これまでBloggerで書いてきた本『ぐろーかる日記』ですが、Noteへ移行します。新しいサイトは、以下のとおりです。
相変わらず、気の向いた時に書くような形になると思いますが、これまでよりも、自分の考えや経験を書き残すことに注力していきたいと思います。引き続き、お付き合いいただければありがたいです。
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相変わらず、気の向いた時に書くような形になると思いますが、これまでよりも、自分の考えや経験を書き残すことに注力していきたいと思います。引き続き、お付き合いいただければありがたいです。
大学を卒業して以来 これまで約40年間、インドネシアとお付き合いしてきた。自分の人生の大半は、インドネシアとともに生きてきたことになる。
ジャカルタ、マカッサル、ジャカルタ、スラバヤと長期滞在した年数はのべ16年以上、1ヵ月以内の短期滞在がそれに加わる。行ったことがある州はアチェからパプアまで27州、まだ行ったことのない州が11州残っている(パプアが2州から8州へ増えたことも影響)。おかげさまで、それらの多くの州に自分の友人・知人たちがいるということが自分の支えの一つとなっている。
コロナ禍以降、なかなかインドネシアへ行けない日々が続き、今も、1年にせいぜい1回ぐらいしかインドネシアへ、しかも数日間のみ行く機会がある程度。情報ウェブマガジン『よりどりインドネシア』やNNAインドネシアの連載はずっと書き続けているが、かつてのようなインドネシアへ行きたい衝動・禁断症状が激しく出ることもなく、自分がどんどん日本の人になっていく感覚を寂しく感じている(ただ、あれほど高かったコレステロール値が正常に戻ったという効果もある。かかりつけ医曰く、「インドネシアが原因だったようですね」との判断)。
それでも、時々、自分(の体)がインドネシアを欲していると痛切に感じることがある。その感覚が来るのには波があるのだが、なんとなく今、その波が来始めたような気がしている。
5月になって、立て続けに、インドネシアで親しかった友人たちと東京で再会する機会があったためだ。5月21日の駐日インドネシア大使の離任セミナーの席では、複数の重要閣僚ポストを歴任した友人B氏と約15年ぶりに再会した。
2000年代前半、彼がインドネシア大学教授だった時に、彼の率いるインドネシア側の研究者チームと日本側の研究者チームとが合同でインドネシアの地方分権化(とくに財政分権化)に関する共同研究を行なった際、私も日本側チームの一員に加えてもらったのである。この共同研究は、それぞれの専門に関する論考とともに、日イの研究者がペアとなって実施した、インドネシア各地方政府の地方分権化の状況についてのフィールド調査報告も付加された(私は、ガジャマダ大学のM教授(彼は現在、某私立大学学長)と組んで、東カリマンタン州の東クタイ県の調査を行なった)。すっかり貫禄の付いたB氏は今後、国際機関の研究所長として東京に駐在するとのことである。
続いて5月26日、スラバヤ滞在時に世話になったEさんと再会した。彼女は当時、東ジャワ州投資局で私のカウンターパート的存在で、当時のL投資局長(故人。大変お世話になった恩人の一人)とともに、東ジャワ州の開発政策や日本企業の投資誘致策などを数え切れないほど議論・意見交換した相手である。L投資局長の信任の厚かった彼女は今回、東ジャワ州投資局長としてエミル州副知事とともに来日し、東京と大阪で投資セミナーを開催した。来日の数日前からWAでやりとりしていたが、今回、再会した瞬間から、互いの気分は私のスラバヤ時代に戻っていた。彼女のアレンジでエミル州副知事とも短時間ながら懇談することができた。
Eさんと再会した同じ場所で、さらなる偶然が起こった。私が1995年、最初にJICA専門家として赴任した際の国家開発企画庁(BAPPENAS)のカウンターパートの一人だったI氏とも再会したのである。彼とは専門家の任期が終わる2001年まで一緒に仕事をし、その後、彼は投資調整庁(BKPM)へ移って長官の下の局長まで上り詰め、定年後の今はBKPM長官の特別アドバイザーを務めている。今回は大阪でのイベントの後、東京での東ジャワ州投資セミナーに出席する日程のようだった。彼との再会も、BKPM時代以来約15年ぶりで、昔の雰囲気が秒速で戻ってきた。
彼らとの再会でとても嬉しかったのは、これだけの年数を経てもまだ私のことを覚えていてくれただけでなく、彼らとの面会時の気持ちが昔のままだったことである。彼らは順調にキャリアを重ね、閣僚や政府高官などの要職を務め、インドネシアで公的ルートを通じてもなかなか面会できない立場にある。かたや私は、過去の栄光も世間的な肩書もステータスも何もなく、ごくごく普通の生活をしている一般人である。彼らとは日常、SNSで互いの様子を知る程度の関係でしかないのだが、いったん再会したときに、過去のあの時へ戻る感情は何とも表現できないものがある。
これまでの人生を通じて、今の流れのなかに新しい流れが始まりつつある気配をうっすら感じ、それが少しずつ濃くなっていくのを経験してきた。インドネシア地域研究だけだった自分に、地域づくりや多文化共生といった新しい流れ、NPOやビジネスといった新しい流れが、最初は微かに、徐々に大きくなり、はっきりとしてくるという経験である。
この立て続けの旧友との再会がそうした何かを暗示しているものなのか。普通の生活を送りながら、耳をそばだててみたい。
我が家のすぐ近所には、ハラル食材屋、ベトナム食材屋、ミャンマー食材屋、中国八百屋兼魚屋、この辺では一番値段の安いスーパーがある。
そのうちのハラル食材屋は、品ぞろえがけっこういいので、我が家では時々買いに行く。ロヒンギャ出身のムスリムの方がオーナーである。
そんなお店のなかで、本当に珍しいものが売られているのを目撃した。
冷凍食品コーナーにあったこれは、「ドラムスティック」と書いてある。これをみて、私と妻は叫んでしまった。「ええー、ケロルがある!」
ケロル(Kelor)というのはインドネシア語である。その正体は、最近、日本でもスーパーフードとしてもてはやされているモリンガである。通常、モリンガはその丸い小さな葉っぱを食べるのだが、インドネシアのスラウェシ島の山中や離島で食べたのは、その茎だった。
ココナッツミルク入りのスープにケロルの茎は入っている。ケロルの茎の中心は芯になっていて、そのまわりを剥いだ柔らかい部分を食べるのだ。最初は「???」だったが、慣れればけっこういけるのだ。
あのインドネシアの街中では見ない、山中や離島でしか見なかったケロルの茎が、なんと東京の我が家のすぐそばのハラル食材店の冷凍庫に冷凍食品として売られているとは・・・。
ロヒンギャの店主に訊くと、彼らも「ケロルの茎」をよく食べるのだという。もちろん、彼らの言葉では「ケロル」ではないのだが。
ケロルの茎の奇跡。東京の家のすぐ近くで出会うとは思わなかった。
私の仕事風景の舞台裏をちょっとご紹介する。
インドネシア関係の執筆活動では、現在、月に2回のウェブ情報マガジン『よりどりインドネシア』の発行のほかに、やはり月2回、アジア各国向けに発行されている日本語情報誌 NNA Asia のインドネシア版に『続・インドネシア政経ウォッチ』を連載している。おおよそ、毎週、どちらかのインドネシアに関する原稿を書いているという日常だ。
『続・インドネシア政経ウォッチ』は政治経済の現状という「生もの」を扱うので、最終校正までにネタの事態が動いてしまい、修正せざるを得ないことが少なくない。連載は毎月第1・3火曜日に掲載されるのだが、その原稿の締め切りは前週の水曜午前中、掲載日の6日前なのである。
8月末に執筆した大統領有力候補への政党支持の記事もそうだった。2024年正副大統領選挙での立候補が有力視される大統領候補は3人いる。当初、この3人各々への政党の支持がほぼ固まった、という旨の記事を書いて編集部へ送った。ところがその後、有力大統領候補AB氏が副大統領候補にMM氏を決定したことで、AB氏を推してきた政党PDが支持を撤回、そしてMM氏を党首とする政党PKBが別の有力大統領候補PS氏への支持からAB氏への支持へ転向する、といった政党支持構造の激変が起こった。
この激変の内幕はけっこう入り組んでいて、これによる大統領選挙自体の意味づけも根本的に変わってしまったのだが、その辺の事情についてここでは触れない。当然、当初の原稿は大きく修正され、掲載日前ギリギリまでの動きを入れながら、なんとか最終稿にこぎつけた。
先週も、10月17日掲載用の原稿を10月11日に書いて送ったのだが、その後、事態が変化し、なかなか逮捕されなかった容疑者が12日に突如逮捕されたため、14日に書き直して、原稿をもう一度送った。内容については、10月17日の NNA Asia インドネシア版をご覧いただきたい。
アジア経済研究所に勤務していた頃から、インドネシア政治経済の現状分析にかかる原稿は、いつも締め切りの最終ギリギリまでの動きを入れる形で書いてきたので、上記のような執筆スケジュールはとくに大変とは思わない。
