2020年5月15日金曜日

ポスト・コロナはハイパーローカルの時代?



今日は、たまたま、ある方のNotesに刺激を受けて、自分の活動の今後の新しい方向性を示唆されたような気分の一日でした。

日経COMEMOというNotesのマガジンから毎日更新情報が届くのですが、今日来たもののなかに安斉洋之という方の「コミュニケーションの質と意味がさらに問われることになる「ハイパーローカル」の時代」という記事がありました。

ハイパーローカルという言葉からは、何かデジタル化やハイテクに関係したイメージを抱いたが、中身は全く違っていました。

ローカルというのは通常、自分の住む場所やその周辺という物理的な領域として認識されますが、個人の能力で規定される活動領域もローカルと規定できる、という意味での二重の意味でのローカルを「ハイパーローカル」と定義する、ということです。

インターネットやグローバリゼーションで活動領域が広がった個人が、ものを考えるスペースとしてのローカルを持つと同時に、そこにリアルな行動とそのフィードバックを物理的に受けるコミュニティに属している、という条件が組み込まれていて、この組み込みが弱いと、孤独感を感じる、といいます。

この感覚は、自分でも腑に落ちるものでした。

自分にとって、ジャカルタやマカッサルをも活動領域としてのローカルと認識しつつ、毎日のリアルの生活では東京が今は自分のローカルとなっています。

安斉氏が依拠しているのは、イタリアのソーシャルデザインの第一人者と言われるエツィオ・マンズィーニ(Etio Manzini)という方の議論です。

ハイパーローカルという捉え方からすると、個々人の能力の違いによって、ローカルの広さは異なってきます。このため、ローカルの広さの違う者同士では、コミュニケーションの質のレベルが違ってきて、うまく対話できません。フラットな関係をつくる必要があります。

彼によれば、コミュニティの基本は、対等で質の高い対話がどれだけ成立しているかどうか、にあります。対話を成り立たせるには、人とコラボレーションすること自体に価値を見いだす、すなわち「あの人たちと一緒に何かやって幸せを感じたい」という願いを持続的に満たすことに重点が置かれるべきだと説きます。

そのためには、お互いが弱い状態を作り出して出逢いを活発化させる一方、その出逢いが安全な場所で行われるようにする、という戦略を採るべきだとしています。

自分の弱さ、というか本音を出しても誰も蔑んだり糾弾したり嘲笑したりしない、安心して弱さや本音をさらけ出せる、生身の人間としてフラットな関係をつくることで、互いの信頼感を醸成する、ということになるのかなとも思います。

個々の能力の違いに由来するハイパーローカルの違いを意識したうえで、様々なローカルが経済的価値よりも「一緒に何かをやる幸せ」に価値を置いて関係をフラット化させ、弱さや本音をさらけ出せる環境のもと、質の高い対話を行う。

言い方は異なりますが、日頃から自分が思ってきたことと相通じるものがあるように感じます。

この後、以下の安斉氏の別のNotesも読んでみました。


ここでは、コロナの時代にたしかなことが分からない、という現実を認識し、「知らない」からこそ学びのコラボレーションが重要になる、という主張でした。その芯は先のNotesと同じです。

安斉氏の二つのNotesに触発されて、マンズィーニの著作をいくつか検索して調べてみました。そこからは、ソーシャル・デザインへの彼なりのアプローチ、すなわち、コラボラティブ経済への希求がうかがえました。また、開発途上国の現場で、どのようにステイクホルダー間のコラボレーションを促していくかという、ファシリテーションも重視されていました。

これまで、自分も、コミュニティ・ファシリテーションやコミュニティ・デザインの視点から、関係者間の信頼をどのように醸成し、本音で対話ができる環境をどう創っていくかを試みてきましたが、ハイパーローカルの時代のコラボラティブ経済でも、考え方の基本となっていると確認できました。

久々にちょっと興奮しました。勤務先の図書館に行って論文を漁って興奮した研究者時代を思い出しました。ソーシャル・デザインということを意識して、マンズィーニの著作をもう少し読み込んでみようと思います。


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