実は、この裁判で、検察は禁固1年、執行猶予2年を求刑していました。判決はこの求刑よりも重いものです。日本では、一般に求刑よりも厳しい判決が出ることはまずあり得ませんが、インドネシアでは、なぜかわかりませんが、求刑よりも厳しい判決が下されることが割とよくあります。
現職のアホック=ジャロット組は、先のジャカルタ首都特別州知事選の決選投票でアニス=サンディ組に敗れたばかり。それに今回の禁固刑の判決が追い打ちをかけ、アホックの政治生命もこれで終わりか、という気配もうかがえます。
アホックを毛嫌いしてきた勢力にとって、今回の有罪判決はまさに希望したものでした。彼らにとって、アホックは邪魔者なのです。彼らの権益を侵すような行動をとり、汚職にも厳しい、万が一、アホックが大統領になったら、なんて考えるだけでもおぞましい。とにかく、何でもいいから、アホックをディスる材料を血眼になって探したのでした。
イデオロギーや政策上の意見対立ではなく、アホックが嫌い、という一点集中。嫌いな理由は、態度が直情的で粗野、華人でキリスト教徒のくせに偉そうにしている、といったものでした。アホックの欠点を血眼になって探してはみたものの、汚職疑惑も女性問題も見つけることができず、困っていたわけです。
そこに例のビデオが出てきました。
そのビデオでは、プロウ・スリブの住民と会った際に、アホックが「皆さんがコーラン食卓章51節に嘘をつかれて私を選ばないとしても、それは皆さんの権利である」と述べたように見えたのですが、それは意図的に編集したものでした。注意深く読んで欲しいのですが、アホックは、本当は、「皆さんがコーラン食卓章51節を使って嘘もつかれて私を選ばないとしても、それは皆さんの権利である」と述べていたのでした。
このビデオが火元となって、アホックがイスラム教を冒涜したという話が広まり、この機に乗じて、「アホックはイスラムの敵」と積極的に煽る人々も現れました。アホックの独走かと思われたジャカルタ州知事選挙は、これで急に風向きが変わりました。
結局、嫌アホック派が血眼になって探したアホックの弱点は、これ一つでした。華人=金持ち、キリスト教徒=欧米寄り、というイメージが膨らみ、アホックは金持ちの味方で庶民の気持ちがわからない、と喧伝されました。
インドネシアのメディアはビジュアル重視に変わってきていますが、一番インパクトのあるのが大衆動員です。大衆動員をかけるための材料はイスラム、しかも「アホックはイスラム教を冒涜した」というメッセージは、有効な宣伝材料でした。大衆動員をかけるには、ジャカルタ以外から動員する必要があり、それに便乗して、イスラム強硬派グループが影響力を拡大させようと主導していきました。
その他の詳細は、決選投票の前の段階で、私が書いた有料記事が4本ありますので、よろしければ、ご購読ください。
ジャカルタ州知事選挙からインドネシア政治を読む(1〜4)
ここまで書いてきて、私が何を言いたいかというと、今回のアホックの州知事選敗北、有罪判決といった事態が引き起こしている本質は、必ずしもイスラムの問題ではないということです。誰でもあれだけのイスラム教徒が動員されれば、イスラムの影響を過大に見てしまうことでしょう。でも、問題の本質は、まずアホックを政治の舞台から引き摺り下ろすことであり、そのためには、示威行動と恐怖心の植え付けによって、有権者の投票行動を変えることでした。
アホックが当選したら、毎日毎日デモが起こるのではないか、イスラム強硬派が暴れるのではないか、1998年5月のような反華人暴動が起こるのではないか。そんなことになったら、日々の生活に支障が出るし、安心して暮らせなくなる。
「コーラン食卓章51節に従って非イスラムの指導者を選ぶな」という呼びかけも盛んに行われ、「アホックを支持する者はモスクに入るべからず、冠婚葬祭も受け付けない」といったところも現れるとなると、日常生活の場にあるモスクと共生する住民は、それでもアホックに投票するという行動はとりにくくなることでしょう。
忘れてならないのは、デモに参加したり、恐怖心を広めたり、差別意識を前面に出したりした人々は、自分達の信ずるイスラム教のために行動したのではなく、一人のけしからん気にくわないアホックを糾弾するために動いてしまったのです。