かつてインターネットがなかった頃は、1週間程度遅れて到着するインドネシアの現地新聞を読んで原稿にしたので、直近の情報は、日本にいると、テレビ・ラジオなどと同じ程度の内容しか取り込めなかった。それが今では、インターネットで最新のインドネシア語情報が記事でもニュース動画でも得ることができ、世界中どこに居ても同じようにインドネシアの最新情報を得ることができる世の中になった。だから逆に、インドネシアに滞在しているならば、メディアでの報道以外の現地でしか入手できない情報をとれなければ意味がないのだ。
『よりどりインドネシア』や『続・インドネシア政経ウォッチ』のような記事を頻繁に書いていると、記事1本書くのにどれぐらいの時間が必要かが大体わかってくる。記事のトピックスを決めるまでの時間、決めてから記事を読み込む時間、実際の執筆時間、これらの目安が建てられるようになる。今のところ、だいたい、『よりどりインドネシア』は1~2日、『続・インドネシア政経ウォッチ』は材料が揃えば執筆自体は1~2時間程度、といったところである。
記事を書くのに要する時間の見当がおおよそつくようになって、原稿を書くことがストレスではなくなった。そして、インドネシア関連の用務の時間とそれ以外の用務の時間とのバランスと切り分けがうまくできるようになった気がする。自分なりのペースがつかめてきた、といったところだろうか。
仕事場(通称:アジト)から歩いて5分程度の所にある「ラモス食堂」という小さなカレー屋にようやく行けた。ここのタイ料理由来のココナッツカレーは、初めて食べたのだが、相当に美味しい。新しい美味しいものに出会えると幸せがまた一つ増える。
昨日(10/8)、午前中は、1ヵ月に2回発行しているウェブ情報マガジン『よりどりインドネシア』を何とか発行できた。今回で第151号。いつものことだが、レギュラー執筆者の執筆状況を勘案しながら、自分の原稿を最後に入れていく。今回は、数々の失敗を重ねてきたインドネシアの大規模食糧基地プロジェクトについて書いた。『よりどりインドネシア』については、以下のページでバックナンバーも含めてご覧いただければありがたい。
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『よりどりインドネシア』第151号を発行して、すぐに千葉大学へ向かう。千葉大学で開催される「日本語を母語としない親と子どものための進路ガイダンス」を見学するためである。見学して驚いた。設けられた2部屋はどちらも今度高校を受験する予定の当該生徒とその保護者、13校からの高校職員、ガイダンスを運営するボランティアや学生でいっぱいだった。この「進路ガイダンス」は2002年に始まり、これまでにのべ8,000人の対象生徒・保護者が受講してきた。
最初の千葉県の入試制度についての説明は、各自がYouTubeで各言語に訳された動画をスマホで観て理解する斬新な形式だった。この説明はスマホでいつでも繰り返し観ることができる。この後、13高校の担当教員による学校紹介が1校ずつ続けて行われ、さらに、高校生活を送る外国つながりの先輩たちへのインタビューがあった(インタビューの最後には各々の母国語で対象生徒・保護者へ向けてメッセージが発せられた)。その後、言語別分科会となり、各言語ごとに生徒・保護者がテーブルを囲み、そこへ高校教員が出向いて説明と相談を行なった。最後は、各高校ごとにブースが設けられ、担当教員と個別相談が行われた。
今回対応した言語は、中国語、ネパール語、スペイン語、ポルトガル語、フィリピノ語、ベトナム語、ダリ語(アフガニスタン出身者向けで男女別に対応)、タイ語で、それぞれの言語に対応した通訳を用意していた。
千葉県は、28の高校で面接と作文(日本語または英語)で受験できる外国人特別選抜入試を実施している。その内訳は、全日制普通科が7校、全日制総合学科・国際科が4校、全日制工業科が1校、三部定時制(夜間部)が3校、定時制普通科が8校、定時制総合学科が1校、定時制工業科が2校、定時制商業科が2校である。それでも、高校での授業は日本語となるので、高校紹介では、どの高校も日本語をしっかり勉強してほしいと強調していた。
それにしても、毎年開催しているとはいえ、これだけたくさんの方々が様々な形で関わって、「進路ガイダンス」を熱意を持って運営していることはすごいことだと感じた。しかも、同様の「進路ガイダンス」を松戸市や市川市でも開催するのだ。その母体となってきた、千葉県内の日本語教育関係者をつなぐ房総多文化ネットワークの役割は強調してもし過ぎることはないと思う。
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夕方、千葉大学を後にし、新小岩へ向かう。葛飾区の関係者と今、新小岩で多文化まち歩きを実施できないかと相談中なのだ。先週、葛飾区地域振興部と話し合いを持ち、新小岩の商店街の関係者と話し合いをしたいと考えている。でもその前に、自分自身の目で新小岩の商店街を少し歩いておきたいと思ったのだ。
あいにく雨が降り始めたので、新小岩駅を降りると、まっすぐ、アーケードの付いたルミエール商店街へ向かう。まずは、全長400メートル以上のルミエール商店街の端から端まで歩いてみる。周りが暗くなっていたせいもあるが、ルミエール商店街はそれなりの人の流れがあり、お店もずいぶん開いていた。意外に地元の店が多い印象で、そのなかに、最近できたと思しき外国人経営の飲食店や食材店が散見できた。
多文化まち歩きでは、できれば、日本人の商店街の皆さんと外国人経営者とが関わるきっかけ作りにもしたいと考えているが、その前に、実際にどの外国人経営の店を訪問するか、ある程度の当たりを付けておいたほうがよいかもしれない。そう思って、あまり人で混んでいない、店主と色々話のできそうな店を選んで、思い切って店のなかへ入ってみた。
まず入ったのは、ルミエール商店街から少し入ったところにある「中華面食」という店。日本唯一の手作り中国パン屋と銘打ち、店内には様々な日本では見かけないパン、パイ、お焼き、月餅などが売られていた。常時、40種類以上を用意しているそうで、先の中秋の名月のときには20種類以上の月餅を作って売ったそうだ。一番のおすすめはお焼きだが、長野のお焼きとは違うもの。テレビ取材も20件以上受けて、メディアでも結構知られる存在らしい。
ご主人の王さんは北京出身、今は横浜在住で、新小岩の店まで毎日通う。もともと中華料理店の調理人として30年以上前に来日し、様々な調理場を経験、最後には大手のマーケッターとして世界をまわったそうだが、退職し、1年半前にここ新小岩に店を出した。まだ店を出したばっかりということで、地元の商店街組合などとは関わっていないが、もう少ししたら組合加入したい意向のようだ。新小岩を選んだのは、中国人コミュニティがあったためだが、実際の客では8割が日本人とのこと。遠くからもわざわざ買いに来てくるそうだ。
中華面食でしばし歓談した後、そういえば昼食がまだだったため、何か空腹を満たしたいと思い、どこかのエスニック料理店に入ろうと歩き、入ったのがバングラデシュ料理店の「アディバ」。あまり期待していなかったが、注文したチキンビリヤニはスパイシーでそれなりの美味しさだった。
たまたま客が自分一人だったので、給仕してくれる方に話しかけたら、この店のオーナーのミアさんだった。彼は新小岩に店を出して7年になるといい、今は小岩に住んでいる。かつて日暮里に住んでいたときには、我が家から遠くないマスジド大塚で礼拝していたようだ。今は新小岩モスクで礼拝をし、新小岩周辺の20人以上のバングラデシュ人とも頻繁にモスクで会うそうだ。新小岩・小岩のバングラデシュ人のリーダー的存在の方が新小岩モスクの理事でもあるとのことである。新小岩駅近くには、日本語学校がいくつかあって、新しいバングラデシュ人はそこの生徒が多いということだ。ミアさんの子ども3人は地元の公立学校に通っており、ベンガル語と日本語のバイリンガルだそうだ。かつて子どもたちにはいじめなどもあったようだが、今は楽しく学校へ行っているという。
またこの店、ハラールと銘打っているのに夜はバングラ呑み屋になり、日本の飲み屋メニューにバングラ式の料理を加えた面白いつまみが色々ある。訊くと、調理人はもともと日本の呑み屋で働いていたという。期待しないで入った店だったが、意外にも、なかなか面白そうな店だった。
新小岩の外国人経営の店めぐりは、まだ何回かする必要がありそうだ。近いうちに、また別の店を訪問しながら、ルミエール商店街から少し離れた他の商店街も歩いてみたい。
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ハマスによるイスラエルへのテロ攻撃、それに続くイスラエルの報復と戦争宣言、という急展開について、歴史的な背景を含め、いろいろなことを考え、思う。どちらが白か、黒かを単純化する話はできない。今回の事態で今後の世界は相当にまずい方向へ向かってしまうのではないか。それを少しでも抑制・反転させるために、我々は何をしなければならないのか。世界が、我々が良心を失う前になすべきことは何か。
