2023年10月6日金曜日

旅行代理店で国内航空券を購入してみた

今日(10/5)は、10月中旬の業務出張用の国内航空券を購入した。まだ行ったことのない帯広への出張が入ったのである。道東で一番行きたいのは釧路湿原だが、帯広も楽しみである。

今回の業務出張用の国内航空券購入では、いろいろクリアすべき条件があった。まず、現金で決済しなければならない。これは現在の業務ではクレジットカードでの支払いが(なぜか)認められていないためだ。これは業務費をATMで引き出したから難なくクリア。次に、領収証の宛名は個人宛ではなく職場宛にしなければならない。そして、搭乗券の半券を職場へ提出しなければならない。

通常、自分で自分用の航空券を購入するときは、航空会社のサイトで直接予約し、クレジットカードで決済する。スムーズに行けば、10分もかからずに済ませることができる。スマホに読み込んで、搭乗もペーパーレス。だが領収証は通常、個人名で発行される(そうではないサイトがあれば、ご教示ください!)。

今回は、現金払い、職場宛の領収証、搭乗券の半券提出・・・。よって、しかたなく、旅行代理店で購入することになった。

(実は以前、もっと面倒なケースがあった。そのときは某大学関連の海外出張だったのだが、見積書・請求書・領収証の全てを用意しなければならなかった。今回のはまだそれよりは面倒ではなかった)

でも、インターネット情報を眺めると、国内航空券のみを購入できる旅行代理店が意外に多くないようなのだ。大手旅行代理店では、来店予約が必要なのはいいとして、ツアーなどの商品販売は行なっても、航空券のみの販売は取り扱わないところが多いのだ。

そりゃそうだよな、と思う。多くがインターネットで航空券を購入し、わざわざ窓口に出向いて購入する人の数は大きく減っているはずだ。では、どこで国内航空券を購入すればよいのか。もう、こうなったら、イチかバチかで駅チカのあまり大手ではない旅行代理店が狙い目か。

インターネット情報では来店予約を求めている、大きな駅の地下道沿いにある某私鉄系の小さな旅行代理店へ行ってみた。そこで来店予約を求められれば、その場で予約して出直せばいいし。とにかく、駅の改札を出てすぐにあるのがよい。そう思い、行ってみると・・・。

店の入口に張り紙があった。曰く、ツアーやパック旅行の相談には来店予約が必要だが、JRの切符や航空券だけならば来店予約は不要・・・。やはり現場には来て見るもんだ。新たな発見がある。とりあえず、この店に頼んでみよう、と店の中へ入る。

予約購入する往復の便は決まっているので、すぐに購入を依頼。前の客の対応に時間がかかっているので、私の分は30分ほどかかるという。もちろん了解して、周辺を散歩して時間をつぶす。30分以上経って店に戻ると、やっと私の分の対応ができるようになったという。航空券の予約端末が1台しかないのだ。15分以上かかるという。そこで再び店を出て、周辺を散歩して時間をつぶす。20分ぐらい経って戻ると、ようやく終了。職場宛の領収証も用意され、航空券代金を支払った。

ちょっと気になることがあった。航空券代金の額がインターネットで表示されていた額よりもかなり安いのだ。一般に、旅行代理店で購入するほうが手数料がつくのでインターネットで購入するより高くなるはず。でも、もしかすると、量販店などの店頭限りの掘り出し物のように、旅行代理店で購入すると特別に安い料金の航空券が手に入ったりするのか・・・?

ラッキーな気分に浸れたのはしばしの間だった。店を出て仕事場に着き、改めてeチケット控に記載された金額と領収証に記載された金額とを比べると、額が合わないのである。あれ?安い料金の航空券だと思ったけれど、eチケット控の金額は安くなく、インターネットで表示されていた額とほぼ同じだ。変だな?

そこで件の旅行代理店に電話して、先ほどの担当者に確認してもらう。5分ぐらい待たされた後、担当者曰く、税抜料金で領収証を作ってしまった、とのこと。まあ、そんなところだよね。それで、領収証の作り直しをお願いした。担当者は今日は時短勤務とのことで、その方が時短勤務を終了する前に不足分を支払うため、仕事場から再び店へ向かうことにする。

そして店へ出向いて、無事にすべてが終了。インターネット購入ならわずか10分以内で済むものを、諸条件を満たすための旅行代理店経由の購入は、担当者の計算間違いもあり、半日近くかかることとなった。

この程度のミスなら怒る必要もないと思うのだが、世の中には、店側のミスを糾弾して「不足分は払わない」などと言い張る客もいるのではないか。客はそれで幾ばくかの額を節約できるだけだが、店のほうはミスをしてしくじった分を担当者に弁済させたり、ミスしたことで人事評価に影響が出たりなどするのだろうか。実際にそうなるかどうかよりも、担当者がそう思ってミスをした自分を責め続けたりしてしまわないか。

