昨日(5/3)、いつものように夜、NHKのEテレの「日曜美術館」を観ていた。
番組で取り上げられていたのは、オラファー・エリアソン氏の「ときに川は橋となる」という名の展覧会。東京都現代美術館で開催されているはずだった。
展覧会の詳細はこちらから → https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/olafur-eliasson/
オラファー氏のアートは、どれも魅力的であるとともに、いずれにも、なぜこのようなアート表現をするのか、という彼の思想や哲学が明確に存在する。
そして、ディーテールまで計算して創りあげるというよりも、むしろ、自然の光や風が、二度と再現できないような、その瞬間瞬間の偶然の美しさが自ずと現れてくる。湧き上がってくる、といったほうがいいかもしれない。
その彼が番組の中で語っていた言葉に惹かれて、書き取っていた。
アートへのアクセスを民主化させたい
アートはプラットフォームのような場所である
社会的につながれるアートという場所で何ができるかを考えたい
アート作品を誰がどのように感じようと、それは自由であり、観ている人たちも、実はその瞬間瞬間にアート作品の一部と化している、ということか。
様々な見方や、様々な感覚や、様々な解釈がそこで出会い、そしてそれぞれがそのまま混ざり合う。そのなかの何物も否定されない。誰がどう観ても否定されない。そういった様々なものがそのまま存在する。
場としてのアート、ということか。今、様々な場をつくるということがよく言われるが、アートもまたそんな場所を作れるのだ。
アートのアクセスを民主化させたい、ということは、まだ民主化されていないということなのか。もしかすると、民主化させていないのは、アートを何か特別なものと意識している私たちなのかもしれない。そんなことに気づいた。
<追記(2020年5月12日)>
2020年5月12日付『朝日新聞』朝刊の「折々のことば」にオラファー・エリアソンの「私はアートとのつながり方を民主化したいのです。」が、以下のように取り上げられています。
制作者と鑑賞者という関係を離れて、お年寄りから子どもまでそれぞれに楽しみ、また何が大事なのかをいっしょに考える。アートは人びとが行き交うプラットフォームのような場だと、デンマーク出身の美術家は語る。文学もそう。物理的に離れていても本さえあれば、人は何百年も前に生きた異国の人とも一対一で向きあえる。NHK・Eテレ「日曜美術館」(4月26日)から。
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