今日(10/5)は、10月中旬の業務出張用の国内航空券を購入した。まだ行ったことのない帯広への出張が入ったのである。道東で一番行きたいのは釧路湿原だが、帯広も楽しみである。
今回の業務出張用の国内航空券購入では、いろいろクリアすべき条件があった。まず、現金で決済しなければならない。これは現在の業務ではクレジットカードでの支払いが(なぜか)認められていないためだ。これは業務費をATMで引き出したから難なくクリア。次に、領収証の宛名は個人宛ではなく職場宛にしなければならない。そして、搭乗券の半券を職場へ提出しなければならない。
通常、自分で自分用の航空券を購入するときは、航空会社のサイトで直接予約し、クレジットカードで決済する。スムーズに行けば、10分もかからずに済ませることができる。スマホに読み込んで、搭乗もペーパーレス。だが領収証は通常、個人名で発行される(そうではないサイトがあれば、ご教示ください!)。
今回は、現金払い、職場宛の領収証、搭乗券の半券提出・・・。よって、しかたなく、旅行代理店で購入することになった。
(実は以前、もっと面倒なケースがあった。そのときは某大学関連の海外出張だったのだが、見積書・請求書・領収証の全てを用意しなければならなかった。今回のはまだそれよりは面倒ではなかった)
でも、インターネット情報を眺めると、国内航空券のみを購入できる旅行代理店が意外に多くないようなのだ。大手旅行代理店では、来店予約が必要なのはいいとして、ツアーなどの商品販売は行なっても、航空券のみの販売は取り扱わないところが多いのだ。
そりゃそうだよな、と思う。多くがインターネットで航空券を購入し、わざわざ窓口に出向いて購入する人の数は大きく減っているはずだ。では、どこで国内航空券を購入すればよいのか。もう、こうなったら、イチかバチかで駅チカのあまり大手ではない旅行代理店が狙い目か。
インターネット情報では来店予約を求めている、大きな駅の地下道沿いにある某私鉄系の小さな旅行代理店へ行ってみた。そこで来店予約を求められれば、その場で予約して出直せばいいし。とにかく、駅の改札を出てすぐにあるのがよい。そう思い、行ってみると・・・。
店の入口に張り紙があった。曰く、ツアーやパック旅行の相談には来店予約が必要だが、JRの切符や航空券だけならば来店予約は不要・・・。やはり現場には来て見るもんだ。新たな発見がある。とりあえず、この店に頼んでみよう、と店の中へ入る。
予約購入する往復の便は決まっているので、すぐに購入を依頼。前の客の対応に時間がかかっているので、私の分は30分ほどかかるという。もちろん了解して、周辺を散歩して時間をつぶす。30分以上経って店に戻ると、やっと私の分の対応ができるようになったという。航空券の予約端末が1台しかないのだ。15分以上かかるという。そこで再び店を出て、周辺を散歩して時間をつぶす。20分ぐらい経って戻ると、ようやく終了。職場宛の領収証も用意され、航空券代金を支払った。
ちょっと気になることがあった。航空券代金の額がインターネットで表示されていた額よりもかなり安いのだ。一般に、旅行代理店で購入するほうが手数料がつくのでインターネットで購入するより高くなるはず。でも、もしかすると、量販店などの店頭限りの掘り出し物のように、旅行代理店で購入すると特別に安い料金の航空券が手に入ったりするのか・・・?
ラッキーな気分に浸れたのはしばしの間だった。店を出て仕事場に着き、改めてeチケット控に記載された金額と領収証に記載された金額とを比べると、額が合わないのである。あれ?安い料金の航空券だと思ったけれど、eチケット控の金額は安くなく、インターネットで表示されていた額とほぼ同じだ。変だな?
そこで件の旅行代理店に電話して、先ほどの担当者に確認してもらう。5分ぐらい待たされた後、担当者曰く、税抜料金で領収証を作ってしまった、とのこと。まあ、そんなところだよね。それで、領収証の作り直しをお願いした。担当者は今日は時短勤務とのことで、その方が時短勤務を終了する前に不足分を支払うため、仕事場から再び店へ向かうことにする。
そして店へ出向いて、無事にすべてが終了。インターネット購入ならわずか10分以内で済むものを、諸条件を満たすための旅行代理店経由の購入は、担当者の計算間違いもあり、半日近くかかることとなった。
この程度のミスなら怒る必要もないと思うのだが、世の中には、店側のミスを糾弾して「不足分は払わない」などと言い張る客もいるのではないか。客はそれで幾ばくかの額を節約できるだけだが、店のほうはミスをしてしくじった分を担当者に弁済させたり、ミスしたことで人事評価に影響が出たりなどするのだろうか。実際にそうなるかどうかよりも、担当者がそう思ってミスをした自分を責め続けたりしてしまわないか。
店にとって大事なことは、ミスした店員を非難したり処罰したりすることではなく、ミスを繰り返さない仕組みをつくることではないか。少なくとも、今回のケースについては、事前に複数でチェックする仕組みがあればいいだけだと思う。
ともあれ、現金払い、職場宛の領収証といった、条件が面倒くさい、今回のような業務用の国内航空券が購入できる旅行代理店を見つけられたことはラッキーだった。端末たった1台で時間はかかるけれども。ネット購入全盛時代でも、生き延びてほしいなあ。
先週末から体調が思わしくない。
昨日(10/2)、朝起きると声が出ない。ようやく少し出るようになったらガラガラ声だ。朝からオンライン会議だったので、発言するのが難しく、耳だけ参加になった。
薬局で龍角散(粉)を購入し、口の中に入れる。説明には、舌の上に載せてゆっくり溶かす、と書いてあるのでそう試す。たしかに少しずつじわーっと効いてくるような気がする。合唱をやっている人々の間では、咳を止めるには絶対に粉だ、トローチではダメ、という話があるようだが、なるほど、とそのときは思った。
でも、だんだんに龍角散(粉)は効き目が悪くなってきた。痰に絡まってしまうのである。気管支炎用にいつも持参している薬剤入りの吸入器を試したり、風邪薬を飲んだりして、早めに寝た。
今日(10/3)は朝、体がだるく、とりあえずしばらく寝たら、だいぶ体調がよくなったので仕事へ。昨日より声はだいぶ出るようになったが、まだハスキー低音のまま。合唱していたときはトップテナーだったのに。「バスの声もいいね」と言われたり・・・。咳はだいぶ止まってきたが、今度は鼻水(青っ洟)が出る。急な気温低下で寒さも感じる。集中力低下。
そんな体調不良のまま、夕方6時からオンライン会議。10月に行われる北関東の某市の職員有志の勉強会の打ち合わせである。なぜか知らぬが、彼らから講師にご指名されてしまった。テーマは一応、多文化共生の地域づくり。私から提案し、通った。
まだ外国人住民比率の低い某市では、まだまだ外国人住民との共生という意識はあまり高くない様子だ。それでも、生産年齢人口の減少から外国人材の受入が世間で取り上げられているなか、某市でも認識を新たにしたいという感覚を持っている様子だった。
対話しながら話はしょっちゅう脱線するが、人口減少中の日本の地域社会は身の丈にあった経済規模や無理せず続けられるシステムへ自らを調整していくときに来ているのではないかと話した。そう、2011年3月11日の東日本大震災が起こったとき、日本は、日本の地域社会は、生き方や在り方を変えるときなのだ、と実感していたはず。もう忘れてしまったのかもしれないが・・・。高度成長時代の、ジャパン・アズ・ナンバーワンの日本はもう復活しない。鏡に映った自分の姿をもう一度しっかり見たいものだ。
人口減少を外国人材の受入で補うことはできない。日本にとって一番必要な外国人材とは、日本人がやりたくない仕事(でもその仕事をする人がいないと経済がまわらなくなる仕事)を代わりにやってくれる人材である。いわゆる3Kと呼ばれる仕事だが、これは技能実習や特定技能だけでは充当できない。しかも低賃金、日雇いの世界。そこで働く外国人材とは、いったい誰を想定しているのか。
外国人材が流入する以前、そうした仕事を受け持っていたのはどのような人々だったのか。都会のきれいな生活を楽しむ人々からは見えない世界で、黙々と日本経済の底辺を支えてくれていた人々とは誰だったのか。我々はそうした人々の存在を認知していたのか。尊敬していたのか。尊敬したというなら、なぜ彼らは低賃金なのか。我々が享受するサービスが低価格で収まっているのはそのおかげではないのか。