店にとって大事なことは、ミスした店員を非難したり処罰したりすることではなく、ミスを繰り返さない仕組みをつくることではないか。少なくとも、今回のケースについては、事前に複数でチェックする仕組みがあればいいだけだと思う。

ともあれ、現金払い、職場宛の領収証といった、条件が面倒くさい、今回のような業務用の国内航空券が購入できる旅行代理店を見つけられたことはラッキーだった。端末たった1台で時間はかかるけれども。ネット購入全盛時代でも、生き延びてほしいなあ。

昔、インドネシアでよく乗った安定性抜群のプロペラ機のATR72-500。写真はおそらく、
インドネシア・東南スラウェシ州のワカトビから着いたクンダリ空港と思われる。2010年2月12日撮影。

2023年10月3日火曜日

某市職員有志との勉強会の打ち合わせ

先週末から体調が思わしくない。

昨日(10/2)、朝起きると声が出ない。ようやく少し出るようになったらガラガラ声だ。朝からオンライン会議だったので、発言するのが難しく、耳だけ参加になった。

薬局で龍角散(粉)を購入し、口の中に入れる。説明には、舌の上に載せてゆっくり溶かす、と書いてあるのでそう試す。たしかに少しずつじわーっと効いてくるような気がする。合唱をやっている人々の間では、咳を止めるには絶対に粉だ、トローチではダメ、という話があるようだが、なるほど、とそのときは思った。

でも、だんだんに龍角散(粉)は効き目が悪くなってきた。痰に絡まってしまうのである。気管支炎用にいつも持参している薬剤入りの吸入器を試したり、風邪薬を飲んだりして、早めに寝た。

今日(10/3)は朝、体がだるく、とりあえずしばらく寝たら、だいぶ体調がよくなったので仕事へ。昨日より声はだいぶ出るようになったが、まだハスキー低音のまま。合唱していたときはトップテナーだったのに。「バスの声もいいね」と言われたり・・・。咳はだいぶ止まってきたが、今度は鼻水(青っ洟)が出る。急な気温低下で寒さも感じる。集中力低下。

そんな体調不良のまま、夕方6時からオンライン会議。10月に行われる北関東の某市の職員有志の勉強会の打ち合わせである。なぜか知らぬが、彼らから講師にご指名されてしまった。テーマは一応、多文化共生の地域づくり。私から提案し、通った。

まだ外国人住民比率の低い某市では、まだまだ外国人住民との共生という意識はあまり高くない様子だ。それでも、生産年齢人口の減少から外国人材の受入が世間で取り上げられているなか、某市でも認識を新たにしたいという感覚を持っている様子だった。

対話しながら話はしょっちゅう脱線するが、人口減少中の日本の地域社会は身の丈にあった経済規模や無理せず続けられるシステムへ自らを調整していくときに来ているのではないかと話した。そう、2011年3月11日の東日本大震災が起こったとき、日本は、日本の地域社会は、生き方や在り方を変えるときなのだ、と実感していたはず。もう忘れてしまったのかもしれないが・・・。高度成長時代の、ジャパン・アズ・ナンバーワンの日本はもう復活しない。鏡に映った自分の姿をもう一度しっかり見たいものだ。

人口減少を外国人材の受入で補うことはできない。日本にとって一番必要な外国人材とは、日本人がやりたくない仕事(でもその仕事をする人がいないと経済がまわらなくなる仕事)を代わりにやってくれる人材である。いわゆる3Kと呼ばれる仕事だが、これは技能実習や特定技能だけでは充当できない。しかも低賃金、日雇いの世界。そこで働く外国人材とは、いったい誰を想定しているのか。

外国人材が流入する以前、そうした仕事を受け持っていたのはどのような人々だったのか。都会のきれいな生活を楽しむ人々からは見えない世界で、黙々と日本経済の底辺を支えてくれていた人々とは誰だったのか。我々はそうした人々の存在を認知していたのか。尊敬していたのか。尊敬したというなら、なぜ彼らは低賃金なのか。我々が享受するサービスが低価格で収まっているのはそのおかげではないのか。

そんなしょうもない話を某市の職員有志の代表とうだうだとしてしまった。本題からそれたなあと思いながら、終わりのほうで、外国人住民が地域包括ケアなど市役所のサービスを受けるためにどのような方策が必要か、という話になった。色々な方と話をしていて、地域包括ケアの対象のなかに外国人住民を意識していないことがたびたびあった。でも、一般に、社会福祉協議会(いわゆる社協)はすでに外国人住民を視野に入れた活動へ変わってきた。そのきっかけを作ったのは、コロナだった。外国人住民がコロナ給付金を受け取りに来たり、コロナ接種を受けたりしたことで、地域での彼らの存在があぶり出されたのである。

