2017年3月6日月曜日

「福島は大丈夫」「福島は危ない」の福島とはどこか

あの日から間もなく6年。福島という地名は、原発事故で思いもかけず世界中に知られるようになりました。そして今でも、「福島は大丈夫」「福島は危ない」という、両論が飽きもせずに言論界を賑わせています。

学生時代に地理学を少しかじった自分から見ると、「福島は大丈夫だ」の福島、「福島は危ない」の福島、それがどこかという話があやふやなまま話がふわふわと宙に浮いているような気がして、白か黒かの議論を相手にする気が失せてしまいます。

そこで述べられている福島とは、福島県のことでしょうか。福島市のことでしょうか。福島第一原発のことでしょうか。

広島や長崎がカタカナで表記されるように、福島もカタカナで表記されるのですが、広島や長崎が点であるのに対し、福島は点ではなく面である、という違いが明確にあります。福島は広がりを持った空間なのです。

もし、広島や長崎のように福島を点として捉えるならば、それは福島市のことを指すはずです。たしかに、原発事故の直後、南東から風に乗った放射性物質が福島市のある福島盆地にも流れてきて、その濃度が一時尋常ではない値にまで上昇しました。その後、時間が経つにつれて、放射性物質濃度は下がり、今、市民は普通の生活を営んでいます。

福島県は、日本の都道府県で北海道、岩手県に次いで3番目に面積の広い県です。よく知られるように、海岸沿いの浜通り、中央部の中通り、山沿いの会津地方の3つに大きく分かれます。そして、その3者の間の有機的なつながりは薄く、互いに別世界と認識していました。

中央部を走る奥羽山脈に遮られたためか、会津地方は放射性物質の影響を大きく受けませんでした。それでも、「福島」ということで、風評被害に苦しみ、観光客も大きく減少しました。

放射性物質という広がりを持ったものが流れた影響で、空間としての「福島」が汚染されたかのような印象ができてしまったのでしょう。しかし、その空間には「福島」と隣接するその他の場所を物理的に区別するものはありません。

福島という地名が様々に使われるようになった根本は、福島第一原発という命名にあったのかもしれません。なぜかここだけは、大熊原発とか双葉原発とか、原発の名前にその立地場所の地名を使わず、面を示す「福島」という名前を冠したのでした。

たしかに、原発の立地する双方地区は福島県の一部ではありますが、福島市とは60キロ以上離れており、福島市民が特別な感情を持つ場所ではありません。福島第一原発という命名が、福島という地名が様々に解釈される根本原因であるようにも思えます。

震災と原発事故が契機となって、今まで他人行儀だった浜通り、中通り、会津地方の間につながりが生まれてきた気配もあります。同じ福島県民としての意識が以前よりも強まったのだとすれば、それは、外部者によって「福島」の名の下にひとくくりにされ、風評被害や誹謗中傷さえ受けたという共通体験に基づくものなのかもしれません。

福島が大丈夫だという人は、浜通りや相双地方のミクロな地域の話を福島県全体の話で希釈して、大丈夫だと言っているのかもしれません。また、福島は危ないという人も、同じように、浜通りや相双地方のミクロな地域の話を福島県全体の話へ演繹して、福島県全体が危ないかのように煽っているのかもしれません。

外部者が自分の議論に都合のいいように、「福島」という地名が使われているのではないでしょうか。そこには、福島県内の様々な現場のミクロな地域の存在が無視されて、あたかも福島という共通空間があるかのように取り扱われている、という気がします。

福島が大丈夫か危ないか、といったあやふやでふわふわした話に、何か重要な意味があるのでしょうか。そのどちらかを議論することで、現場のミクロな地域で何がプラスになるのでしょうか。

そんな言葉遊びに付き合う必要はありません。それより大事なことは、大丈夫か危ないかを知りたければ、福島県のミクロな地域で、放射性物質がその地域のどこでどれだけの濃度があり、それが人間が生活していくうえで危険なのかどうか、といったことを具体的に知ることです。

人がそこに住み続けるかどうか、避難するかどうかは、それぞれの人々がそれぞれの判断と責任で決断していることであり、外部者がとやかく言うことではない。個人ではどう思ったとしても、そこの地元の個人が判断し決定したことを尊重するしかない、と思うのです。

それは、原発事故による避難がなくても、過疎に悩む村の人々が村の長い歴史に幕を閉じる決断をする、というような場面でも同じだと思います。

福島県を見ながらも、安易に「福島」という言葉を使わない。福島県の様々なミクロな地域の営みを、人々の活動を、しっかりと受け止め、そこにある人々の言葉をして語らしめる。すると、「福島」が何かとてつもなく特別で大変なものではない、普通の当たり前のローカルな場所であることに改めて気づくのではないでしょうか。

福島県、福島市という地名は使います。しかし、「福島は●●だ」という議論を目の前にしたとき、その福島とはどこのことなのか、を明確にするよう求めたいと思います。議論を進めたいのならば、それが相馬市のことなら相馬市に、相馬市小高のことなら小高に地名を変えて、具体的に話を進めたいものです。

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