そんなしょうもない話を某市の職員有志の代表とうだうだとしてしまった。本題からそれたなあと思いながら、終わりのほうで、外国人住民が地域包括ケアなど市役所のサービスを受けるためにどのような方策が必要か、という話になった。色々な方と話をしていて、地域包括ケアの対象のなかに外国人住民を意識していないことがたびたびあった。でも、一般に、社会福祉協議会(いわゆる社協)はすでに外国人住民を視野に入れた活動へ変わってきた。そのきっかけを作ったのは、コロナだった。外国人住民がコロナ給付金を受け取りに来たり、コロナ接種を受けたりしたことで、地域での彼らの存在があぶり出されたのである。
そうそう、多文化共生は外国人の話だけじゃないということも強調しておいた。多文化には地域に住む様々な住民、子供、大人、高齢者、すべてが含まれる。日本人だって皆んな同じではない。多文化共生のキーは個人である。個人をその人として尊重できること。地域包括ケアで歩けない方には車椅子を用意する。視覚障害の方には点字の説明書や補助者を用意する。では、その外国人住民個人には・・・?どうする? そう考えることで、既存の行政サービスで外国人住民も対応できるはずである。
1時間ほど、うだうだと話をしながら、打ち合わせは無事に終わった。私にとっても、現場の市役所職員とサシで対話ができる機会になるのがうれしい。対面で皆さんにお会いするのが楽しみ、楽しみ。
ちょっと寒気を感じながら、帰り支度をしていたら、明日までに用意しなければならない作業を一つ忘れていたことに気がついた。再びパソコンを開き、1時間ちょっと作業して、ようやく家路へ。体調はまだ不良のまま・・・。
東京の街中を散歩する。時間があれば、どこへ行っても必ず街を歩く。街を歩くと、必ず、新しい発見がある。東京で住み始める前、東京はまっ平らなところだと思っていた。それがこんなに上り下りが多く、崖が多く、起伏にとんだ地形だと気がついて、歩くようになった。
つい先日(9/29)も、仕事場に近い幡ヶ谷を歩いた。幡ヶ谷の甲州街道よりも北側は細い路地が幾重にも通り、それが起伏に富んでいる。ああ、ここが低いのか、ここから向こうは高台なのか、といちいち確認する。そして、低地と高台では明らかに家の形や大きさや並びが違う。そんな路地を歩き回るのがとても楽しい。
そんな路地からちょっと広い道路に出て、しばらく行くと、幡ヶ谷2丁目の親王幡弐不動尊(しんとうはたにふどうそん)という場所に出た。アロハニューヨークという店の隣に、すでに閉業してしまったらしい珈琲カンタータの看板があり、その奥の民家の間に不動尊がある。本当に民家の傍らの小さな祠に不動尊が鎮座していた。
1年半にわたって休止していた個人ブログを再開してみようと思う。どうしても起こってしまう日々のバタバタのなかで、自分の気持ちや考えを、何気ない毎日を、書き残しておこうと思い始めた。アクセス数を稼いだり、自分の名前を売るためではなく、自分の記録として、自由気ままに書いていく。できるだけ毎日、その日に起こったこと、思ったことを書いていく。
インドネシアへ行く機会はめっきり減った。自前で行くだけの経済的余裕もない。それでもまだ、年の半分を日本、半分をインドネシアで過ごすという夢は捨てていない。相変わらず、インドネシアのメディアを追い、インドネシアの政治や経済について自分なりの見方を自ら主宰する1ヵ月2回発行の情報ウェブマガジン『よりどりインドネシア』、NNA Indonesiaに連載中の『続・インドネシア政経ウォッチ』、その他のオンライン講演会やウェビナーで発信している。そこでの見方が正しいかどうか、インドネシア人の友人たちと議論してみたいと思っている。
2021年6月からJICA東京で多文化共生関連の仕事を請け負うようになって、日本にいる外国人をどのように支援するかはもちろんだが、地域社会がどのようによそ者を受け入れるのかという観点から、地域社会における外国人の包摂を地域づくりの観点から捉えるようになった。地域づくりでは、よそ者(あるいは出戻り)が地域に新たな視点や情報をもたらし、地域で何か新しい動きを促すことがよくあるし、かつて成功例ともてはやされた地域づくりの事例にはよそ者が関わっていることが多かった。
自分自身がインドネシアでよそ者として地域と関わった経験からすると、よそ者自身の相手社会への入り方が極めて重要で、相手社会からどのように信用を得るか、信用を信頼へ昇華させていくか、といった点が鍵になる。逆に、地域社会からすると、よそ者が信用できる人物かどうかを見極めるには、実際に会って顔の見える関係を作って確認することが望ましい。これまでの様々な経験では、よそ者と地域社会とを取り持つ人物の存在が重要である。
そんなことを考えながら、私自身は、多文化共生関連の仕事とはいいながら、「多文化共生」の業界(すでに業界化していること自体が驚きなのだが)から一定の距離を置き、地域から始めたいと思っている。よそ者と地域づくりというアプローチを採り、双方がどのような態度をとってどのように信用し合い、信頼できる関係を作っていくか、ということを試みていきたい。外国人はそうしたよそ者のなかに含まれる。
今後の日本社会のなかで、どういう人なのか分からないよそ者の存在が大きくなってくると、地域社会はとくに治安面での不安を感じるようになる。行政の観点からは、災害時の避難や(コロナであからさまになった)予防接種などでよそ者が取り残される危険がある。よそ者の存在を地域社会が最低でも認め、誰か数人でもよいので地域社会によそ者とのコンタクトパーソンがいる状態で、顔の見える関係を少しずつ作っていくことで、そうした不安を解消していくのだろう。
目指したいのは、多文化共生などという言葉が不要になる未来である。多文化は外国人だけではない、様々な違いを持った人々の存在も含まれる。我々が見ている「多文化」はまだまだ限定的なのではないか。消えていく文化、眼前から隠れてしまった文化、そうした個性といってもよい個々人の持つ文化が、他者の文化を否定しない限りにおいて、あたりまえに認められる未来を想いながら過ごす日々のなかで、考えたことや思ったことを徒然に書いていってみることにする。
幸い、今年も咲いてくれた。例年と違って、巷の桜よりも少し早く満開になっていた。
桜の木は、寿命が来ると驚くほど花を咲かせ、翌年からは咲かなくなってしまう、と聞いたことがある。だから、ああ、今年も咲いてくれた、と桜の木に感謝の気持ちが湧いてくるのだ。
きょうでもう1週間以上、咲き続けてきたが、数日前から散り始めた。枝の下のほうから咲き、上のほうはちょうど満開。下のほうはもう葉っぱが出てきている。
今年は青空に恵まれた日々が少なく、例年ほど、鮮やかな桜の写真が撮れなかった。妻が足にけがをしたこともあり、例年のような、庭にテーブルと椅子を出して、桜を眺めながらブランチ、もできなかった。ようやく、今日になって、青空に映える桜の花を撮ることができた。
この1・2年、インドネシアでの「親」、恩人、友人・知人、大切な方々とお別れした。その中の何人かは、日本で一緒に桜の花を愛でた。
散りゆく桜を見ながら、今は亡き、私の大切な方々のことを思う。今年の桜は、格別に悲しく感じる桜だった。
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。皆さまにとって、2022年が明るく、楽しく、面白い一年となりますよう、祈念いたします。
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新型コロナ禍で東京からどこへも行けない日々に加え、「家族」、恩人、親友など、これまでインドネシアでお世話になってきた大切な方々が次々と旅立っていくなか、昨年は、悲しみから逃れることのできない一年となってしまいました。もうインドネシアから離れてしまう運命なのではないか、という気持ちさえ起こりました。
新年を迎え、ようやく少し気持ちが前向きになってきた気がします。今後は、「地域づくり+多文化共生」と「インドネシア」の2本立てをより強化していきたいと考えています。
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●地域づくり+多文化共生
昨年6月からは、JICA東京から外国人材受入・多文化共生に関する用務を請け負っています。技能実習や外国人集住を白黒・善悪で単純化するのではなく、現場を踏まえ、多角的に検証することで、問題の本質を捉え、解決策を提示することに務めたいと思っています。
同時に、これらの課題を地域再生・地域づくりの文脈で捉え、世界各地での地域づくりの動きを俯瞰しながら、今後の日本における新しい地域づくりの方策を追求していきたいと考えています。
●インドネシア
インドネシアに関するコンサルティングや情報発信、調査研究分析、講演などの活動も続けていきます。
【よりどりインドネシア】
月2回発行の情報ウェブマガジン『よりどりインドネシア』は、おかげさまで欠号なく、昨年末までで第108号を発行しました。今後も欠号なく発行を継続します。ご購読をよろしくお願いいたします(購読はこちらから)。
マガジンの発行のほか、2ヵ月に1回程度の頻度で、購読者向けのオンライン・オフ会を開催します。ZOOMのミーティングを使い、参加者をあえて購読者に限定し、内容を録画しないことで、オフレコでの発言も飛び出します。こちらもぜひお楽しみに。