そうそう、多文化共生は外国人の話だけじゃないということも強調しておいた。多文化には地域に住む様々な住民、子供、大人、高齢者、すべてが含まれる。日本人だって皆んな同じではない。多文化共生のキーは個人である。個人をその人として尊重できること。地域包括ケアで歩けない方には車椅子を用意する。視覚障害の方には点字の説明書や補助者を用意する。では、その外国人住民個人には・・・?どうする? そう考えることで、既存の行政サービスで外国人住民も対応できるはずである。

1時間ほど、うだうだと話をしながら、打ち合わせは無事に終わった。私にとっても、現場の市役所職員とサシで対話ができる機会になるのがうれしい。対面で皆さんにお会いするのが楽しみ、楽しみ。

ちょっと寒気を感じながら、帰り支度をしていたら、明日までに用意しなければならない作業を一つ忘れていたことに気がついた。再びパソコンを開き、1時間ちょっと作業して、ようやく家路へ。体調はまだ不良のまま・・・。

某市はどこかって?この美味しいパスタが食べられる街です!

2023年10月2日月曜日

散歩(1) 親王幡弐不動尊

東京の街中を散歩する。時間があれば、どこへ行っても必ず街を歩く。街を歩くと、必ず、新しい発見がある。東京で住み始める前、東京はまっ平らなところだと思っていた。それがこんなに上り下りが多く、崖が多く、起伏にとんだ地形だと気がついて、歩くようになった。

つい先日(9/29)も、仕事場に近い幡ヶ谷を歩いた。幡ヶ谷の甲州街道よりも北側は細い路地が幾重にも通り、それが起伏に富んでいる。ああ、ここが低いのか、ここから向こうは高台なのか、といちいち確認する。そして、低地と高台では明らかに家の形や大きさや並びが違う。そんな路地を歩き回るのがとても楽しい。

そんな路地からちょっと広い道路に出て、しばらく行くと、幡ヶ谷2丁目の親王幡弐不動尊(しんとうはたにふどうそん)という場所に出た。アロハニューヨークという店の隣に、すでに閉業してしまったらしい珈琲カンタータの看板があり、その奥の民家の間に不動尊がある。本当に民家の傍らの小さな祠に不動尊が鎮座していた。


なんでも、高野山親王院に長い間安置されていた鎌倉時代の作とされ、縁あって、この地にやってきたとのこと。歴史的な由来など期待していたが、真相は全く別の話だった。こちらのサイトに詳しいいきさつが書かれていた。

個人的には、不動尊そのものよりも、この不動産へ至る緑のうっそうとした、ワイルドな感じの小道が気に入った。在りし日の珈琲カンタータを訪れてみたかったな。

それにしても、幡ヶ谷はまだまだ面白い路地がたくさんあり、散歩のし甲斐のある街だ。幡ヶ谷の路地裏散歩は続く。

2023年10月1日日曜日

2023年10月1日、またブログを再開してみる

1年半にわたって休止していた個人ブログを再開してみようと思う。どうしても起こってしまう日々のバタバタのなかで、自分の気持ちや考えを、何気ない毎日を、書き残しておこうと思い始めた。アクセス数を稼いだり、自分の名前を売るためではなく、自分の記録として、自由気ままに書いていく。できるだけ毎日、その日に起こったこと、思ったことを書いていく。

インドネシアへ行く機会はめっきり減った。自前で行くだけの経済的余裕もない。それでもまだ、年の半分を日本、半分をインドネシアで過ごすという夢は捨てていない。相変わらず、インドネシアのメディアを追い、インドネシアの政治や経済について自分なりの見方を自ら主宰する1ヵ月2回発行の情報ウェブマガジン『よりどりインドネシア』、NNA Indonesiaに連載中の『続・インドネシア政経ウォッチ』、その他のオンライン講演会やウェビナーで発信している。そこでの見方が正しいかどうか、インドネシア人の友人たちと議論してみたいと思っている。

2021年6月からJICA東京で多文化共生関連の仕事を請け負うようになって、日本にいる外国人をどのように支援するかはもちろんだが、地域社会がどのようによそ者を受け入れるのかという観点から、地域社会における外国人の包摂を地域づくりの観点から捉えるようになった。地域づくりでは、よそ者(あるいは出戻り)が地域に新たな視点や情報をもたらし、地域で何か新しい動きを促すことがよくあるし、かつて成功例ともてはやされた地域づくりの事例にはよそ者が関わっていることが多かった。

自分自身がインドネシアでよそ者として地域と関わった経験からすると、よそ者自身の相手社会への入り方が極めて重要で、相手社会からどのように信用を得るか、信用を信頼へ昇華させていくか、といった点が鍵になる。逆に、地域社会からすると、よそ者が信用できる人物かどうかを見極めるには、実際に会って顔の見える関係を作って確認することが望ましい。これまでの様々な経験では、よそ者と地域社会とを取り持つ人物の存在が重要である。