そして、それは有権者だけでなく、アホックを有罪とした裁判所にも少なからず影響した可能性があります。アホック無罪の判決を出そうものなら、裁判所が焼かれてしまうかもしれない、ジャカルタのあちこちで騒乱が起きるかもしれない、そのとき、無罪判決を出した裁判所の治安悪化の責任が問題になるのではないか。それぐらい、裁判所は、州知事選挙のときの有権者と同じく、嫌アホック派からの圧力や同派への恐怖を感じていたかもしれません。
おそらく、アホック支持者のほうが自制心があり、暴力的行為を行う可能性が少ないのではないか。もしかしたら、そんな計算もあったかもしれません。
「アホックの裁判に対する態度は誠実で協力的だった」と評した裁判所が、なぜ検察の求刑よりもかなり厳しい判決を下したのかは、裁判所が示した理由を見ても、納得できるものではありません。アホックがイスラム教を冒涜したと断罪する根拠についても、重刑を課すに値する新事実があったわけでもなく、それまでの裁判での議論を踏まえているように見ることは難しいものがあります。
それでも、裁判所の判決を尊重し、それに反対するならば、きちんと法的なプロセスを経て進める、ということは、国民一般の了解事項になっている様子です。イスラムを政治的に利用し、示威行動と恐怖心である一定の考え方を強要する一方で、司法での汚職が問題視される状況はあるにせよ、制度としてのそれを尊重できる社会の成熟さも生まれています。
判決が禁固2年となったことも注目されます。求刑の禁固1年執行猶予2年だと、アホックは2018年地方首長選挙にも2019年大統領選挙にも出ることができます。しかし、禁固2年が確定した場合、そのどちらに出ることも無理です。アホックの政治生命を断つ結果となります。そして、それは嫌アホック派の目指すところでもありました。
日本を含む海外メディアの報道を見ると、インドネシアの多数派イスラムが増長して「多様性の中の統一」に黄信号が灯ったという内容を散見します。でも、イスラムの影響力云々が問題の本質、とは思いません。これまで多数派の行動を自制させてきた箍が外れた、それは政治家が自分の野心のためにイスラムを政治利用する傾向が強まったためだと思います。何かを決めるのに、ムシャワラ(協議・熟議)の社会から多数決の社会へ移り始めているのかもしれません。
空気を読みながら、言いたいことも言えなくなる。日本にとっても、インドネシアの話は決して他人事ではありません。でも、ジャカルタでは、まだアホック支持者が声を上げています。声を上げない日本の我々よりもまだ健全だと思えてしまいます。
イデオロギーや政策上の意見対立ではなく、アホックが嫌い、という一点集中。嫌いな理由は、態度が直情的で粗野、華人でキリスト教徒のくせに偉そうにしている、といったものでした。アホックの欠点を血眼になって探してはみたものの、汚職疑惑も女性問題も見つけることができず、困っていたわけです。
そこに例のビデオが出てきました。
そのビデオでは、プロウ・スリブの住民と会った際に、アホックが「皆さんがコーラン食卓章51節に嘘をつかれて私を選ばないとしても、それは皆さんの権利である」と述べたように見えたのですが、それは意図的に編集したものでした。注意深く読んで欲しいのですが、アホックは、本当は、「皆さんがコーラン食卓章51節を使って嘘もつかれて私を選ばないとしても、それは皆さんの権利である」と述べていたのでした。
このビデオが火元となって、アホックがイスラム教を冒涜したという話が広まり、この機に乗じて、「アホックはイスラムの敵」と積極的に煽る人々も現れました。アホックの独走かと思われたジャカルタ州知事選挙は、これで急に風向きが変わりました。
結局、嫌アホック派が血眼になって探したアホックの弱点は、これ一つでした。華人=金持ち、キリスト教徒=欧米寄り、というイメージが膨らみ、アホックは金持ちの味方で庶民の気持ちがわからない、と喧伝されました。
インドネシアのメディアはビジュアル重視に変わってきていますが、一番インパクトのあるのが大衆動員です。大衆動員をかけるための材料はイスラム、しかも「アホックはイスラム教を冒涜した」というメッセージは、有効な宣伝材料でした。大衆動員をかけるには、ジャカルタ以外から動員する必要があり、それに便乗して、イスラム強硬派グループが影響力を拡大させようと主導していきました。