【オンライン講演会】
また、インドネシア大学上級講師のバクティアル・アラム(Bachtiar Alam)氏と一緒に、アジアコンサルト・アソシエーツ=松井グローカル共同のオンライン講演会シリーズを開始しました。バクティアル氏が講演した第1回(2021年11月25日)開催の動画をこちらからご覧いただけます。なお、第2回(2022年2月初めを予定)は私が講演する予定です。内容が固まり次第、お知らせいたしますので、しばしお待ちください。
なお、上記オンライン講演会では、日本語による日本人向けのほか、インドネシア語によるインドネシア人向けも予定しています。こちらも後日、お知らせいたします。
【その他】
上記のほか、オンラインによる講演、ゲスト講義、論文指導なども行います。
また、インドネシアでの事業に関する相談、インドネシア人の日本での起業相談、日本でのインドネシア人技能実習生・特定技能者の活用相談など、インドネシアに関するコンサルティングをオンライン・対面で対応いたします。
さらに、インドネシア語での日本からインドネシアへの発信も構想中です。
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2022年は年男、世間的には定年退職の年齢となりました。でも、私自身は人生の折り返し地点であり、次世代・次々世代にとって明るく楽しく面白くよりよい世界・地域を遺していくために、まだまだやるべきことはたくさんある、という気持ちです。
そのためには、自分自身が明るく楽しく面白くよりよい日々を積み重ねていくこと。先に旅立っていった「家族」、恩人、親友など、これまでインドネシアでお世話になってきた大切な方々のことを思いつつ、前を向きます。
ご指導・ご支援・ご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
前回書いてからちょうど5ヵ月、ブログを書けなかった。忙しかったわけではない。本当に書けなかったのだ。
毎日が悲しくて、つらくて・・・。
思い出さなくて済むように、いつも何かを詰め込んでも、ふと空いた瞬間に思い出してしまう毎日だった。
どうして、どうしてなのだろう。わずか1年の間に、インドネシアで出会った大切な大切な方々があんなにもたくさん逝ってしまうなんて・・・。
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初めてジャカルタに住んだ1990~1992年、下宿していたラワマングンの大家さんである「母」、そして「母」が亡くなって1ヵ月もしないうちに、「弟」の一人も旅立ってしまった。ジャワ人の敬虔なカトリック教徒の家だった。
この下宿は、今も、私のアジトというか隠れ家として、ジャカルタに行くたびに潜んでいたところ。周りに外国人のいない、お金持ちもいない、ごくごく普通の人々の住む地域。「父」はもうだいぶ前に亡くなって、「母」を3人の「弟」と1人の「妹」が支えてきた。
最初に感染したのは2番目の「弟」(次男)と奥さん。続いて、3番目の「弟」(三男)の奥さんが感染し、間もなく亡くなった。3番目の「弟」の悲しみはどれほどのものだったろうか。しばらくして、2番目の「弟」(次男)と奥さんが回復。その頃だった。「母」が危ない、という知らせが入ったのは。
「母」の回復を東京からひたすら願い続けたが、ほどなくして「母」は逝ってしまった。私がラワマングンに居るといつも食事を作ってくれる。一時期、足が悪くなって歩きにくくなったのに、私がアジトとして旧下宿に滞在するようになると、食事を作るのが楽しみで、あっという間に足もよくなり、元気になってしまった。30年前の下宿時代からずっと、「母」の料理は私のジャカルタの大切な記憶である。
「母」の料理で一番好きだったのがラクサ。マレーシアやシンガポールのとは一味違うラクサ。
(2018年5月12日撮影)
2番目の「弟」は1番目の「弟」と3番目の「弟」を連れて、アンチョールからスピードボートを出し、沖合で「母」の遺灰を海へ撒いた。そのビデオをFB経由で眺めていた。ジャカルタの海に行けば、「母」を感じられるはず。
しかし、話はこれで終わらなかった。「母」の遺灰を撒きに行った1番目の「弟」の感染が確認されたのである。1990年、ラワマングンに下宿してインドネシア大学大学院へ通う日々のなかで、最初に様々なあらゆることを教えてくれたのが、当時、インドネシア大学歯学部4年生だった1番目の「弟」だった。彼なしでジャカルタ生活がすんなり始められたとは思えない。彼は卒業後、歯科医になった。腕利きの評判の良い歯科医として患者さんから慕われていた。
感染が確認された後、1番目の「弟」はすぐに病院に入れず、5日間待たされた。その間に症状が悪化、ようやくICUに入れたものの、その後まもなく亡くなった。
2番目の「弟」と3番目の「弟」は再び海へ出た。1番目の「弟」の遺灰をジャカルタの海へ撒くために。ジャカルタの海に行けば、「母」にも1番目の「弟」にも会えるはず。
そう思うと、あの汚れた、到底きれいには見えないジャカルタの海が、私にとっても特別な意味を持ってくるような気がしてしかたがない。
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失ったのは、ラワマングンの「家族」だけではない。1985年に研究所へ入所し、インドネシアと関わり始めてからずっと見守り、励まし、支えてくださった「父」も逝ってしまった。当時、すでに政府高官で、私がインドネシアに滞在する時には必ず保証人になってくださり、日本からジャカルタへ行くと言えば、必ず一保堂のほうじ茶を土産に持ってくるようにせがむ「父」だった。
「父」との思い出も数限りない。 2014年4月には、85歳の「父」をインドネシアから日本へ連れてきて、「父」に世話になった方々との再会の旅をエスコートした。東京だけでなく、私の故郷・福島、お世話になった方との再会のために宝塚、そして京都を旅した。
日本から戻った後、老齢ということもあり、「父」は何度か、死線をさまよったことがあったが、そのたびに蘇った。不死身だと思っていた。
「父」との思い出のなかには、私の心の奥底にずっとしまっておきたいとても大切な出来事があった。「父」は忘れているかもしれないが、「父」のおかげで私は今も生きているのだ。
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私にとって、とても大切なインドネシアでの「家族」。よりによって、どうして皆んなわずかの間に逝ってしまうのか。
一人になると、泣いた。何度も、泣いた。
「家族」以外にも、いったい、何人、インドネシアの恩人、友人、知人が亡くなったことか。
JETRO専門家時代に、公私にわたりお世話になったインドネシア商工会議所元事務局長。
そのときのディスカッションパートナーだった全国工芸輸出業者協会ジャカルタ支部長。
マカッサルで本当にお世話になったハサヌディン大学のWP先生、デザイナーのRさん。
亡くなる1年前にパルで再会し、またの再会を約束した中スラウェシ州政府高官である友人SAさん。
パプア州を訪問したときに世話になったジャヤプラの州政府高官のMさん。
皆んな、逝ってしまった。
自分のなかの「インドネシア」の根幹が音を立てて崩れていく・・・
自分の「インドネシア」を形作っていた大切な土台が消えていく・・・
もう、自分がインドネシアから離れるサインなのだろうか・・・
揺らいでいる。自分のなかの「インドネシア」が揺らいでいる・・・
36年かけて築いてきた大切な何かが崩れかけている・・・
いつかは、大切な「家族」や恩人、友人、知人とお別れしなければならないときが来る、といえばそうなのだ。それが今、一度に押し寄せてきた。
そんな時代もあったよね、といえるまでには、まだだいぶ時間がかかりそうだ。
思い出したら、また泣くだろう。泣けばよい、のだ。
インドネシアへ行けるようになったら、まずはお墓参りだな。
笑っている顔しか思い出せない。大切な大切な「家族」、恩人、友人、知人。
ありがとう。本当にありがとう。出会えて本当によかった。
新型コロナ禍がまだまだ衰えを見せないなか、4月になって、我が家でもいくつか新しい旅立ちを思わせるような日常が出てきた。
たとえば、4月から娘が一人暮らしをするということで、引っ越しした。といっても、都内なのだが、大学の授業の関係で、大学の近くに居を構えたという次第。自宅から通っても1時間ちょっとなのだが、電車に乗っているのがかなり疲れるらしい。でも、今学期も結局、オンライン授業が多い様子。親としては、一人暮らしが彼女の今後の自立へ向けての価値ある経験となっていくことを願うばかりだ。
一人暮らしを始める娘を眺めながら、自分の大学生活から妻と結婚するまでの独身生活の頃を思い出した。高校卒業前に大学を受けて全滅。というか、国立と私立の一つずつしか受験しなかった。「滑り止め」という言葉を知らなかった。あまりにも初心な田舎の受験生だった。