そんなことを考えながら、私自身は、多文化共生関連の仕事とはいいながら、「多文化共生」の業界(すでに業界化していること自体が驚きなのだが)から一定の距離を置き、地域から始めたいと思っている。よそ者と地域づくりというアプローチを採り、双方がどのような態度をとってどのように信用し合い、信頼できる関係を作っていくか、ということを試みていきたい。外国人はそうしたよそ者のなかに含まれる。

今後の日本社会のなかで、どういう人なのか分からないよそ者の存在が大きくなってくると、地域社会はとくに治安面での不安を感じるようになる。行政の観点からは、災害時の避難や(コロナであからさまになった)予防接種などでよそ者が取り残される危険がある。よそ者の存在を地域社会が最低でも認め、誰か数人でもよいので地域社会によそ者とのコンタクトパーソンがいる状態で、顔の見える関係を少しずつ作っていくことで、そうした不安を解消していくのだろう。

目指したいのは、多文化共生などという言葉が不要になる未来である。多文化は外国人だけではない、様々な違いを持った人々の存在も含まれる。我々が見ている「多文化」はまだまだ限定的なのではないか。消えていく文化、眼前から隠れてしまった文化、そうした個性といってもよい個々人の持つ文化が、他者の文化を否定しない限りにおいて、あたりまえに認められる未来を想いながら過ごす日々のなかで、考えたことや思ったことを徒然に書いていってみることにする。

再開発で取り壊される京成立石駅北口を惜しんで散策する人々(2023年8月5日撮影)

2022年4月2日土曜日

今年の桜は格別に悲しかった


戦後すぐ、この地に植えられたという、我が家の庭の1本の桜の木。もう70年以上も経つ老木で、咲く花の数が少なくなってきた気がして、今年も咲くだろうか、と毎年気になってしまう。

幸い、今年も咲いてくれた。例年と違って、巷の桜よりも少し早く満開になっていた。

桜の木は、寿命が来ると驚くほど花を咲かせ、翌年からは咲かなくなってしまう、と聞いたことがある。だから、ああ、今年も咲いてくれた、と桜の木に感謝の気持ちが湧いてくるのだ。

きょうでもう1週間以上、咲き続けてきたが、数日前から散り始めた。枝の下のほうから咲き、上のほうはちょうど満開。下のほうはもう葉っぱが出てきている。

今年は青空に恵まれた日々が少なく、例年ほど、鮮やかな桜の写真が撮れなかった。妻が足にけがをしたこともあり、例年のような、庭にテーブルと椅子を出して、桜を眺めながらブランチ、もできなかった。ようやく、今日になって、青空に映える桜の花を撮ることができた。

この1・2年、インドネシアでの「親」、恩人、友人・知人、大切な方々とお別れした。その中の何人かは、日本で一緒に桜の花を愛でた。

散りゆく桜を見ながら、今は亡き、私の大切な方々のことを思う。今年の桜は、格別に悲しく感じる桜だった。


2022年1月3日月曜日

2022年の始まりにあたってー地域づくりとインドネシア

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。皆さまにとって、2022年が明るく、楽しく、面白い一年となりますよう、祈念いたします。

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新型コロナ禍で東京からどこへも行けない日々に加え、「家族」、恩人、親友など、これまでインドネシアでお世話になってきた大切な方々が次々と旅立っていくなか、昨年は、悲しみから逃れることのできない一年となってしまいました。もうインドネシアから離れてしまう運命なのではないか、という気持ちさえ起こりました。

新年を迎え、ようやく少し気持ちが前向きになってきた気がします。今後は、「地域づくり+多文化共生」と「インドネシア」の2本立てをより強化していきたいと考えています。

バンドゥンの私立シリワンギ教員養成大学のトラ

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●地域づくり+多文化共生

昨年6月からは、JICA東京から外国人材受入・多文化共生に関する用務を請け負っています。技能実習や外国人集住を白黒・善悪で単純化するのではなく、現場を踏まえ、多角的に検証することで、問題の本質を捉え、解決策を提示することに務めたいと思っています。

同時に、これらの課題を地域再生・地域づくりの文脈で捉え、世界各地での地域づくりの動きを俯瞰しながら、今後の日本における新しい地域づくりの方策を追求していきたいと考えています。

●インドネシア

インドネシアに関するコンサルティングや情報発信、調査研究分析、講演などの活動も続けていきます。

【よりどりインドネシア】

月2回発行の情報ウェブマガジン『よりどりインドネシア』は、おかげさまで欠号なく、昨年末までで第108号を発行しました。今後も欠号なく発行を継続します。ご購読をよろしくお願いいたします(購読はこちらから)。

マガジンの発行のほか、2ヵ月に1回程度の頻度で、購読者向けのオンライン・オフ会を開催します。ZOOMのミーティングを使い、参加者をあえて購読者に限定し、内容を録画しないことで、オフレコでの発言も飛び出します。こちらもぜひお楽しみに。

