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2017年1月5日木曜日

「日本はすごい」の裏側

「日本はすごい」という言葉をよく耳にします。そして、その言葉を聞いて、日本は本当にすごいと素直に感動する人もいれば、なんだかそういう言葉を胡散臭く感じる人もいることでしょう。

私は後者です。大体において、日本人が自分で「日本はすごい」という、あるいは外国人に「日本はすごい」と言わせて、日本人が喜ぶのはいいのですが、で、それで? と思ってしまうのです。

なんだか、「ねえねえ、私はすごいのよ」と自分で自分を慰めているような気になってくるのです。

そういえば、昔、ある時点から、就職のときの面接試験が変わったという印象があります。


私が面接を受けるときに先輩たちから言われたのは、「自分が自分が・・・」と自己中心的な態度で前面に出るな、分からないことは恥ずかしがらず正直に「分からない」と言え、聞かれたことにだけ答えなさい、というようなものでした。新入社員の自己紹介は、奥ゆかしい、自分は未熟者である、といった内容が多かったと記憶しています。

ところが、ある時期からそれが変わりました。面接では、「自分はこんなことができます」「自分はこんな素晴らしい人間です」と自己アピールすることが大事だという風潮になり、みんなそうし始めました。それは今も続いています。新入社員の自己紹介も、いかに自分は優れた人間であるか、いかに組織に貢献できる能力のある人間であるか、という内容へ変わっていました。

今や、採用する側も、自分が自己アピールして企業や組織に入った人間なので、そうした自己アピールは自明のこととなっているかのようです。

奥ゆかしい時代に社会人になった私から見ると、自己アピールで自分が優れた人間であると堂々と言える人々は、なんだか本当に優れた人間で、私の時代の人間の能力をはるかに超えて、素晴らしい世の中を作っていくのだろうな、と思ってしまうほどでした。

でも、現実を見ると、そんな「すごい」人たちを採用した企業や組織が厳しい状況に置かれていて、そこで働く「すごい」人たちの能力を発揮させていないように感じるのです。

何となくフツーであることが蔑まれるような、そんな雰囲気の中で、もしかしたら、自分自身を「すごい」と形容した人々が、実際の自分とのギャップに悩み、その形容どおりに演じることに疲れてしまっているのかも知れません。

そして、そういう人は、自分を「すごい」と思ってくれる人、そう言ってくれる人をどこかで探し続けているのでしょう。そう思ってくれる人、そう言ってくれる人がいてはじめて、自分の存在に安心できるのではないでしょうか。

今の日本は、もしかしたらそんな状況なのかなと思います。日本は「すごい」と誰かに言って欲しい、共感して欲しい。そして、自分は捨てたものではないと日本は自分で思いたいのではないでしょうか。

私は、本当にすごい人は自分を「すごい」などとは言わないと思っています。誰かに評価してもらいたいとも思っていないし、誰かと比べて自分のほうが優れているという思考にもならないのだと思います。それは、自分にとってはごくフツーのことであり、無理して背伸びをしたり、役職や立場に合わせて演じたりする必要もないのです。

だから、「日本はすごい」の裏側にあるのは、日本の自信のなさなのではないかと思うのです。自分に自信がないから、自分より弱そうな誰かをいじめたり、他人を侮蔑したりして、自分が彼らよりも上であると思い込みたいのです。

そんなことにかかわらずに、我々はフツーに生きて、自分を大きく見せて無理やり演じることもなく、楽しく過ごしていけばいいのではないか。そんなふうに思います。

本当にすごいならば、それは自分で「すごい」と言わなくとも、他人から「すごい」と言われなくとも、すごいのではないでしょうか。

地域づくりの勉強をしていて、私の勝手に師匠の一人から学んだことがあります。世界で一番すごい料理人は誰か、と。それは、家族のために毎日食事を作ってくれる母親や父親です。

それは、実にフツーのことです。1日3食、1年365日、毎年1095回、家族の健康を思いながら食事を作り続ける彼らこそ、世界で一番すごい料理人だと。

フツーであることが実はすごいことである、当たり前の中にあるすごさ、というのを私は学びました。

どうせなら、「日本はすごい」などという必要のない日本を目指したいものです。当たり前のすごさをきちんと認識しながら。

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