昨日のブログを私のFacebookで紹介したところ、友人たちが色々なコメントを寄せてくれました。そのなかで、興味深かったのは、自己アピールについてのコメントでした。
マレーシア在住の友人から、日本の外へ出ると自己アピールの強い人ばかりで、しかもそのやり方がうまい、という話が寄せられました。たしかにその通りで、私が長年付き合っているインドネシアでも、同じように感じます。
それはアジアに限ったことではなく、欧米などでも同じで、「イエス・ノーをはっきりしなさい」とか、「自分の意見をはっきり言いなさい」といったアドバイスをよく聞いたものでした。そうしないと世界で通用する人間にはなれないような気分になるものです。
日本は、組織でうまく渡っていくには、その場その場の雰囲気(今の言葉でいえば空気)をうまく読んで、イエスともノーとも取れるような対応で、生き残っていく、そんな処世術がベースになっているような気がします。いったん組織に入ってしまえば、オレがオレがの自己アピールはむしろマイナス、とだんだんに学習するようです。
もしそうだとすると、大学生などの就活での自己アピールとは一体何なのでしょうか。学生の就活指導を行っている別の友人は、私のFacebookに「就活する多くの学生が自己PRに戸惑っている」とコメントを寄せられました。
極言すれば、企業側にいい印象を持ってもらって採用してもらうための自己PR、自己アピールなのでしょう。私は知りませんが、おそらく、自己アピールのハウツーを教える講座や教材もあるのかもしれません。それも仕方ない面があるとはいえ、手段としての自己アピールはちょっとつらいなあと感じます。
自己PRや自己アピールを考えることは、自分自身は何者かを振り返って知るためのよい機会とも考えられます。でも、そこから導かれる自分像が果たして企業側に受け入れてもらえるようなものなのか、企業側の希望やニーズに沿った自分像になっているかどうか、そういったことが気になって仕方ないのではないかと察します。
そうすると、他人がどんな自己PRをしてその企業に就職したかが気になり、採用してもらうためには同じような自己PRや自己アピールをしたほうがよい、という判断になりかねません。何だか、自己PRや自己アピールも受験テクニックのようになってしまうようです。
本当の自分はこうだけれども、それとは別に、就職のための自己アピール用の自分を作ってしまえ、と割り切ってしまうのも一つのやり方かもしれません。でも、それができる人は、おそらく自己PRに戸惑うことはないでしょう。
多くの学生は、就活をする大勢の同類が自己PR、自己アピールするという状況のなかで、自分だけ、それをしないで済ますことはできない、という感覚に支配されているのではないでしょうか。彼らのは、みんながそうだから自分もするという、右ならえの自己PR、自己アピールと言えなくもないでしょう。
それは、私が日本の外で感じたインドネシアなどでの自己アピールとはずいぶん違うように思います。
自分はどうしても将来これをやりたい、これを自分がやることにはこんな意味がある、だから組織もこのように変わらなければならない、自分はそれを実現するためにこの組織に加わりたいんだ・・・。日本の外で感じた自己アピールには、そんな要素がたくさん含まれていたような気がします(印象なので人によって感じ方は異なると思いますが)。
右ならえの自己アピールは、こうした自己アピールとは違うものだと思うのです。
自己アピールは、アピールしておしまい、というものではないはずです。本来、その自己アピールがマルかバツか、白か黒か、決めるものではなく、そこから何かが始まるもののはずです。では、何が始まるのか。
対話です。対話というコミュニケーションが始まるのです。
他者との対話。自己との対話。
物事の結論は、マークシートのようにすぐに決まりません。対話のプロセスの中で、様々な思いもよらないモノやコトに気づき、それを新たに含めながら論理を組み直し、もう一度深く考え、新しい考えを生み出し、対話し、様々な思いもよらないモノやコトに気づき、というプロセスを何度も経ながら、結論らしきものが遠くにおぼろげに見えてくる、というものではないでしょうか。
対話のためには、自分が何者かを深く考える時間と経験が必要でしょう。読書や旅、そこでの人との出会いが、自分が何者かを考える機会となるはずです。本来、比較的時間に恵まれた大学時代に、そういったことをしっかりしておく必要があるのだと思います。
就活のための右ならえではない、しっかり対話のできる自分を作るための機会として、自己PR、自己アピールを考えることが大切なのではないかなと思います。
それにしても、今の若者にとって、素顔の自分をさらけ出してもいい場所、自分の意見や気持ちをそのまま吐き出してもかまわない安心できる場所、自分という存在をその考え方とともに認めてくれる場所、そんな場所が本当に必要なのではないかという気がします。
それが大学やアルバイト先にあるのか、いや家庭にあるのか、状況は個々人によって様々だと思いますが、右ならえの自己アピールに悩む学生たちが安心して悩み、そんな彼らを認めてくれる場所を作るのは、作らなければならないのは、我々、シニア世代なのだと思います。なぜなら、もしかすると、我々が彼らをそういう状態に追いやったのかもしれない、という気さえするからです。
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