【オンライン講演会】

また、インドネシア大学上級講師のバクティアル・アラム(Bachtiar Alam)氏と一緒に、アジアコンサルト・アソシエーツ=松井グローカル共同のオンライン講演会シリーズを開始しました。バクティアル氏が講演した第1回(2021年11月25日)開催の動画をこちらからご覧いただけます。なお、第2回(2022年2月初めを予定)は私が講演する予定です。内容が固まり次第、お知らせいたしますので、しばしお待ちください。

なお、上記オンライン講演会では、日本語による日本人向けのほか、インドネシア語によるインドネシア人向けも予定しています。こちらも後日、お知らせいたします。

【その他】

上記のほか、オンラインによる講演、ゲスト講義、論文指導なども行います。

また、インドネシアでの事業に関する相談、インドネシア人の日本での起業相談、日本でのインドネシア人技能実習生・特定技能者の活用相談など、インドネシアに関するコンサルティングをオンライン・対面で対応いたします。

さらに、インドネシア語での日本からインドネシアへの発信も構想中です。

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2022年は年男、世間的には定年退職の年齢となりました。でも、私自身は人生の折り返し地点であり、次世代・次々世代にとって明るく楽しく面白くよりよい世界・地域を遺していくために、まだまだやるべきことはたくさんある、という気持ちです。

そのためには、自分自身が明るく楽しく面白くよりよい日々を積み重ねていくこと。先に旅立っていった「家族」、恩人、親友など、これまでインドネシアでお世話になってきた大切な方々のことを思いつつ、前を向きます。

ご指導・ご支援・ご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願いいたします。

2021年9月20日月曜日

天祖神社の例大祭に秋を感じた

台風一過の昨日(9月19日)の東京は、久々の秋晴れ。日中はまだちょっと暑いが、久々に2人で散歩してみた。

そういえば、我が家も氏子になっている天祖神社の例大祭ではないか。新型コロナの影響で、昨年も今年も、町内会ごとのお神輿が街中を練り歩くのは中止。

新型コロナ前は、子ども神輿と大人神輿があった。学校に上がる前の娘もかつて「その他大勢」として子ども神輿を引いてお菓子をもらったものだ。我が町内会では神輿に加えて小さな山車もあり、代々引き継がれてきた笛太鼓のお囃子が聞こえてくると、あっお祭りだ、と思ったものだった。

昨年と今年は、天祖神社の氏子代表である各町内会代表が一緒に、神社の領域内をくまなく回る形で行われている。その範囲は、池袋サンシャインの東隣のイケサンパークから西巣鴨駅に至る、かなり広い範囲である。

天祖神社へ行くと、ちょうどお神楽が演じられていて、人々がパラパラとそれを眺めていた。



恵比寿さんや獅子舞が現れ、最後には、獅子舞が子どもたち(+昔の子どもたち)の頭をパクリ、パクリ。和やかで微笑ましい雰囲気が境内にみなぎった。

天祖神社にお参りして、お神楽を眺めて、そろそろ秋なのだなあ、と思った。

そういえば、日が陰るのがずいぶんと早くなった。

雲ひとつない真っ青な空。

巣鴨付近で見た北の空、まっすぐ水平な幾層もの薄雲に映える夕暮れの赤。

そして、東のビルの間から昇ってくる十三夜の月。

なにげない、ごくごく普通の光景がやけに美しい。

この地に暮らして、もう30年余になる。

2021年9月15日水曜日

皆んな逝ってしまった・・・

前回書いてからちょうど5ヵ月、ブログを書けなかった。忙しかったわけではない。本当に書けなかったのだ。

毎日が悲しくて、つらくて・・・。

思い出さなくて済むように、いつも何かを詰め込んでも、ふと空いた瞬間に思い出してしまう毎日だった。

どうして、どうしてなのだろう。わずか1年の間に、インドネシアで出会った大切な大切な方々があんなにもたくさん逝ってしまうなんて・・・。

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初めてジャカルタに住んだ1990~1992年、下宿していたラワマングンの大家さんである「母」、そして「母」が亡くなって1ヵ月もしないうちに、「弟」の一人も旅立ってしまった。ジャワ人の敬虔なカトリック教徒の家だった。

この下宿は、今も、私のアジトというか隠れ家として、ジャカルタに行くたびに潜んでいたところ。周りに外国人のいない、お金持ちもいない、ごくごく普通の人々の住む地域。「父」はもうだいぶ前に亡くなって、「母」を3人の「弟」と1人の「妹」が支えてきた。 

最初に感染したのは2番目の「弟」(次男)と奥さん。続いて、3番目の「弟」(三男)の奥さんが感染し、間もなく亡くなった。3番目の「弟」の悲しみはどれほどのものだったろうか。しばらくして、2番目の「弟」(次男)と奥さんが回復。その頃だった。「母」が危ない、という知らせが入ったのは。