大学浪人中は、父の教え子で埼玉県に住んでいるSさんのお宅に下宿した。毎週、Sさんから世の中というものについて講話があり、ときには説教された。東京に出てきて分かったのは、世の中には様々な人々がいる、ということだった。最初は、今まで見たことないような人々に遭遇するたびに驚いていたが、時期に、それらは当たり前の光景になっていった。
毎日、予備校に通い、一浪して大学に入り、1~3年生は民間団体の運営する男子寮で生活した。親からの仕送りは寮費を含めて月5万円。家庭教師のアルバイトで3万円を得て、月8万円で生活した。サークルの関係で部屋に自腹で黒電話をひいたのだが、そのときには、貯金残高が数百円まで減って慌てた。
大学4年から就職1年目は、月1万8千円の家賃の6畳一間、汲み取り式トイレ、湯沸かし器なしのところに住んだ。その辺りでは最も築年数が古い建物だったらしい。風呂は銭湯だが、夜遅くなるなどして、何日も入れないこともあった。夜寝ていると、いつも天井裏でガタガタ大きな音がした。毎日、ネズミが運動会をしていた。冬はコタツと小さな電気ストーブで寒さをしのぎ、夏は扇風機で暑さをしのいだ。このような生活で、汗をうまく処理できず、子供の頃からの持病のアトピー性皮膚炎が極度に悪化した。
今思うと、快適な学生ライフをおくったとはとても言えなさそうに思える。経済的に余裕がなく、大学の友人たちとの付き合いをそれなりにしていくために、切り詰められるところは切り詰め、我慢できることはできるだけ我慢して毎日を暮らした。弟も大学に行っていたし、親も経済的に厳しかったので、仕送りを増やしてほしいとはいえなかった。
研究所に就職して、毎月それなりの収入を得るようになって、生活に少し余裕が出てきた。少しずつ貯金をしたが、当時のバブル全盛期の世の中がどこか遠い世界に感じるような日々を送っていた。あの頃から今に至るまで、自分のなかの生活スタイルや生活に対する意識が大きく変わったような実感はない。
持病のアトピー性皮膚炎が快方へ向かったのは、結婚して、生活がある程度安定し、インドネシアへ2年間滞在した後のことだった。結婚したおかげで、少しはまともな生活が送れるようになったように思える。
でも、今も、必要なもの以外は求めず、質素な生活を続けている。元々、お金持ちにはなれないと思っていたし、実際、現実もそうだった。
そう、自分は変われなかったが、時代は変わったのだ。
娘の引っ越しを手伝い、一人暮らしに必要なものを色々と準備しながら、彼女にはとにかく楽しく有意義な学生生活を送ってほしい、と思った。それは、親としての気持ちだ。でも、そんな娘をちょっぴりうらやましく思う自分もいた。
ここ数日間は、毎度のごとく、情報ウェブマガジン『よりどりインドネシア』の編集・発行とそれへの自分の原稿執筆で時間を費やしていた。それでブログの更新が遅れてしまった。
今回で91号。毎月2本発行しているが、発刊以来、1度も欠号を出していない。今年中に記念すべき第100号を迎えるのかと思うと、ちょっとワクワクする。『よりどり』で知り合った執筆者の皆さんたちがまたいい人たちで、いつの間にか、執筆者どうしでSNSグループをつくり、何かというと楽しそうにああだこうだと仲良くやっているのがとても良い。
そんな執筆者に加わる仲間をずっと募集中だ。インドネシアについて、何か書いてみたい方、いつでもご相談いただければうれしい。よほど常軌を外れた内容でないかぎり、ほぼそのまま掲載している。短い原稿もあるし、長い原稿もある。それぞれに趣があり、玉石混交なのが『よりどり』たるところと思っている。
私自身は、これまで、内容的なバランスを考え、インドネシアでホットな話題となっている政治経済・時事ネタを中心に取り上げ、現在進行形のまま、完結せぬまま、執筆してきた。そして必ず、単なる情報提供、時事解説にならないように、必ず私なりの分析視点や情報を入れて来たつもりである。
ただ、最新号の第91号では、敢えて時事ものではなく、カリマンタンで森林火災の消火活動と慣習法社会の復興を目指す若者に焦点を当てた。こうした若者の存在に、これからのインドネシアへの希望をみるからである。
私自身、これまで、インドネシアの各地を歩き、その地方地方で多くの若者たちに出会ってきた。彼らの希望と苦悩、意欲と諦め、現実への不満と体制への従順など、「インドネシアの若者は・・・」などと簡単に一括にできない姿をそのまま受け止めようとしてきた。
実は、今回取り上げたスマルニ・ラマンさんとは面識はない。彼女について書かれたいくつかの記事を踏まえて書いた。そして書きながら、本人に会いたい、中カリマンタン州の彼女の現場で会いたいと思い始めた。
彼らの強さは、現場を踏まえていることにある。自分たちの生活環境が脅かされる日々。気をつけないと自分の家に火が延焼してくる危険を常に感じる生活。誰かが対処してくれるのを待つ余裕はない。そして、消火や防火をしながら、なぜこのような事態がここで起こっているのか、自分のこれまでの人生や家族・祖先などからの教えの中からその根本原因を探ろうとする。都会の高名な権威ある専門家から教わったのではない、自分自身で考えて考えて編み出そうとしてきた思考の継続をもとにして動いている。
本当に、彼らにとってはまさしく自分事なのである。
環境破壊が進んでいったら、自分たちが自分たちでなくなる。ダヤックでなくなる。ダヤック族というのは、身体的なものだけでなく、彼らの生活空間や歴史的に続く精神認識や自然環境を含めて形成されるものだからである。自分たちのいちばん大切なものが消されていく・・・。その感覚は、私の含む外部者がどれだけ彼らに共感や同情を寄せても、理解できるものではないと思う。
そして、理解できないから、外部者が外部者の利益のために、地元の人々の生活空間を破壊していく。そこには、土地に染み込んだ人間と自然の記憶への想像力などありえない。
我々が遠くの安心できる場所から「地球環境を守れ」と唱えるのと、生活を破壊された彼らが訴えるのとはその深さは大きく異なる。しかし、スマルニ・ラマンさんたちの生活空間が壊されることと地球環境を守ることとはつながっている。
我々は、スマルニ・ラマンさんの居るところから遠くにいるから安全なのではない。彼女らの生活が破壊されることは、地球環境が破壊される無数の事象の一コマなのである。それに我々が気づかないとしたら、それは、「福島から270キロ離れているから東京は安全だ」と演説した愚か者の感覚と大差ないのかもしれない。
インドネシアの若者、とくに地方の若者の環境問題への感度は、我々が思うよりもはるかに高いと思う。それは日夜、自分たちの生活が脅かされているからだ。他方、インドネシアの現政権は、国民をもっと豊かにするための開発を優先し、インフラ整備や食糧増産を主とし、それに大きな影響を与えない範囲で環境を守る姿勢を見せている。
インドネシアの環境問題、とくに熱帯林保全や海洋保全は、グローバルな環境問題と直結している。目の前の泥炭林火災は、そのローカルだけの問題ではなく、膨大なCO2排出などを通じて、地球環境に影響を与えていく。ローカルの問題がグローバルと直結している、まさにグローカルの視点で見なければならないのである。
だからこそ、現場で環境問題と闘うインドネシアの若者たちの存在を我々が知ることが大事だ。そう思って、今回の原稿を書いた。これからも、そうした若者たちの姿を追っていく。そして、ローカルで彼らが孤軍奮闘しているのではなく、たくさんのグローバルな世界での個人がその活動を見守り、応援していることを示したい。
いうならば、スマルニ・ラマンさんらは、我々の代わりに環境問題と闘っている、とでもいえるか。そして、我々も、彼らの代わりに、各々の現場で各々のレベルの環境問題と闘っているといいたい。
地方の現場で環境問題と闘うスマルニ・ラマンさんらとどこかで知り合い、彼らの活動を適切に支えられる人の輪を創っていきたい。そして、様々な「スマルニ・ラマンさん」を見つけ出し、彼らを外部へ紹介し、彼らを見守り、連帯する仲間を増やしていきたい。
ローカルとグローバルが直結するグローカルな問題としての地球環境問題。自分の生活空間を守るためではあっても、結果的に、熱帯雨林や珊瑚礁の海を我々の代わりに守ってくれるローカルの人々を我々が支えられる仕組みをみんなで一緒に創っていきたい。
私の契約最後の国際機関日本アセアンセンターのASEAN最新事情ウェビナーでは、福井県の農園たや代表の田谷徹さんをお招きし、「ASEANと日本の人材育成~福井の技能実習生の事例から~」と題して講演していただいた。田谷さんとは、もう20年以上のお付き合いがある。
講演では、技能実習制度の実態と福井の農業の現状について話した後、技能実習生を受け入れている農園たやでの取り組みについて語ってもらった。
福井でのとくに農業での人手不足の背景には、米作に偏重した農業構造とともに、地元の若者の農業離れ、というか、若者が地元のコミュニティへの関心を失っている現状があることが指摘された。
