について違憲性を指摘したものの、不法行為である手術から20年以上経過して民法上の賠償請求権が時効になっているとして、国への賠償請求を退けた。
原告の当該男性はすでに70代となり、人生の大半を不遇なままに暮らさざるを得なかった。国家によって「不良国民」と烙印を押され、本人の同意なしに手術を施された彼のこれまでの人生と人権は、取り戻せなかった。
いつの時代の話だろうか。民主主義国家である日本という豊かな先進国が、納得できる基準も明確でないまま、あたかも本人を騙したかのように、個人の体に介入した事実。
国は、320万円という賠償金に相当する金額を支払ったとして終わりにしているようだが、賠償には応じていない。カネを払ったからといって、一国民の人生を勝手に奪った事実は消えない。同様にハンセン病患者や知的障害者なども手術を受けさせられていた。民主主義国家・日本の真っ黒い歴史である。
旧優生保護法の下、国民を選別し、国にとって好ましくない人間の人生を奪うことがつい25年前まで法的に認められていたが、それは過去のものとなっているだろうか。というのは、国、というか、国を司る自分たちのような選ばれし者とは違う下々の者、国にとってはどうでもいい存在の者、という選民思想を折に触れて感じるからだ。
役に立つか立たないか。生産性が高いか低いか。能力があるかないか。国を司る選ばれし者と思っている者たちの口からそんな言葉が飛び出し、そうした空気が日本中を覆いつくしている。
そして、弱い立場の者、恵まれない境遇の者、失敗してしまった者、それらは、自分の能力不足による結果である、という自己責任論が支配的になり、その結果、不遇な者たちは「自分がダメだから」と自分自身を責める。国も社会も誰も自分を守ってくれない。自分を励ましてくれない。でも、きっと、それは自分が悪いからなのだ。自分に非があるからなのだ。そして、生きる意味を見い出せず、自分自身の存在を否定する行為にすら至らしめる。
国が悪い。社会が悪い。自分以外の何者かのせいにしたい、という気持ちが、社会に対する過激な破壊行動を招くこともあり得る。インドネシアではまだそんな空気が消えていない。しかし、日本では、そうした行為をすべきではない、社会秩序を乱してはいけない、という意識が支配的である。というよりも、不遇なのは自分だけではないのに、自分だけ誰かのせいにしてはいけない、という気持ちが自分を自省させる面がある。
不遇なのは自分ではないと分かっているのに、不遇な他者と連帯して抗議活動を行う、ということにはなっていかない。自分たちもそんな社会にした一員であり、自分のことは自分で解決しなければならない、と思ってしまうからだ。
従順な子羊。国を司る選ばれし者にとっては、実に容易に飼いならすことができる存在だ。だって、何につけても、子羊たちは自己責任、自分が悪いと思ってくれているから。
国が民を優劣で選別する根っこは、学校教育にあると思う。試験でいい成績を取り、先生に気に入られ、いい学校に入り、エリートコースに乗れた者は、優秀な者、選ばれし者と自認していく。他方、そのルートから外れた者は、ダメな者、劣った者、役に立たない者、生産性のない者、と自他ともにレッテルを貼り、うまくいかなかったのは自分のせいだと刷り込まれていく。
旧優生保護法は廃止されても、国が民の優劣を選別する状況は、何も変わっていないのではないか。役に立つとは誰の何に役に立つことなのか。人間にとっての生産性とはいったい何を意味するのか。
コロナ禍で、多くの人々は、自分の家族のために、他者に感染させるような可能性をできる限り抑制するために、自発的に自粛行動を採ったのだと思う。国を司る選ばれし者は、自分の言うことに下々の者が従ったなどと勘違いしないでほしい。そのおかげで余計な財政負担をせずに済んだと喜ばないでほしい。下々の者に対して「自己責任」という魔法をかけ続ければいいのだ、とうそぶかないでほしい。
その根っこにあるのは、不良というレッテルを貼って個人の人生を奪った優性学的思想、自分のような選ばれし者とダメな者を区別する選民意識に他ならない。
思いやりには、上から下への目線、恵まれた者から不遇な者へという意識を感じることが多い。そして、逆に、不遇な者から恵まれた者に対しても、思いやりを受けて当然という雰囲気を感じることがある。そこに決定的に欠けているのは、両者の間での誠意と信頼である。思いやりが双方向にならない。人間と人間としての関係にならない。恵まれた者は施したふりをし、不遇な者は施しをもらうのが当然、ととてもドライな関係になっている。
地球温暖化が世界的な課題となっているが、日本には、誠意と信頼を回復させる心の温暖化が緊要なのだと感じている。自分でできるところから始めていく。そんな人があちこちで少しずつ増えていって、自分の周りを温かくし、社会を温かくしていくしかない。そして、恵まれた者たちが不遇な者たちとの誠意と信頼に基づいた関係をつくるために能動的に動くことが必要だろう。
国から一方的に不良というレッテルを貼られ、本人の知らぬ間に手術を受けた方々を思いつつ、下々の者の一人として、とりとめもなく書いてしまった。
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