「母」の回復を東京からひたすら願い続けたが、ほどなくして「母」は逝ってしまった。私がラワマングンに居るといつも食事を作ってくれる。一時期、足が悪くなって歩きにくくなったのに、私がアジトとして旧下宿に滞在するようになると、食事を作るのが楽しみで、あっという間に足もよくなり、元気になってしまった。30年前の下宿時代からずっと、「母」の料理は私のジャカルタの大切な記憶である。

「母」の料理で一番好きだったのがラクサ。マレーシアやシンガポールのとは一味違うラクサ。

(2018年5月12日撮影)

2番目の「弟」は1番目の「弟」と3番目の「弟」を連れて、アンチョールからスピードボートを出し、沖合で「母」の遺灰を海へ撒いた。そのビデオをFB経由で眺めていた。ジャカルタの海に行けば、「母」を感じられるはず。

しかし、話はこれで終わらなかった。「母」の遺灰を撒きに行った1番目の「弟」の感染が確認されたのである。1990年、ラワマングンに下宿してインドネシア大学大学院へ通う日々のなかで、最初に様々なあらゆることを教えてくれたのが、当時、インドネシア大学歯学部4年生だった1番目の「弟」だった。彼なしでジャカルタ生活がすんなり始められたとは思えない。彼は卒業後、歯科医になった。腕利きの評判の良い歯科医として患者さんから慕われていた。 

感染が確認された後、1番目の「弟」はすぐに病院に入れず、5日間待たされた。その間に症状が悪化、ようやくICUに入れたものの、その後まもなく亡くなった。

2番目の「弟」と3番目の「弟」は再び海へ出た。1番目の「弟」の遺灰をジャカルタの海へ撒くために。ジャカルタの海に行けば、「母」にも1番目の「弟」にも会えるはず。

そう思うと、あの汚れた、到底きれいには見えないジャカルタの海が、私にとっても特別な意味を持ってくるような気がしてしかたがない。

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失ったのは、ラワマングンの「家族」だけではない。1985年に研究所へ入所し、インドネシアと関わり始めてからずっと見守り、励まし、支えてくださった「父」も逝ってしまった。当時、すでに政府高官で、私がインドネシアに滞在する時には必ず保証人になってくださり、日本からジャカルタへ行くと言えば、必ず一保堂のほうじ茶を土産に持ってくるようにせがむ「父」だった。

「父」との思い出も数限りない。 2014年4月には、85歳の「父」をインドネシアから日本へ連れてきて、「父」に世話になった方々との再会の旅をエスコートした。東京だけでなく、私の故郷・福島、お世話になった方との再会のために宝塚、そして京都を旅した。

 
「父」と一緒に行ったときの福島市の花見山。桜が満開だった。(2014年4月17日撮影)

日本から戻った後、老齢ということもあり、「父」は何度か、死線をさまよったことがあったが、そのたびに蘇った。不死身だと思っていた。

「父」との思い出のなかには、私の心の奥底にずっとしまっておきたいとても大切な出来事があった。「父」は忘れているかもしれないが、「父」のおかげで私は今も生きているのだ。

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私にとって、とても大切なインドネシアでの「家族」。よりによって、どうして皆んなわずかの間に逝ってしまうのか。

一人になると、泣いた。何度も、泣いた。

「家族」以外にも、いったい、何人、インドネシアの恩人、友人、知人が亡くなったことか。

JETRO専門家時代に、公私にわたりお世話になったインドネシア商工会議所元事務局長。

そのときのディスカッションパートナーだった全国工芸輸出業者協会ジャカルタ支部長。

マカッサルで本当にお世話になったハサヌディン大学のWP先生、デザイナーのRさん。

亡くなる1年前にパルで再会し、またの再会を約束した中スラウェシ州政府高官である友人SAさん。

パプア州を訪問したときに世話になったジャヤプラの州政府高官のMさん。

皆んな、逝ってしまった。

自分のなかの「インドネシア」の根幹が音を立てて崩れていく・・・

自分の「インドネシア」を形作っていた大切な土台が消えていく・・・

もう、自分がインドネシアから離れるサインなのだろうか・・・

揺らいでいる。自分のなかの「インドネシア」が揺らいでいる・・・

36年かけて築いてきた大切な何かが崩れかけている・・・

 