若者が地元コミュニティへの関心を失っているのは、様々なコミュニティ内の人間関係やしがらみ、長年にわたる慣行や風習への硬軟取り混ぜた強制などが自分という個を束縛し、規制することへの反発なのかもしれない。そう思うのは、故郷・福島を離れて東京へ出てしまった自分自身の経験がもとにある。地元は好きなのに、そこに留まるといろいろと面倒なのだ。
そんなところへやってくるのが技能実習生。本来、技能実習制度は、日本で技能や技術を学び、それを母国で活かすことが期待される国際協力事業のはずだが、現実には、2~3年間よそへ移動できない労働力として人手不足軽減を目的として実施されている。それは、実は、技能実習生を労働需給のために利用することを禁止する技能実習法に違反している。すなわち、人手不足を理由に技能実習生を受け入れている企業や事業所はすべて法律違反なのである。それが黙認されることで、日本経済の底辺が支えられているのが現状なのだ。
田谷さんの農園たやもインドネシア人技能実習生を受け入れている。ただ、人手不足を補うために誰でもいいから来てほしい、というのとはだいぶ異なる。田谷さんは、インドネシアの農業高校と協力し、その卒業生を受け入れている。日本と同様、農業高校といっても、卒業生の多くは農業以外の職業に就職する傾向が強まっている。だから、田谷さんのところへ来る技能実習生もまた、必ずしも農業を志しているとは限らない。
それでも、田谷さんは受け入れる。農園たやの農作業も担ってもらうが、何より大事にしているのは、彼らが帰国後にどうするのか、ということである。そのために、彼らに帰国後のビジネスプランを意識させ、段階を踏んでそれを完成させる。帰国前にはそれを発表させる。そして、帰国後の彼らをモニタリングし、そのビジネスプランがどう実施されているか、されていないか、定期的にチェックし続ける。
コロンブスの卵だった。つまり、多くの場合、技能実習は、実習生を受け入れる企業や事業所のニーズが最初にあり、人手不足という問題がある程度充足されれば、それで終わりになる。実習生が母国に帰ってからどうなるのかに関心がない。しかし、技能実習は本来、実習生側のニーズ、すなわち、技能や技術を学ぶ、ということから始まるものなのである。
しかし、その実習生もまた、日本へ来る実際の目的は、技能・技術の習得ではなく、渡航などにかかった借金を返済するためのお金を稼ぐことである。人手不足で誰でもいいから来てほしい企業や事業所と、どこでもいいから金を稼ぎたい実習生との間で、奇妙な思惑の一致があり、現状を変えることが難しくなっている。
私自身は、技能実習制度を、実習生のニーズから始め、そのニーズに日本の受入側を合わせるという、本来の形にすべきであると考えてきた。そのために、彼らの母国の地域レベルでの技能・技術ニーズを丁寧に追い、できれば、その地域の行政や学校・職業訓練機関などを通じて実習生が日本へ送り出され、彼らを受け入れてニーズを満たす技能・技術を教えられる日本の企業・事業所を探してマッチングさせ、2~3年の実習期間と帰国後のモニタリングをしっかり行い、技能実習の成果が母国の送り出し地域でどのように生かされたかを検証できるようにしたいと考えてきた。
だが、田谷さんの講演を聴いて、少し考えを改める必要が出たように感じた。
田谷さんはいう。実習生は別に何かを学びたいという強い動機や意欲を持ってなくても良いし、金を稼ぎたいという目的で来てくれてもよい。でも、日本で技能実習をしている間に彼らに魔法がかかる。彼らが帰国後にどうありたいのか、どうしたいのか。それを主体的に考えるように魔法がかかる。そう、田谷さんのところで受け入れた実習生には魔法がかかるのだ。
田谷さんは実習生に帰国後の自分のあり方を強く意識づける。それを促すのが帰国後に実現したいビジネスプランづくりである。彼らにとってそれは自分事。農作業を行いつつ、試行錯誤しながら自分の将来を考える彼らのプロセスに田谷さんは徹底的に付き合う。
そして、母国であるインドネシアと日本との違いを理解し、帰国後に母国で実現させるビジネスプランをつくるうえで、母国インドネシアを相対的に見る視点を獲得する。すなわち、日本に来ていることを生かして相対性を意識させるのである。
自分の将来を考え、現実的なビジネスプランを作成するなかで、彼らの中から様々な学びを得たい、そのためにどこそこへ見学・視察へ行きたい・社会見学したい、という気持ちが出てくる。田谷さんはヒントは出すが、どこへ行くか、行って何を学ぶのか、どのような交通機関を使ってどのように行くか、すべて実習生が自分たちで調べて行動するように促す。このプロセスで、実習生は電車の乗り方やきっぷの買い方なども主体的に学ぶ。
あたかも、高校生の自分で組み立てる修学旅行のような、大学生の自分で組み立てるゼミ旅行のような、そんな様相である。実習生が自分のために自分で学ぶ環境を作っていくのである。
田谷さんの魔法とは、これなのだ。実習生が自分の将来を意識し、田谷さんの適切な助言や導きを受けながら、主体的に自分のビジネスプランを創り上げていく。それは自分の将来に直結するビジネスプランである。
自分の将来に直結するビジネスプラン。最初はお金を稼ぐために来た実習生が、田谷さんに魔法をかけられ、自分の将来を考え、その実現へ向けて主体的に動いていく。
田谷さんは、技能実習生に対して、相対性を意識させる学びの場を創っていたのだ。そして、彼らの将来を見守っていく「親」のような役割を果たしている。
このような技能実習ならば、実習生がたとえ学びを意識しないで来日しても、魔法がかかって学ぶようになるだろう。それは自分の将来のための学びになるのだから。
そして、ふと気づいた。
これは、技能実習生に限った話だろうか。
もし、日本の若者にも同じような魔法がかかったら、自分の将来のための学びになるだろうか、と。
ただ、その学びは、若者を地域コミュニティに留めることを目的とすべきではない。むしろ、敢えて、自分の地域コミュニティとは異なる地域コミュニティに2~3年間かかわり、農作業をしながら、自分のビジネスプランを作り上げていく。大人たちは、若者が地域コミュニティに留まることを期待しても構わないが、決して強制してはならない。そんな若者を温かく見守っていく。たとえ、その若者が学びを得た土地を離れたとしても。
そんな学びの場が各地に生まれてくれば、なにかが変わってくるのではないか。
若者を地域に固定するための移住を半ば強制するようなやり方は、やめたほうがよいのではないか。それならば、若者が地域コミュニティから離れていく理由を、まずは、自分たちの胸に手を当てて、省みることから始めるのではないか。自分がもし若者だったら、この地域コミュニティにいたいと思うか、と。
地域コミュニティの魅力を高めるのが容易でないとしても、そこを学びの場にすることは可能なのではないか。その学びとは、よそから来る若者たちの将来を共に考え、彼らが主体的に自分の将来をビジネスプランのような形で明確にさせていくプロセスを伴走する、そういう大人に自分たちが変わることではないだろうか。たとえよそから来た若者が定着せずにまたどこかへ行ってしまったとしても、その若者の将来を温かく見守れる、そんな若者を輩出する学びの場であることに誇りを持てる、それがいつの間にかその地域コミュニティの新たな魅力になっていく、ということがあってもよいのではないか。
学びの場では、教えることも必要だが、学びを促すことのほうがずっと大事だと思う。学びを促す手法を学びながら、実習生や若者をよそから受け入れる側自身が変わっていく覚悟と柔軟性を保つ必要があることは言うまでもない。
田谷さんの講演を思い出しながら、日本の地方をそうした実習生や若者にとっての「学びのワンダーランド」にするような、何らかの働きかけをしてみたくなってきた。田谷さんのような「学びの場」をつくる同志が日本のあちこちに、いや、世界のあちこちに生まれてきたら、なんて思ってしまう。
昨年10月から半年間、国際機関日本アセアンセンターの外部招聘コンサルタントという肩書で、合計12回、ASEAN最新事情ウェビナーを企画、実施してきた。今回の契約期間は6ヵ月間ということで、ひとまず、同センターでのウェビナーの仕事は終了した。
この間、ウェビナーにご参加いただいた皆様には深く御礼申し上げます。拙い進行役、拙い私自身の講演でお聞き苦しい点やご批判等もあろうかと思います。この場を借りて、そのような感想を持たれた皆様にお詫び申し上げます。
思ったよりも自由にウェビナーを企画させてもらえて、センターには深く感謝している。また、ウェビナーをどのように行なったらいいかについても、随分といろいろなヒントや助言をいただけた。
12回のウェビナーは、すべて、私が話してもらいたいと思った方々に話していただき、そのすべての方々が私の予想や期待を大きく上回る内容の話をしてくださったと思う。講演車の方々とは、進行の手順や講演内容は共有したものの、質疑応答やそれに付随した私からの関連質問などは、即興的なもので、なんだかジャズのセッションのような、呼べば応える、本当に嬉しく、楽しく、ありがたいひとときだった。