その他の詳細は、決選投票の前の段階で、私が書いた有料記事が4本ありますので、よろしければ、ご購読ください。
ジャカルタ州知事選挙からインドネシア政治を読む(1〜4)
ここまで書いてきて、私が何を言いたいかというと、今回のアホックの州知事選敗北、有罪判決といった事態が引き起こしている本質は、必ずしもイスラムの問題ではないということです。誰でもあれだけのイスラム教徒が動員されれば、イスラムの影響を過大に見てしまうことでしょう。でも、問題の本質は、まずアホックを政治の舞台から引き摺り下ろすことであり、そのためには、示威行動と恐怖心の植え付けによって、有権者の投票行動を変えることでした。
アホックが当選したら、毎日毎日デモが起こるのではないか、イスラム強硬派が暴れるのではないか、1998年5月のような反華人暴動が起こるのではないか。そんなことになったら、日々の生活に支障が出るし、安心して暮らせなくなる。
「コーラン食卓章51節に従って非イスラムの指導者を選ぶな」という呼びかけも盛んに行われ、「アホックを支持する者はモスクに入るべからず、冠婚葬祭も受け付けない」といったところも現れるとなると、日常生活の場にあるモスクと共生する住民は、それでもアホックに投票するという行動はとりにくくなることでしょう。
忘れてならないのは、デモに参加したり、恐怖心を広めたり、差別意識を前面に出したりした人々は、自分達の信ずるイスラム教のために行動したのではなく、一人のけしからん気にくわないアホックを糾弾するために動いてしまったのです。
そして、それは有権者だけでなく、アホックを有罪とした裁判所にも少なからず影響した可能性があります。アホック無罪の判決を出そうものなら、裁判所が焼かれてしまうかもしれない、ジャカルタのあちこちで騒乱が起きるかもしれない、そのとき、無罪判決を出した裁判所の治安悪化の責任が問題になるのではないか。それぐらい、裁判所は、州知事選挙のときの有権者と同じく、嫌アホック派からの圧力や同派への恐怖を感じていたかもしれません。
おそらく、アホック支持者のほうが自制心があり、暴力的行為を行う可能性が少ないのではないか。もしかしたら、そんな計算もあったかもしれません。
「アホックの裁判に対する態度は誠実で協力的だった」と評した裁判所が、なぜ検察の求刑よりもかなり厳しい判決を下したのかは、裁判所が示した理由を見ても、納得できるものではありません。アホックがイスラム教を冒涜したと断罪する根拠についても、重刑を課すに値する新事実があったわけでもなく、それまでの裁判での議論を踏まえているように見ることは難しいものがあります。
それでも、裁判所の判決を尊重し、それに反対するならば、きちんと法的なプロセスを経て進める、ということは、国民一般の了解事項になっている様子です。イスラムを政治的に利用し、示威行動と恐怖心である一定の考え方を強要する一方で、司法での汚職が問題視される状況はあるにせよ、制度としてのそれを尊重できる社会の成熟さも生まれています。
判決が禁固2年となったことも注目されます。求刑の禁固1年執行猶予2年だと、アホックは2018年地方首長選挙にも2019年大統領選挙にも出ることができます。しかし、禁固2年が確定した場合、そのどちらに出ることも無理です。アホックの政治生命を断つ結果となります。そして、それは嫌アホック派の目指すところでもありました。
日本を含む海外メディアの報道を見ると、インドネシアの多数派イスラムが増長して「多様性の中の統一」に黄信号が灯ったという内容を散見します。でも、イスラムの影響力云々が問題の本質、とは思いません。これまで多数派の行動を自制させてきた箍が外れた、それは政治家が自分の野心のためにイスラムを政治利用する傾向が強まったためだと思います。何かを決めるのに、ムシャワラ(協議・熟議)の社会から多数決の社会へ移り始めているのかもしれません。
空気を読みながら、言いたいことも言えなくなる。日本にとっても、インドネシアの話は決して他人事ではありません。でも、ジャカルタでは、まだアホック支持者が声を上げています。声を上げない日本の我々よりもまだ健全だと思えてしまいます。
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