いつかは、大切な「家族」や恩人、友人、知人とお別れしなければならないときが来る、といえばそうなのだ。それが今、一度に押し寄せてきた。

そんな時代もあったよね、といえるまでには、まだだいぶ時間がかかりそうだ。

思い出したら、また泣くだろう。泣けばよい、のだ。

インドネシアへ行けるようになったら、まずはお墓参りだな。


笑っている顔しか思い出せない。大切な大切な「家族」、恩人、友人、知人。

ありがとう。本当にありがとう。出会えて本当によかった。

2021年4月15日木曜日

新しい旅立ち?、一人暮らししていた頃を思い出した

新型コロナ禍がまだまだ衰えを見せないなか、4月になって、我が家でもいくつか新しい旅立ちを思わせるような日常が出てきた。

たとえば、4月から娘が一人暮らしをするということで、引っ越しした。といっても、都内なのだが、大学の授業の関係で、大学の近くに居を構えたという次第。自宅から通っても1時間ちょっとなのだが、電車に乗っているのがかなり疲れるらしい。でも、今学期も結局、オンライン授業が多い様子。親としては、一人暮らしが彼女の今後の自立へ向けての価値ある経験となっていくことを願うばかりだ。

一人暮らしを始める娘を眺めながら、自分の大学生活から妻と結婚するまでの独身生活の頃を思い出した。高校卒業前に大学を受けて全滅。というか、国立と私立の一つずつしか受験しなかった。「滑り止め」という言葉を知らなかった。あまりにも初心な田舎の受験生だった。

大学浪人中は、父の教え子で埼玉県に住んでいるSさんのお宅に下宿した。毎週、Sさんから世の中というものについて講話があり、ときには説教された。東京に出てきて分かったのは、世の中には様々な人々がいる、ということだった。最初は、今まで見たことないような人々に遭遇するたびに驚いていたが、時期に、それらは当たり前の光景になっていった。

毎日、予備校に通い、一浪して大学に入り、1~3年生は民間団体の運営する男子寮で生活した。親からの仕送りは寮費を含めて月5万円。家庭教師のアルバイトで3万円を得て、月8万円で生活した。サークルの関係で部屋に自腹で黒電話をひいたのだが、そのときには、貯金残高が数百円まで減って慌てた。

大学4年から就職1年目は、月1万8千円の家賃の6畳一間、汲み取り式トイレ、湯沸かし器なしのところに住んだ。その辺りでは最も築年数が古い建物だったらしい。風呂は銭湯だが、夜遅くなるなどして、何日も入れないこともあった。夜寝ていると、いつも天井裏でガタガタ大きな音がした。毎日、ネズミが運動会をしていた。冬はコタツと小さな電気ストーブで寒さをしのぎ、夏は扇風機で暑さをしのいだ。このような生活で、汗をうまく処理できず、子供の頃からの持病のアトピー性皮膚炎が極度に悪化した。

今思うと、快適な学生ライフをおくったとはとても言えなさそうに思える。経済的に余裕がなく、大学の友人たちとの付き合いをそれなりにしていくために、切り詰められるところは切り詰め、我慢できることはできるだけ我慢して毎日を暮らした。弟も大学に行っていたし、親も経済的に厳しかったので、仕送りを増やしてほしいとはいえなかった。

研究所に就職して、毎月それなりの収入を得るようになって、生活に少し余裕が出てきた。少しずつ貯金をしたが、当時のバブル全盛期の世の中がどこか遠い世界に感じるような日々を送っていた。あの頃から今に至るまで、自分のなかの生活スタイルや生活に対する意識が大きく変わったような実感はない。

持病のアトピー性皮膚炎が快方へ向かったのは、結婚して、生活がある程度安定し、インドネシアへ2年間滞在した後のことだった。結婚したおかげで、少しはまともな生活が送れるようになったように思える。

でも、今も、必要なもの以外は求めず、質素な生活を続けている。元々、お金持ちにはなれないと思っていたし、実際、現実もそうだった。

そう、自分は変われなかったが、時代は変わったのだ。

娘の引っ越しを手伝い、一人暮らしに必要なものを色々と準備しながら、彼女にはとにかく楽しく有意義な学生生活を送ってほしい、と思った。それは、親としての気持ちだ。でも、そんな娘をちょっぴりうらやましく思う自分もいた。

2021年4月9日金曜日

なぜ今回、森を守ろうと動く若者について書いたか

ここ数日間は、毎度のごとく、情報ウェブマガジン『よりどりインドネシア』の編集・発行とそれへの自分の原稿執筆で時間を費やしていた。それでブログの更新が遅れてしまった。

今回で91号。毎月2本発行しているが、発刊以来、1度も欠号を出していない。今年中に記念すべき第100号を迎えるのかと思うと、ちょっとワクワクする。『よりどり』で知り合った執筆者の皆さんたちがまたいい人たちで、いつの間にか、執筆者どうしでSNSグループをつくり、何かというと楽しそうにああだこうだと仲良くやっているのがとても良い。

そんな執筆者に加わる仲間をずっと募集中だ。インドネシアについて、何か書いてみたい方、いつでもご相談いただければうれしい。よほど常軌を外れた内容でないかぎり、ほぼそのまま掲載している。短い原稿もあるし、長い原稿もある。それぞれに趣があり、玉石混交なのが『よりどり』たるところと思っている。