半年間のセンターとの契約は終了したが、今後、またウェビナーの企画や実施をすることになるかどうかは、全くわからない。私のやり方を支持する人も否定する人もいることだろう。どのようなものであっても、そうですよね、と受け止めるだけである。
私自身は、私自身からの発信を強めていきたいと考えており、その中には当然、今回のようなウェビナーやオンライン会議を考えている。幸か不幸か、4月はわりと時間があるので、この機会に準備を整えて、発信していくつもりである。準備ができたら、皆さんにお知らせしたいと思う(なかなか準備ができなかったとしても、どうかご容赦を、と前もって予防線を張っておこう)。
日本アセアンセンターでの最後のウェビナーとなった3月31日の田谷徹さんの講演だが、個人的に、様々な示唆を得た。色々なインスピレーションが湧いてきた。目からウロコに近い話もある。
それらについては、できたら明日以降、このブログに書いてみたい。
結局、3月はこの個人ブログを書かずじまいで終わってしまった。新年度のスタートだからというわけではないが、今日4月1日から少しずつ書き始めることにしたい。
この「ぐろーかる日記」は、一時、弊社法人サイトに掲載することとしたのだが、やはり、個人的な何気ない内容を書き留める場として、続けていきたい。これまでよりも、よりありふれた日常や個人的な考えなどを書く場になるだろう。
法人業務である地域づくり、ビジネス支援、国際協力に係る調査、アドバイス、コンサルティングに関する内容は、法人サイトに掲載する。インドネシアに関する情報・分析は、法人サイトで引き続き行う。
このブログでは、地域づくり、ビジネス支援、国際協力に関して個人的に思っていることや、その他、美味しいもの、面白いこと、身の回りの小さな出来事、家族の話、世の中の様々な物事へのコメント、などを徒然なるままに書いていくことにしたい。
いつの頃からなのだろうか。知らないうちに、かつて馴染んでいたのに使わなくなった言葉、使えなくなった言葉があることに気がついた。
それらは、国際協力、経済協力、開発協力、援助、国際交流といった言葉である。
かつて、私はJICA専門家として、インドネシアのマカッサルを中心に、地域開発政策アドバイザーという名前で、国際協力の最前線で働くことを仕事とした経験がある。JICA長期専門家としてのべ7年、それに同短期専門家やJETRO専門家としての年数を加えると、10年近く、国際協力の名のもとに仕事をしてきた。
今でも、便宜的に、法人としてお引き受けする業務のなかに、「国際協力」という言葉が入っている。しかし、「協力する」という言葉に強い違和感をますます感じるようになり、大っぴらに「国際協力」と自分からは言い出せなくなった。
それはなぜなのか。
協力というのは、相手が「協力が必要だ」と思わない限り、成立しない。自分が「相手にとって自分の協力が必要だ」と思っても、たとえ詳細な調査研究によって協力の必要性が立証されたとしても、相手が「協力が必要だ」と自覚しない限り、協力は成立しない。
しかし、自分と相手との立場は異なる。力関係も異なる。先進国と途上国というくくりで「協力」という言葉を使うならば、そしてそのことを自分も相手も認識しているならば、なおさらのことである。
日本と途上国との「協力」は、書面上、途上国から協力の要請があり、それに日本が応えるという形を取る。そのためには、途上国から協力要請があがる前に、協力ニーズ調査が行われている必要がある。誰がそのニーズ調査を行うのか。多くの場合、協力したい側、すなわち日本が行うのが実状である。
途上国側は、日本からの援助供与を念頭に置くので、よほどのことがない限り、日本側からの「協力」提案を拒むことはない。
仮に、日本側からの「協力」提案と違う提案が途上国側から出てきた場合、日本側はそれを歓迎して、日本側の提案を修正したり、取り下げたりするだろうか。そういう場合もあるだろう。しかし、援助する側の視点で、修正や取り下げを拒むことのほうが多くなるのではないか。よほどの内容でない限り、途上国側は、日本からの援助を歓迎するから、それがご破産になりかねない事態は回避する。
こうして、「協力」と言いながら、両者の間には上下関係が明確に存在することになる。それは日本が途上国側に強いている面と同時に、途上国側もそれをある意味方便として上下関係を受け入れているといってよい。
国際協力以外の世界でも、たとえば、途上国とビジネスを行う場合でも、先方の事情やニーズはおかまいなしに、「途上国のためになる」「ビジネスで途上国の人々を救う」といって自分たちの視点のみでビジネスを行うケースが意外に多いのではないだろうか。
日本から見ていれば、国際協力も「ビジネスで途上国の人々を救う」ことも、素晴らしいことであると見える。しかし、日本では、それが相手側とも共有・納得し合った認識であるかどうかは問われない。
もちろん、最初から協力ニーズが相手側と一致していなければならないわけでは必ずしもない。事業をすすめるなかで、協力ニーズがより熟れ、相手側との間で共通認識が出てそれが強まる場合ももちろんある。でも、協力したい側が自分のシナリオどおりに協力を進め、それ以外の相手側からのシナリオを認めないというような態度になるならば、それは「協力」という名の自己満足にすぎない、と思うのである。
もしも、私たちに対して外国から「協力したい」と申し出があったら、私たちはそれを受け入れるだろうか。日本=先進国という認識を持つ我々は、たとえばインドネシアが協力を申し出ても受け入れようとはしないのではないか。それはインドネシアを途上国と認識する「上から目線」によるものではないだろうか。
日本が割と不得意な先進技術普及のための汎用化・低コスト化には、たとえば、途上国の知恵や適正技術をもとにした一種のリバース・イノベーション的な技術に関する日本への協力が重要ではないかと思うのだが。あるいは、1回1回使い切りの小口化商品の販売ノウハウなどを途上国から学ぶことも今後の日本の地方へのマーケティングで有用になってはこないか。
日本側が途上国側の現状を十分に深く理解・把握することなく、日本の技術や知識の優位性を理由に「協力」を提案する、そして、それを受け入れてもらえるはずだと考えるのは、あまりにも「上から目線」ではないか。
厳しい言い方だが、これは、国際協力の現場で活躍したいと思っている学生・若者たちにもあてはまるものである。より良い世界を一緒に作っていきたい、という気持ちや希望は大いに尊重したい。素晴らしいと思う。でも、そのまえに、他者への想像力や物事を多角的に見る力を養い、自分の考えを客観的に見れるもう一人の自分を常に持つようにまずしたい。自分の「協力したい」という思いを受け入れてくれるよう説得するのではなく、その思いは本当に適切なのか常に疑い、誤っていれば常に修正できる態度を養いたい。
国際協力、経済協力、開発協力、援助、国際交流、といった言葉を使えなくなった自分が今よりどころとしている言葉は・・・一緒にやる、である。
日本側が途上国側に教えるだけではない。途上国側も日本側へ教える。双方が教え合う関係、双方が相手を思い合う関係。何かを提案した側は相手からの批判や改善提案をしっかり受け止める。そして、より良い方策や解決策を一緒に考え、一緒に試行錯誤する。その一緒にやるプロセスは、事業終了後の成果と同じかそれ以上に価値あるものとなるはずである。
本来は、これが協力なのだと思う。しかし、現実の「協力」という言葉は手垢まみれになってしまっている。
一緒にやるにあたっても、国と国との関係における日本側から途上国側への資金供与といった形では、双方が教え合う関係は本質的に生み出せない。利潤を追求する企業間でも難しいかもしれない。まずは、共鳴した個人間・地域間で何かを小さく一緒に始め、その後の事業展開や必要性に応じて、企業や政府が適宜関わってくる、ということは否定しない。
一緒にやるために必要なのは、相手を深く知ること、そして、その結果としての信頼関係である。もうそこには、先進国とか途上国とか、そんなことはどうでもよくなっているはず。可愛そうとか助けたいではなく、面白くて楽しくてもっと素敵な世の中になる、それを一緒に創っていく、という気持ちが支配的にあるのではないか。
きっと、もうそんな時代に入っているのだ。国際協力、経済協力、開発協力、援助、国際交流といったお題目がないと動けない時代ではないのだ。そんなお題目は、必要ならば後から考えればよい。何かを一緒にやる、という行為やプロセスを大事にしながら、そこで培われた信頼関係を他者による信頼関係でつなげて、協力などという言葉が色あせてくるような、もっとワクワクして面白い世の中を創っていきたい、と思う。
一緒にやる、をたくさん創っていくために、動いていく。そこで新しい価値が生み出されるようにつないでいく。