私自身は、これまで、内容的なバランスを考え、インドネシアでホットな話題となっている政治経済・時事ネタを中心に取り上げ、現在進行形のまま、完結せぬまま、執筆してきた。そして必ず、単なる情報提供、時事解説にならないように、必ず私なりの分析視点や情報を入れて来たつもりである。

ただ、最新号の第91号では、敢えて時事ものではなく、カリマンタンで森林火災の消火活動と慣習法社会の復興を目指す若者に焦点を当てた。こうした若者の存在に、これからのインドネシアへの希望をみるからである。

私自身、これまで、インドネシアの各地を歩き、その地方地方で多くの若者たちに出会ってきた。彼らの希望と苦悩、意欲と諦め、現実への不満と体制への従順など、「インドネシアの若者は・・・」などと簡単に一括にできない姿をそのまま受け止めようとしてきた。

実は、今回取り上げたスマルニ・ラマンさんとは面識はない。彼女について書かれたいくつかの記事を踏まえて書いた。そして書きながら、本人に会いたい、中カリマンタン州の彼女の現場で会いたいと思い始めた。

彼らの強さは、現場を踏まえていることにある。自分たちの生活環境が脅かされる日々。気をつけないと自分の家に火が延焼してくる危険を常に感じる生活。誰かが対処してくれるのを待つ余裕はない。そして、消火や防火をしながら、なぜこのような事態がここで起こっているのか、自分のこれまでの人生や家族・祖先などからの教えの中からその根本原因を探ろうとする。都会の高名な権威ある専門家から教わったのではない、自分自身で考えて考えて編み出そうとしてきた思考の継続をもとにして動いている。

本当に、彼らにとってはまさしく自分事なのである。

環境破壊が進んでいったら、自分たちが自分たちでなくなる。ダヤックでなくなる。ダヤック族というのは、身体的なものだけでなく、彼らの生活空間や歴史的に続く精神認識や自然環境を含めて形成されるものだからである。自分たちのいちばん大切なものが消されていく・・・。その感覚は、私の含む外部者がどれだけ彼らに共感や同情を寄せても、理解できるものではないと思う。

そして、理解できないから、外部者が外部者の利益のために、地元の人々の生活空間を破壊していく。そこには、土地に染み込んだ人間と自然の記憶への想像力などありえない。

我々が遠くの安心できる場所から「地球環境を守れ」と唱えるのと、生活を破壊された彼らが訴えるのとはその深さは大きく異なる。しかし、スマルニ・ラマンさんたちの生活空間が壊されることと地球環境を守ることとはつながっている。

我々は、スマルニ・ラマンさんの居るところから遠くにいるから安全なのではない。彼女らの生活が破壊されることは、地球環境が破壊される無数の事象の一コマなのである。それに我々が気づかないとしたら、それは、「福島から270キロ離れているから東京は安全だ」と演説した愚か者の感覚と大差ないのかもしれない。

インドネシアの若者、とくに地方の若者の環境問題への感度は、我々が思うよりもはるかに高いと思う。それは日夜、自分たちの生活が脅かされているからだ。他方、インドネシアの現政権は、国民をもっと豊かにするための開発を優先し、インフラ整備や食糧増産を主とし、それに大きな影響を与えない範囲で環境を守る姿勢を見せている。

インドネシアの環境問題、とくに熱帯林保全や海洋保全は、グローバルな環境問題と直結している。目の前の泥炭林火災は、そのローカルだけの問題ではなく、膨大なCO2排出などを通じて、地球環境に影響を与えていく。ローカルの問題がグローバルと直結している、まさにグローカルの視点で見なければならないのである。

だからこそ、現場で環境問題と闘うインドネシアの若者たちの存在を我々が知ることが大事だ。そう思って、今回の原稿を書いた。これからも、そうした若者たちの姿を追っていく。そして、ローカルで彼らが孤軍奮闘しているのではなく、たくさんのグローバルな世界での個人がその活動を見守り、応援していることを示したい。

いうならば、スマルニ・ラマンさんらは、我々の代わりに環境問題と闘っている、とでもいえるか。そして、我々も、彼らの代わりに、各々の現場で各々のレベルの環境問題と闘っているといいたい。

地方の現場で環境問題と闘うスマルニ・ラマンさんらとどこかで知り合い、彼らの活動を適切に支えられる人の輪を創っていきたい。そして、様々な「スマルニ・ラマンさん」を見つけ出し、彼らを外部へ紹介し、彼らを見守り、連帯する仲間を増やしていきたい。

ローカルとグローバルが直結するグローカルな問題としての地球環境問題。自分の生活空間を守るためではあっても、結果的に、熱帯雨林や珊瑚礁の海を我々の代わりに守ってくれるローカルの人々を我々が支えられる仕組みをみんなで一緒に創っていきたい。